君と僕 D

 2月がそろそろ終わるというある日、花京院は小さな土産を手に、家に帰った。
 コンクリートの階段を上がる花京院の足音を聞きつけて、承太郎はもう玄関にいる。きちんと前足を揃え、人間で言うなら気をつけの姿勢のような背を伸ばした格好で、
 「よう。」
と、ぶっきらぼうな迎えの表情で、ドアを開ける花京院を見上げている。
 「ただいま承太郎。」
 まだ寒さは厳しいというのに、とりあえず出迎えだけは、きちんと座布団やこたつ──残念ながら、電源は入っていない──から離れて、こうやって姿勢を正してしてくれる。花京院は、少しだけ疲れの浮いた表情を笑顔で隠して、行儀悪くかかとをすり合わせて、玄関でくたびれた革靴を脱いだ。
 早くあのあったかいのをあったかくしてくれ。
 そんな風に花京院を見上げ、運ぶ足元にまとわりつき、とりあえずは、それは歓迎の態度なのだと正しく解釈して、承太郎を踏まないように気をつけながら、花京院はいつも左手に重いブリーフケースを抱えたまま、こたつのある居間へゆく。
 今日もずっとその中に入っていたのか、花京院が坐る座布団のところに、こたつ布団が軽く盛り上がっている。承太郎が出入りした跡だ。
 正方形のこたつテーブルの角を花京院と囲むように、承太郎用の座布団は左側に置いてあるけれど、花京院がいない時に承太郎がいるのは、花京院の座布団の上か、花京院側のこたつの中だ。
 いつもなら、まずは服を着替えてあたたかい紅茶でも淹れるのだけれど、今日は少し順番が違う。
 「承太郎、おいで。」
 部屋の明かりに、まだ少しまぶしそうに瞬きを繰り返している承太郎を、花京院はまだこたつの中には足を入れずに、ただ坐った座布団の膝の上に手招く。
 「今日はね、君に買って来たものがあるんだ。」
 ブリーフケースのジッパーを開けて、中にあるポケットから薄い袋を取り出す。もう封をされていたセロテープは、少なくとも1度は剥がされた跡がある。そこを指先で軽々と開けて、するりと取り出したのは、浅い緑色の首輪だった。
 袋の底を、承太郎が首を伸ばして匂いをかぐ。
 「どうしようかと思ったんだけど、鈴はないのにしたよ。音がした方が、僕には便利だけど。」
 暗闇にすっかり溶け込んでしまう承太郎を、夏場にはよく伸びて寝ている寝室の外でうっかり踏みつけそうになるのを思い出して、花京院はひとり笑った。
 「おいで。」
 承太郎を片手で、毛がつくのにも構わず──黒いスーツはこういう時にありがたい──膝の上に抱き上げて、花京院が床に置いた袋をまだ興味深そうに眺めている承太郎の首を撫でながら、花京院は首輪の長さを調節し始めた。
 どこかに引っ掛かればすぐに外れるバックル式だ。小さなベルトのようなものを想像していた花京院は、今日の昼休みに、巨大な雑貨店のペット用品売り場の棚の前で、さまざまの種類の首輪に圧倒されながら楽しく色を選んだことを思い出している。
 おかげで昼食は、会社に戻る途中のコンビニで買ったカロリーメイトだけになったけれど、買い物はとても楽しかった。
 「君の瞳(め)と同じ色にしたんだ。きっと映えてきれいだよ。」
 白い線で、首輪一面には星柄が描いてある。そして、短い鎖で、小さな名札もぶら下がっている。
 自分で中に必要な情報を書き込んでおくタイプだ。昼休みの後、ずっと机の上に置いておいて、何を書くべきかこっそり悩んでいた。
 承太郎の名前と、自分の名前と、そして自宅の電話番号、それから一応のために、携帯の番号も書いた。書き過ぎかと、実際に書く前にメモ用紙に下書きまでして悩んだけれど、これは万が一承太郎が迷子になった時に、確実に花京院のところへ戻って来れるようにするためのものだ。だから、下書きのまま、名札の中の札の部分に、小さくても丁寧な字で、誰にでも読めるように書いた。
 抵抗するかと思ったけれど、承太郎は案外と素直に、それを首に当てられても逃げはせず、花京院が少し力を込めてバックルをはめた音に、ちょっとぴくりと耳を動かしただけだった。
 「よく似合うよ。」
 膝の上の承太郎が、肩をすくめたように見えた。
 真っ黒い毛並みに、浅めの緑がよく映える。想像よりもずっと似合い、そして突然飼い猫らしくなった承太郎に、花京院はちょっと驚いている。
 今まで、元野良猫だった承太郎を家の中に招き入れ、それでも承太郎の自由を尊重しているという意味で、飼い猫らしいしるしをつけておこうと思ったことはなかった。考えても即座に、それは承太郎には似合わないし、承太郎に対する無礼な気がして、やっぱりやめておこうと、いつもそう考えていた。
 ごろんと、自分の膝の中に丸まった承太郎が、もっと近寄れと言う風に、頭上の花京院に首を伸ばして来る。それに促されて、花京院は承太郎の脇腹の辺りをそっと撫でた。
 今朝、花京院は仕事に遅刻した。携帯で知らせた理由は、ちょっとした事故に行き遭ってしまい、場をまとめられる人間を待っているというものだった。
 うそは言わなかったけれど、詳しいことを一切言わなかったのは、事故のために動揺していたからではなく、被害者が、近所の野良猫だったからだ。
 幸いに、車の通りの多い道ではなかったから、花京院はそのまま道路を横切って、その横たわる猫のそばへ行けた。
 「触っちゃだめ、汚れちゃうから。」
 車に気をつけながら猫を見下ろしていた花京院のところへ、花京院の祖母くらいの年齢の女性が、新聞と大きなタオルを手に走って来る。
 「今電話したから。ゴミの人たちが来てくれるって。」
 息を切らせながら言うのに、
 「この子、飼ってらしたんですか。」
 花京院が訊くと、女性はちょっと驚いた顔をして、
 「違う違う、3軒先のたばこ屋さんの裏によくいた子なの。かわいそうに。」
 女性は、どうやら花京院が餌をやっていたか何かでこの猫と関わりがあったと思ったらしく、
 「いえ、見かけたことはありますけど・・・ウチにいるのも黒猫なんです。」
 わざわざ道路の真ん中へ見にやって来た理由を女性に告げると、ああそう、と女性は改めて、轢かれて死んでいる猫を見下ろした。
 承太郎よりもずっと小さい黒猫だった。メスだろうか。やせていて、腹ばかりふくらんで、毛並みは撫でてみたいとは到底思えないほど粗い。生まれたのは春先だったのだろうか。やっと冬を越せそうだったのに。花京院はブリーフケースを彼女に渡し、代わりに新聞紙とタオルを受け取った。
 血であまり汚れないように、置いた新聞紙の上に、タオルを軽く巻いた猫の体を乗せる。それからタオルと新聞紙ごと猫を抱え上げて、やっと道路の端へ移動する。
 「よかったわ、しゃがむと立ち上がるのが大変なのよ。」
 落とさないように、花京院のかばんをしっかりと胸に抱えて女性が言う。ぶ厚い上着は着ているけれど、地味な色のスカートの足元は靴下に男物のサンダルだ。いかにも慌てて出て来たという風に、花京院は、近所に住んでいるのだろう彼女をこの場にひとりにする、あるいはこの猫を1匹だけにする気になれず、この猫の死体がきちんと引き取られるまで、彼女──たち──と一緒にいようと咄嗟に決める。
 どうせもう、毎朝乗る電車には間に合わない。
 「すいません、ちょっと会社に遅れるって連絡しますね。」
 道路の端に置いた猫の体を足元に見ながら、花京院は女性から顔をそむけて手短に会社に連絡を入れた。
 滅多と休むこともない、遅刻などしたこともない花京院だから、電話を受けた上司はあっさりと花京院の言い訳──うそではない──を信じて、長く掛かるようならもう1度連絡をしろとだけ言って、電話は終わった。
 「こういうのは、保健所じゃないんですか。」
 さっき、女性がゴミの人と言ったのを聞き違いではなかったかと、黙って立っているのも気が引けたから、そう訊いた。
 「わたしもね、初めての時はそう思ってたのよ。警察に電話したのね、そしたら保健所かなあって電話してくれて、そしたらゴミ扱いですからって言われて・・・わかるけど、ひどいわよねえ、ゴミ扱いなんて。」
 女性は、寒そうに両手を脇に挟む。花京院はブリーフケースを彼女から取り戻し、足の間に置いていた。
 「道路にずっといると、もっとたくさん轢かれちゃうから・・・せめて道の端に動かしてあげればよけてもらえるから。」
 付き合っている花京院に気を使ってか、女性もひとり言のように話し続ける。花京院は、そうですねと、言葉短にうなずいていた。
 女性がそう言う通り、数は少なくてもそこを通ってゆく車が、道路の真ん中に残る、まだ乾いてはいない黒い染みの上を、遠慮なく走り過ぎてゆく。
 この小柄な黒猫を轢いた車の持ち主は、今週のいつか、車から降りる時にドアの枠に頭をぶつけるといい。数時間くらい、痛みが続くといい。額にまっすぐな線が残って、見た人にちょっとだけくすくす笑われるといい。
 少しずつ怒りが大きくなって行くのに驚きながら、花京院は胸の中でつぶやき続けている。
 轢かれた死体が道路に残ったままでいるのは、死んだ動物にも可哀想だし、車の事故にも繋がりかねないから、道徳心だけではなくても、こうやって端によけるべきなのだろう。
 タオルにくるまれて、今は半分つぶれて血に汚れた体の隠れている黒猫を見下ろして、花京院はどうしても承太郎のことを考えずにはいられなかった。
 あのまま、花京院が中に招き入れなかったら、承太郎にもこんなことが起こったのだろうか。幸いに親切な誰かが体を移動させて、轢かれ続けるようなことにはしておかなかったと信じたい。
 この猫も、誰かが面倒を見ていたのなら、そういうしるしをつけておいてくれればよかった。そうしたら、連絡がついて引き取ってもらえて、どこか土の下に埋めてもらえたかもしれないのに。
 1時間近くそこで待った後で、やっと小さなトラックがやって来て、作業服を来た中年の男がふたり、黒いゴミ袋に猫の体を入れて去って行った。10分も掛からず、それでも男のひとりが、痛ましそうな表情を浮かべて丁寧な手つきで受け取った猫をトラックの後ろへ寝かせ、そして、女性と花京院にわざわざありがとうございましたと頭を下げてくれたのは、この場で少しばかり湧いた、行き場のない花京院の腹立ちをやわらげてくれた。
 女性と別れ、会社に向かいながら、花京院は、承太郎に首輪をつけることを思いついて、今日はそれを実行すると、心に決めていた。
 何かあれば、自分に連絡が必ずあるように。どこかへ迷い込んでも、承太郎は花京院と一緒に暮らしているのだと、誰にでもすぐわかるように。
 承太郎を、対等の同居人と思うからこそ、承太郎に所有のしるしをつけることにためらいがあった。首輪や耳の先をわずかに切り取ることや皮膚の下に埋め込むマイクロチップや、いろんな手段があっても、それを承太郎にしようと、今までは思っても実行する気にはなれなかった。
 それが、花京院にとっての、同居人としての承太郎への敬意だったけれど、対等と思うからこそ、自分がしている不便──承太郎との同居によって生まれる──を、承太郎にも分け持ってもらうべきだと気づく。幸せも不幸もきちんと分け合ってこその、きちんと合意の上の同居だ。
 白い服を着れなくなったこと、膝の上に乗られて重いこと、夜中や明け方に、冷たい肉球や鼻先で起こされること、自分の座布団や毛布を奪われること、花京院が、今は微笑んで我慢していることだ。
 もうひとりの部屋に帰らなくてもいいこと、夜ベッドの中であったかいこと、冬にぬくもりを分け合えること、承太郎のためだと思うと仕事に張り合いが出ること、承太郎と出会って、感じ始めた幸せだ。
 今はほとんど外に出ない承太郎の、外出の自由を奪ってしまったと思うけれど、外へ出なければ、車に轢かれることもない、他の猫との喧嘩に巻き込まれて、怪我をすることもない、ノミや伝染性の病気の心配も少なくなるし、ふらりと迷子になって心配するということも減る。
 承太郎が花京院に我慢を強いているように、花京院も承太郎に無理を強いている。けれどどれも、互いのためだと言うことができる。
 首輪をつけて、これは所有のしるしではなく、ようするに花京院が、会社の社員証や携帯電話を持ち歩くのと同じことだ。
 何かあった時に、すぐに連絡が届くように。つまりは、そういうことだ。
 とは言え、自分に何かあった時に承太郎に連絡が来ても困る。この点は、気の置けない誰かに頼んで、承太郎のことをお願いしておかないとと、親しい友人の顔と言って思い浮かばない花京院は、これを自分への戒めとして、とにかくきちんと承太郎のために何とかしておこうと決意する。
 承太郎は、花京院のために今日名札つき首輪をはめた。
 花京院は、承太郎のために誰か親しい人間を見つけておく。早急に。
 「さて、君も僕もごはんにしよう。」
 立ち上がらずに自分を撫で続けていた花京院にすっかり体を預けて、何か少しいつもと違う空気を感じ取っているのか、承太郎は腹の辺りを伸ばしたままだ。
 外に出なくなって艶の増した、今は冬毛でふわふわの手触りの増している承太郎の腹の辺りを、花京院は飽きず撫で続ける。
 「来週には3月だ。」
 承太郎に出会って、2度目の冬が終わろうとしている。
 自分の夕食の献立を考えながら、もう少しあたたかくなったら、ちょっと承太郎を洗ってみようかと思う。
 首輪の下に指先を差し込んで喉を撫でると、承太郎が喉を鳴らす音がいっそう大きくなった。
 暖房もまだ入れない部屋の中で、そこだけふたりきり、あたたかい。

戻る