手当て



 ぬるくした湯が、それでも傷口に染みるのか、バスルームから、承太郎の声が聞こえていた。
 切り裂かれた傷と、ひどくこすれた傷と、打撲と、服を着ていては見えないところにも、打ち身のアザくらいはまだあるかもしれない。
 手当てをするから、とにかく傷だらけの体をよく洗って来いと、花京院は笑いながら承太郎をそこへ送り込んだ。
 承太郎がひどくやられたらしい現場に、花京院はいなかったのだけれど、承太郎の機嫌の悪さと珍しい傷のひどさを見て、あらかたのことは想像がついた。
 今日の敵に手こずらされたのは承太郎だけではなく、スタンドのやり口通りに、本人もずいぶんと陰湿そうなやつだったなと、花京院は、バスルームで水音が消えてもまだ続いている承太郎の控え目な罵声に、ちょっとだけ苦笑をこぼす。
 よく洗えば、消毒は必要ないだろう。ガーゼと、大き目の絆創膏と、それから包帯を揃えながら、花京院は承太郎が出て来るのを待った。
 承太郎の怒鳴り声がようやく止み、がさがさとバスルームの中で音がして、そうしてようやく、下着姿の承太郎が、濡れた髪を拭きながら出て来る。
 「よく洗ったかい。」
 からかうように訊くと、唇をヘの字に結んで、承太郎はただうなずくだけだ。
 ベッドの端に斜めに腰掛けて、背中を向けた承太郎の、右肩へ掌を乗せて、花京院はそのすぐ下にある切り傷に、少しの間眉を寄せた。
 「縫った方が、良さそうな傷だな。」
 「てめーが縫うか。」
 間髪入れずに、振り向きもせずに承太郎が言う。冗談でないことは、もう声音でわかる程度には、互いを知り合っているふたりだった。
 「僕は医者じゃない。」
 たとえ医者であっても、承太郎の体に傷をつけるなんて、そんな度胸があるはずもない。
 「舐めときゃ治る。」
 「君はきっと、腕を切り落とされても同じことを言いそうだな承太郎。」
 ガーゼを、傷の長さに合わせて折りたたみながら、ちょっと肩をそびやかした承太郎に、見えないように苦笑をこぼして、花京院は、音もさせずにハイエロファント・グリーンを呼び出す。
 「少し、我慢してくれ。」
 もう何度目かわからないの言うのに、始める前には、必ずそう言うくせがついてしまっていた。
 しゅるりとほどいたハイエロファントの触手の先を、中指2本分ほどの長さに切って、リボンか何かのように平たいそれを、花京院は、承太郎の傷のすぐそばの皮膚の下へ、融けるようにもぐり込ませた。
 ざっと音がしそうに、承太郎の二の腕が、あっという間に粟を立てる。残念ながら、その気持ちの悪さは、それをしている花京院自身にはわからない。申し訳ないと、そうするたびに思いながら、花京院は黙ったまま、もぐり込ませたハイエロファントの切れ端を、ざっくりと切れてしまった皮膚の内側に、そっと貼りつける。もう一度、同じことを、今度は傷の表面にやる。長い切り傷は、緑の光にうっすらと覆われ、その光の元は、微かに内側でごく小さな泡を立てて、熱いとも冷たいともわからない、ぬめぬめとした柔らかさの中に、まだ完全に止まってはいない、乾いてはいない血液を閉じ込める。
 この旅の最初に発見した、ハイエロファントの、奇妙な使い途だ。
 思い出せば子どもの頃から、転んでできた傷を、自分でこうして手当てしていたのだけれど、ハイエロファントを使うことは、物心ついた時から無意識のレベルだった花京院は、同じことを他人にできるとは思いもつかず、そもそも怪我のたびに、そんなことをしているのだということも、よくは自覚していなかった。恐らくは、花京院がハイエロファントにそうさせたというよりも、宿主である花京院を守るために、ハイエロファントが勝手に始めたことなのだろう。
 どれほど出血のひどい、範囲の広い傷も、翌日にはほとんど塞がっていることを不思議がったポルナレフにその理由を問い質されて、花京院は、ようやく自分の体に何が起こっているのかを、はっきりと意識した。
 残念ながら、ハイエロファントを人の体に這い込ませる---たとえ、一部分ではあっても---というのは、ひどい不快感を伴うものだから---過去の経験で、学んだことだ---、できはしても、そうやって人を操るということを滅多としないと同様に、人の傷の手当てというのも、まったく気が進まない花京院だった。
 案の定、あまりにしつこいポルナレフに根負けして、それならとハイエロファントを滑り込ませた途端、ポルナレフは全身の毛を逆立てて椅子から転げ落ちた。
 気持ちが悪いと、最初に言ったろう。
 慌ててそう弁解しながら、ハイエロファントを引きずり出して、ポルナレフを抱え起こしてやった。
 二度とやってくれなんて頼まねえ!
 まだ、剥き出しの肩をがたがたと震わせながら、ポルナレフは目に涙さえ浮かべていた。
 頼まれたってやるもんか。
 強い口調で言い返して、腹を立てた振りをしながら、けれど、自分のハイエロファントがそんな風に触れるということが、他人には不快感しか呼び起こさないということに、内心傷ついていた。
 そんな花京院の胸の内---あらわでもなければ、決して人に明かしもしない----を読み取ったからなのかどうか、承太郎が、そのしばらく後、鎖骨の辺りにできたひどいすり傷を突き出すようにして、一言短く、やれ、と言った。
 最初は何を言っているのかわからず、ぽかんと承太郎を見上げて、そんな花京院に承太郎が、表情を変えないまま、ハイエロファントで手当てをしろと、改めて言葉を継ぎ足した。
 してくれでも、頼むでもない、あまりにも承太郎らしい言い方に思わず誘われて苦笑をこぼして、それから、自分ではそうとは知らずに、悲しみと淋しさを込めた視線を承太郎に向けて、
 「やめた方がいい。手当てしたいのは山々だが、怪我をしているままの方が気分がマシだと、きっと後で思う。」
 「やれ。このままじゃガクランが汚れる。」
 一度言い出せば聞かない頑固さは、花京院自身にも覚えがあったから、仕方ないなとうなずいて、それから、ハイエロファントを、なるべくそっと、承太郎の胸の辺りから滑り込ませた。
 今と同じだ。声を立てず、表情は変えず、ただ、気の毒なほどあらわに、日焼けし始めた皮膚が、ざっと波打っただけだ。
 承太郎だから、きっと耐えられる類いのことなのだろう。我慢強さと言うよりも、これは頑固さゆえだ。それを笑って、それから花京院は、いつもありがたいと思う。
 しばらく待つ内、ぷつぷつと立っていた小さな泡は消え、緑の光も失せ、後には、生々しい血の色を見せる傷跡が、けれどそれ以上は血を流す様子もなく、何が変わったとも見えないまま、残るだけだ。
 手にしていたガーゼをそっと当てて、その上に、丁寧にしっかりと、きつすぎて血流を妨げることはないように気をつけて巻く。
 残りの傷は、ハイエロファントを使うほどでもないと判断して、あちこちに絆創膏を貼って、それで手当ては終わった。
 「顔色が悪い。早く寝た方がいい。」
 怪我のせいではなく、単に疲れているのだろうと、そう思いながら、承太郎の目を真っ直ぐ見ることはせずに、花京院は早口にそう言う。
 おう、と珍しく素直に相槌を返して、さっさとベッドへ上がってゆく。疲れているのは自覚しているらしい、毛布を高く盛り上げた、こちらに向けられた背中を見つめてから、
 「シャワーを浴びてくる。」
 手元に散らかったあれこれを片付けながら、花京院は床に向かって静かに言った。


 全身を丁寧に洗った後で、浴槽に湯をためるという、日本を出て以来縁のなかった贅沢を自分に許して、花京院は、やや窮屈に手足を伸ばして、ひとり大きく息を吐く。
 きっともう眠ってしまっているだろう承太郎の邪魔をしたくはなかったので、長く湯につかるということを思いついただけだったけれど、ぬるい湯は存外気持ちが良く、承太郎だけではなく、自分も疲れているのだと、花京院は濡れた手で目の上をこすった。
 寝るには、いつもより少々早い時間だったけれど、ベッドで本を読んで承太郎を起こしたくはないし、かと言ってベランダは少し暗すぎる。それならロビーに行こうかと思いながら、また制服を着直すのが面倒で、部屋の出入りの音も気になって、結局、あれこれと埒もないことを考えながら、ぬるい湯の中で体を伸ばしている。
 眠っている時でさえ、神経の逆立っている毎日だ。今日は怪我ですんだけれど、油断をすれば致命傷ということもありえる。今だって多分、のんびりに風呂に入っている場合ではないのだろう。それでも、湯に疲れが溶け出してゆくようで、じわじわと神経を絡め取ってゆく眠気に、花京院はわざと逆らわない。
 疲れているらしい承太郎---怪我も、少々ひどい---を、ひとり放って部屋を出るのはどうかと、ごく常識的な結論にたどり着いて、花京院は、ようやく湯の中から体を起こした。水音と物音に気をつけて、体を拭いて、何もせずにこのまま寝てしまうつもりで、そっとバスルームを出た。
 脱いだ制服を片付けていると、気配に承太郎が気づいたのか、薄闇の中で前触れもなく花京院の名前を呼んだ。
 「花京院、寒くねえか。」
 こちらに背中は向けたままだ。毛布は、しっかりとそのぶ厚い肩を覆っている。
 「いや、寒いとは思わないが。」
 空調のせい---というような、高級な宿でもない---かと、天井の辺りを見回して、それでも、日本で言えば真夏のような気候のこんなところで、夜は冷えるとは言え、寒いというのは尋常ではないと、花京院は形の良い眉を静かに動かす。
 「眠れねえ。」
 「傷が痛むのか。」
 「そうじゃねえ。」
 たった今まで湯につかっていたせいで、花京院の全身は温まっている。この部屋の中では、少々暑いくらいだった。
 ぐるりと自分のベッドを回って、承太郎の傍へ行くと、
 「触るぞ。」
 短く断ってから、承太郎の頬の辺りに掌を乗せた。
 確かに冷たい。体温が下がっている。けれど、風邪を引いたようでもなかったし、怪我以外に気分が悪いというわけでもなさそうだったと、間近に眺めていた承太郎の皮膚の色を思い出して、承太郎も疲れているのだと、花京院はそう思った。
 「貧血かもしれない。ずいぶん血だらけだったからな。」
 ふんと、ばかにしたように鼻を鳴らした音が聞こえた。同意しかねるという意思表示なのだろうけれど、言い返さないところを見ると、その通りかもしれないと、自分でも合点が行ったというところか。
 承太郎の肩が動いて、ようやくこちらを向いた。
 毛布の下から腕が伸びてきて、花京院の手を取った。
 「来い。」
 「おとなしく寝た方がいいんじゃないのか。」
 取られた手を振り払いはしなかったけれど、引かれるままにということもしなかった。見下ろして、静かな声で、思わず諭すような口調になったことを、花京院は自分で笑う。
 何となく、親鳥のような気分になって、取られた手を重ね直して、承太郎の手を、なだめるように握る。
 冷たい手だった。
 「寒くて眠れねえ。」
 まさか、潜り込ませたハイエロファントのせいではないだろうなと、ちくりと責任感というものが湧いて、いつだって、どこに触れても熱い承太郎の体のことを思い出しながら、じわりとこちらへ染み通ってくる冷たさに、花京院はそっと肩先を上げた。
 「疲れてるんだな、きっと。」
 苦笑でごまかしてから、ベッドの端へたれている毛布を持ち上げ、するりとそこへ滑り込む。
 いつもなら、承太郎の体温だけで、包まれるように暖かいはずのそこは、今日は室温よりも低いような気がして、花京院の肌から、いっせいに湯上りの薄い汗が引いてゆく。
 下着姿の承太郎の背中に、自分の胸を重ねて、温まった体から体温を分けようと、まるでしがみつくように、承太郎を抱きしめた。
 承太郎の、軽く曲がった膝裏を爪先で探って、ふくらはぎも冷たかったけれど、爪先はほんとうに、氷のようだった。
 「冷たいな。」
 「・・・そう言ったじゃねえか。」
 承太郎の爪先を、自分の足裏の間に引き寄せながら、信じてなかったのかと、まるで非難するような承太郎の口調に、花京院はそこでかすかに笑いをこぼす。
 触れるどこも冷たい。ハイエロファントでは、流れてしまった血まではどうしようもできないから、今夜は承太郎が、なるべく安らかに眠れればいいと、そう思って、みぞおちの辺りに、右の掌を広げた。
 その手に、承太郎の右手が重なってくる。開いた指の間に、承太郎の、節の高い長い指が滑り込んで来て、まるで逃がさないとでも言うように、花京院の手を強く握る。
 承太郎の冷たさが、花京院の方へ移ってくる。花京院の暖かさが、承太郎の方へ移ってゆく。そうして、体温を分け合いながら、ただ、ふたりは眠るために目を閉じて、承太郎のまだ冷たい肩に、花京院はゆるく額をすりつけた。
 体温のないハイエロファントを、体の奥深くにひそめて、こんな時にはスタンドも役には立たず、生身のまま、ふたりはそうして抱き合っている。聞こえて来た承太郎の寝息に耳をすませて、ああひとりではないのだと、花京院は、もう何度思ったか知れないことを、もう一度、改めて思った。
 「お休み承太郎。」
 返事がないことに安堵してから、毛布の中のぬくもりに鼻先を埋め、ようやく花京院も目を閉じた。


戻る