君と僕 B


 えいやっとこたつを片付けて、そろそろひと月半になろうというのに、しとしとと続く雨で、少しばかり肌寒い日が続いていた。
 床に坐っている花京院は、長袖のシャツを羽織って、膝には薄い毛布を掛けている。その膝の真ん中には承太郎が丸くなって、花京院の体温を楽しみつつ、花京院の膝も、そのせいであたたかい。とは言え、りっぱなオス猫の体は、いくら細身とは言え、充分に重い。
 それでも承太郎のつやつやとした首や背の辺りを撫でながら、花京院は夜の読書に没頭している。
 寒いなあと、暗い窓の外を見やって雨の音を聞きながら、花京院はいかにも寒そうに、自分の腕を強く撫でた。それから、今は何もない窓近くの壁のコンセントに目をやって、それから、膝の上の承太郎を見た。
 こんな日なら、こたつがあっても良かったと、顔にも言葉にも出さずに思う。
 こたつを片付ける時に、承太郎とひと騒動あったのだ。
 電源の入らないことが増え、それでも中に入りきりの承太郎を覗き込みながら、
 「承太郎、そろそろこれを片付けたいんだが。」
 そうお伺いを立ててみても、中からぎらりと目を光らせて、承太郎はぷいとそっぽを向くばかりだった。
 窓をいっぱいに開けて、こたつ布団を上にまくり上げて風を通す。冬の間にこもった埃を払おうと思えば、そこから顔を出した承太郎ににらまれ、挙句器用にこたつの上に飛び乗り、そこにたくし上げていた布団を床に落す。そうしてまた、心地良く暗く狭くなったこたつの中に入り、承太郎は自分の世界に閉じこもってしまうのだ。
 もう壁からコンセントは抜いてしまい、外は充分あたたかいから、これはいらないよと、そう目顔で伝えてみても、こんな時ばかりは人間の言葉や意思などまったく通じないという振りで、承太郎は大きくあくびをするだけだ。
 たとえ世間的には、花京院はただ承太郎と名づけた猫を飼っているというだけにせよ、花京院にすれば、猫とは言え承太郎はりっぱな同居人だったから、その同居人の意志を尊重しないわけには行かず、春になったからこたつを片付けるよというその作業を、では一体いつ敢行するかと、後はふたり──ひとりと1匹──の腹の探り合いになる。
 元々だらしがない方ではないけれど、かと言って潔癖症というわけでもなく、すっかりこの部屋に馴染んでしまったこたつの回りには、春近くにはそれなりに散らかった賑わいを見せるようになっていた。
 読み終わった本や雑誌が積み重なり、ティッシュの箱と小さなくず入れもあり、時々寝転んで本を読むから、マグを置くための大き目のコースターもちゃんとある。肩が寒いことも多かったから、小さな毛布がざっとたたんで置いてある。承太郎用の座布団もあるし、ここでならじっとしていることも多いから、抜け毛用のブラシも、手の届くところに置いてあった。
 自堕落に過ごした冬の痕跡がそこにあり、春の明るくなった日差しが窓の外から入り込んで来て、散らかった部屋を容赦なく照らす。いわゆる新年度というものが始まった頃に、花京院はそろそろまずいなと思い始めた。
 ほらあたたかいよと、承太郎をこたつの外へ誘おうとする。陽だまりを指差し、床を叩いて、最後には承太郎の仕草を真似て自分が陽だまりの中に寝転んで見せ、あー気持ちいいなあと、まんざらうそでもなく言う。けれど承太郎は、そうかそれはよかったなと、花京院に一瞥をくれるだけで、こたつの中からはなかなか出て来ようとはしなかった。
 花京院のいない昼間には、どうやら窓近くの床に長々と寝そべって春の惰眠を貪っているらしいのに、日の暮れかかる頃になるとまたこたつの中に戻り、電源が入っていないことが増えたのを不満に思っているのだと、きちんと態度で花京院に伝え、そうやってふたりの春は深まって行った。
 そしてついに、ゴールデンウィークの始まった週末に、花京院は意を決して、こたつを片付けに掛かった。
 上に乗ったこたつ板をベランダに出し、そこで裏には掃除機を掛け、表はしっかりと布巾で何度も拭いて、それからまだ承太郎が中にいるのに、こたつ布団を取り上げ、それも外に広げて干した。
 急に骨組みだけになってしまった淋しい姿のこたつの中で、承太郎は一体何が起こったかと首を伸ばし、自分の方を見ずにこたつの回りを片付け始めた花京院に向かって、緑の目を大きく見開く。なにしてやがる、そう言ったつもりでみゃあと鳴いたけれど、花京院はことさら意地を張ったように、そんな承太郎を無視した。
 本は本棚に戻し、雑誌はより分けて台所の隅へ新聞と一緒にまとめられ、コースターはひとまず台所のテーブルの上に置かれた。承太郎用のブラシは、少し迷った後で本棚の目の高さに位置を定められて、小さな毛布は、洗濯されるべく、汚れもののかごへ放り込まれた。座布団は、こたつ布団と一緒に、ベランダの陽の当たる場所へ出された。
 そうして、忙しく立ち働く花京院の足元にまとわりついて、承太郎は、骨組みばかりになったこたつの残骸へ向かって何度も首を振りながら、花京院のジーンズの裾に何度も噛みついた。にゃあにゃあと声を立て、花京院の注意を引こうと尻尾を大きく振り、すっかり何もなくなったこたつ回りを、見下ろして花京院は満足気にうなずき、承太郎は不満気にまたにゃあと鳴く。
 ついに花京院はこたつの残骸にまで手を掛け、それをばらばらにし始めた。承太郎はあまりの事態に声を失くし、滑らかに、しっかりと強い意志を持って動くその花京院の手に、容赦なく爪を立てる。
 「こら承太郎、痛いからやめろ。」
 こたつの足が2本取り除かれたところで、赤いみみずばれだらけになった花京院の手が、こたつから離れて承太郎をすくい上げるように抱き上げて、宙に浮いた承太郎は花京院の腕の中で暴れ、そのまま、広くはない風呂場に運ばれた。
 浴槽近くに下ろされて、ガラスのドアが閉められた。承太郎は伸び上がってガラスを前足でかき、それから、声を限りに鳴いた。
 出せ、と精一杯叫んだけれど花京院は戻って来ない。伸ばしっ放しの上半身が痛み始める頃、がーがーと、大嫌いな掃除機の音が聞こえ始めて、承太郎は思わずドアから飛びすさり、浴槽を覆ったふたの上に飛び上がる。
 ガラス越しに聞こえる不愉快な騒音に向かって、何の効果もないのにうなり声を上げ、威嚇のために両肩を張った。
 幸いに、掃除機の音はじきにやみ、ぱたぱたと花京院の足音がやって来る。
 「もういいよ。出ておいで。」
 承太郎をここへ閉じ込めた時とは打って変わって、上機嫌に響く花京院の声に、承太郎はちょっと耳をうごめかせた。
 開いたドアをすり抜け、花京院の足に体をこすりつけてから、承太郎は走って居間へ戻って行った。
 そうして、急に広々とした居間を目の前に、板張りの台所との境目で、きゅっと足が止まる。
 居間は空だった。広々と、空だった。何もない。すべて片付けられ、冬の痕跡など、埃すら残さず、跡形もなかった。
 後からついて来た花京院を見上げて、承太郎はみゃあと鳴いた。
 あれはどこだ。あの、あったかいあれはどこだ。
 「こたつとは、しばらくお別れだよ。もうあったかいんだ、いらないだろう。」
 まるで諭すように、花京院が言う。承太郎はもう一度緑の瞳を見開いて、みゃあと鳴いた。
 「冬になったら戻って来るよ。心配しなくてもいい。」
 冬の間だけのこたつとの友情は、こうしてひと時、引き裂かれることになった。
 あれからしばらく、承太郎は不機嫌を丸出しにして、なぜかこたつをしまった押入れをかぎ分けて、その前にずっと居座っていた。ふすまを引っ掛けて開けようとしたから、花京院はその前に一時小さなタンスを置かなくてはならず、承太郎がやっと諦めて、陽だまりで昼寝を楽しむようになるまで、その攻防は続いた。
 あたたかさの増した証拠に、承太郎は夜花京院のベッドへやって来ることがなくなり、滅多と膝にも乗らなくなった。
 昼間動けば汗ばむほどの陽気を楽しみながら、承太郎と少し広がってしまった距離──気温のせいばかりではなくて、やはりまだこたつを片付けたことを怒っているのだと、花京院は思った──を残念に思って、夜ベッドに入って眠りに落ちるまで、承太郎がやって来ないかと待つ日々が続いていた。決して好きではない冬が、ほんの少し、恋しかった。
 そして今夜は、まるで冬と春の隙間のように、肌寒い。こたつがあれば、承太郎とふたりで一緒にあたたかくなれるのにと、花京院はまた自分の腕を撫でた。
 読んでいた本のページにしおりを挟み、花京院は承太郎の首に掌を乗せた。
 「承太郎、もう寝るよ。」
 申し訳ないと手つきに出して、膝の上の毛布ごと、自分の上から承太郎を持ち上げる。そうして、自分の足をそこから抜き出し、坐っていた座布団の上に、毛布にくるんだまま承太郎を乗せる。
 なんだ、と承太郎が顔を上げ、面倒くさそうに、その上で足を組み替え顔の位置を変えた。
 「お休み。」
 また頭を撫で、本を手に立ち上がる。
 自分の部屋へゆく花京院に、承太郎は振り向きもしない。
 「お休み。」
 淋しいと思いながら、部屋の明かりを消す前に、花京院はもう一度承太郎の丸まった真っ黒い背中に向かって声を掛けた。承太郎の尻尾の先が、少しだけぱたぱた動いた。


 手早く風呂に入り、パジャマに着替え、まだ体のあたたかいうちにベッドに入る。冷えたシーツの中に、悲鳴を噛み殺しながら手足を伸ばし、布団があたたまるまで本を読んで寒さをまぎらわせる。
 毛布をもう1枚追加しようかと思いながら、やっとぬくまり始めたベッドから出る気にはなれず、結局ぐずぐずと本を読みながら考えた末、そのまま電気を消して布団の中に目元まですっぽりとくるまり、そこで横向きに体を丸めた。縮めた手足の作った半端な輪の中に、せいぜい体温を逃すまいと、寒さにもう一度肩を震わせて、花京院は眠るために目を閉じる。
 やっと手足の先がぬくまって、眠りに体が柔らかくほどけ始めた頃、きいっと、小さな小さな音がした。
 ドアが揺れた音だ。いつの頃からか、承太郎の出入りのために、決してきっちりとは閉められなくなったドアだ。
 音のした方へ、瞳だけ動かして待つと、闇の中にひときわ黒い影がベッドの上に飛び乗って来る。
 足元から、わざわざ体のふくらみの上を通って、承太郎が花京院の肩へやって来た。
 「承太郎。」
 こんな角度と距離の、久しぶりの眺めだったから、花京院はうっかり布団の中で口元をほころばせ、承太郎を驚かせないようにそっと肩をずらし、布団の中から腕を伸ばす。
 承太郎は、伸びて来る花京院の掌に申し訳程度に頭をこすりつけた後で、とんと丸まった背中の方へ飛び降りると、枕の方から花京院の胸元へ回って来た。
 そうして、あごの辺りへ頭をぶつけて来るから、
 「入るかい?」
 布団を持ち上げて、丸めていた足を伸ばし、花京院は承太郎のための場所を作ってやった。
 承太郎はするりと頭を滑り込ませ、ぴんと立てた尻尾だけはしばらく布団の外に残し、その立派な尻尾で何度か花京院の鼻先を撫でて、小さなくしゃみをさせてから、やっと満足したように、布団の中に全部入って、そこでくるりと方向を変えた。
 花京院の腹に背中を添わせ、それでも何度かもぞもぞと体の位置を変えて、いちばん心地良い姿勢を探り出そうとする。
 花京院はそっと承太郎の上に腕を乗せ、そこだけはやや冷たい肉珠を指先に探る。
 「お休み、承太郎。」
 そう言って目をつぶったものの、承太郎はまだもぞもぞと落ち着かず、布団の中で体を起こし、方向転換し、花京院の足元まで移動した。
 そっちの方があたたかいからそこへ落ち着くのかと思ったら、またそこで体の向きを変え、花京院の腹の辺りへ戻って来る。そうして、不意に、承太郎のいつも濡れて冷たい鼻先が、腹の素肌に当たった。
 「うひゃあ!」
 夜中に、真っ暗闇の中で、うっかりとんでもない声が出た。
 慌てて腹を丸めて、そうしてできたパジャマとの隙間に、承太郎が素早く頭を突っ込んで来る。
 布団に入って来たよりもなめらかに、承太郎の体が、パジャマの下に入り込んで来る。鼻よりももっと冷たい耳の先が、花京院のみぞおちの辺りをなぞって来た。
 確かにそこはあたたかいだろう。
 窮屈ではないかと思うのに、承太郎は花京院のパジャマの中に体を収め、やっと満足気に動き回るのをやめた。
 素肌に触れる、承太郎の真っ黒いやらわかな毛。承太郎の体温と、花京院の体温と、もう見極めもつかずにそこで交じり合っている。
 パジャマの深い襟ぐりから、承太郎が前足を揃えて伸ばし、腹の方の裾からは、片足が出ている。
 承太郎はもうすっかりそのまま眠る気で、追い出すのもかわいそうな気がしたし、何より、久しぶりに承太郎が一緒に寝てくれるのだということに喜んで、花京院は少々不自然な姿勢を保ったまま、やっと眠るために再び目を閉じようとした。
 自分の手足の位置を定めて、承太郎の眠りを妨げないようにしながら、明日の朝きっと体のあちこちが痛むのだとそう予感して、もう一度、パジャマから覗く承太郎の頭を、そっと指先で撫でた。
 「お休み承太郎。」
 にゃあ、と承太郎の真っ赤な口が小さく開く。
 こたつは出さないけれど、明日も寒かったら、居間のテーブルに毛布を掛けるくらいはしてもいいかもしれないと、花京院は思った。
 腹のぬくもりが増してゆくのに、まぶたが一緒に重くなる。
 ぴたりと体を寄り添わせて、ふたり──ひとりと1匹──は一緒に眠りに落ちた。


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