不意打ち

 図書室のある校舎へ行く渡り廊下の途中には中庭があり、そこは一辺にだけ小さな花壇が置かれている。花壇のサイズに合わせたような小さな花だけ植えられた、陽当たりや良くても目立たない場所だった。
 放課後はいつも図書室へ行く花京院を追って、その校舎へ行こうとして、承太郎は中庭にいる花京院を見つけた。
 花壇の前へ、膝を胸に抱え込むようにしゃがみ込み、何をしているのか、葉が広がり重なった下へ手を差し込んでいるのが見え、承太郎は足を止めてそちらへ体を向けた。
 見れば、足下はきちんと靴を履いて、と言うことは、図書室へ行く途中で気が変わったわけではなく、下駄箱のある自分たちの出入り口から、わざわざここへやって来たと言うことだ。
 絵を描く花京院は、通りがかりに、花壇に何か珍しいものでも見つけたのかもしれない。
 そんな風情は解さない承太郎には特別何も見えず、上履きにも構わず、承太郎は廊下を外れて中庭に降りた。
 「何してやがる。」
 2歩分まで近づいても気づかなかったのか、声を掛けて初めて花京院が承太郎の方へ顔を振り向けて来る。
 「ああ、君か承太郎。」
 学校一──実は、この辺り一帯だと言う噂だ──の不良とつるんでいる花京院に、教師すら距離を置いていると言うのに、他のどの物好きがてめーに声なんぞ掛けるってんだと、承太郎はもう1歩上履きの先を滑らせて花京院に近づいた。
 「何だ?」
 重ねて問うと、花京院はしゃがんだままで膝に両腕を組み、その上にあごを乗せる。
 「いや、近頃雨が降らないだろう? 地面が乾いているんじゃないかと思って。」
 言われてみれば、ここまで来ただけで、上履きの、ゴムに覆われた爪先がもう白く土埃まみれだ。
 「承太郎、外に出るならちゃんと靴を履け。」
 目線が地面に近く、今は顔よりもそちらの方がよく見える花京院が、承太郎の視線の方向に気づいてちょっと尖った声を地面に落とす。
 「めんどくせえ。」
 承太郎を見上げたのは数瞬のことで、花京院はまた目の前の花壇へ視線を戻し、白っぽく乾いた花たちの根元を、心配そうに指先で探った。
 承太郎は聞こえないように舌打ちして、花京院の隣りに、勢いよく腰を落とした。
 「君が動くと花が飛びそうだな。」
 動きにつれてふわりと浮いた承太郎の、長い制服の裾が風を起こし、華奢な花たちがくるくると首を回すように細い茎を揺らしたのを見て、花京院の声が、咎めるようにさらに尖る。
 「そんなに花が大事か。」
 校内で写生でもない限り、誰かが足を止めて眺めているところを見掛けたこともない小さな花壇だ。そこへしゃがみ込んで、花の渇きを心配している花京院は、承太郎とわざわざ一緒にいる物好きと言う校内の評判以上に物好きに見える。
 「枯れてしまったら可哀想じゃないか。」
 花を見下ろしたまま花京院が言う。声がひどく優しく、葉の辺りに触れたその指先に、花弁が頭を垂れて、自分から近づいて行ったように、一瞬見えた。
 「僕らも砂漠で、水が足りなくなるかもしれないって、心配しただろう。」
 アヴドゥル以外は、渇きの加減がわからず、むやみに水を飲んでしまったことがあった。次の町までに水が失くなってしまうかもしれないと言われて、初めて皆で顔を見合わせて、その後数時間、火のような息を吐きながら、自分の汗すら舐めたいような渇きに耐える羽目になった。
 「僕らは喉が渇けば水を飲みに行けるが、花はそういうわけに行かない。」
 地面から2mも離れた承太郎にとって、足元の花はほとんど視界にも入らず、ここに花壇があることは知っていたけれど、こうして目の前に眺めたのは初めてだ。
 花京院がいなければ、花が咲いていることにすら気づかなかったと、承太郎は思った。
 「まだ花は元気そうだから、今すぐ水やりはいらないだろうが、明日も明後日もこのままなら、用務員さんに言って──」
 相変わらず承太郎の方を見ることもしないまま、花京院がひとり言のようにつぶやき続ける。花に語りかけるように、指先がそっと葉の裏を撫で、花京院の横顔は、ひたすら穏やかだった。
 花京院を見つめていて、ふと気づく。こうやって地面近くにしゃがみ込めば、目線の高さがほとんど同じだ。普段はいつも花京院のつむじを眺めて歩いている承太郎には、ひどく新鮮な眺めだった。
 横から見れば透き通って見える花京院の、日本人にしては色の薄い眼球の丸みの向こうに、中庭の風景が嵌まり込みその中に切り取られている。切り裂かれたあの時の傷跡がそこに見えるわけもなく、それでも承太郎は目を凝らさずにはいられなかった。
 「おい花京院。」
 何だと、やっと自分の方へ向いた花京院の、目を通って頬へ達する細長い傷跡がやっと見えた。乾いたこの空気の中で、それは白っぽく浮き上がって見え、あの時自分の膝に乗せた花京院の、思いもかけない頭の重さが、血の色と一緒に蘇る。けれど今鼻先に立つのは、群れて小さく咲く、花京院が心魅かれている花の匂いだけだ。
 承太郎は肩の位置を落とし、下からすくい上げるように、花京院の方へ向かって首を伸ばす。
 こんな風に、誰かに向かって振り仰ぐような角度は、初めてかもしれなかった。
 砂漠のことばかり考えていたから、あの、日焼けして乾いてひび割れてしまった唇の感触がないのに、触れた瞬間驚いた。ふっくらと柔らかな、つるつるとなめらかな唇の皮膚が、横滑りに触れ合って、驚いた花京院が体を引くのと、承太郎がもっと近くへ寄ろうとするのと、それは一瞬の間に起こって、思ったより長く唇は触れ合ったままでいた。
 花京院の額につばが当たって、承太郎の帽子がずれ、白い額が少しだけあらわになる。離れた時、花京院の頬は真っ赤だった。その赤さに埋もれて、傷跡は見えなくなっていた。
 「水やりなら、手伝ってやる。」
 今起こったことなどおくびにも出さず、承太郎が言うと、花京院は一瞬で現実に引き戻されたように、また慌てて花の方へ顔を向けた。
 「あ・・・ああ、そうだ、水やりだ。」
 承太郎に何か言ってやるべきだと、言葉を探しているらしい花京院より先に立ち上がり、承太郎は背を伸ばす。それから、まだしゃがんだままの花京院に向かって手を差し出した。
 「図書室に行かねえのか。」
 乱されてしまった胸の内が、図書室と言う聞き慣れた言葉で、すっと落ち着いたらしい。花京院は3度大きく瞬きをした後で、素直に承太郎の手を借りて、花壇の前からようやく立ち上がる。
 肩を回して渡り廊下へ向かおうとした承太郎の腕を、花京院がつかんで止めた。
 「そっちじゃない。下駄箱が先だ。」
 自分の足元を指差して、花京院が承太郎の腕を取ったまま逆の方向へ歩き出す。
 3歩掛かって足並みを揃えると、いつものように、花京院の頭が視界に入る。馴染んだ位置に互いを置いて、承太郎は、上履きと靴の爪先が一緒に先へ出るのを見下ろす。
 「・・・学校では、やめろ。」
 うつむいて、花京院が小さく言った。
 さっきずれてしまった帽子のつばを、承太郎は元の位置に引き下げた。下から見上げられてしまうにせよ、ついゆるむ口元を隠す努力をしたかった。
 「おう。」
 笑いを含む声の色は隠せず、中庭を突っ切りながら、風がふたりの制服の裾をなびかせて行く。
 膝の間に折り込まれてしわの寄った制服と、気にせず地面を引きずって白く汚れた裾と、色違いのそれが、雨の気配を呼ぶように、乾いた空気の中を揃って揺れていた。

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