ふたりの恋


 チャンスさえあれば、いつもこうしているのに、いつまで経っても慣れるということがない。
 抱き寄せられて、服を脱いで---主には、脱がされて---、これ以上はないほど、呼吸を近くに寄せて、親密さの表現というものを、本で得た知識の中で知ってはいても、それが自分の身に起こるということは、まったくの別物だ。
 あれこれと想像していたことなど、何の役にも立たない。ぎこちなさばかりで、互いに戸惑うしかなく、それでも、触れ合いたいという気持ちには勝てずに、なだれ込むように抱き合ってしまったのが最初だった。
 何事にも、こだわらないというのか屈託がないというのか、慣れていないというだけのぎこちなさは回数で解消し、承太郎は、今では花京院を抱き寄せるのに、何のためらいも見せない。どういう状況であれ、求め合っているなら、それを表現したいと思うのは至極健康的なことだと、その辺りは半分は日本人ではないせいなのか。
 極めて真っ当---と、心底思う---に、丸ごと日本人として育てられた花京院は、何よりもまず、自分がまだ若すぎるのではないかと、後ろめたさを消せない。もう少し待つべきだったのだと、今でも時折考える。急ぎすぎてしまったとは思わないけれど、もう少し、きちんと悩んでも良かったのではないかと、結局承太郎との勢いに流されることを選んでしまった自分の意志薄弱を、心のどこかで後悔している。
 それはきっと、承太郎といる時の自分が、自分ではないように思えるからなのだろう。
 誰も知らない、育ててくれた親には、決して知られたくない自分だ。
 承太郎の煙草の匂いを、実は好ましく思っているとか、裸でろくでもない格好でいるのが、平気になってしまっているとか、承太郎の裸の背中を、もう照れずに凝視できるとか、そんな、以前では考えられない自分だ。
 服を脱ぐというのは、裸になるということだけではなくて、そうして、裸で誰かと抱き合うというのは、ただ親しいという表現というだけではなく、それが、お互いに心の外側に鎧った殻を、1枚1枚脱ぎ捨ててゆくことなのだと、花京院は初めて知った。
 恐ろしいほど剥き出しになった花京院を、承太郎は、何の躊躇もなく見下ろして、そして剥き出しになった自分を見つめられるのに、何の恐れもないらしい。
 こんな時さえ強い人間だと、表も中も、見たままの承太郎の真っ直ぐさを、花京院は心のどこかでうらやましいと思った。
 体に残る傷跡のせいだけではなくて、明るいところで体を見られたくはない。背中さえ、長い間見つめられるのは苦手だ。
 それでも、承太郎に触れたい、触れられたいという気持ちには勝てずに、気恥ずかしさや戸惑いをどこかに置き去りにして、その腕の中でほどけてゆく。
 承太郎の、大きな掌が触れる。撫でて、体の線に沿って、すべての触感で花京院を覚えておこうとするように、その後を、唇が追う。
 皮膚や筋肉や粘膜やありとあらゆるところをこすり合わせながら、噴き出してくる熱に、ふたり一緒に融けてゆく。
 酸素不足の魚のように、ぱくぱくと口を開けて、花京院はただ承太郎にしがみつくだけだ。承太郎は、今ではすっかり慣れてしまった仕草で、花京院を抱き返す。そうして、ひどく鷹揚に、穏やかな口づけをくれる。
 自分だけが必死になっているような気がして、我に返ってからまれに、みじめな気分になることもあった。
 躯が繋がるということに、溺れてゆく自分がいやだった。まるで、それだけで承太郎に魅かれているような気がして、自分が許せない気がした。
 けれど冷静になって考えてみれば、それだけではないのは自明の理で、それでも、こうやって躯を繋ぐことを覚えて、それが当たり前になってしまえば、ほんとうにこれでいいのだろうかと、また繰り返す問いが頭の隅に浮かぶ。
 いつまで経っても体を硬張らせたまま、ただ導かれるしか能のない自分の上で、承太郎はこんなことを、存分に愉しんでいるように見える。それが承太郎の性分なのか、それとも、自分が相手だからなのか、もちろん恋をしている花京院は、後者だと思いたがっている自分を、思い上がりだと戒めるのに余念がない。
 正直なことを言えば、この類いのことに興味がないわけはなく、けれどまだ抜け出せない思春期特有の潔癖さが、どこかで花京院を押しとどめて、責めている。大人だと胸を張るには、まだ少し何か足りない、そんな自分の年頃を、花京院はちゃんと自覚している。
 それでも、承太郎に触れるのをやめられない。触れれば触れた分だけ、もっと触れたいと思う。いつだって足りなくて、心の中でひとり焦れている。
 互いを欲しいと思っているのに、うそはないはずだ。承太郎も、同じくらい、花京院を欲しがっている。それだけは確かだと、いつも自分に言い聞かせている。
 誰かを好きになるということは、とても難しい。なぜなら、それは突然、ただ起こってしまうことだからだ。好きになるのではなくて、そう気づいた時には、もうすでにそうなってしまっているからだ。なるという段階は、もう目には見えないし、感じることもできない。そう感じた時には、それはすでに起こってしまっていることだからだ。
 そして、好きだということを、やめることはさらに難しい。その人を好きであることをやめようとするのは、好きになろうとすることの、何倍も難しい。やめようと努力したところで、ほんとうにやめることができるのが一体いつなのか、誰にもわからない。
 だから、花京院は、承太郎を求めることをやめられない。
 恋の始まりが、驚くほど唐突であること以上に、恋の終わりも、ある日突然に訪れるのかもしれない。恋をしている当人たちには、その日を予言することなど不可能だし、そもそもそんな日が、来るとも思わないのが恋だ。
 自分が自覚する以上に、承太郎を好きなのだと、認めてしまえば、まるで片思いになってしまうような気がして、花京院はそこで足を止めている。承太郎が自分を好きだというよりも、自分の方が承太郎を好きなのだと、あっさりと認めてしまうのは業腹だ。
 片思いではない。大っぴらにしてしまえば、間違いなく両思いのはずなのに、自分だけが振り回されているような気がして、何だか承太郎に負けるような気がするのが、悔しくて仕方がない。
 好きだと、言葉で言うよりも、抱き合うことが先だった始まりだ。
 抱きしめる承太郎の腕が、雄弁に胸の内を語っていたし、その腕に抗わないことで、花京院は自分の想いを打ち明けていた。そうやって伝え合った、ふたりの恋だった。
 汗と熱を混ぜて、呼吸を重ねる。使うことに慣れ親しんだ言葉ではなくて、いまだ使い慣れない互いの躯で、ひそやかに語り合う。上手く話せているのかどうか、承太郎に、言いたいことがすべて伝わっているのか、わからないまま、承太郎が注いでくる言葉をただ受けとめるのに、花京院は必死だ。
 誰かを好きだと気づいて、その誰かも自分を好きだとわかって、その先がまだあるのだと、承太郎に出会うまで知らなかった。
 語る言葉を尽くしても伝わらないことが、ただ掌を重ねただけで伝わることもある。目は、ほんとうに口ほどに物を言うのだ。
 承太郎がいなければ、学べなかったことだ。
 そして、生まれてから今まで、必死で守って来た自分自身を、失ってもいいと思える自分がいる。それほど自分を愚かにする承太郎との恋を、花京院は憎みさえする。
 自分が悪いのか、承太郎が悪いのか、どちらとも決められず、決めたいと思っていない自分が、また情けない。
 こんなにも、承太郎に恋をしている。
 汗に濡れた裸のまま、承太郎の腕から抜け出して、花京院は、承太郎の上着に手を伸ばした。
 片手にずしりと重いそれは、取り上げれば襟から垂れた鎖が鳴る。揺れるそれをうっすらと笑って、花京院は、いいかと訊きもせずに、するりと袖に腕を通した。
 立ち上がれば引きずりそうに長い裾が、今は腿の辺りを覆っている。ひやりと冷たい裏地は、もう花京院の膚にぬくもり始めていた。
 「寒いのか。」
 隣りで、また寝そべったままの承太郎が訊く。
 背中でそれを聞いて、いいやと、振り返らないまま答えた。
 袖が少々長すぎる、肩も広すぎる、首回りも余る、そして、煙草の匂いがする。前をかき合わせて、自分を抱くように、両腕を胸の前に回して、制服の胸元にあごを埋めた。
 制服の中へ言うように、花京院はそこでつぶやいた。
 「・・・君のせいだからな。」
 聞こえたのか---聞かせるつもりは、あまりなかった---、承太郎がのそりと起き上がって、花京院を後ろから抱きしめてくる。固い襟をかき分けて、首や肩口に触れようとするのを、助けるように花京院は喉を反らした。
 こんなにも深い、激しい恋だ。その深さも激しさも、言葉で伝えたことはなくても、きっと承太郎には伝わっているのだろう。そうでなかったら、こんなにも愚かを剥き出しにした甲斐がない。
 承太郎の胸に添いながら、承太郎と、承太郎の制服に包まれて、斜め上に首をねじる。口づけを期待して目を閉じてしまった承太郎には、好きだと形作った、花京院の唇は見えなかった。


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