君と僕 C


 また冬がめぐって来て、寒くなると同時に、黒猫の承太郎が膝に乗って来る頻度が上がる。
 さっさとこたつを出してもそれは変わらず、こたつに入って本を読んだりテレビを見たりしている花京院の、ある時は腰のすぐ傍に、あるいは背中近くに引っついて、半分くらいは多分、花京院の敷いている座布団が欲しいのかもしれない。もちろん、承太郎用の座布団は用意してあるのだけれど。
 承太郎がこんなに花京院にくっつきたがるのは、ひとつには、今年はエコだ何だという世間の風潮に乗って、暖房を少し減らしたからだ。
 こたつがあれば、後は半てんで案外耐えられる。もう少し寒さが増せば、ちょっと行儀が悪いけれど、毛布の1枚くらい出して来てもいい。
 夜にちょっとかじかんだ指先を、いれたての紅茶のマグでほくほくあたためるのも、それはそれで風情があっていいと花京院は思う。
 あるいは、承太郎の気が向けば、膝の上で丸まったその腹に、指先を差し入れさせてくれるという寛大さも、たまに見せてくれないでもない。
 ひとり侘しくないなら、少しばかり寒い冬というのもいいものだと、花京院は読み返すのはもう5回目くらいの推理小説のページを、ちょっと強張った指先でぱらりとめくる。


 何だか肩が凝っていて、ちょっと目の辺りも重い。眠気に近いその感覚に、もしかして風邪でも引き込んだかと、花京院は今夜は早々に寝てしまうことに決めた。
 「承太郎、ごめんよ、どいてくれ。」
 熱めの湯を入れてゆっくりと風呂に入るために、半てんを脱ぎながら立ち上がる。
 こたつの電源を切ってしまった花京院を、恨めしげに見上げて、風呂へゆく花京院から途中で別れて、承太郎は寝室へ行った。
 今日はベッドで本を読むのはやめようと思いながら、時々重くて痛みさえ感じる目の辺りにばしゃばしゃと熱い湯を掛け、ひたった湯の中で、ゆっくりと指先を曲げ伸ばす。
 明日も当然仕事だ。今年は雪がまだ少ないけれど、この調子のまま春になってしまったらいいなと、ぼんやりと考える。
 雪道をえっちらおっちら駅まで向かう面倒は、考えただけで仕事を辞めたくなる。
 それでもこの冬は去年よりはずっとましなのだ。去年承太郎のために買った湯たんぽは、まだほとんど出番がない。暖冬というのが、世界のためにはいいことではないと理性では理解して、それでも駅まで雪の中を歩かなくていい幸福の方を、花京院はエゴたっぷりに願った。
 痺れるほど熱い湯で、体の内側まで全部あたためて、湯冷めのくしゃみが出ないうちにベッドに飛び込む。そのために、脱いだ服はその場に軽くまとめただけで、何もせずに脱衣所を出た。
 パジャマの冷たい布地が、体温ですぐにあたたまり、けれど裸足の足裏にはすでに冷気が忍び寄っていて、花京院は知らずに爪先立ちで、慌てたようにベッドへ向かった。
 ベッドの足元辺りには、もう承太郎が先回りして丸くなっていて、入って来た花京院へ首を伸ばすと、やっと来たかと言いたげにみゃうと鳴く。
 「さあ寝よう。さっさと寝よう。明日も早いんだ。何もかも全部明日だ。」
 節をつけて、軽やかにそんなことを言いながら、掛け布団を持ち上げて中へ滑り込む花京院の胸元へ、承太郎のやって来て一緒にもぐり込む。
 ひとりきりより、誰かと一緒の方があたたかいに決まっている。片腕で作った輪の中に承太郎を囲い込みながら、昼間には確実にお陽さまの匂いのする承太郎の耳の後ろへあごの先を埋めて、今は同じくらいの体温をふたつ分、花京院は布団の中で一緒くたに重ねた。
 恐る恐る伸ばした爪先の辺りが、ついさっきまで承太郎が丸まっていた辺りを探り当てる。かすかに、ほんとうにかすかに、承太郎の大きさ分、ほっこりとあたたかい。
 腕の中の承太郎のあたたかさと、その承太郎が残したぬくもりに、花京院は思わず口元をゆるめて、
 「お休み。」
 その呼吸の当たった承太郎の耳が、うるせえ、とでも言うように、ぴくぴく動いた。


 実のところ、エコとやらの風潮で暖房を減らした、という建前で、花京院は誰にも言っていない──特に、承太郎には──ほんとうの理由があった。
 寒さが増すにつれて、承太郎が自分にくっつきたがる回数が増え、一緒にいれば確かにあたたかいのだけれど、それだけではなくて、承太郎が一緒にいてくれると、それだけで幸せになれるのだ。
 体のどこかに触れているぬくもり、膝や胸の上に感じる重み、触れればふわふわの毛並み、たまに気まぐれに、指先を舐めてくれることもある。もっと気まぐれに、惜しげもなく晒した腹や胸に、頬ずりさせてくれることさえある。
 何だかよくわからないけれど、承太郎と一緒にいるだけで、世界が何だか優しくなれるのだ。
 仕事の愚痴がたまっていても、疲れてぎすぎす目尻が尖り上がっていても、ここへ戻って、承太郎が外の廊下を歩く足音をすでに聞きつけていて、玄関で、おう、という鋭い目つきで自分を迎えてくれれば、それだけで1日の疲れがすべて吹っ飛ぶような気がする。
 「ただいま。」
 ネクタイをゆるめながら居間へゆく花京院の足元にまとわりつき、それは多分、腹が減ったとか、寒いから早くこたつをつけやがれとか、そういう意思表示に違いないのだけれど、ここにひとりぼっちでではない、誰かが自分を待っていてくれているというだけで、花京院には充分だった。
 ここにいてくれるだけでいい、そこにいてくれるだけでいい。実際のところ、承太郎がやっているのはほんとうにそれだけだった。それだけで充分だった。
 何もしなくていい。何かわざわざしてくれる必要はない。承太郎にとっての花京院が、所詮はただあたたかい暖房代わりの給餌機だろうと、嫌われていないならそれでいい。ここにいてやってもいいと承太郎が思ってくれるなら、それで充分幸せだ。
 そんなわけで、承太郎が自分を暖房として必要としてくれるように、ほんものの暖房をちょっと控えることにしたのだ。
 こんな冬も悪くないさ。
 今年新たに買った、ちょっと厚手のシーツと毛布の間で、承太郎とぬくぬくしながら、花京院はもう半ば眠りに落ちかけている。
 何もしなくてもいい。ただ一緒にいてくれればいい。
 眠りながら、手だけは、承太郎の背を撫でるために動き続けている。


 花京院はすっかり寝入り、承太郎がいる時はいつもそうするように、寝返りひとつ打たず、承太郎は何度かあごの下の前両足を組み替え、今ではどこもかしこもあたたかな布団の中で丸まっていた体をほどいて、そうして発光する時計の針が、午前2時を回った頃だった。
 承太郎のために、いつも完全には閉めないドアが、きいと小さな小さな音を立てた。床を、何かやわらかなものが滑る音と気配。呼吸と体温で揺れる空気の動きはなく、承太郎はその奇怪さに鼻先を突き上げ、するりと布団の中から顔を出す。
 闇に浮かぶ、真っ赤に光る目がふたつ。暗がりの関係ない承太郎の緑の瞳には、人の形がはっきりと見えた。けれどそれが尋常な人ではないことはとっくに察知して、今では全身布団の外へ出ると、花京院の足元から這いずり上がろうと身をかがめたそれを威嚇するために、承太郎は横向きに寝ている花京院の肩へ素早く飛び乗って、尻尾を空へ向かって振り立てた。
 背中と長くて形のいい尻尾の毛が、全部いっぺんに逆立つ。大きな承太郎の体の大きさが2倍になったように見え、にたりと笑った赤い目のそれが、けれどちょっと怯んだように、こちらへ伸ばす腕の動きを止める。
 近づくんじゃねえ。
 数日、気配のようなものがあった。花京院の、ちょっとだるげな足元近くに、花京院のものではない影が、うろうろと床を這っているのを何度か見た。
 けれどそれは遠巻きに花京院を眺めているだけで、何をするという意志の動きのようなものがなく、どこか別次元から紛れ込んできた、迷子のようなものかと、身構えながらも手出しはしなかった。
 それが今は、人の形を取って、花京院に取り憑こうとしている。
 花京院が弱るのを待っていたのだ。何もかも寒さのせいと、そうやって体の不調や気分の揺れを言い訳する間に、この得体の知れない何かは、花京院からそっと精気を吸い取って、そうと気づかせずに弱るのを待っていたのだ。
 おれとしたことが。承太郎は忌々しげに桃色の舌を打って、背中を丸めて牙を剥く。怯んだ腕も、承太郎の反撃に、見えない眉間にしわを刻んだ。
 おまえには何もしない。心配するな。
 赤い目が言う。にたりと笑う唇が、耳まで裂ける。承太郎とよく似た、けれどもっと長くて鋭い牙が、闇の中できらりと残酷に光る。
 わたしのところへ来いと、誘いに来たのだが。
 紅い唇を、紅い舌先が舐める。仕草で、どちらかと言えば承太郎たちに近い、その種の存在だと知れる。
 黒猫に生まれたことを、今ほど腹立たしく思ったことはない。不吉のしるしだの魔族だの魔女の手先だの、それがまた半分くらいはうそではないからまたよけいに癪に障る。
 うるせえ、さっさと消えろ。
 こんなところにいては、じきに寿命も尽きてしまう。
 何百年も生きたいとは思わねえ。
 トモダチというわけか。人間風情が。
 やかましい。
 そんな風に言われて、初めて承太郎も考える。
 自分を家に上げてくれて、花京院は承太郎の世話をしてくれる。あれこれと互いに文句もありながら、それはそれで居心地が良くて、承太郎はすっかりここに腰を落ち着けてしまっていた。
 魔に近いだの何だの、ここにいる限りは考える必要もなかったし、花京院はそんなことのために承太郎を引き入れたわけではなく、承太郎も、今ではこの平々凡々とした生活をすっかり気に入ってしまっているのだ。
 ただ穏やかに流れる時間。ごくごく普通の猫として振る舞うことさえ忘れなければ、ほとんどケチのつけようのない、花京院との暮らしだった。
 そう言えば花京院は、承太郎が黒猫であることについて、一度も何か言ったことはない。黒猫が魔と関わりがあるということを、知りもしないようだった。
 だから承太郎は、ここでただの猫でいられる。ただの猫のように振る舞い、ただの猫のように寝て起きて遊んで食べて、ただの猫のように、寒さに文句を言って、花京院の膝の上で丸くなっていればいい。ここにはこたつという、素晴らしいものもある。
 ここから去るなど、承太郎は考えたこともない。
 赤い目が、毛を逆立てたまま、一向に馴染む様子も見えない、仲間だと警戒を解く気もないらしい承太郎に、やや鼻白んだ表情を浮かべ始めた。
 わたしと来れば、生きた獲物を追って遊べる。寒い夜には暖炉のそばで寝るといい。エコだのグローバルウォーミングだのクールビズだの、そんな人間どものたわ言に振り回される必要もなくなる。
 自分たちより格下の人間の傍にいたがるのは狂気の沙汰だと言わんばかりに、赤い目が滑らかに、近頃人間どもがうるさく喚く妄言を並べて、そんなものに一緒にこだわる羽目になっているのはさもバカらしいと、赤い唇の端がにやりと吊り上がった。
 正直なところ、その意見には心の底から賛同したけれど、そのエコだののおかげで、花京院にぴったりとくっついていても邪険に振り払われることもない。寒いのは嫌いだけれど、花京院と一緒なら、それも悪くはない。
 おれはどこにも行かねえ。まずいカリカリやらたまにもらえるねずみの死体もどきの肉のかたまりやら、我慢できねえでもねえ。寒いのなんざ、へでもねえ。
 今は花京院の肩の辺りに前両足をきちんと揃え、人間で言えば直立不動のような姿勢で、承太郎は頭を高く赤い目を見据える。
 せっかく躾けた奴隷だ。そう簡単に手放してたまるか。
 赤い目が笑う。何か、承太郎の言ったことに納得したように、深く肩をすくめて、もういいと言いたげに片方の掌をひらひらさせた。
 せいぜい、その奴隷の躾とやらに精を出すことだ。人間どもはすぐに心を変える。一生忠誠を誓わせるのは、並大抵のことではないぞ。
 ふん、と承太郎は鼻先で笑う。
 おれを舐めるなよ。
 赤い目はもう何も言わず、つまらなそうな微笑みの輪郭だけを残して、闇の中を後ずさって行った。
 影の気配が床辺りから消え失せた。
 近くをうろついている間に、承太郎の匂いに気づいて、少しばかり友好をあたためようとしたのだろうと、少しだけ残念に思わなくもなかったけれど、安寧とした、暗さも酷さも微塵もないこの生活を気に入っていることを改めて思い出して、承太郎はやっと花京院の肩から降りた。
 やっと自由になったと言わんばかりに、花京院が寝返りを打つ。そうしながら、布団の中で傍にいるはずの承太郎を探り、左腕が空回るのに、眠りを破られそうになっていた。
 承太郎は慌てて布団の中へ滑り戻り、自分を探している花京院の腕の中へ、するりと鼻先をもぐり込ませた。
 探り当てたぬくもりに、安心したように、また花京院が深い眠りの中へ戻ってゆく。それを見守ってから、承太郎は花京院の腕枕に、のびのびとあごを伸ばした。


 「あーあー雪だ。」
 ネクタイを結びながら、寝室の窓の外をうんざりしたように眺めて、花京院はため息を吐く。
 承太郎は、花京院が抜け出た布団の中にまだもぐったまま、顔だけ出して、そこから花京院を眺めている。
 「まあいいや、そんなに積もりそうでもないし。」
 自分で自分を慰めるように言って、それでもやはり語尾にため息が混じる。
 「いいなあ君は。何もせずに、1日中ここで寝ていられるんだから。」
 ちょっとばかり今日は嫌味っぽく、花京院は思わず唇を尖らせた。
 それにしても、と思う。昨日まで何となく重かった肩が、今朝はすっきりと軽い。きっと夕べ早寝して、夢も見ずにぐっすり眠れたせいだろう。雪道の面倒さを考えながら、体の軽さが救いだと思って、早く春にならないかなと、まだ冬は始まったばかりだと言うのに、もう花の蕾のふくらみかけた風景が恋しかった。
 まあいいさとつぶやいて、ネクタイの結び目の大きさをやっと整える。ぐずぐずしていても仕方がない。覚悟を決めて家を出る。
 またため息をひとつ吐いて、やっと部屋から出て行く花京院の背中に、承太郎は聞こえない声でみゃうと鳴いた。
 てめーもねこになりゃいいじゃねえか。
 ただし、黒猫以外だ。承太郎は思った。
 足音が去る。ドアが閉まる。
 一体何が起こったのか、承太郎が何をしたのか、花京院は知らないままだ。承太郎も、きっと知らせないままだろう。
 互いに、少しばかりの不自由をかこって、こうやって穏やかに楽しく暮らせばいい。
 花京院が帰る時間を見計らって、こたつのところの花京院の座布団に乗って、そこをあたためておこうと思う。
 あのまずいカリカリを食べに行くのはもう少し後だ。
 花京院のぬくもりと匂いの残る布団の中で、承太郎は二度寝のために、緑の瞳をゆっくりと閉じた。


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