ふたり

 突然の何かの衝動のように、不意に承太郎の腕が伸びて来る。長い、硬い腕。ごつごつした手首に続く、大きくてぶ厚い掌。節の高い、指の長い手。それが、背中や肩や腰に触れて来る。
 ほとんど絞め上げるように、両腕の輪の中に僕を収めて、僕は精一杯承太郎の方へ体を伸ばしながら、邪魔にならないようにそっと承太郎の背中と肩に自分の腕を回す。
 背伸びをし、あまり長くそうしていると痛みで痺れて来る腰の辺りを反らして、承太郎に体を沿わせているのは、正直苦痛だった。承太郎の肩へ乗せるために反らした喉のせいで、首の後ろも痛くなる。革靴で爪先立っていると、足の甲も痛くなる。
 それでも、文句のひとつもこぼすことはしばらく思いつかず、ぎりぎりと絞め上げてくる承太郎の腕の中で、制服の生地越しに、いっそう強く食い込んで来る承太郎の指先の形に、僕は承太郎の体温を吸い込んで、静かに目を閉じる。
 まるで、こうやって、自分の皮膚から他人を溶かして取り込んでしまいでもするように、承太郎はいつまでも僕を放さず、僕も承太郎の腕がゆるむまで、この姿勢をやめない。
 こっそりとあごの位置や腕の位置を変えながら、そうやって、ずっと体を伸ばしている苦痛をごまかして、承太郎のために、僕は背伸びをし続け、腕を伸ばし続ける。
 承太郎の、大きな体。こうやって力いっぱい──だと思う──抱きしめられれば、華奢な女の子ならきっと骨を折るだろうと、案外冗談交じりにでもなく思う僕は、承太郎ほどではないけれどそれなりに背も高く、もう健やかではないけれど充分に健康で、隣りにいるのが承太郎でなければ、たいていどこでも体格は良いと褒められるのだ。
 僕でなければならないのだろうと、初めてこんな風に抱きしめられた時に悟った。承太郎がもちろんそんなことを言うわけもなく、ただ尋常でない腕の力に、痛みを訴えようとして、そうしてふと気づいてしまったことだった。
 君でさえ、時には誰かにすがらずにはいられない。抱きしめて、抱き返してくれる誰かが、欲しくてたまらなくなる。
 そんな風に感じるのは、この世界で自分ひとりだろうと思い込んでいたのに、よりによって承太郎、君が僕をこんな風に求めるとは、想像すらしていなかった。
 無愛想で──僕も、あまり人のことは言えない──口が悪くて、両手をポケットから出す時は、誰かに拳を振るうことを厭わないと示す時がほとんどだ。目の前に突き出された、いかにも硬そうな大きな拳を見て、大抵の人間は黙る。売られた喧嘩を買った時でさえ、相手はそれを放り出して逃げてゆく。
 それを良いことだと思っていたのは僕の勝手で、承太郎の方はと言えば、そんな自分の役割を正確に理解しながら、同時に、優しく誰かに触れることができないことに、気がつくたびに傷ついていたのだと、もちろん誰に打ち明けるわけもない。
 口数も語彙も、決して少なくはないのに、弱音の吐き方を知らないこの男は、弱音の存在を自覚した後で、吐き出す場所に困って、僕を捕まえた。互いに、血まみれで死に掛けたところや、本気で困ったことになって諦め掛けたことや、卑怯も厭わない勝ち方を選んだことや、その他あまり褒められたことではない場面をいくつも分け合って来たから、今さら弱味のひとつやふたつ、見られたところで痛くもかゆくもないと、きっと承太郎はそう思ったのだろう。
 文字通り、世界の終わりを僕らは一緒に味わい、一緒にそれを切り抜けた。紙一重であれをかわし、君は少なくとも自分の足で、ここへ帰って来た。僕は、それよりもずっと情けない姿で、誰の手を握り返す力さえ残ってはいず、しばらくの間、この方とあの方をふらふらとさまよう羽目になった。
 どこに触れられても痛がるばかりの僕を、君はただ黙って見下ろして、一緒に学校へ通えるようになったのも、ごく最近のことだ。
 ごく普通の日常。朝起きて、学校へ行き、承太郎が煙草を吸いに屋上へ上がるのに付き合い、僕の、放課後の図書室通いに承太郎が付き合い、肩を並べて下校して、朝になればまた一緒に学校へ行く。あくびが出るほど退屈な、ごく普通の日々。
 僕らは、これをどれだけ望んでいたことだろう。何もかもが元通りになるようにと、歯を食い縛って考え続けた君と、病院のベッドの上で、ともかくも自力で動けるようになりたいと、そう考え続けていた僕と。
 雨の日も晴れの日も、それがただ当然であるというだけの理由で、学校へ行き、授業を受け、家に帰って夕食を食べる。時間があれば、たまには電話で話をしてもいい。週末には君の家へ行って、違う宿題を一緒にする。受験の話をしながら、来年の今頃はどうしているだろうかと、他愛もない会話を一緒に拾い上げる。
 退屈で、けれど、だからこそ素晴らしい日々。
 僕らは、ようやくそこへ戻り、すっぽりとはまり込み、それでも、平凡な日常の中に収まり切らない違和感を抱えたまま、その違和感に、君は時々耐えられなくなるのだと、なぜだか僕は知っている。
 僕にとっては、もう体の一部のような違和感。あることが当然の、なければ戸惑う、その違和感。
 だから君は、僕をこんな風に抱き寄せる。力いっぱい抱きしめて、自分がひとりぼっちではないのだと思い知る。平凡な日常に収まり切らなくなってしまった自分の存在を、こうやって僕を抱きしめてなだめる。ひとりではない。ひとりきりではない。この違和感を、言葉には出さずに共有できる誰かがいる。君はひとりぼっちではない。
 そうして僕は、僕を抱きしめる君を抱き返して、君を抱き返せる腕と強さがあることに、今は心の底から感謝する。君はひとりではない。と言うことは、僕もひとりではないと言うことだ。
 君はひとりではない。僕はひとりではない。僕らは、ひとりぼっちではない。
 誰かを抱きしめることは、誰かに抱きしめてもらうことだ。誰かを抱き返すことは、誰かに抱き返してもらうことだ。
 君でさえ、ひとりには耐えられない。耐えて来たと思う孤独に、僕はもう耐える気すらない。君には僕がいる。僕には君がいる。
 触れる君の体はいつもあたたかい。まだ完全には回復せずに、君よりも体温の低い僕の体も、それでも充分にあたたかいのだろう。
 ひとりきりではわからない、自分の、そしてひとの体のあたたかさ。体の外に流れ出ればすぐに冷える血とは違う、生きている限りあたたかいままの、ひとの体。
 君が僕を抱きしめる。力の限り。折れる骨や痛みを心配せずに、君が抱きしめられる僕の体。拒絶を心配せずに、僕が抱きしめられる君の体。ひとりひとりの僕らは、ひとりぼっちではなく、抱き寄せれば互いにあたたかいと互いに思い知って、そのぬくもりを惜しんで、抱き合う腕をいつまでもゆるめられない。
 息をひとつつく。君の肩に向かって。肩甲骨にいっそう強く食い込む、君の掌。制服に跡が残るほど、君が僕を強く抱きしめる。
 やっと決心がついて、そろそろ腕をゆるめてくれないかと言う代わりに、僕は承太郎の靴の先を、自分の靴の先で軽く蹴った。蹴ったその爪先を、承太郎が軽く踏みつけて来る。
 もう少しこの姿勢が続くのだと思って、観念して、両腕を回していた承太郎の首に、もう少し強くしがみついた。
 視界の端に細く見える空が、どこまでも青い。

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