夏の空の下



 歩き回ってもかまわないからと言われたのは、ほんとうは少し前のことだったけれど、まだ点滴の管を外してしまうことができずに、そんなものをかたわらにがらがらと引きずって歩くのはひどく面倒に思えたから、今日ようやくそれも取って良いと許可が出て、花京院は、ひとり病室を出て、陽の当たる屋上へ出た。
 エレベーターで行ける最上階から、屋上へはさらにもうひとつ階段があって、健康なら、3段飛ばしだって上がってゆけるその階段が、今の花京院にはひどく長い坂のように見えていた。
 ハイエロファントの力を借りることもできたけれど、日常に戻る練習のつもりで、しっかりと手すりを掴んで、1段1段、両足を揃えてから、上へ向かう。
 まだ昼間の明るさを残したまま、それでも風には、夕方の匂いが交じり始めている。
 乗り越えるにはかなり苦労しそうな金網が、ぐるりと張ってあって、それ越しに、久しぶりに、アスファルトの地上を見下ろした。
 硬い路面を踏みしめて、まばらに行き交う人たちが見える。そこへ混じれるのは、もう少し先のことだ。2学期の最初の頃には間に合うだろうと、SPW財団の医者は言っているけれど、どんなものかと、花京院はみぞおちの右側を押さえながら考える。
 この間までの、死にかける---正確には、一度死んだ---目に遭ったあの50日の旅を思うと、信じられないほど穏やかな、退屈な日々だ。
 完全看護を約束されているし、今ではそれに安心している共働きの両親は、母親はなるべく毎日、父親は週に2度ほど顔を出してはくれるけれど、それも義務と思う必要はないからと、言っているのは花京院の方だ。
 今までは、まずは弱った体を元に戻すためという口実で、長い時間一緒にいることを努めて避けていたけれど、歩き回れるようになれば、外出許可をもらうことをきっと言い出すだろうし、そうなれば、一体どこへ消えて、どうしてこんなことになったのかと、何か彼らを納得させられる言い訳を考えるためにも、 SPWがどうやって今のところ両親を納得させているのか、早急に聞き出す必要がある。
 転校早々に姿を消した息子が、腹に大穴を開けて、死にかけて戻って来たというのは、逆上されても文句の言えないところだ。
 とりあえず今のところ、こんな事態を比較的冷静に受け止めている両親に、花京院は口には出さずに、深く感謝している。
 だからこそ余計に、必要のないことは一切説明する必要もなかった---時には、必要な時にさえ、説明がいらなかった---、あの旅の仲間たちのことを、花京院は懐かしく思い出している。
 ポルナレフは、エジプトから真っ直ぐにフランスに帰り、ジョセフは、やっと危険の去ったホリィをもう一度見舞う目的で日本へ戻って来たけれど、すぐにアメリカへ帰ってしまった。
 怪我の治療という理由で、皆よりも一足先に日本へ送り帰された花京院は、完全に危険が去ったと確認されるまで、SPWの施設へ隔離され、やっと両親が通える、自宅近くの大きな病院へ、SPWの医者と看護婦付きという特別待遇で転院を許されたのは、ほんとうにごく最近のことだ。
 ここへ移されてから、待っていたように、両親よりも義理堅く、承太郎が毎日やって来る。学校---夏休みの補習だ---の後には必ず、時には、学校へ行く前の早朝、あるいは、昼間に抜け出して、ここでサボるのも悪くないと、そんなことを言いながら、窓から入り込んでくることもある。看護婦も医者も、承太郎がずっと花京院の傍にいるのを、回復の邪魔になると言って、あまり快くは思っていないようだったけれど、ジョセフの孫である承太郎に、あまり強く文句も言えないらしい。
 医者たちが心配するほど、承太郎は花京院に無理をさせているわけではなかったし、むしろ、旅の間にあれこれとした下らない話を承太郎が覚えていて、退屈を紛らわせるために持ち込んでくれる、好みの雑誌や本や音楽のテープを、花京院は何より楽しみにしている。
 ポルナレフのこともジョセフのことも、その後ホリィが元気にしているということも、花京院はすべて承太郎から聞いて知った。
 ベッドに起き上がれるようになってから、ジョセフとポルナレフに、まずい英語で1度手紙を書いた。それも、承太郎が切手を貼って投函してくれた。
 あれもそろそろ届いて、開封される頃だろうかと、金網を、まだうまく力の入らない指先に握り込んで、花京院は相変わらず下を見たまま考える。
 また、いつか会えるだろうか。50日という、短くはなくても、たったそれだけと言ってしまえるあの旅の間に生まれた友情や絆は、何ものにも代えがたい、貴重なもののように思えた。血の繋がり以上に深く濃い、自分の命すら差し出しても惜しくはないと思える、大事な戦友たちのことを、花京院はずっと考え続けている。
 昔は---とは言っても、たかが数ヶ月前までの話だ---、僕たちと言えば、自分とハイエロファントのことだった。今僕たちと言えば、それは、あの旅の仲間たちのことだ。
 怪我のせいでここに縛りつけられている自分の傍には、今は承太郎がいる。友達すらいたことのなかった自分を、大事な仲間だと言って、気遣ってくれる承太郎がいる。
 もう一度、金網に絡めた指先に、力を込めた。
 やっと病室を抜け出せて得られたわずかな自由に、逆に閉じ込められている不自由さを思い知らされて、感傷的になっていると、花京院は思った。
 「ひとりで来たのか。」
 不意に、後ろで声がして、花京院は弾かれたように、肩からそちらへ振り返った。
 承太郎、と思わず呼んだ声が、うっかり上ずっている。その声音を聞きとがめたのか、帽子のつばの陰で、承太郎が怪訝そうに目を細めたのが見えた。
 「大丈夫だ、ちゃんとひとりでここまで来れた。」
 ハイエロファントの助けは借りなかったから、ほんとうにひとりだったと、心の中で付け加えることは忘れない。
 ようやくにっこり微笑んだ花京院につられたように、承太郎も、やや険しく寄せた眉の間を、ゆっくりと開く。
 「見たのかい、あれ。」
 たった今承太郎が出てきたのだろう、建物の中へ戻るドアの方へあごをしゃくって、花京院は訊いた。
 「書き置きくらい、普通に残しやがれ。」
 花京院の隣りに立ちながら、承太郎も、金網に掌を広げた。
 承太郎に向かってあごの先を上げて、この角度で見上げるのも、ずいぶんと久しぶりのことだと、妙な懐かしさが先に立つ。花京院は、微笑みを消さないまま、そうして承太郎を見つめていた。
 屋上に行くと、ハイエロファントの触脚を切って、ベッドの上に書き残しておいたのは、承太郎だけのためだった。他の誰かが自分を探しに来るとしても、ここにいるのを邪魔されたくはなくて、だから、承太郎だけにわかるように、きらきら光る翠の文字を、白いベッドの上に残しておいた。
 明るい陽の下で、ふたりでいれば、あの旅のことが思い出せる。命のやり取りばかりの毎日だったというのに、今思い出せば、悲壮感はなく、ただひたすらに楽しかっただけのように思える。
 生まれて初めて、スタンド使いだということに、悲しいほどの引け目を感じなくてすんだからだ。自分が普通の人間ではないということに、絶望を感じなくてすんだからだ。
 あんなに、ある種の希望に満ちていた時間はなかった。自分が生きているのだということを感じて、生きているということに感謝して、生きたいと願い、そして花京院は、今ここに生きている。
 微笑んだままで、花京院は、また自分の腹の傷に掌を当てた。その動きを追って、承太郎も、軽くあごを引いた。
 「動くと、痛むか。」
 平たい口調で、けれど心配しているという気持ちを消せずに、承太郎が訊く。花京院は積極的には同意も否定もせず、ただ苦笑めいた形に唇の形を曲げて、少しだけ肩をすくめて見せる。
 見つめて、見下ろして、地上から離れたこんなところで、陽の明るさにやや目を細めながら、承太郎も思い出しているのだとわかる。肩を並べて歩いた、埃だらけの街中のあの道や、踏み込めば足の埋まる砂漠や、あるいは、引きずり込まれた夢の中や、いつもこうして、承太郎と一緒にいた。揃わない肩の位置に、少しばかり苛立っていたこともあったのだと、今なら素直に言ってしまえそうな気がした。
 ああ、生きているのだと、目の前の承太郎の、深い暗緑色の瞳の中に、自分の小さな姿を認めて、花京院は、初めてその事実を思い知らされている。
 ふたりとも血だらけで、承太郎は、花京院を抱いて泣いていた。その濡れた目元に、ようやく腕を伸ばして、花京院も泣いていた。恐怖や安堵や悲しみや、説明すらできない感情に一度に襲われて、張りつめていた神経の糸が、ぷつんと切れてしまった瞬間だった。
 承太郎と、呼んだ声は声にはならず、唇だけが動いたのを見た承太郎が、まるで自分の息を吹き込もうとする近さに、花京院に顔を近づけてきた。あの時の、涙で濡れた承太郎の瞳にも、自分の姿が映っていたのを、確かに見たような気がする。
 その瞳を、もっと近くで見たいと伸ばした花京院の手を、承太郎が握った。骨が砕けるほど強く、握った。
 生きているのだと思って、生きたいと思った。生き延びたいと、心の底から思って、そうして、弱々しく微笑んだことだけを憶えている。
 「陽射しが、強すぎねえか。」
 どこへともなくあごを軽くしゃくって、承太郎が言った。
 元々色素の薄い花京院の、入院以来ほとんど日に当たらない、旅の間の日焼けのすでに褪せかけた首筋の辺りに視線を当てている。そうかなと、ちょっと首をかしげて見せてから、承太郎が、日陰になっている、中へ戻るドアの裏手の方を親指で指し示すのに、けれど異論は差し挟まない花京院だった。
 そこまで歩くのにも、やはり骨が折れる。運動靴の足を軽く引きずりながら、手を貸したいらしい承太郎には気づかない振りをして、体の右側ばかりを緊張させて、ゆっくりと歩く。
 「君こそ暑くないのか。もう着替えがないわけじゃないんだぞ。」
 まだ真夏の真ん中だというのに、承太郎は結局衣替えなど無視したように、いまだ裾の長い上着のままだ。
 承太郎がエジプトで着ていた学生服は、あちこち擦り切れて穴が開き、血と埃の汚れもひどかったから、今では部屋に飾られているだけだ。花京院の方は、病室の自分の着替えに紛れ込ませて、ひとりの時---両親の目には、触れさせたくなかったから---にだけ、こっそり取り出して眺めたりしている。
 花京院の揶揄に、承太郎は軽く肩を揺すっただけで応えた。
 ようやく、目当ての日陰にたどり着いて、花京院は、疲れにやや重さを増した体をコンクリートの壁に寄せて、思わず小さく息を吐く。
 まだ陽射しが油断ならないと言いたげに、承太郎は、さらに自分の体で日陰を作るように、花京院の傍で肩の位置を変えた。
 「心配しなくても大丈夫だ。そこまでやわじゃない。」
 「うるせえ。」
 乱暴な口調を、優しげな目の色が裏切っている。
 そろそろ病室に戻った方がいいのだろうと、自分の体力を測りながら、けれど久しぶりに明るい陽の下で見る承太郎の、陽に透ける髪の色と鮮やかな唇の紅さが惜しくて、花京院はもう少しと、承太郎を見上げて目を細めた。
 屋上のこちら側には、誰もいない。夏の空は青く、どこまでも高かった。
 下らない話なら、いくらでもできた。学校の話や、ホリィのことや、隣りの病室の患者の話や、最近やたらと聞いているアルバムのことや、ひとりのつぶやきは、ふたりでいればひとり言にはならない。
 今日は、補習は真面目に全部受けて来たのだろうか。承太郎の庭に咲いているというひまわりは、また背が伸びたのだろうか。訊こうとして、けれど自分を見つめてくる承太郎を見つめ返している今この瞬間が、ひどく貴重なものに思えて、花京院は余計な口は開くまいと、すっと唇の両端に力を込めた。
 承太郎が、ひどくゆっくりとした仕草で、右腕を上げた。
 どうするのかと思って目で追っていると、長い指が帽子に伸び、そうして、つばに触れた。
 一度、ちょっとつばを下に引いてから、躊躇している様子が指先の様子に窺えて、帽子の陰に完全に隠れてしまっている目元の表情がどこからか見えないかと、花京院は寄り掛かっていた壁から肩を浮かせて、思わず承太郎の方へ体を乗り出す。
 承太郎が、時を止めたようなゆるやかさで、空気も揺らさずに、帽子を脱いだ。
 ゆるく波打つ髪が、深呼吸をするように、花京院の目の前にふわりと立ち上がってくるように見えた。
 部屋の中にいても、寝るまでは滅多と自分では脱がない帽子だ。珍しいこともあると、久しぶりに見る承太郎の、白い広い額に、花京院はじっと目を凝らす。
 承太郎の革靴の爪先が、じゃりっとコンクリートの床を滑り、花京院に半歩近づいた。それ以上近づく必要もない距離を、承太郎がもっと縮めてくる。腹に血まみれの穴を開けて、一瞬死んでいたあの時のように、承太郎が、今は遮るものもなく剥き出しの額や生え際を、まるでそのまま融け合ってしまうような近さに、花京院に近づけてきた。
 目を閉じることはしなかった。できなかった。
 目の前で、開ききった牡丹の花が地面に落ちる時のような潔さで、すっぱりと承太郎のまぶたが落ち、そのまつ毛の濃さと長さに目を奪われている瞬間に、あたたかく乾いた唇が、押し当てられていた。
 自分に向かって腰を折った承太郎の、いつだって尊大に見えるほど伸ばされている背中の、今は丸くなった線を見てから、ようやく、花京院はゆっくりと目を閉じる。
 想像していた---承太郎と、というわけではなかったけれど---よりも、ずっとつたない接吻に、想像していたよりもずっと稚ない仕草で応えるしかできずに、誰かに見られたら困ると、そんなことを考えられるようになった頃、承太郎がやっと唇を離した。
 まだ、顔を寄せたままの位置で見つめ合って、照れも戸惑いも、まだ感じられず、触れた唇の感触に現実感がないことにばかり、心を奪われている。
 「殴らねえのか。」
 承太郎が、息の掛かる近さのまま、言った。
 「誰が、誰を。」
 揶揄も茶化しもなく、疑問の形というには、語尾の上がりが少ないのが、目に見えない動揺を示しているのだと、花京院自身は気づかない。
 「てめーが、おれを、だ。」
 ひどく真剣な面持ちの承太郎に、まるで、花の蕾がほどけるような、そんなかすかさで微笑んだことにも、花京院は気づいていなかった。
 「僕に殴られるようなことを、君はしたのか。」
 いつもの余裕を取り戻して、ややからかうように訊くと、承太郎は、ああともいいやとも言わずに、ただ右側の眉の端を、一瞬だけ吊り上げる。
 承太郎の、あまりあらわではない羞恥を素早く読み取って、花京院は、それをもっとからかいたくなったけれど、それはかわいそうだと思い直して、今度ははっきりと自覚のある笑みを、口元に深くする。
 初めて交わした接吻のぎこちなさも慣れなさ加減も、失望に結びつくはずもない、そんなことには、見かけよりもずっと奥手なふたりだった。
 「病室に戻るよ。」
 名残り惜しげに、花京院の頬の辺りに強く視線を当てた後で、承太郎は、やっと花京院の前から1歩引いた。
 「またあした。」
 早口にそう言って、足元に視線を落とす。そこから離れれば視界はいきなり明るくなって、そうなれば、承太郎の顔を真正面から見つめるなど、不可能なように思えた。
 日陰を出て、ドアの方へ向かう花京院の背中を、承太郎がじっと見つめている。
 「じじいから、電話があった。」
 今は背を伸ばし、ことさら声を張って、けれど平たい口調で声を掛けると、去りかけた花京院の足が止まって、あごの先だけ承太郎へ振り向いてくる。
 「ジョースターさんから?」
 すでに懐かしい気すらするその名を口にする花京院の声が、思わず弾む。
 「てめーの手紙を読んだそうだ。」
 「無事に届いたのか。よかった。」
 そのまま、すぐに立ち去るタイミングを逃して、花京院は少し斜めに傾けた視線を承太郎に当てたまま、名残りを惜しんでいるのは承太郎だけではなく、自分もそうだと、自分の唇に触れたい衝動を、必死で抑えた。
 「クリスマスか新年に、おれとてめーでアメリカに来いとか抜かしてやがった。」
 「はは、僕のパスポートは両親に取り上げられたままだよ。卒業までは返してもらえそうにないな。」
 「だったら、じじいがこっちに来るか。」
 「ポルナレフも呼べばいい。みんなで、ディズニーランドにでも行くかい。」
 「やめとけ。おふくろまで行きたがると困る。」
 「いいじゃないか、ホリィさんも一緒に、きっと楽しいさ。」
 何事もなかったように、いつものように軽口を叩いて、ふたりはいつの間にか、ごく自然に微笑んでいた。
 ようやく、思い出したように、花京院から視線を外さないままで、承太郎が帽子をかぶり直す。つばから指先を離さずに、掌の陰から、花京院に向かって低く言う。
 「なら、とっとと治れ。治って、こんなとこからとっとと出て来やがれ。」
 口調だけなら、まるで喧嘩腰の、けれどほんとうの意味は、花京院が生きて戻って来て、こうして動けるようになって、心底喜んでいるのだと、承太郎がそう言っているのだと、花京院にははっきりと聞き取れた。
 そんな承太郎の心の内側を正確に読み取れるほど、いつのまに自分の心が承太郎へ向かって傾いていたのかと、そのことに驚きながら、けれど花京院は、表情は変えないまま、
 「またあした。」
 今度こそ、思い切るようにそう言って、承太郎に背中を向ける。
 空から降り注ぐ陽の明るさに目を細めて、傷の痛みすら今は気にもならず、唇の辺りだけわずかに、体温が高いような気がしていた。


* 誕生日とか復活とか、いろいろとお祝いの代わりに、心当たりの方へ。遅くなりましたが(汗)。

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