青春10のお題@胡蝶の夢

一人にして


 ホームルームの終わった教室に、花京院の姿が見当たらなかった。
 昼休みに図書室に付き合った時には何も言っていなかったから、もしかして早退でもしたのかと思ったけれど、それならきっと、ハイエロファントを承太郎のところまで這わせて、先に帰るからと一言くらい告げてゆくはずだと、承太郎は、スタープラチナを出して、花京院の気配が近くにないかと探る。
 机は完全に空で、カバンも残っていない。教室にはもう戻ってきそうにはなかった。
 まだ校内にいるのなら、花京院が行きそうな場所には2、3心当たりはあったけれど、そのどれにもいないような気がして、やれやれと承太郎は帽子のつばを指先でいじった。
 図書室か、承太郎が煙草を喫う屋上か、あるいは校舎裏手の、繁みの向こうの木陰か、まさか承太郎の教室へ行って、すれ違いになったのだろうか。下級生がそこへ来ることを生意気だと極端に嫌う、3年生のいる3階へ、目立つことの嫌いな花京院がひとりで来るはずもない。ただでさえ、承太郎と常に一緒にいるというそれだけで、生意気だと言う評判が、すでに校内で立っているのに、その火にわざわざ油を注ぐような性格ではない。
 承太郎に用があるなら、教室まで足を運ばなくても、ハイエロファントを這わせればいいだけの話だ。
 ということは、どこか、自分とは行ったことのないところにいるのだと、そう悟って、承太郎はぐるりと辺りを見渡した。
 花京院と関りのあるところで、承太郎には縁のないところ。
 美術室。
 花京院のこととなると、どうしてこう勘が冴えるのかと不思議に思いながら、自分をちらちらと遠巻きに見ている2年生の波の中を、承太郎はゆっくりと歩き出した。


 花京院がいたのは、正確には、美術部部員が集まっている美術室ではなくて、鍵などかかってはいないけれど、教師以外は滅多と入る用もない、美術準備室の方だった。
 ごちゃごちゃと、物が無造作に、けれどきちんと崩れはしないように積み上げてある、物置然とした狭い部屋の中で、花京院は扉の方へ横顔を向けて、真正面にある石膏の像をスケッチしているところだった。
 承太郎は、扉から中へはまだ入らずに、不機嫌なふりで、そこから花京院に声を掛ける。
 「一緒に帰らねえなら、一言くらい言いやがれ。」
 花京院は、承太郎の方を見もせずに、声は聞こえているというつもりか、わずかに肩をすくめて見せた。バカにされているようなそんな素振りに、承太郎は眉間に縦皺を刻んで、聞こえないように舌打ちをする。
 久しぶりに見る、皮肉屋で人嫌いの花京院だった。
 承太郎は、ひとまず一歩中へ入って、扉を閉めた。花京院の不機嫌の理由を知りたくて、まだ引かないことに決める。腹を立てるなら、殴り合いにならないうちに退散すればいい。まさか校内でスタンドを出すことはないだろうと、腹を括って、もう一歩近づいた。
 「美術の授業で、石膏のデッサンだったんだ。時間内に終わらなかったから、居残って仕上げろって言われたんだよ。」
 手は止めずに、けれどようやく、花京院が言葉を発した。
 花京院が得意科目のはずの美術で居残りという珍しさに、承太郎はちょっとだけ目元の険しさをゆるめる。
 作業中の手元を見られるのをひどく嫌う花京院のために、それ以上は近づかずに、承太郎はわざわざ、花京院のスケッチブックが見えないように、半歩右へ寄った。
 「てめーが終わらなかったんなら、クラスの他の連中も終わらなかったんじゃねえのか。」
 ちらりと、花京院の瞳が、承太郎の方へ動いた。涼しいというよりも、冷ややかな視線に、花京院の機嫌の悪さが半端ではないことを悟って、何をしたか自覚はないけれど、自分が何かしたせいらしいと、承太郎はやれやれだせと、聞こえないようにつぶやいた。
 「僕だけだよ。授業中には、全然描けなかったんだ。」
 そう言って、いきなり花京院が、使っていた鉛筆を承太郎の方へ投げつける。
 不意のことに慌てて、承太郎はスタープラチナを出して、顔に当たる前に、その鉛筆を途中で受け止めた。
 「何しやがる。」
 花京院のハイエロファントが、スタープラチナにさえ悟らせない素早さで触手を伸ばしてきて、その鉛筆をひったくる。
 「石膏像が、君に見えて、描けなかったんだ。」
 ハイエロファントから鉛筆を受け取りながら、花京院が承太郎の方は見ずに、早口にそう言った。
 悔しそうに、奥歯を噛んだのが、あごの線でわかる。承太郎は、どう反応していいのかわからずに、鉛筆を受け止めていた手を、まだ下ろせずにいた。
 「終わったら帰る。終わるまで帰れない。だから今日は、君ひとりで先に帰れ。」
 また、一心不乱にスケッチブックに、斜めに傾けた鉛筆の先を滑らせながら、平たい声で花京院が言う。声がかすかに慄えていて、色の薄い唇が、いっそう青冷めている眺めが、存外魅力的で、承太郎はもう少し怒らせてみようかと、物騒なことを考える。
 なるほど、花京院が腹を立てているのは、花京院自身にだ。承太郎にしているのは、これはりっぱな八つ当たりだ。そして、八つ当たりで承太郎に怒ったふりをしている花京院は、眺めている分には、とても興味深い代物だった。
 こんなふうに取り乱している花京院など、滅多と拝めるものではない。このままここにいて、必死に課題を仕上げようとあっぷあっぷしている花京院を、ずっと眺めていたいと心底思いながら、それがどれだけ意地悪かわかるから、言われた通りに承太郎はここから立ち去ることに決めたけれど、それでももう少しだけと、爪先に力を入れる。
 すぐに姿を消してくれない承太郎に、また花京院が神経を逆撫でされたのか、消えかけていたハイエロファントをくっきりと背後に出現させると、いきなり緑の触脚を、今描いている石膏像に絡みつかせた。
 「とっとと出て行けよ、承太郎。僕が、この石膏像を君の頭でぶち割るか、それとも、君のことが好きすぎて怖いんだなんて、たわ言を吐き始める前に、とっとと僕の前から姿を消してくれッ!!」
 もし今、廊下に誰かがいたら、花京院の怒鳴り声---これもまた、珍しい---をはっきり聞いただろう。承太郎にも、もちろんちゃんと聞こえた。
 花京院は、椅子から立ち上がって承太郎を睨みつけているし、ハイエロファントの触脚が、石膏像にひびを入れかけているのを見て、さすがに承太郎はここから出てゆこうと、一歩後ろへ引いて、けれど捨て台詞は忘れない。
 「今日だけはひとりにしてやるぜ、花京院。その代わり、明日は家にも帰さねえから覚えとけ。」
 少し上体を反らし気味に、人差し指を突きつけて、真面目くさって言い放ってやると、一瞬で、花京院の首と頬が、真っ赤になる。ハイエロファントの翠も、ひどく鮮やかに輝いたように見えて、承太郎はにやりと笑ってきびすを返した。
 承太郎ッ!とまた花京院が叫んだけれど、もう扉は閉じていて、その扉にこつんと、何か柔らかいものが当たった音がした。
 消しゴムを投げたのだろうと、承太郎は大声で笑い出したい気分を抑えて、扉から背中を離した。
 収穫の多い1日だったなと、明日に心を馳せながら、ひとり廊下を歩き出す。花京院のいない左側は空っぽだったけれど、さっき見た花京院の様々な表情を思い出すだけで、残りの時間を、ずっとひとりで愉しく過ごせそうだと、ほんの少し意地悪く笑った。


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