君と僕


 その黒猫に出会ったのは、そのマンションに引っ越して、半年ほど経った頃だった。
 日曜の午後、散歩がてら本屋へ行った帰りに、マンションの階段の下で、いきなりどこからか姿を現して、花京院の足に頭をこすりつけ、やけにひとなつっこい猫だなと、そう思ったのが最初だった。
 とてもきれいな緑色の瞳に見上げられ、つい誘われたように、しゃがんで頭を撫でた。うれしそうに喉を伸ばしてくるから、そのまま撫で続けた。
 犬や猫は嫌いではなかったから、何となくその場を立ち去りがたくなって、抱き上げはしなかったけれど、ついておいでと手招きしながら、階段をゆっくりと上がり始めると、その黒猫は、とっとっとという足取りで、花京院の後をついて来た。
 そのまま部屋に招き入れたその日、黒猫は花京院にミルクをふるまわれて、夕方暗くなる頃までくつろいで行った。
 体の大きな、がっしりとした肩の、手足としっぽのすらりと長い、惚れ惚れするように凛々しい姿の黒猫は、もしゃもしゃとした毛並みが、外で過ごす時間が多いらしいことを表していて、首輪がないので飼い猫かどうかはわからない。また来るかなと、思いながら、花京院は階段を下りてゆく黒猫の後姿を見送った。
 それから、黒猫は、花京院の足音を聞き分けて部屋の前に現れるようになり、最初はミルクだけを出していたのだけれど、ある日ふと魔が差して、安いキャットフードを買ってしまい、それが空になるまでと自分に言い訳しながら、ついには猫のトイレまで用意する羽目になった。
 それでも、自分が飼っている猫、という認識は薄く、出たいと言えば外に出したし、丸1日姿を見かけなくても、あまり心配はしなかった。
 そんなつかず離れずの関係を、猫も気に入ったと見えて、広くはないマンションの中に特に文句を言うことはせず、冬も最中に入ると、あまり外にも出なくなった。
 黒猫に、承太郎という名をつけ、近くにある獣医に、自分の名前でその猫を登録---公的なものではないけれど---し、花京院承太郎くん、と行くたびに呼ばれるのに苦笑しながら、生まれて初めての猫との同居に、花京院はささやかな幸せを噛みしめている。


 本を読む花京院のそばに寝そべり、テレビを見ている花京院の膝に乗りたがり、トイレに行けば一緒に中に入りたがる。風呂だけは、水が大嫌いなようで、絶対に近寄らない。洗いたいと思ったこともあるけれど、承太郎の暴れ具合を想像して、いまだ永遠にかなえられない夢のままだ。
 外からやって来たのだから、こうやって一緒に暮らすことで奪ってしまった自由もあるはずだと、そう思って花京院は、承太郎に首輪をつけることはしなかった。飼い猫だとはっきりわかっていいだろうと思うと同時に、今以上の枷を、承太郎に負わせてしまうことに気が引けて、何より承太郎は、その姿のままとても気高く誇り高く見えたから、誰かの世話になっている飼い猫ですと、名乗りたくなんかないだろうと、そう思ったのだ。
 外からそう見えるようには、花京院は承太郎のことを飼っているなどとは思っていず、正確なところは、ほんとうに、一緒に暮らす同居人に近かった。どちらが世話をしているということはなく、そうしたくて一緒に暮らしているのだ。
 承太郎は、とても大きな声でよく鳴いた。鳴き方で、要求がはっきりわかるほど表現力豊かで、花京院はたまに、承太郎が猫だということが信じられなくなる。
 すぐそばにいる承太郎に、話しかける。その日あったことや、読んだ本の感想や、三日月の反り具合や、あるいは、新しく出たキャットフードだとか猫が出ているコマーシャルのことだとか。承太郎は、熱心という素振りはなく、ふんふんと花京院の話を聞いている。その内容がなんであろうと、花京院を軽蔑するような目つきをしたり、鼻で笑ったりなんか、絶対にしない。
 喉をごろごろ鳴らして、大きな体で花京院に乗りかかってくる。それを抱き上げて、花京院は一緒にキッチンに行く。
 人間の食べ物は体に悪いから、どれだけねだられてもやることはしない。賢い承太郎は、一度叱られれば同じことは繰り返さないけれど、それでもたまに、ポテトチップスを1枚盗まれたり、かつおぶしの袋が穴だらけで床に落ちていたり、カウンターの上にこぼしたミルクが、いつの間にかきれいになっていたり、そんなことがないわけでもない。
 花京院が紅茶をいれるのをじっと見つめて、ミルクを注ぐ時には、やはりふんふんと、無駄とわかっていても鼻先を近づけてくる。
 きちんと前後ろ足をきちんと全部揃えている、承太郎のやけに姿勢のいい姿が可愛らしくて、花京院は指先を少しだけミルクにひたし、白く濡れたそれを、承太郎の口元へ差し出す。匂いをかいだ後で、承太郎が、ピンクのざらつく舌で、花京院の指先を舐め始めた。
 半ば目を閉じて、一生懸命ミルクを舐め取り、ついでに花京院の手まで舐める。
 ざらざらとしたその感触に、くすぐったいよと笑って、花京院は承太郎の頭を撫でた。


 朝の4時頃、承太郎がベッドにやって来る。
 そのために完全には閉めない寝室のドアを抜けて、ひょいとベッドに飛び乗ると、しばらくそこで花京院を見下ろしてから、布団の中へ頭から入り込んで来る。
 花京院の体温にぬくまったその中で、ちょうど花京院の腹や脇の辺りに、くるりと体を丸めて落ち着く。背中のどこかを花京院に触れさせて、あたたかさに満足すると、そこで目を閉じる。
 かすかに目が覚めていれば、その承太郎を、花京院はそっと撫でる。手が触れた瞬間に、ごろごろと、喉を鳴らす音が布団の中に響く。その音を子守唄に、また花京院も眠りに落ち直す。
 花京院が起きなければならないの6時半なのだけれど、もうしばらくの間、目覚ましを使っていない。承太郎が、毎朝6時少し前に起こしてくれるからだ。親切なことだと言いたいところだけれど、どちらかと言えば余計なお世話に近い。
 花京院の胸の上に乗り、そこから前足を伸ばして、頬やら額やら喉やらを踏んでくる。顔はいいけれど、喉を踏まれると、場合によっては呼吸が止まる。ずっしりと重い承太郎の体重では、うっかり殺されかねない。
 回避のために、布団を頭までかぶろうとするけれど、承太郎がどっかりと乗っているから、引き上げるのにひと苦労だ。それでまず、半分以上目が覚める。
 花京院がまだ起き出さなければ、胸の上から一度下りて、布団の中へ鼻先を突っ込む。そして、ぬくぬくとあたたかい花京院の、パジャマの開いた首元に、ぴとっと濡れた鼻先をくっつける。夏はいいけれど、冬にこれをやられると、ショック死しかねないほど、冷たい。これで覚醒は、まず間違いない。
 それでもまだ起き出さない時は、承太郎は再び花京院の胸に乗り、そうして、長い体を伸ばして、まず花京院の唇を舐める。そのまま頬へ進み、今度は薄いまぶたを、ざりざりと舐める。花京院が起きるまで、執拗に舐め続ける。
 「痛い! 痛い承太郎!」
 今日も承太郎の勝ちだ。おかげで花京院は、毎朝ゆっくり朝食を取ることができる。承太郎も、時間通りに皿を空にすることができる。
 朝食が終われば、花京院は仕事に出掛けるために、パジャマを脱いで着替えを始める。脱いだパジャマは、ざっと整えたベッドの端に放って、花京院がネクタイをしめている間に、承太郎が、脱ぎたてでまだあたたかいその上で、二度寝の準備を始める。
 揃えた前足で足踏みするように、ぎゅっぎゅっとパジャマを何度も踏み、花京院が上着を着てカバンを探しに振り向く頃には、すっかりその上に落ち着いてしまっている。
 居心地良さげに、パジャマの上でころりと寝転がっている承太郎を見下ろして、花京院は思わず微笑む。そうして、どうしてもそうせずにはいられない気持ちで、承太郎に手を伸ばし、頭を撫でる。承太郎のおかげの早起きのせいで、そうする時間がちゃんとある。
 耳のつけ根を指先で軽くひっかいて、そのまま、あごの下を撫でる。気持ち良さそうに、承太郎が目を細める。
 「いいなあ、君は。」
 寝て過ごすのが、猫の仕事だ。これから出掛けなければならない花京院は、心底承太郎をうらやみながら、苦笑交じりにそう言った。
 花京院の掌に、惜しむようにまだ頭をすりつけて、承太郎がかすかに鳴く。ほとんど声の聞こえない、口だけが開いているように見える、そんな鳴き方だ。
 てめーもねこになりゃいいじゃねえか。
 そう言っているのは、花京院には届かないけれど、きっと伝わっているだろう。
 「行って来ます。」
 承太郎に手を振って、花京院が部屋を出て行く。滅多と見送りはしてくれないけれど、ただいまと帰った時には、必ず玄関にいてくれるから、それで満足だ。
 マンションの階段へ近づいたところで、スーツの肩に、承太郎の毛を見つける。それに笑いかけて、もったいないなあと思いながら、手を振って払い落とす。
 そうやって、花京院と承太郎の1日が、また始まる。


* 最中さまに無理矢理捧ぐ。黒猫万歳。

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