架空の電話


 深夜を過ぎて、2時になろうとしていた。
 普段はあまり飲まない酒を、今夜はすでに3杯ほど干していて、どうしようかと迷ってから、4杯目のウイスキーを、またグラスに注いだ。
 それから、これも近頃は滅多に喫いもしない煙草が、灰皿にもう吸殻となって、数本。
 時間と言うのは、黙っていても、漫然と過ぎてゆく。過ぎてゆく時間の流れに溺れて、けれどそこで溺死することはなく、苦しさにあえぎ続けるだけだ。
 壁にもたれて、両膝を抱え込んで、部屋の片隅で肩を縮め、漂う視線には、何も映ってはいない。アルコールとニコチンで、血の巡りを悪くしながら、自分がとても不健康なことをしているのを、心のどこかで歓んでいる。
 痛みが、耐えられる線を越えると、いつもこんなふうになる。体を麻痺させなければ、苦痛にのたうち回る羽目になりそうで、鎮痛剤のように、酒と煙草に手を伸ばす。眠れなくて、寝返りばかりで夜を明かすと、鈍い頭痛が首の後ろから始まる。体の中にある痛みで、いっそ息の根を止めてくれないかと、誰にも言えないそんな願望ばかり、胸の内にたまってゆく。
 ウイスキーを一口すすって、新しい煙草に火をつけて、承太郎は、灰皿のそばに放ってあった、玩具の電話に手を伸ばす。
 数年前に、騒がしい街中で見つけて、一体何を思ったのか、衝動的に買ってしまったものだ。派手な色のプラスティックの、子どもでさえすぐに飽きてしまいそうな、安っぽいつくりの、ただのおもちゃの電話だ。
 きちんと受話器と本体が、くるくると丸まったコードで繋がっていて、受話器を持ち上げれば、生意気にフックも持ち上がる。番号を押せば、きちんとプッシュ音が出る。そして、番号キーのいちばん下にある赤い大きなボタンを押すと、ぷるるるると、電話が掛かって来ていることを示す、ほんものそっくりの音が鳴り出す。
 承太郎の片手に軽々と乗ってしまう、小さなおもちゃの電話だった。
 番号キーはとても小さいから、人差し指を緊張させて、気をつけてひとつひとつ押さなければならない。受話器も小さくて軽くて、ちょっと力を入れれば、すぐに壊れてしまいそうだ。それに、掌で握るほどの大きさもなく、承太郎はいつも、そのちゃちな受話器を、人差し指と親指だけでつまみ上げる。
 本物の電話は嫌いだ。うるさく人を呼び出す音も、顔は見えないくせに、声だけはしっかりと伝えてくるよくわからない仕掛けも、電話と言うのは、何もかもが胡散臭い気がして、自分の部屋にいても、たまに無視してしまうことがある。
 おもちゃの電話を手に入れてから、それが、承太郎の意志なしでは何も起こらない、ただのプラスティックの塊まりだということに気がついて、そのことをひどく気に入ってしまった。
 そばに置いて、受話器を取り上げて、あちら側からの無音に、気が向けば何時間でも耳を傾けている。あちら側の都合など気にせずに、何かつぶやきたければ、好きなだけしゃべり続ければいい。
 電話を掛けるふりをする。掛ける相手も、掛けたい相手もいないから、誰にも届かないおもちゃなら、ちょうどいい。掛かって来たふりをする。話したい気分ではない時に、話したくもない相手から掛かって来たわけではないとわかっているから、気が楽だ。
 そうして、ある日、承太郎は、ふと思いついて、そのおもちゃの電話から、電話を掛けてみた。
 ずっと話したくて、それが果たせなかった誰かに、電話を掛けてみた。番号なんか知らないから、でたらめにキーを押して、そして、吸い込まれるような無音のあちら側に向かって、彼に向かって、話しかけ始めた。
 花京院。
 声に出してみると、その声はきちんとあちら側の彼に届いているような気になって、承太郎は、そのまま、埒もないことを、訥々と話し始めた。
 元気か。おれのことを覚えているか。おまえに会いたい。おまえと話をしたい。おれはずっと、こうしておまえを待っている。
 そうしなければ、あちらから電話が切れてしまうと、そんな気がして、花京院と、一言ごとに名前を呼び掛けた。
 承太郎の声は、無音のあちら側にすべて吸い込まれて、けれどそれは、誰かの耳に届いているせいだと信じられて、承太郎は、ひどく満足して受話器を置いた。じゃあな、またなと、きちんと言って、その電話を切った。
 それきり、おもちゃの電話のことは、忘れてしまった。
 ずいぶん経ってから、また息苦しさを感じ始めて、どこかへしまってしまったそのおもちゃのことを思い出し、慌てて自分の部屋をひっくり返して、その電話を見つけ、突き動かされるように、またでたらめに番号を押した。
 花京院。
 今度の声は、前の時よりも少し切羽詰っていて、そうすると、無音のあちら側も、少し慌てたように感じられて、承太郎は、まるで吐き出すように、つまらないあれこれを、おもちゃの受話器の中に垂れ流す。
 花京院を見つけられない世界の中で、承太郎は、自分が世界に対して感じる違和感よりも、世界が自分に対して感じる異和感を、先に感じるようになってしまっていて、少しずつずれてゆく自分の、足元の頼りなさに、吐き気を覚えることが増えていた。
 息苦しいと、不意に感じる。まるで、酸素の足りない魚のように、見苦しく口をぱくぱくあえがせて、乱れる鼓動に胸を押さえる。そうして、そう言えば、スタープラチナは自分の心臓を止めてくれるのだと、そんなことを思い出す。
 世界の中で、世界とスムーズに折り合いをつけるために、普段は見向きもしない酒と煙草を、たまに痛飲する。そんなものに溺れて、自分を痛めつけて、吐くものもない胃から、胃液だけを吐き出しながら、考えるのは、花京院のことだけだった。
 花京院。
 おもちゃの電話に向かって、話しかける。あちら側の無音は、すり切れかけている承太郎の心を包んで、ひたすらの優しさで、慰撫してくれる。ように思えた。
 今では、その電話をしまい込むことすらせずに、でたらめの番号を押して花京院を呼び出すことが、いつのまにか増えていた。
 ウイスキーをまたすする。胸いっぱいに吸い込んだ煙草の煙を、ため息のように吐き出す。こちらの音は、何もかも、あちら側に伝わっているはずだ。
 花京院、帰って来ないか。おれは、ずっとひとりで待っている。おれがこのまま、おまえの声すら思い出せなくなる前に、帰って来い。早く。早く。
 あちら側の花京院は、相変わらず無言のままだ。それでも、承太郎の言葉に応えて、苦笑する気配や、悲しんでいる気配や、心配している気配が、ちゃんと伝わってくる。そんな気がする。
 向こう側に、花京院はちゃんといる。承太郎の声を聞いている。
 何か言え。てめーの声が聞きたい。てめーの声を聞かせやがれ。そこにいるんだろう花京院。おれの声が、聞こえてるんだろう花京院。
 悪い酔い方をしているのか、舌がもつれる。何を言っているのか、自分でもよくわからないまま、承太郎は、おもちゃの電話に向かって、だらだらと話しかけ続けている。
 何か言いやがれ花京院。
 荒れる言葉が、次第に強さを増して、ほとんど怒鳴るように、承太郎は唇を動かし続けた。
 戸惑っている。困惑して、何を言っていいのかわからない花京院が、あちら側で、承太郎をなだめる言葉を探している。形の良い眉をひそめて、神経質に、あの薄い唇を慄わせながら、ひとりで苦しんでいる承太郎の肩を、抱き寄せてはやれないことを、とても悔やんでいる。遠すぎる。こちらとそちらは、あまりにも遠すぎると、まだ言葉を見つけられない唇が、あえぐように、半分だけ開く。
 帰って来い、おれをひとりにするな。おれを置いて行くな。花京院。花京院。花京院。
 何も言ってはくれない花京院に、ひとり焦れて、承太郎は名前を呼び続けた。
 空になった重いグラスが、ごとりと床に落ちる。割れずに、ころころと転がって、腕を伸ばしても届かない辺りで止まる。煙草は、指の間で灰になっていた。
 ひどく気分が悪い。今なら、内臓ごと吐き出してしまえそうだと、そんなことを思う。
 花京院が、今夜は何か言ってくれるのではないかと、そんな希望にすがって、承太郎はまた名前を呼ぶ。
 長くはない受話器のコードが伸び切って、本体が床から持ち上がりそうになっていた。
 花京院、戻って来やがれ。とっとと姿を現せ。
 おれはもう、長くは耐えられそうにないと、そう思った時、受話器のあちら側で、電話の切れた音を聞いたような気がした。
 小さな受話器を、耳から離して、承太郎は、呆然とそれを見つめた。
 そんな音が、するはずはない。これはおもちゃだ。ただの、おもちゃの電話だ。
 「・・・花京院。」
 受話器に向かってではなく、知らずにつぶやいていた。
 承太郎は、表情を失って、指でつまんでいた受話器を、そっと本体に戻し、数秒、ただのおもちゃに戻った電話に、じっと目を凝らす。
 花京院が、掛け直してくるかもと、そう思ったからだとは気づかないふりをして、追い払うように電話を壁際に寄せると、承太郎は背高い体を床に投げ出して、嗚咽をもらし始めた。
 床に額をこすりつけ、拳で叩いて、湿った息を吐きながら、身をよじって泣いた。泣きながら、花京院の名を呼んで、おれを連れて行け、連れて行ってくれと、繰り返し叫ぶ。
 この世のものとも思えない、獣のような泣き声を、おもちゃの電話は、壁際で黙って聞いている。受話器の向こう側の無音と同じほど、おもちゃの電話は静かだった。


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