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静けさの青

 海と空は、世界の果てで繋がっている。承太郎は、そこにじっと目を凝らしている。
 色味の違う青が、奇妙にくっきりとした線をそこに抱いて、ふた色在る。空の青は、奥行きよりもさらりとしたその質感の方が先に目に飛び込んで来る。水彩の色合いだ。海の方は、まさしく濡れて輝くその深みのある奥行きに、吸い込まれそうになる。ただの青よりも、ひと色かふた色、緑の混じるようなその色を、紺碧と表わす日本語の、青と緑の区別の極めて曖昧な感覚を、承太郎は生身に知っていることを、時々ありがたいと思う。
 海と空は、世界の果てで繋がっている。だからそこへ行けば、海へも潜れるし、空へも昇れる。空へ行けば、天国がそこに在る。
 花京院のいる天国だ。花京院が、承太郎を置いて、ひと足先に行った天国だ。承太郎は、空の方へ視線を上げた。
 海をじっと眺めていると、白い波の間に、時々花京院の姿が見える。白い肌の見える裸なら、波の色にまぎれてしまい、あの裾の長い学生服を着ていれば、海の色に溶け交じって、すぐにその姿を見失ってしまう。
 花京院が、承太郎を海から呼ぶ。手を振り、こっちへ来いと言う風ではなく、ただ懐かしげに、僕はここにいるとただ承太郎に知らせるためだけのように、花京院がそうやって手を振る。そして、承太郎に向かって微笑み掛ける。花京院は天国にいて、そして海に棲んでいる。
 承太郎は、不思議な色合いの青に目を凝らし、そこに花京院の姿を、飽きずに探し続けている。いつも会えるわけではない。手を振る花京院が見えるのは、ごくまれなことだ。或いは波の白さに、花京院を見逃してしまっているのかもしれない。海から目を離すことができず、花京院が、もしかしたらこの瞬間にもどこかから自分に手を振っているのではないかと思うことを止められず、承太郎はじっと、海に向かって目を凝らし続けている。
 世界にあふれる色のことを、意識するようになったのは花京院のせいだ。
 花の赤、地面の泥の茶色、見上げる木の葉の緑、スター・プラチナの薄青い肌の色、ジョセフも承太郎もよく似た色の、濃い深緑の瞳。そんなものに目を止めては、花京院はいつも思案するような表情を浮かべる。目を細め、眉を軽く寄せ、何か重大なことを考えているように黙り込んで、頭の中が恐ろしい速さで何かの答えを導き出そうとしていると、はっきりとわかる表情を浮かべる。
 何してやがる。
 体を半分だけ回して、承太郎は無愛想に訊いた。
 瞳だけ動かして承太郎を見て、花京院もまた無愛想に答えた。
 いや別に。どの色を混ぜたらこの色が出せるか、考えてるんだ。
 色?
 そう言われて初めて、承太郎は花京院が見つめているのが、花だったり木だったり誰かの着ている服だったりすることに気づき、そこには確かに色が存在することに気づいた。
 絵を描く人間は、世界を、承太郎など想像もできない風に眺めるらしい。承太郎にとっては、それは赤や青と言った名前があると意識すらしない、ただの花であり木であり誰かの着ている服だったけれど、花京院はその色々に視線を引き寄せられ、時々驚いたように目を見開き、その色を、自分の手でできるだけその色そのものに忠実に再現する方法を考える。どの色とどの色を混ぜればいい? どんな風に? どんな割り合いで? そして、どこにどんな風に塗れば、こんな色が出せるのだろう。
 花京院の視線のゆく先を追い始めて、そうして承太郎も、花の赤や木の緑や人の服の青を、少しずつ意識するようになった。ポルナレフの銀色の髪。ジョセフの、厚みを感じさせる肌の色。マジシャンズ・レッドの、不思議な炎の赤。
 花京院の瞳を通して世界を見る。そして、空と海の色の違いを、初めてはっきりと感じた。世界の果てで確かに繋がっているのに、交じり合わないその質感も色味も違う青の、凄まじさに圧倒された。
 おれのスタンドの色も青だ。だが、この青とは違う。
 海と空は繋がっている。そこから天国へ行ける。天国には花京院がいて、花京院は海に棲んでいる。
 海には白い波が寄せ、なだらかだったり激しかったりする様々な線を描き、空には白い雲が浮かび、様々な形と厚みと奥行きで、時々何かの姿形を描くことがある。海と空に目を凝らして、承太郎は花京院の気配をそこに探し続けている。
 君を描きたいと、花京院は何度も言った。実際に、間に合わせの紙と鉛筆をどこかから探して来て、承太郎を椅子に坐らせ、器用に線と影で承太郎の姿をそこに写し取った。何度も、何度も。
 絵を描く時に、花京院はいっそう無口になり、けれど視線は雄弁に鮮やかに、承太郎を映し、描いている途中の線を映し、そして、出来上がるはずの未来の絵を映していた。
 絵を描く花京院がもたらす、あの静けさ。それは、空と海とが交わる世界の果ての、底なしのような静けさに似ている。冷たくもなく熱くもなく、ただ静かだと言うだけの、その静けさ。その静けさには色があり、それは空の青であったり、海の蒼であったりする。あの静けさを、花京院ならどんな風に作り出し、写し出したろうか。
 人の肌を塗る時は、下に青をまず塗るんだ。
 絵の描き方などとんとわからない承太郎は、ただ花京院の語る言葉を聞いている。静かに、その言葉を自分の内側に染み込ませるように、黙って聞いている。
 その時々で、どんな青かは違う。その上に、肌の色を重ねるんだ。影や奥行きの雰囲気が出る。ただ紙やキャンバスに塗った色じゃなくて、人の肌に見えるようになる。
 静脈の血の色か。
 頓珍漢に、承太郎は思いついたことを口にした。
 花京院がちょっと眉の端を上げる。それから、ちょっと感心したような表情を浮かべて、承太郎に向かってではなく、自分自身に向かって浅くうなずいた。
 ああ、そうだな、あの青はきっと血の色だ。静脈を通って行く血の色だ。
 その時は、自分たちの交わした言葉の不吉さにまだ気づかず、これから会いにゆく相手が、人の血を飲む吸血鬼だと言うこととの繋がりも、その時は思いつきもしなかった。
 あれはもしかすると、予感だったのだろうか。まるでそっと肩に触れるだけのような、かすかな予知のようなものだったのだろうか。
 なぜ青と言う色から、血を連想したのか、今でも承太郎にはわからない。色を塗る人の肌の下に重ねるのが、そのままの血の色ではなく、青でなくてはならないのか、そしてその青から、あの時確実に血を連想したその理由を、承太郎は今も時々考える。
 決まっていたことだったのか。あの後起こったことはすべて、最初から決まっていたことだったのか。ふたりはただその、すでに決定している未来に向かって、何も知らずに突き進んでいただけだったのか。
 花京院はただ静かだった。死の静寂は、ただ重く、それは世界を青黒く塗り潰す。怒りと悲しみで真っ赤に染まった承太郎の視界の中に、ふた色分暗く、花京院の血の色が映った。あの時、世界は恐ろしいほど静かだった。
 承太郎は、海と空に目を凝らしている。世界の果てを眺めて、自分がそこへ行けるのは一体いつだろうかと、問うように、その果てへ目を凝らしている。
 多分それは、承太郎の中に渦巻いている凶暴さが、静かに鎮まった時だろう。花京院が導き、承太郎が救ったこの世界。この世界から、花京院は喪われている。承太郎だけが、この世界で、怒りと恨みを抱いて、佇んでいる。ひとりでいれば、話す相手もいない。承太郎の周囲も、ひたすらに静かだった。
 白い波間に、ちらりと何かが見えた。光かと思ったそれが、細い人の腕に見えた。自分に向かって振られる、花京院の腕。声はない。何の音もない。静かに、腕だけが揺れている。
 あそこに見える泡は、あれは花京院が海の中でする呼吸だろうか。海の中はきっと静かだ。花京院の眠りを妨げる何もなく、そこもただ、ひたすら静かに違いない。
 その静けさの中に、承太郎は沈み込んでゆく。海に落ちる石のように、海底に向かって沈んでゆく体。海の水に取り巻かれ、体の中に入り込んで来る、塩辛いその海の水。海の水は静けさだ。静けさが、承太郎の中に満ちてゆく。承太郎を取り囲み、承太郎を満たし、承太郎自身が、静けさそのものになる。
 静けさ。花京院が生み出した、あの静けさ。承太郎はその静けさだ。
 花京院は静けさを生み出し、承太郎は静けさそのものになる。花京院は承太郎であり、承太郎は花京院だ。世界の果てで、海と空が出会い、けれど決して融け交じることのないそこで、ふたりはひとつのものになる。ひとつの静けさになる。
 おれがそこへ行けるのはいつだ。
 静けさに包まれて、承太郎は心の中で尋ねる。
 波間に腕を揺らしながら、花京院は答えない。微笑みだけで、答えはない。
 海と空が世界の果てで出会い、凄まじい青に世界を染める。そこに音はない。ひとつになれば、もう言葉はいらない。
 承太郎は、海を見ている。空を見ている。いつまでもいつまでも、承太郎はそこから動かない。

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