君と僕 A


 急に気温が下がって、部屋で本を読んでいると、手がかじかむようになった。
 熱い紅茶をいれて、そのカップで手を温めて、吐く息と湯気が混ざるのを、寒くなったなあと見つめながら、読んでいたページに戻る。
 ひとり暮らしの暖房というのは、なかなか厄介だ。
 自分のいるところだけ暖かければいいと、結局は厚着をするのがいちばん面倒がなく、実家では石油ストーブを使っていたけれど、火の元も灯油の扱いも心配だから、毛布を1枚、余計に買えばいいと、そんな風に落ち着いてしまうことになる。
 朝起きると、キッチンの床に爪先で飛び跳ね、白い息を吐きながら、とりあえず湯を沸かす。やかんの口から吹き出る湯気に両手をかざして、もっと寒そうな窓の外に目を細める。
 こんな花京院の部屋でも、黒猫の承太郎は、まだ孤高を保っていた。
 さすがに、木の肌が剥き出しの床に寝ていることは少なくなったけれど、花京院の脱いだ服や花京院の抜け出した後の布団や花京院が立ち上がった後の毛布の山の中や、そんなところに丸まって、寒いとわかるように不平を言うことはせずに、それでも花京院の心をちくりと刺すような仕草は忘れない。
 みゃう、と、やっと聞こえる声で鳴く。寒いじゃねえか、何とかしろ、と言っているように聞こえるのは、花京院の幻聴かもしれなかったけれど、ほんとうに承太郎がそう訴えているのかもしれなかった。
 ストーブは危ないしな。花京院は考える。
 そもそも、部屋を温めるのは、あまり好きではないのだ。空気が乾いて困る。少し肌寒いくらいを我慢する方が、花京院の性には合っている。けれど今は、承太郎という同居人を得て、自分ひとりの考えだけに固執するわけには行かなくなっている。そのことに思い当たって、花京院は、この冬を、承太郎にも居心地良くいかに過ごすべきかと、しばらく真剣に考えることにした。
 考えながら、冬は深まってゆくけれど、花京院は相変わらず毛布と熱い紅茶で、ひとり暮らし---と言うべきなのかどうか---の寒い部屋で、承太郎にはりっぱな毛皮があるしなあと、答えを先送りにしている。


 本1冊読み終わったのをしおに、花京院は、次の本に取り掛かる前に、新しい紅茶をいれることにした。
 相変わらず指先が冷たい。キッチンで湯を沸かすついでに、湯気で掌も温めようと思う。かぶっていた毛布を肩から外し、よっこらしょっと立ち上がって、カップを抱えてキッチンへ行く。毛布を脱ぐと寒いので、脇の下に両手を差し込み、キッチンの冷たい床の上で足踏みする。今度登山用のぶ厚いソックスでも買おうかなと、去年まで履いていた、すっかり薄くなってほつれてしまってお役御免になってしまった、毛糸のソックスのことを思い出している。ああ、あれは暖かかったなあ。大学の時から使ってたんだ。大学受験の時に来てた半てん、探したらまだあるかなあ。
 水仕事はできれば減らしたいので、使ったマグは洗わないまま、シンクに置くだけだ。新しいマグにティーバッグを入れて、しゅうしゅうと湯気の立つ湯を、勢い良く注ぐ。顔に当たる白い湯気が、ほわほわと温かい。それを、わざと口を開けて喉の奥に吸い込むと、何だか胸の辺りも温まって、風邪の予防にもなるような気がする。
 冷蔵庫から出したミルクを少し入れて、また本へ戻ろうと、シンクへ背を回す。
 花京院が抜け出した時のまま、毛布が人をくるむ形に丸まり、その真ん中に、座布団がある。カバーを掛けてあって、感心なことに花京院は、これをわりとまめに洗っている。その座布団に、承太郎がどっかりと横たわっていた。
 「承太郎。」
 カップを持ったまま上から声を掛けると、承太郎は片耳だけぴくんと動かして、花京院に応えた。
 「承太郎。」
 今度はしっぽが2度、ぱたぱたと座布団を叩いた。
 「承太郎、どいてくれ。僕が坐るんだ。」
 ばたばたばたばたばたばた。尻尾が激しく動く。やかましい、という表現だ。
 なるほど、ここはおれが取った、てめーは向こうへ行け、とそういうわけだ。
 良く見れば、毛布の端にも体が乗っている。ということは、この毛布を抱えて場所を移動する、というわけには行かない、というわけだ。
 寒さというのは、人を利己的にするのだと、花京院は初めて知った。
 カップを、少し離れた床の上に置き、承太郎の傍にしゃがみ込むと、花京院は揃えた指先を承太郎の体の下に差し入れ、容赦なく座布団から持ち上げた。
 「ごめんよ、悪いけど、ここは僕が坐ってたんだ。」
 口ほどには謝っているという風でもなく、承太郎を座布団の外に置き、素早くそこに腰を下ろして、花京院はまた毛布をひっかぶった。
 何しやがる、と承太郎が体を起こし、肩越しに抗議の視線を投げて来るけれど、花京院は紅茶のカップを取り上げながら、それを見ない振りをした。
 体育座りの要領で、立てた膝の上に本を広げ、片手でページを繰り、片手で湯気の立つカップを持つ。背中と肩と爪先は毛布で覆って、温かいなあと、花京院は思わず微笑んでいる。
 膝の腹の間の細い三角形の隙間に、承太郎が頭を突っ込んで来る。軽く開いたままのドアに、そうやって頭の先を差し入れて、部屋を出入りする場面には何度も出くわしていたから、承太郎のそんな仕草に驚きはしなかったけれど、その、ねじ込むという方がしっくり来る力の強さには驚いて、花京院は思わず、その隙間をさらに上から狭めている腕を持ち上げた。
 やれやれだぜとでも言うように、口だけ開けて、声は出さずに、承太郎が花京院の膝の中に無理矢理乗り込んで来る。その三角形のスペースに、長くて大きな体を丸めるように添わせて、窮屈だなと、ちらりと花京院を見上げる。
 「・・・君ってヤツは・・・。」
 根負けした形で、膝小僧の上に乗せていた本にしおりを挟み、両手で承太郎を支えて、花京院は承太郎のために、あぐらに足を組む。
 大きな承太郎は、すっぽりと花京院の足を覆い、揃えた前足にあごを乗せて、満足そうに静かになった。
 毛布をかぶり直して、再び本を開く。そうして、カップがまた空になる頃に気づいた。
 「・・・承太郎、足が、しびれて、痛いんだが・・・。」
 ふたりとも温かいのはいい。けれどまだちょっと、花京院が困る。


 結局のところ、花京院が根負けした形になった。
 ひとり住まいの暖房は、電気料金の請求書と給料の明細書と相談することになる。相談した結果、花京院と承太郎の元へ、こたつがやって来た。
 買いに行った先で、こたつだけを買っても、こたつ布団はついて来ないと教えられて、花京院は愕然とした。この寒い中、まだ買い物が続くのかと、ぶつぶつ言いながら別の店に行って、いかにも女性のひとり暮らし向きなデザインの中から、なるべく地味な色合いの物を選ぶ。こういう買い物は苦手だと思いながら、これも承太郎のため---そして自分の膝のため---と、必死で耐えた。
 こたつは不精になるし、部屋の中が散らかるからと、実家では随分昔に、父親が片付けてどこかへしまったきり、実物を見た記憶がない。友人の家で---そもそも、そんな親しい友人はいない---だらだらするということもないから、こたつの実物を見るのは、花京院にはとても久しぶりのことだった。
 「昔は、足を入れると膝が当たったりしてたんだけどな。」
 ヒーターの部分が平らなのに驚いて、覚えているよりも大きな空間に、花京院は内心はしゃいでいる。
 「入るかい? 少し待てば温かくなるよ。」
 布団を持ち上げてやる。
 部屋の真ん中、テレビの前に突然出現したこの新しい代物に、承太郎は警戒心を剥き出しに、けれど花京院がうれしそうにそこに体半分突っ込んでいるのを見て、やや安心したのか、くんくん匂いを嗅ぎ回り、前足で散々つついて、それからようやく、中に頭を突っ込み始めた。
 そんな承太郎を眺めながら、花京院は背中を丸め、天板の上に頭を乗せて、
 「・・・こんなにあったかかったっけ、いいなあこたつ・・・。」
 とろけそうな顔をしていると気づかずに、つぶやき続けている。
 すでに、ここから出たくない気分になっている。何もかもどうでもいい。さっきまで空腹だった気がするけれど、こたつの温かさの前にはだただた無力だ。
 これを、花京院が小学校に上がる前に取り上げてしまった父親に、今度実家に戻ったらきちんと怒りを示そうと、熱でとろけた脳の隅に、ぼんやりとのたくった字でメモをする。
 中に入っていた承太郎が、花京院の左手から顔を出した。どうやら、入りっ放しでは暑すぎるらしい。
 「あったかいなあ、承太郎。」
 そういう声までとろけている。
 こたつに入る承太郎のために、実家から座布団も持って戻ろうと、メモに付け加えてから、花京院は魔力の強大さに負けて、こたつの中に寝そべった。
 何もかも、もうどうでもいい。
 こたつ布団を脇まで引き寄せて、花京院は逆らわずに目を閉じた。その花京院の胸の上に、承太郎が移動してくる。
 一緒に昼寝をして、1日潰してしまう予定ではなかったのだけれど、夕方遅くに一緒に目覚めたふたり---?---に、後悔はなかった。


 こたつ回りが多少散らかるようになったり、花京院が明らかに不精になったりと、弊害がないわけではなかったけれど、こたつの導入は概ね正解だった。
 何より、承太郎がとても幸せそうだ。承太郎が幸せなら花京院が幸せだ。
 そうしてある朝、雪が降った。
 いつもよりも厳しい寒さに、キッチンでいつもよりも大きく足踏みをしながら、外を眺めて、その白さに花京院は声を上げる。
 雪は、温かな部屋の中から眺めるからこそ、風情があるのだ。雪道を駅まで歩く会社員には、俳句の季語の美しさもへったくれもない。
 不承不承支度を終えて、けれどベッドに承太郎の姿が見当たらない。
 「承太郎?」
 ネクタイを真っ直ぐにしながら、キッチンへ足を向けて呼ぶ。みゃう、と右側から呼ばれた。
 こたつの傍、承太郎のための座布団の上に前足を揃えて姿良く座り、花京院を見て、こたつ布団を前足でかく仕草を見せる承太郎がいる。
 雪道では、いつもより歩くのに時間が掛かるから、時計を気にしながら、承太郎の傍へ行った。
 自分の目の前にしゃがみ込んだ花京院を見て、またこたつ布団をかく。
 「・・・点けて行けって言うのかい?」
 みゃう、と承太郎がうなずく代わりに鳴いた。
 「今日だけだよ。」
 外は雪だ。いつもより寒い。いいじゃないか、と思った。
 中が赤く明るくなると、承太郎はすぐにその中に入り、そしていつものように、頭だけ外に出して、後はもう花京院を見もしない。
 「いいなあ、君は。」
 承太郎の頭を撫で、立ち上がって玄関へ向かう。その背中に向かって、承太郎が口だけ開ける。
 てめーもねこになりゃいいじゃねえか。
 出てゆく花京院には聞こえないし、見えないつぶやきだ。
 電源の入れっ放しは気になるから、承太郎のために、湯たんぽでも買おうと、雪の降る空を見上げて花京院は考える。吐く息がいっそう白い。駅へ向かう人ごみの中に、足早に紛れてゆく、冬の朝だった。


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