傘の中
花京院は、ちょうど図書館から出て来たところだった。片手に、借りたばかりらしいハードカバーの本と、同じ方の脇には教科書が全部きちんと入っていそうな学生かばんを挟んで、
「おい。」
4歩手前から声を掛けた承太郎の方へ、廊下へ軽くしゃがみ込むようにしながら、顔を斜めに上げる。横に広い唇が、薄い微笑みにいっそう拡がった。
始業前と昼休みと放課後は、花京院はたいてい図書館にいた。本を借りたり返したりした後で時間があれば、煙草を吸うために屋上へいる承太郎のところへやって来る。今日はなかなか姿を現さず、どうしたかと承太郎の方が図書館へ足を運んで来たと言うわけだ。
「本を探すのに少し手間取ったんだ。」
手にした本の表紙をいとおしそうに眺めて、花京院が言う。
「どっかで倒れてんじゃねえかと思ってたぜ。」
「まさか。」
真顔でぼやく承太郎に、笑いを混ぜて返して、それでもまだ頬に赤みが差すと言う顔色ではなく、もしかしてこれが花京院の尋常なのかとも思うけれど、知り合って1年にもはるかに足りない付き合いでは、その判断も心許ない。
花京院は廊下に完全にしゃがみ込み、そこにかばんを置いてかぶせのふたを開いた。大事な本は、今は腹と膝の間だ。
立ったまま見下ろしても、花京院のかばんの中は学生らしく本とノートでみっちりと詰まって膨らみ、今承太郎が脇に挟んでいる薄っぺらなかばんと、同じものとはとても思えない。
やれやれだぜ。自分とは違い、ごく真っ当な優等生の花京院の、そういうところをやや嫌味にも感じながら承太郎は、何とか借りた本をかばんの中に詰め込んでしまおうとしている花京院の手元を眺め下ろしている。
教科書を1、2冊取り出し、ペンケースの位置を変え、そして折り畳みの傘をかばんの底から取り出して全体の配置を整えて、やっとわずか空いた隙間に、本たちを傷めないようにしながら丁寧な、手つきで図書館の本を滑り込ませた。
傘は外に出したままかばんのふたを閉め、花京院がやっとすべてを携えて承太郎の目の前に立ち上がる。
「なんで傘なんか持って来てる。」
「予報で雨だって言ってたし、今日は傷が痛むから間違いなく降るだろうと思ったんだ。」
道理でかばんがさらに重そうなわけだ。予報も気にしなければ、傘を持ち歩くことなど考えもしない承太郎は、花京院の用意周到さに、八つ当たりのように鼻白んだ。
「腹、痛ぇのか。」
「──いつものことだ。」
また花京院がにっこり笑う。承太郎は心配のせいで思わず声をひそめた自分にひとりで照れて、帽子のつばをちょっと引き下ろす。
「行こう。」
花京院が、承太郎を促して歩き出す。狭い廊下は、ふたりが肩を並べると半分以上いっぱいになった。
確かに今日は、朝からずっと曇り空で、今降るか今降るかと言うほどではないけれど、頭上が何やら鬱陶しい天気だった。
弱音などほとんど聞いたことはないけれど、こんな日には確実に腹の傷跡が痛むらしく、背中まで抜けた大穴を何とか繋ぎ合わせて塞いだのだから、今こうして外見には何も分からず普通に過ごしているのが奇跡なのだと、治療をしたSPWの医療チームのリーダー格の医者が言う。花京院はそうですねとそれを受け流し、処方された鎮痛剤もあまり使わずに、まだ続く痛みにひっそり耐えている。
「歩けねえくらいになったらどうするんだ。」
「タクシーでも捕まえて家に帰るさ。痛みだけなら死なない。」
「──死なれてたまるか。」
正門を出て、空模様のせいですでに薄暗い道を、互いの家の方角へ向かって歩く。承太郎の足は、ごく自然に花京院に合わせてスピードを落としていた。
死ぬ死なないと言う軽口がこんな風に叩けるようになったことさえ、ふたりの間では明るいニュースだった。
PW直属の病院からの退院が、"24時間の監視や看護がなくても死にはしないと言う状態になった"と言うだけのことだったと、花京院が誰より身に染みて思い知っている。だからこそ今ふたりがこうして学校からの帰り道に肩を並べて、空模様を気にしながら死ぬ死なないと言うことを冗談にできるのは、ほんとうに信じがたいことだった。
不意に花京院が、あ、と小さく声を立てて、空へ向かって掌を差し出す仕草をする。
「やっぱり降り出したな。」
脇に挟んでいた折り畳み傘をさっさと開いて、当然のように承太郎へも差し掛ける。
「大した降りじゃねえ。」
頭上へかぶさって来た傘を、鼻先にしわを寄せて避けながら、承太郎は帽子のつばの陰から空を見上げた。花京院はそれでも傘の端をきちんと承太郎の頭の上へ持ち上げ、一緒に中に入るように爪先を滑り寄せる。
「それでも濡れたら体が冷える。」
「ふたり分じゃあ、どっちにせよ濡れちまうじゃねえか。」
「僕だけ差して歩けるもんか。」
承太郎の遠慮をすっぱりと切り捨てて、傘の中で承太郎の肩を押すようにしながら、花京院はそのまま歩き出した。
男物とは言え、ひとりは伸び盛りとひとりはもうすっかり育ち切っているように見える高校生男子ふたり、花京院の傘は確かに狭い。外側へはみ出す肩とは対照的に、ふたりのもう一方の肩は、傘の中でほとんどぶつかりそうに近づいていた。
「おい、てめーのかばん、中に入れろ。」
自分たちふたりへ差し掛けるために、内側になる手で傘を持てばかばんを持つ手は当然傘の外へ出る。言いながらもうそれに手を伸ばして、承太郎はさっさと花京院のかばんを自分の手へ奪い取った。
そうして、花京院が自分の背に合わせて傘を持ち上げているのにも気づいて、承太郎は傘もさらに奪おうとした。
「おい何だ承太郎。」
意図をすぐには悟らずに、ちょっと抗う花京院と、狭い傘の中でちょっと争う羽目になる。
「傘とてめーのかばんはおれが持つ。てめーはおれのかばんを持て。」
今は空の弁当箱と筆箱とノートくらいしか入っていない、あれこれ細工して元よりもっと薄くしてある承太郎のかばんを、押しつけられた胸元で抱えて、花京院はちょっと憮然とした。
「両手が塞がると、煙草が吸えないぞ承太郎。」
う、と、承太郎が 咄嗟に言葉に詰まる。それでも体勢を立て直し、考えるのにわずか3秒。
「・・・腕がもう2本ありゃ問題ねえ。」
言うが早いか、もう背後には薄青い影が立ち、透けて見えるそれは承太郎の上着の胸ポケットから煙草の箱を取り出した。
「スタンドの無駄遣いもいいところだな。気の毒に、スター・プラチナ。」
小さくため息をこぼして、花京院が、自分たちにしか見えない青い膚の巨人に向かってつぶやく。
承太郎のために煙草に火まで点けて、箱もライターもまたポケットに戻してから、スター・プラチナは雨と同じほど音もなく姿を消した。承太郎はそうしてから、傘を右手に花京院のかばんを左手に、煙草を唇から外す手がまだ足りないことに気づく。傘の中で向き合う形になって、花京院もそれに気づいて、さらに深いため息をこぼした。
「・・・傘は今だけ僕が持とう。君はゆっくり煙草を吸うといい。」
花京院が手を伸ばすと、承太郎は素直に傘を手渡して、それからやっと空いた手に煙草を取り、ふうっと煙を吐いた。
煙越しに承太郎を眺めて、花京院がおかしそうに笑う。また煙草を口元へ戻しながら、なんだと承太郎は目顔で訊いた。
「いや、傘を差して煙草を吸うって、何だか面白い絵面だなと思って。」
「何が面白えんだ。」
「雨と煙草って──いや、何でもない、煙草が濡れないように気をつけろ承太郎。」
あるとも知れない風の向きで、承太郎の顔へ雨が降り掛からないように、花京院はもっと近く承太郎に寄って傘を傾けた。
雨を遮る傘に、雨粒がぱらぱらと当たり、まるで調子の外れた音楽のように聞こえる。その音に耳でも澄ましているように、ふたりは無言で向き合っていた。
体はできるだけ濡れないように、かばんは傘の中央に避難させて、その丸い小さな空間に寄り添うふたりは、どこか世界から隔離されたような風情で、人通りもない狭い通りは、学校の廊下同様、ふたりがいればほとんどいっぱいだ。
ふたりの足元だけ、いびつな丸に濡れないまま、陽射しのない歩道で、承太郎の煙草の火だけが妙に明るい。
何か、違う次元に飛ばされ閉じ込められたように、ふたりは傘の中で、小さく縮んだ世界で自分たちだけが元のままの大きさのように感じて、足でも動かせばその下で何かや誰かを踏み潰してしまいそうな、そんな埒もないことを想像していた。
滴る雨の雫に閉じ込められ、そこからさらに傘の中に雨を避けて、ここは花京院の部屋でも承太郎の部屋でもなかったけれど、なぜかふたりきり、他の誰も存在しない空間のように思えた。
雨も傘も、小さな世界を作ってそこに人を閉じ込める。永遠に抜け出せなくても、ひとりではないなら、目の前にいる誰かが一緒なら構わないと、静かに降る雨はそんな風に思わせる。
「──花京院。」
静けさを破って、煙を吐くついでのように、承太郎が口を開いた。
「何だ承太郎。」
不意に耳の中になだれ込んで来た承太郎の声──大声ではないのに──に、一瞬肩でも叩かれたようにちょっと顎の先を軽く振って、花京院は数回瞬きをする。
「今度雨が降ったら、おれん家に寄って行け。服が乾くまで休んで行け。」
足元から、湿りと冷えが這い上がり始めていた。傘の中はうっすらと煙草の煙で白っぽくなり、その向こうの承太郎の瞳がそれを易々と透き通らせて、ひどく熱っぽく花京院を見つめて来る。ぶるっと花京院の肩が震えたのは、冷えたせいではなかったけれど、今はそのせいだと思い込むことにした。
「そろそろ行こう。寒くなって来た。」
承太郎の言ったことには格別の返事は返さず、花京院は煙草を終わらせろと言外に告げて、これからゆく先へ視線を向ける。
「寒けりゃ、家(うち)に寄って風呂入ってあったまってから帰るか。ついでに泊まって行け。」
その花京院を引き止めるように、承太郎が早口に言葉を続けた。
呆れた表情をわざわざ作って目を細め、花京院は内心の、奇妙に弾んだ気分を押し隠して、
「──行こう承太郎。体が冷えると痛むんだ。」
わざと硬い優等生めいた口振りで、承太郎の言うことなど受け流した風に見せる。
「今、痛ぇのか。」
煙草は傘の外に投げて、今度は心配そうな表情も声も隠さず、承太郎が重ねて訊く。その声音に、花京院はもう無表情を保てずに、唇の端を一度小さく落としてから、改めて苦笑いをそこへ刷いた。
「ああ、少し痛い。」
正直に言った途端に、顔色まで悪くなったのが自分で分かる。承太郎には、隠しても無駄だ。そして多分、あえて隠したいと言う気分も弱くなる。
承太郎は花京院の手から再び傘を取り上げ、自分はそこから体半分以上はみ出して、花京院をできるだけ中へ入れた。
「明日は晴れるといいな。」
承太郎の声が、傘の中で奇妙にこもり、別人のそれのように優しく響く。
また歩き出して、歩調はさらにゆっくりに、もうぶつかる肩も気にならない。
相変わらず人影のない道路の上で、傘の中も変わらずふたりきり切り取られた空間のようだった。
「次の時は、君のところに寄り道させてもらうよ。」
承太郎の薄いかばんを脇に抱え込みながら、うつむいた隙にそう言ってみた。聞こえなければいいと思ったのに、おう、と承太郎が小さく応えて来る。
雨は、強くもならず弱くもならず降り続いている。ふたり分の足音がそこへ混ざる。傘の中で、かすかに残ってまといつく承太郎の煙草の匂いに、花京院はひとり穏やかに目を細めた。