贈る言葉



 夢の中で、これは夢だと、はっきりと自覚があった。
 ぼんやりとした、濁った、濃密な空気の中に漂っている感覚、浮きそうな足元に力も入れずに、承太郎は、ゆらゆらと手足を伸ばす。
 やあ、と、まるで朝の挨拶でもするように、花京院が、宙に浮いたままで、右手を上げた。
 おう、と、いつものようには声が出せず、夢の中だと言うのに、本気で驚いて、承太郎は、濃い深緑の瞳を大きく見開いた。
 空気の組成が、花京院の出現で変わりでもしたのか、薄暗さは増したというのに、頼りない足元には、今はしっかりと地面がある。
 「やあ、承太郎。」
 声が、ゆるく耳に届く。こんな声を聞くのは幾日ぶりだと、数えそうになった指を、掌の中に握り込む。
 変わらない。乱れのない髪と、血の流れた跡も、傷の跡もない、変わらない姿の花京院に、承太郎は、すでに懐かしげな表情で瞳を細める。
 そうしながら、ごく自然に、帰って来たのかと、彼に向かって腕を伸ばしかけていた。
 どこを、と、出そうとした声が喉の奥に張りついたので、承太郎は、音をさせずに静かに喉を上下させた。
 「どこを、うろちょろしていやがった、この馬鹿。」
 うまく、いつもの口調で憎まれ口が叩けた。そう狙った通り、花京院が微笑む。それもまた、変わらない表情だ。
 「もっと早く、会いに来たかったけど、君があんまり閉じ過ぎていたから。」
 承太郎の、伸ばした手には瞳も動かさない花京院の、抑えた声音に、尋常でないもの---当たり前、だ---を感じ取って、承太郎はさり気なく腕を、体の横に下げる。
 「君には、いろいろと伝えたいこともあったのに、そんな時間もなくてすまなかった。」
 少し、困ったような顔で、淀みのない口調なのに、言葉が途切れがちに、語尾がかすれる。閉じ過ぎていたという自分と、そして彼も、こじ開けて侵入して来るほどには、まだ覚悟がついてなかったということかと、承太郎は、自分に都合の良い解釈をしていた。
 当たり前だ。とても、時間のかかることのはずだ。
 こんなにも存在感のある姿なら、まだ遅くはないのかもしれない。まだ、その時は来ていないのかもしれない。目が覚めたら、すべてのことが、何もかもが夢で、花京院は、今よりももっと濃い姿で、やあ、おはよう承太郎と、右手を上げて見せるのかもしれない。
 そうあればいいと、ひどく幼稚なことを思う。
 承太郎は、花京院を見つめた後で、珍しく帽子のつばを深くかぶり直す代わりに、顔を背けて、視線を下に落とした。
 「おれは、結局、何もできなかった・・・。」
 形の良い眉を丸く上げて、花京院が笑う。かすかに、声を立てて。
 「そんなことはないよ。君は、世界を救ったじゃないか。DIOはもういない。それは、君が成したことだ。」
 「救った世界に、てめーがいねえ。おれは、てめーを救えなかった。」
 「そんなことは、ないよ、承太郎。」
 優しく名前を呼んで、花京院の笑みが、口元と目元で深くなる。
 「君は、僕を救ってくれた。僕の死に場所を作ってくれた。何かを成して死ぬという機会を、僕に与えてくれた。僕は、世界を救った君を救ったんだ。すごいことじゃないか?」
 わずかに眉の間を開いて、命のやり取りばかりだった旅の間には滅多と聞くことのなかった穏やかな声で、花京院が語り続ける。
 声が深まるにつれ、空気が、澄んで優しく香り始めたような気がした。
 「僕は、つまらない死に方をしなくてすんだ。僕は、後悔のまったくない死に方をすることができた。それは、君のおかげだ、承太郎。」
 だらりと下げていた手を、強く握る。まるで、誰かを撲るためのように、大きな拳を作って、承太郎は、足を踏みしめた。
 目の前にふわりと浮く花京院を、捕まえるためだったのかもしれない、スタープラチナを出現させようとしたのはまったくの無意識で、けれど力を込めたその背の後ろに、いつもの力強い姿が現れることはない。
 これは夢だ。
 絶望と失望の瞳に、まるで、花京院のスタンドを映す時のように、翠の影が一刷け濃くなる。あごを上げて、噛みつくように、承太郎は大きく口を開けた。
 「花京院、てめー、何をそんなに悟ってやがるッ! てめーは執念深いタチじゃなかったのか。そんな悟りくさったツラ出す前に、思う存分あがきやがれッ!」
 吠える承太郎に、花京院が面食らったように、少しあごを引く。細く見えるのは、とても形が良いせいだ。何度も触れて知っている承太郎は、そこから、横に広い唇に向かって、苦笑が浮かぶのを、深く息を吸いながら見た。
 「相変わらず君は、無茶ばかり言う・・・。」
 語尾が、微笑に紛れた。
 「ちったぁ悪あがきでもしやがれ、まだ死にたくねえって。あっさり悟り澄ますタマかてめーがッ。」
 花京院が浮かべ続ける微笑を、吹き飛ばすようにまた怒鳴る。声にこもるのは、けれど怒りなどではなくて。
 「てめーをロクでもねえことに巻き込みやがったおれを、ブン撲りに戻ってきやがれッ! 花京院ッ!!」
 叫ばなければ、泣き出していたかもしれないと、壊すばかりで慈しむことのできない自分の能力を、初めて少しだけ疎ましく思いながら、承太郎はその名を怒鳴った。
 「君とケンカはごめんだよ。かないっこない。」
 さらりと叫びを受け流して、また花京院が微笑む。
 承太郎、と、まるでなだめるように、深い声が名前を呼んだ。
 そこに浮かぶ微笑みは、確かに、人のものではない。穏やかで、うっすらと輝きを帯びていて、神などいると思ったことすらない承太郎にも、花京院が今どこへ属しているのかはっきりと思い知れるほど、穢れがない。
 「ほんとうだよ、承太郎、ほんとうなんだ。僕は、変な言い方だけど、死ぬほど満足して死んだんだ。失うことを厭わないくらい、満足したんだ。だから、頼む、自分を責めないでくれ。君は、僕を救ってくれたんだ。こんなに穏やかに死ねたくらいに、ものすごく、救ってくれたんだ。」
 だから、自分を責めるのはやめろと、花京院は重ねて、繰り返し言った。
 かすかに震えていた拳が、ゆっくりと落ちてゆく。奥歯を噛み締めたのは、言い返す言葉を飲み込むためではなくて、見せれば花京院が心配するだろう涙を、流さないためだった。
 流さない涙の代わりに、けれど言葉が、閉じているはずの唇からこぼれる。
 「・・・行くな、花京院・・・」
 拳を作っていた掌は、今は力なく開いて、常に誰よりも大きな体が、石ころほどに縮んでしまったように、承太郎は感じていた。
 「DIOを倒した、名実共に世界最強のスタンド使いにも、できないことがあるなんてうれしいな。君も、僕と同じように、ごく普通の人間なんだってわかって、うれしいよ承太郎。」
 すでに逝ってしまった花京院を、連れ戻すことは誰にもできない。スタープラチナも、何の役にも立たない。
 力で世界を救った後に、けれど破壊を直す力はないと、思い知らされるとは、考えてもみなかった。
 うれしいよ、承太郎。もう一度繰り返して、花京院の姿が、空気に紛れてゆく。
 あの、印象的な瞳の表情が、最後に、余韻のように残った空気の中で、承太郎は、地面を踏みしめてひとり悪あがきをする。
 「やれやれだぜ・・・。」
 不謹慎な口癖は、けれど送る言葉のように、引き下げる帽子のつばが、指先にひどく冷たいまま、まだ、目は覚めない。


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