The Version


 いつもの、穏やかな週末の午後だった。
 急ぎの課題もない。まだもう少しだけ、月曜まで時間がある。夕方ではなく、昼の騒がしさはややおさまって、ただとろとろと、微睡みを楽しむには、最高の時間に思えた。
 花京院は、珍しくゲームの機械に手は触れず、床に座った承太郎の膝に頭を乗せて、子守唄のように流れているStingのアルバム---LPだ---に耳を傾けて、ひどく贅沢な怠惰を楽しんでいる。
 承太郎はさっきまで読んでいた本を床に置き、花京院の髪を撫でるのに腐心していた。
 承太郎の指先や髪や着ている服から、煙草の匂いがしなくなって、もうずいぶんになる。それを、時折懐かしく思うのを、花京院は不思議に思っていて、今頬を乗せている承太郎の古いジーンズから、ほんのわずかに、その懐かしい匂いがするのを、寝息のように思わせて、こっそり胸深く吸い込んでいる。
 煙草の匂いは、いまだ承太郎自身に結びついていて、あの悪癖---と世間は言うし、花京院も、それには素直に同意している---と、承太郎がきっぱり縁を切ったことに、心の底から感謝しているというのに、あの匂いをさせていない承太郎に向かって、ふと苦笑いをしてしまうことがあった。
 あれは、花京院と一緒にエジプトへ行った、17歳の承太郎だ。裾の長い学生服を着て、じゃらりと太い鎖を垂らし、何もかもをねめつけるような、鋭い視線を辺りにまき散らしていた、あれは、花京院の記憶の最初にある、まだ17歳だった承太郎だ。
 Stingのアルバムは、半ばを過ぎようとしていた。承太郎の膝の上で軽く寝返りを打って、花京院は、承太郎を真上に見上げる形に、視線の位置を整えた。
 太い首と、実は線の細いあごが見える。そこから、ふっくらと形の良い唇が、細めた視線の先で、かすかに開いていた。
 このまま寝入ってしまっても、承太郎はきっと、花京院が目覚めるまで、動かずにいてくれるのだろう。承太郎の膝の上で夢を見るのも悪くないと、そう思って、花京院は、真正面を向いたままの承太郎の首筋の辺りを眺めながら、うっすらと笑う。
 あの頃は、似ていることばかり数えていた。日本語を話す日本人で、高校生で、学生服に妙に執着していて、偶然、どちらのそれも、裾が長かった。
 ふたりとも、本を読むのが好きだったし、音楽が好きで、誕生日が半年しか違わなければ、共通の話題が多いのも当然のことではあった。
 旅の間に、ありとあらゆることを語り合ったと思っていたけれど、旅が終わって日本へ帰って、ごく普通の日常生活に戻った時に、そうではなかったことは、じきに明らかになった。
 本は好きだったけれど、好きな作家は違ったし、好きな音楽の種類も違った。花京院は絵を描いたけれど、承太郎はギターを弾いた。学生服のサイズも違えば、靴の大きさも違う。同じスタンド使いでも、スタンドのタイプもまるで違ったから、結局のところ、ふたりの共通点は、日本語を使う日本人高校生だということだけのように思えて、その高校生という点も、春を迎えて承太郎が卒業してしまうと、同じだと数えることはできなくなってしまった。
 承太郎が煙草をやめたのは、ちょうどその頃だ。
 違いばかりのふたりの間で、少なくともひとつ、共通点が増えたことになった。
 「承太郎。」
 まどろんでいた振りの薄目を開いて、花京院は、承太郎のあごに向かって掌を伸ばす。指先で撫でると、まるで猫のように、今度は承太郎が、喉を伸ばして目を細める。
 「レコードを替えても構わない。君は、クラプトンの方がいいんだろう?」
 今流れているのは、"It's Probably Me"の、アルバムのバージョンの方だ。同じ曲の違うアレンジの方---映画の主題歌に使われた---は、承太郎が大好きな、かのエリック・クラプトンがギターを弾いている。そちらは、花京院のお気に入りではないし、こちらは承太郎の好みではない。
 承太郎が、花京院を下目に見て、ちょっと左の眉の端を上げる。
 「これも悪くねえ。」
 そう言った声は、嘘を言っているようではなく、花京院は、思わず承太郎の膝から、頭を浮かせた。
 「そうかい?」
 おう、とまた真正面に視線の位置を戻した承太郎が、短く返すのに、まだ数秒、わずかに驚きの色を浮かべた瞳をすえたまま、花京院は、ようやく肩の力を抜いて、承太郎の膝へ戻る。
 それから、ふと思いついて、そこから体を起こし、承太郎の首に、両腕を巻きつけた。
 抗議ではなく、珍しい花京院の振る舞いに、ただ驚いた声を上げて、けれど承太郎は、素直に花京院が自分を敷き倒す腕に従う。
 重ねた唇の間で、何か声が聞こえたけれど、花京院はそれをわざわざ聞き返すことはしなかった。
 差異も共通点も、何もかもが、どうしようもなくいとおしいのだと気づいたのは、まだ、承太郎から煙草の匂いが消えない頃だったと思う。
 今では、花京院同様、煙草になど、目をくれることもしない承太郎の唇の奥を舌先で探りながら、伸ばした足をそっと絡めた。
 裸足の爪先が触れる。素肌に触れるのを急ぐ気はなく、自分を抱き返してくる承太郎の腕に添って、花京院は体の力を抜いた。
 煙草を喫ってみようかと思ってるんだ。以前、君がそうしていたように。
 ずっと、頭の中でだけ考えていることを、口づけの中に、こっそりとつぶやいてみた。承太郎には、まだ伝える気のないつぶやきだった。あの懐かしい匂いをさせるようになったら、承太郎は驚くだろうかと、硬い背骨に指を滑らせて、そろそろと、シャツの中へ手の先を滑り込ませてゆく。
 レコードの針が、ぷつりと音を立てて、アルバムの最後を教えてくれる。それが合図のように、承太郎が花京院を強く抱き寄せて、体の位置を入れ替えた。
 クラプトンのギターの音も悪くないなと、不意に思ったけれど、それを伝えるのは終わった後にしようと、花京院は声を殺して、承太郎にしがみついて行った。


* 2007年10月、イベントにて無料配布 *

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