火つけ役

 幸いに、湯の出のいいホテルだった。
 日本人らしく、ジャンケンで風呂の順番を決め、勝った花京院は着替えを抱えて、お先に、とバスルームへ向かう。
 1日中車に揺られて埃まみれだ。靴も後で一応磨いて──と言うほど上等なものでもない──おこうと思いながら、花京院は服を脱いだ。
 ひとりになった承太郎は、1脚だけ置かれている粗末な椅子に、肩を縮めて座ると、床の上に長々と足を伸ばす。
 どんな貧相な宿でも、必ず灰皿とマッチがあるのはありがたい。車の中に押し込められて、体も伸ばせず煙草も吸えない1日だった。
 色褪せた、丈の足らないカーテンの掛かった窓に向かって、ほとんど放心したように承太郎は大きく息を吐き出した。
 最初の1本は忙(せわ)しく吸い終わり、それから、さらに椅子の中にだらりと背中を伸ばし、2本目は、天井に向かっていくつも輪を作った。
 ゆっくりと、ほとんど唇に挟んでいるだけで、煙はあまり肺の中へは吸い込まず、どこかへ漂って消えてゆく白い煙を、ぼんやりと視線の先に追っている。
 壁の薄いバスルームから、水を使う音が聞こえ、それに、ジジっと煙草の先が焦げる小さな音が重なる。耳を澄ませて、ひたすら気の抜けた、だらしのない時間を楽しんでいた。
 3本目を半ばまで吸った頃、花京院がバスルームから出て来た。
 「お先に。君の番だ。湯がちゃんと熱い。」
 「おれが浴び終わるまで保(も)ちゃいいがな。」
 「途中で水になったら、やめてジョースターさんの部屋へ行けばいい。」
 「ジジイはきっと、今頃ひとりで泡風呂楽しんでやがるぜ。」
 恐らく承太郎の言う通りだ。ひとり部屋の贅沢を、ジョセフは存分に味わっているだろう。
 日本でいる調子で湯を使うと、ひとり分にすら足らずに湯が出なくなってしまうと、旅の始まりに学んだふたりは、そういう知識があっても、だから相部屋の誰かのためにと言う気遣いはしないポルナレフとは、できるだけ同じ部屋にしてくれるなと、ジョセフに頼んであった。
 運悪くポルナレフと同じ部屋となると、有無を言わせずに先にシャワーを浴びる。もちろん、ポルナレフの分の湯はきちんと残して。
 そういう点で、日本人同士と言うのは気楽だ。言葉が同じと言うだけではなく、相手がこういう風に気遣いをしてくれるだろうと言う予想が、たいていは当たるからだ。
 おかしなもので、ひと夜の同居人が互い以外だと、気を配れば水のシャワーを浴びる羽目になり、ベッドにシーツも枕もない羽目になるので、主張はきっちり通して、損ばかりで気疲れしないために、案外と図々しくなれる。
 承太郎にとって、それは大して難しいことではないけれど、純日本人の花京院は、気を使うにせよ主張を通すにせよ気疲れするのは同じらしく、
 「申し訳ないが、君といるのがいちばん気が楽だ。」
 2度ほどポルナレフと同じ部屋になった後で、寝不足の表情で小さくつぶやいた。以来、ジョセフとアヴドゥルはどちらかがポルナレフを引き受けるように計らってくれて、日本人組のふたりには、あまりそう言った被害がない。
 承太郎は煙草を乱暴に揉み消して、椅子から大きな仕草で立ち上がった。
 着替えをごそごそ探すのも面倒で、バッグごと抱えて、花京院のそばをすり抜けてバスルームへ行く。肩辺りから湯気の立っていそうな花京院は、香料のきつい石鹸の匂いがした。
 「ごゆっくり。」
 ドアの中へ半分体を差し入れた承太郎に向かって、花京院がいつものように言う。
 「できりゃぁな。」
 これもまた、いつもと同じように返して、承太郎はバスルームへ消えた。
 花京院は濡れた髪をタオルで拭きながら、殺風景な部屋を横切り、さっきまで承太郎がいた小さなテーブルの方へ行く。近づくに従って強くなる煙草の匂いと、すれ違う時に鼻先を打った、承太郎の服や髪に残る同じ匂いに、花京院は小さく苦笑する。
 喫煙者と付き合いのない花京院──家族は誰も吸わない──にこの匂いは馴染みがなく、最初は匂いのきつさに戸惑ったけれど、今ではすっかり慣れてしまって、この匂いがないと1日の終わりに物足りないことさえある。承太郎がのんびりと煙草を吸っているのは、つまりはその1日が、とにかくも無事に終わったと言うことだ。
 灰皿の回りに、細かく灰が散っているのは、けれど気になる。掌で集めて灰皿に戻そうかと思って手を伸ばし掛けてから、汚れた手を洗うのにバスルームが必要だと思って、とりあえずそれは後にすることにした。
 紙ナプキンか何か敷けばいいんだと、思うこの安宿の部屋に、そんな洒落たものは置いてあるはずもない。
 さっきまで承太郎が手足を伸ばして坐っていた椅子に、花京院も腰を下ろした。
 今日もひとまず、無事に生き延びた。順調とはとても言い難い旅程ではあるけれど、かたつむりのような歩みであれ、前に向かって進んではいる。前以外にもう、道はないのだ。
 苦労は買ってでもしろと言うが、こういう苦労をするつもりはなかった。胸の中でひとりごちてから、喉を伸ばして天上を見上げる。それでも、奇妙なことに愉快とも感じている。楽しいのではない、愉快なのだ。こんな言葉の微妙な響きも、承太郎でなければ説明もできないし、理解もしてもらえないだろうと思って、自分がひとりきりではないことを、花京院は心底ありがたく思った。
 顔を灰皿の方へ向けると、途端に煙草の匂いが強くなる。学生服に染みついているのは間違いない。もしかして、スタープラチナにも同じ匂いがするのだろうかと、ふと思った。
 「今度、確かめてくれないか。」
 外には引き出さないまま、花京院は口にしてハイエロファント・グリーンに話しかけていた。どんな時も表情のないハイエロファントが、ただうなずいて見せる。
 バスルームの水音はまだ続いている。どうやら湯は、まだ充分あるようだ。
 ぼんやりと天井を見上げて、今日はまだ本を手に取る気にもならない。その気があるなら、何か鉛筆で絵でも描いて少し気を紛らわせるという手もあるけれど、今日はそんな気にもなれない。ただぼーっと、承太郎の煙草の匂いを追っている。
 以前いた学校に、もちろん何人か不良がいて、校内の奥まったところは隅の方で、同じ匂いを嗅いだことがある。その時は、表情には浮かべなかったけれど、小さく舌打ちをしたものだ。彼らにマナーを説いても仕方のないことだし、そもそもマナー違反こそ彼らの信条だろうからと、ただ冷静に分析して、制服で煙草を吸うほどみっともない姿もないと、彼らに対する憧れなど一片も湧かなかった。
 身長のせいか、一匹狼めいた空気のせいか、人を威圧するためのポーズで吸っているわけではないと、今は知っているせいか、承太郎の喫煙に対してはなぜか同じような感情は湧かず、さすがにかっこいいと手放しで思うほどガキではないけれど、君なら仕方がないと、苦笑交じりに言ってしまえるのはなぜなのか。
 そんなに美味いものなのか。匂いから想像する味は、どうやっても舌には麗しいものと考えられず、それでもやはり、興味はあった。
 承太郎が吸っていた3本目は、先だけがつぶされて、灰の中に埋まらずにすんでいる。それを、花京院は指先につまみ上げた。
 初めて、吸殻をしげしげと間近に眺めて、口をつける部分と葉が巻かれているらしいところは何となく区切りがついているとか、口をつける部分は、これは煤なのか、本来真っ白のはずが中央は茶色く染まっている。そして、その唇の触れたらしい部分が、濡れてぐるりと染みになっているのに、花京院はいちばん驚いた。
 こんな風になるものなのかと、絵を描く性質(たち)にありがちな観察眼で、もっと近くに寄せてまじまじと眺めてしまう。唾液でぐるりと濡れたそこから、承太郎のふっくらとした唇の、時々見惚れそうになるほど姿のいい輪郭を、思わず思い出している。
 承太郎を真似て、そうやって吸う時のように、指先に吸殻を挟み込んでみた。人差し指と中指の間で、それは長さのせいか、すでに先が潰されてしまっているせいか、承太郎がそうする時のようにはどうも形良く収まらず、他の不良たちを見かける時以上にみっともなく見えた。
 見ているだけでは足りなくなって、指先を唇へ近づける。実際に吸ったらどんな風かと、そう思った。
 恐る恐る唇を開いて、それも、どのくらい開けばいいのか見当もつかず、吸殻の端が唇に当たってから、差し込めるようにもう少し開いて、唇の先にだけ差し入れた。それを吸い込むというやり方もよくわからず、けれど唇に触れるそれが、承太郎の唾液に湿って冷たいことだけははっきりと感じて、そうしてようやく、花京院はその感触にうろたえた。
 それを取り去ることは考えつかずに、何かとんでもないことをしている自覚が急に生まれて、承太郎の吸殻をいたずらしている自分の子どもっぽさよりも、それが承太郎が吸った煙草で、自分がそれに唇で直に触れていると言うことの方ばかりが気になり始めた。
 鼻先に立っているのは、きっと煙草の匂いだけではなかった。
 あれは何だったろう。思いがけず少女趣味の小説だったか。もう少女とは言えない年頃の女性が、恋人の男の煙草を途中で奪って、そうやって間接的に男に触れることを許されることで、自分達の間柄を測ると言う、読んだ当時はそういう表現もあるのかと思っただけで、特に感動はなかった──喫煙と言うもの自体を、想像できなかった──のに、今になってその仕草がありありと目の前に浮かぶ。何だと女を見てから、照れたように笑う男と、どこか勝ち誇ったように、煙草を挟んだ唇を、見せつけるように軽く突き出す女と、恋に馴染み切ったふたりの馴れ合いが生々しくて、花京院はやっと自分の唇から承太郎の吸殻を外し、灰皿へ戻した。そうする指先が、小さく震えていた。
 それを見ていたように、バスルームのドアが開く。ばさりと、重い制服の上着を、ベッドの上に投げ出す音がして、花京院はなるべく普段通りを装って椅子から立ち上がり、自分が妙な顔をしていないことを祈りながら後ろへ振り返った。
 「湯はちゃんと出たかい。」
 そう言う自分の唇から、煙草の匂いがしたらどうしようかと、思いながら、横に広い唇の端を心持ち上げて、何とか自然な笑顔を作る。
 「最後まで保ったぜ。運が良かった。」
 タオルで顔を拭きながら、承太郎は花京院の様子がおかしいのには気づいていないようだった。
 自分も、まだタオルがあったと思い出して、花京院は椅子の背に、押されて張りついていたままのタオルを急いで取り上げ、首に巻いて端で口元を覆う。髪の先を拭いている振りをしながら、こちら側のベッドの端に腰を下ろして、承太郎に背を向けることに成功した。
 まずいことになった、と自覚があった。唇をタオルで覆い、うっかり何か言ってしまわないように、自分で口を塞ぐ。
 まだ先の長い旅の途中で、気まずい思いをしていいタイミングではなかった。何も言うな。自分に向かって言う。今感じていることを、口に出してはいけない。黙っていろ。得意じゃないか。思ったこと感じたこと、すべて飲み下して、素知らぬ顔をするのは、ずっと得意だったじゃないか。
 あんな風に触れたいと思ったのは、承太郎の吸殻だったからだ。承太郎の唇が触れた煙草だったからだ。承太郎の指がつまみ、挟み、唇に運んで、そうやって吸った煙草だったからだ。
 煙草は嫌いだ。自分で吸うことなど、考えたこともない。けれど承太郎のそれなら、触れてみたいと思った。
 そうだったのか。そうだったのだ。まだ濡れている髪を拭いながら、花京院は自分の内側が恐ろしいほど乱れているのに、冷や汗を流しそうになっている。
 自分が異質であることを認めるのも受け入れるのも、もうとっくの昔に済んでしまっている。だから、自分の心の動きとざわめきを、ただじっと眺めるのはそれほど苦痛ではなかった。
 無期限に、この気持ちと折り合いをつけて行かなければならない。ごくごく私的な面倒事が増えたことに、舌打ちしたい気分と、そうして同時に、奇妙に浮き立つような気分が一緒に湧く。
 煙草の吸殻ではすまなくなるのはわかっていた。いずれ、ただ承太郎を見つめていられればそれでいいと、思えなくなる日が来るだろう。
 この旅が終わったら。タオルを動かす手を止めた。
 肩から、横顔だけでこっそり承太郎を盗み見る。同じようにベッドの端に腰掛けて、承太郎もこちらに背を向けていた。顔が見えないのが、今は心底ありがたかった。
 日本に帰ったら。
 今はまだ駄目だ。気づいてしまった自分の感情を、吐き出したい衝動と、しばらく必死に戦わなければならない。けれどそれは、苦しいだけではない予感があった。
 煙草を吸う君を、いつか絵に描こう。思った瞬間に、もう頭の中でスケッチが始まる。ごく自然に、笑みが浮かんだ。
 その笑みのまま承太郎を振り返って、花京院は弾みをつけてベッドから立ち上がった。

戻る