非現実的な5つの風景@空想残骸


地図にない道


 「こんなことになるとは思わなかったな。」
 ベッドの上で、花京院が苦笑する。
 横たわったまま、首を回すだけが精一杯の、まだ弱々しい笑顔だ。
 腕を動かして物をつかむくらいはできるけれど、少しでも体を起こそうとしたり足を大きく曲げ伸ばししたりすることは、塞いだばかりの腹の大穴にひどく響くらしい。
 自力で寝返りを打つこともできず、しばらくは何もかも人の手に頼ることになる。
 「人間、最悪のことは想像しても、その手前のことは考えねえもんだ。」
 「ほんとうにそうだ。」
 腕に刺さった点滴は強い鎮痛剤だそうで、これが効いている時、花京院は時々舌の回りが怪しくなる。
 顔色はお世辞にもいいとは言い難かったけれど、それでももう死人の顔色ではなく、体のどこに触れようと傷に響くと言われて、承太郎は仕方なく薄い上掛けの下に手を差し入れ、そこでそっと花京院の手に触れているだけで満足していた。
 ほんとうは、しゃべるのすら腹筋に響くと言って、長く続く会話は医者から禁じられていた。喉からしか出せない声が、どうしても細くかすれがちになる。聞こえにくいというのを言い訳にして、承太郎はほとんど覆いかぶさるように、花京院に顔を近づけていた。
 こんなところを人に見られても、死線を一緒にくぐり抜けた──ほんとうのことだった──間柄と言えば、ふたりの親しさを誰もが納得する。それ以上のことがあるのだと、隠したくないと思うのは承太郎の幼さだった。
 それを咎めることも諫めることもしないのは、花京院の、あまりはっきりとは表さない心細さのせいだ。
 一度は死んだという傷が、今はともかくもきちんと縫い合わされ、花京院の体は完全ではなくても元通りになっている。けれどすさまじい痛みに始終襲われ、それにひとりきりで耐えなければならない今、承太郎がこうやって人目はばからずに傍にいてくれるのが、ただひたすらにありがたかった。
 「こんな怪我をする予定じゃなかったんだが。」
 「そんな予定があってたまるか。」
 「・・・死ぬ覚悟はしていたが・・・こんな風に生き延びる覚悟はしていなかった。」
 まぶたが重そうに細かく上下している。鎮痛剤のせいで、眠気に襲われているのだとわかる。承太郎は音もなく落ちる点滴の滴りに視線を流してから、上掛けの下で花京院の指に自分の指を絡めた。
 「・・・痛むか。」
 指先を握り込みながら訊くと、いいやと言葉で応えて、花京院がまた薄く微笑む。
 眠気に朦朧とし始めて、花京院の言葉はどこまでがほんとうでどこからが気使いの嘘か、そろそろ承太郎には聞き分けがたくなって来る。
 眠ってしまえば、しばらくは寝顔を見守って、承太郎はこの病室を出て自分の家へ帰る。ここから動くことのできない花京院を毎日見舞うのだと心に決めて、それは今のところ律儀にきちんと守られていた。
 その約束を破ることはないと、予定通りに進む人生などないと心の中で思いながら、承太郎はまた誓いを新たにするように考えた。
 何もかもが、予定外で予想外の旅だった。進む道を示す地図はあったけれど、そこに記された何も役には立たず、結局は手探りで進むしかなかった旅だった。
 そうして、それを忌々しく思いながら、心の片隅で楽しんでいたのも事実だ。ひどく奇妙な、確かに恐ろしいだけではなかった、ほんとうに不思議な冒険の旅だった。
 まだするりとひとり普通の日々に戻ることができず、普通とは程遠い花京院の傍にとどまって、承太郎はいまだ続く予定外の成り行きを、息をひそめて見守っている。
 見つめている間に、まぶたが動かなくなり、呼吸も間遠になり始めた。
 握っていた指先から力が抜け、すっかり寝入ってしまったのだと気づいてから、承太郎はまたそっとその手を握り直す。
 あたたかく乾いたその手に、承太郎はもう一方の手も添えて、そのままゆっくりベッドの上に体を伸ばした。
 ドアの外に気配がないのを確かめてから、小さくて深い呼吸に、自分の唇をかぶせてゆく。
 神経質に消毒され調整され管理された空気が、そこでだけわずかに湿り、急にひとらしさを取り戻す。いろんなものが足りずに今はひび割れてしまっている唇を、承太郎は自分の唇でそっと撫でた。
 「おれも、こんな風にてめーに惚れるとは思ってなかったぜ。」
 それも、予定にはなかったことだ。
 ふたりで歩いてゆく先に、道しるべは見えない。道すらない。それは、ふたりで歩く足の下に、ふたりが作るべきものなのだろう。
 できたその道に、名前があるとは思えなかったから、白紙のままのふたりの地図は、これからも白紙のままなのかもしれないと、承太郎は少しばかり感傷的になりながら思う。
 それでも、こうして繋いだ手を離さずにいれば、いつかどこかで、何かに出逢うのかもしれない。
 何が起こるかわからないから面白いのだと、やっと体を起こし、花京院から手を離し、帽子のつばにかけた指の陰で、承太郎はいつもの不遜な笑みをもらす。
 「また明日な。」
 聞こえているとは思わずに、承太郎は微笑んだまま言って、長い制服の裾をひるがえしながら病室を出るために広い肩を回した。


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