ぬくもり



 寒い冬の夜、深夜を過ぎて、やっと暖まった布団から抜け出すのは、とても勇気がいる。
 すでに30分近く逡巡していて、我慢の限界は、もうそこまで来ていた。
 状況が改善される見込みは、限りなくゼロに近い。待てば待つほど、悪化するだけだと、わかっていても、暖かな布団から外へ出る気には、なかなかなれない。
 こんな時間だから、騒々しく足音を立てるわけにもいかないから、忍び足で、そろそろと行けば、時間も掛かる。切羽つまっていても、その程度の余裕はまだあるうちに、行動を起こさないと、ほんとうにまずいことになると、ようやく、しぶしぶ決心をつけて、掛け布団を跳ねのけた。
 襲ってくる冷気に、ぎゅっと、全身の筋肉を縮めて、パジャマの腕を撫でながら、そろりそろりと、冷たい畳に爪先を滑らせる。音をさせずに襖を開けて、もっと寒い廊下に出ると、暗さのせいか、いつもよりも距離があるように思えて、花京院は、思わずうわあと声を出しそうになりながら、板張りの廊下を、爪先立ちで歩き出した。


 なるべく素早く、けれど足音はさせずに、そう思えば案外と時間が掛かって、すでに凍えてしまった肩を縮めて、ようやく部屋に戻ってくる。
 足裏がしびれるほど冷たくて、それを早く何とかしたくて、抜け出た時のままの布団に、爪先から滑り込む。残念ながら、主が去って、冬の深夜の冷気に晒された布団の中は、すでに冷えてしまっていて、花京院は、うわああああと、布団の端で口元を覆って、小さく叫び声を上げた。
 凍った足先が温まって、眠気を誘ってくれるようになる頃には、きっと夜が明ける。
 冬なんて大嫌いだと、冷えた布団の中で手足を縮めて、胎児のように体を丸めた。
 早く暖まれと、大きく息を吐きながら、けれどそううまくは行かず、寒くて眠れなくて凍死したら、それはかなり恥ずかしい死に方かもしれないと、そんなことを自暴自棄気味に考える。
 眠れなくて寝返りを打って、花京院は、隣りの布団で、安らかな寝息を立てている承太郎の、こちらを向いた寝顔を、うっかりにらみつけた。
 長い手足を伸ばして、寒さなど感じてもいないふうに眠っている。
 今度の決断は、とても素早かった。
 花京院は、冷たい布団を抜け出すと、また足音を消して畳の上を滑るように歩いて、承太郎の布団へ忍び寄る。
 承太郎が、のびのびと眠れる、特注に違いない大きさの布団の端に、これも冷たい指先を、そっと乗せた。
 そうして、掛け布団の端をそろりと持ち上げると、承太郎の寝息をうかがいながら、全身をなるべく平たくして、爪先と肩先から、そこへ滑り込んでゆく。
 寝息と一緒に、かすかに動いている、承太郎の広い背中に向かって、花京院は、冷たい体を、すっぽりと収めに行った。
 承太郎の布団の中は、花京院の布団の中とは比べものにならないくらい暖かくて、花京院はやっと息をつくと、もっと深く顔を埋め込んで、承太郎が相変わらずきちんと眠っているのを確かめてから、思い切ったように、額と肩と胸と腹を、承太郎の背中に、ぴたりとくっつけた。
 うわあと、うっかり小さく声を上げてから、それでも承太郎が起きる様子がないのを良いことにして、花京院は、冷たい手を、承太郎の腰から腹へ回す。
 平たくて固い腹が、ゆっくりと上下している。薄いシャツ越しでも充分に暖かかったけれど、冷たい指先を早く温めたくて、花京院は、そろりとまくり上げたシャツの裾から、そっと掌を忍び込ませた。
 あったかいあったかいあったかい。唇を動かして、承太郎の体温への感動を示して、花京院は、ついに、凍えた爪先を、そろりそろり、承太郎の足へ近づけて行った。
 これも薄い布地の、部屋着のズボンの裾から、親指の爪先を忍び込ませようとした。
 ざらりとしたかかとに触れた途端、
 「・・・花京院、てめえ・・・」
 腹にじかに触れていた手を、承太郎がシャツの上から押さえて、全身が凍りつくような声を出す。
 「わ、わざとじゃなかったんだ。起こしたかい。」
 半分くらいはほんとうだったけれど、慌てて作った声が白々しくなるのは隠せない。
 「冷てえ足しやがって。」
 たった今目覚めたばかりの、少しかすれたざらざらした声で、承太郎が不機嫌につぶやく。
 ごめんよと、花京院は離れようとするけれど、承太郎は、つかんでいる花京院の手を離さない。
 それどころか、遠のいた花京院の足首を、自分の足の間から引き寄せて、ぶるっと肩を震わせながら、腿の間に挟み込んだ。
 「いいよ、君が寒くなるよ。」
 「寒いんなら、最初っから一緒に寝やがれ。」
 花京院に体温を奪われて、承太郎の腹の辺りが、すうっと冷えてゆく。けれどそれは数瞬のことで、じきにまた、承太郎の体は、花京院ごと温まってゆく。
 「だって、君とずっと一緒に寝てたら、ホリィさんに変に思われるじゃないか。」
 温められて、さっきまで感覚のなかった爪先に、しびれが戻ってくる。そこから、じわりじわりとぬくもりが伝わって、花京院は、いつのまにか、承太郎の背中に、全身でしがみついていた。
 「今さら自分の布団に戻る気かてめえ。」
 「・・・戻らないよ。」
 照れ隠しに承太郎の肩甲骨に頬をこすりつけて、顔が赤いのは、暖かいせいばかりではない。
 「寒かったから、僕が無理矢理一緒に寝たって、言うよ。」
 承太郎の布団は大きくて、花京院が一緒に寝ても、あまり窮屈ということはなさそうだった。
 「もっとこっちに寄れ。」
 花京院の手を握ったままで、承太郎が寝返りを打ってくる。 
 そうして、花京院の手を引いて、体の向きを変えさせると、花京院の背中に、自分の胸をぴったりとくっつけた。
 長い腕が花京院を抱き寄せて、腰も脚も重なって、それから、改めて花京院の、まだ冷たい爪先を絡め取る。
 「冷てえ・・・。」
 承太郎の唇が、うなじに触れた。
 唇は、湿っていて暖かくて、皮膚はまだ温まってはいないのに、躯の内側が熱くなる。
 「・・・ひとりじゃないと、寒くなくて、いいな。」
 うっかりつぶやくと、腰に回った承太郎の腕の輪が締まる。それに応えるように斜めに振り向くと、承太郎が、花京院の唇の端に、軽く触れた。
 「今頃気づいたか。」
 「君はひとりでもあったかいじゃないか。」
 「・・・そういうことを言ってるんじゃねえ。」
 花京院の、珍しい鈍さを笑うように、承太郎の厚い唇がちょっとだけ曲がる。
 そう言われて、やっと承太郎の真意を悟ると、花京院は唇をとがらせて、ちょっと抗うように肩を揺すった。
 「・・・このまま、寝かせてくれよ。」
 まるで懇願するように言った声が、逆に誘うようにかすれる。
 「起こしたのはてめーだろうが。」
 「わざとじゃなかったって、言ったろう。」
 「やかましい。」
 凍えていたのがうそのように、承太郎の腕の中ですっかり温まった全身を、花京院はまだ承太郎に沿わせている。足も手も絡めたまま、背中に感じる承太郎の呼吸に合わせて、いつのまにか、一緒に胸を上下させていた。
 「もう寝ろ。」
 あやすように、小さく、承太郎がささやいた。
 耳にかかる息に、寒いせいではなく肩を震わせて、花京院は目を閉じて、
 「おやすみ、承太郎。また明日。」
 「おう。」
 明日ではなくもう今日だと、そんな揚げ足は取らずに、花京院を抱きしめたままで、承太郎も目を閉じる。
 ぬくもりと睡魔が混沌と交じり合って、凍える季節だということも忘れそうに、冬の長い夜が明けるまで、もう少し時間があった。


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