ありがとう、さようなら


 寒い、と花京院は肩を震わせた。
 実際には、そう思っただけで、指先すらぴくりとも動いてはいなかった。
 自分の体が、半分の大きさと厚みになってしまったような気がする。いつも体の中に聞こえる──感じる──、様々な音が聞こえない。しんと、まるで真空のその中が、静まり返っている。
 不思議なことに、力なく折った首のせいで、ずっと視界の中に近づいた胸元の少し下からは、流れる水の音がはっきりと聞こえる。
 そこには、肉の砕けた跡が見え、折れた骨ものぞいている。水音は、そこから聞こえている。
 血ではない。水だ。背中が冷たい。脚の裏側から、濡れた感触が、爪先まで滴っているのがわかる。制服の厚い生地を通して素肌に張りつく水は、ただひたすらに冷たかった。
 その水が、体温であたたまらないのはなぜだろう。花京院は思う。
 胸に開いた穴から、ちょろちょろと流れ出続ける水、不思議な光景だった。
 絵を描くのに役に立つかもしれないから、その眺めを覚えておこうと思う。もうあごの先すら動かせずに、その思いつきを、おかしいとも一向に思わない。
 血の色は、赤に何を混ぜようか。骨の白さは、ただ真っ白というわけでもない。血の赤と鮮やかに生々しい筋肉の色と、その中で、むしろ銀色がかって見える。
 パレットに出した、チューブからそのままの絵の具を色をあれこれと思い浮かべて、どれをどう混ぜればどんな色になるかと、そんなことを考え続けている。
 水に濡らした筆の先で、丹念に混ぜる。色合いと水の量がちょうど良ければ、それだけで、満足気な笑みが浮かぶ。その筆で、白い紙──青みがかった白で、表面は、わずかにでこぼこだ──の上に、色を置く瞬間。
 気づかずに、腕に力が入っていた。ほんとうに今、そうして絵の具を使っているように、筆を持つ形を、指先が作ろうとしている。そしてそれは、まったく果たせない。
 この色を、ちゃんと覚えていられるだろうかと、花京院は思う。
 思った通りの色が出せなかったら、とても悔しいだろう。でもきっと大丈夫だ。忘れるはずがない。この旅のことは、何ひとつ忘れるはずがない。そう、何もかも、全部。全部だ。
 水はまだ流れ続けていて、今では血の色がすっかりそこで薄まっている。ほとんど透明な水のその流れは、そこから今流れ出している──そして、二度とは取り戻せない──花京院の魂のようにも見えた。
 今、自分は死にかけているのだと、そう思った瞬間に、唇の端が微かな笑みに持ち上がる。それも実際には、花京院がそう思っただけで、もう全身のどこも、ぴくりとも動かない。
 そのできそこないの微笑みは、つかのま皮膚の下にさざなみを立てたけれど、顔に流れた、固まりかけた血のせいで、ただそこに細かなひびを残しただけだった。
 痛みも苦しさもないのが不思議だ。死ぬというのに、じたばたあがくこともしない自分も、不思議だ。あがきたくてもあがけないじゃないかと、また、表情にはならない苦笑が浮かぶ。
 僕は死ぬんだ。
 はっきりと頭の中でそう言った時に、全身が真っ白になったような気がした。
 それは驚きではなく、諦めでもなく、悲しみでもない、ただ、それはそういうことだと、何もかもをそのまま受け入れたという、証拠のように思えた。
 悟りと言ってしまえば大袈裟な、けれど、人というものを超越してしまった領域に、もう両足を踏み込んでしまっているのだという気がした。
 もう、そこに来てしまっているのだとすれば、この静けさは当然のように思える。
 死ぬというのは、音のない世界へ行ってしまうことなのか。
 唇をとがらせて、頭をわずかに傾ける、不満の仕草を示したつもりだったけれど、どうだったのかはわからない。
 音のない世界。交わす言葉はなく、美しい音楽もない、鳥たちは、そこにいるだろうか。飛びながら、可愛らしく鳴くあの声は、もう聞くことができないのだろうか。
 絵を描くことは許されるだろうか。この色を、どこかに表すことは許されるだろうか。
 音がない世界は、色のない世界よりも、ずっと恐ろしい気がした。
 音は、はっきりと、そこに何かが息づいていることを示す。死にかけた花京院の立てる音は今、背中から流れ込んで体の中を洗ってゆく、小さな水の流れだけだ。それすら、今では花京院の耳にはよく聞こえない。
 怯えてはいない。ただ、音のないだろうその世界のことを、とても悲しくて淋しい場所だと思った。
 低い、唇からこぼれ出て、腹の辺りへ軽く響くような、あの声。落ち着いて聞こえて、むしろ冷淡にすら聞こえる声音のくせに、よく聞けばひたすらに深い、そこには様々な感情の込められた、あの声。
 あれをもう、聞くことはできないのだ。
 承太郎。動かない唇の奥で、動かない舌の、さらにその奥の喉の辺りで、その名をつぶやいた。
 あの声に比べれば、落ち着きのない、耳障りな声だと、自分の声のことを思う。それでも、あの名を呼ぶたびに、今まで感じたことのない、何か奇妙なものが、自分の声の中に含まれるのを、花京院は感じていた。
 決して好きにはなれない、自分の声すら、何か好ましいものに変えてしまった、承太郎の、何か。
 承太郎。また、名を呼んだ。つもりだった。
 君は、こちらへは来ないんだろうな。
 今では色も失い始めているそこで、自分はもう、承太郎たちが今いる世界と、無縁になりつつあるのだと、否応なしに思い知っている。
 来ない方がいい。君は、ずっとそこにいた方がいい。
 そうすれば少なくとも、承太郎のあの声は、そこにあるままになる。花京院にはもう届かないけれど、時折、唇の動きで、あの声を思い出せるだろう。
 花京院。承太郎の声だ。承太郎が、呼ぶ声だ。
 何も恐ろしくはない。何も悔やんではいない。けれど、承太郎の声が、これから花京院がゆくところで、永遠に失われてしまうことが、ひどく淋しかった。
 淋しい。
 とても馴染み深い感覚だ。淋しい。ひとりであることは、苦痛ではなかったけれど、いつも淋しかった。
 だから、あの声が、とても好きだった。
 承太郎。花京院。
 それは失われてゆく。それは、とても淋しいことだ。
 同じことを、承太郎も感じるだろうか。花京院が、声の届かない場所へ行ってしまうことを、淋しいと思うだろうか。
 それでも、君の声が失われる方が、きっと何千倍も淋しいだろう。
 音のない世界でさえ、承太郎は、全身で空気を揺らして音を立てるだろう。あれは、命の立てる音だ。無音の世界の中に、音を持ち込み、そしてきっと、色さえ塗り替える。
 花京院は、また微かに笑った。
 何だ、僕はただ、また同じところへ戻るだけじゃないか。
 承太郎の前に、音はなかった。色もなかった。花京院の世界は、茫漠とした、ただ広がる黒と灰色の荒野だった。そこで心が浮き立つのは、色を塗って、何かを表したいと、時折そう思う時だけだった。
 そうか、君が僕を生かしたのか。
 だから今、花京院が承太郎を生かそうとするのは、当然のことなのだ。
 そうか、僕は、君のために逝くのか。
 今度は、ひとりきりではないのだ。無音の、色のないかもしれない世界に、今度はひとりきりで戻るのではないのだ。これからは、いつだって承太郎のことを思い出せる。命の輝きにあふれ、心地良いざわめきを身にまとった、承太郎の背高い姿を、好きな時に思い出せばいい。そうすれば、花京院の世界は、いつだって色と音にあふれるだろう。
 花京院。
 あの声を、きっと忘れない。忘れることはない。
 承太郎も、自分の精彩のない声を、それでも覚えていてくれるといいと、花京院は思った。
 とっくに閉じてしまっている目の辺りから、今度こそ力が抜けてゆく。胸を流れる水の音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 昏さを増した目の裏の闇の中に、最期のひと息の代わりに、承太郎に呼びかける。届くはずもなかったけれど、それでも構わなかった。
 まるで返事をするように、承太郎がどこかで自分を呼んだような気がして、そちらへ顔を向けようとして、それは果たせなかった。

 承太郎、ありがとう。
 ありがとう、承太郎。

 さようなら。

 小さな泡のような呼吸が、それで途切れた。


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