青春10のお題@胡蝶の夢

早朝の教室


 たまたま早起きをした朝、まだ読み終えてない図書室から借りた本を片手に、花京院は、まだ誰も登校していないことを願いながら、通学路を走った。
 思った通り、下駄箱のある玄関は開いていても、下駄箱も廊下も、まだ空っぽのままだ。
 空気はしんと冷たくて、花京院は、思わずそうしてしまったかのように、音を立てずに、足音を消して、けれど足早に階段を2段飛ばしに上がってゆく。
 自分の教室のある2階ではなくて、3階を目指して、それから、上がり切った階段から、向こう側の端の階段までの、ちょうど真ん中辺りにある、3年生のある教室を目指して、人気のない廊下がきしむのに、少しばかりびくりと肩をすくめながら。
 花京院は滅多と来ることのない、承太郎の教室。1年生や2年生がここへ来れば、いやでもねめつけるような視線を浴びることになる。ガキがこんなとこで何してやがる、そんな視線だ。大して歳は変わらなくても、最上級生と下級生では、天と地ほどの開きが、実際にあるというわけだ。
 誰もいない、花京院は、ドアや窓から覗ける、教室の中のどれにも、制服の影も形も見えないことを確かめながら、ようやく承太郎の教室にたどり着いて、そうして、まるで忍び込むように、そうっとドアを開ける。
 承太郎の席は、真ん中の列のいちばん後ろだ。そこで足を投げ出すように坐って、窮屈そうに授業を受けている姿を、花京院は1度か2度、見たことがあった。実際には、ハイエロファントをここまで這い上がらせて、何度も承太郎の授業中の様子を窺ったことがある。
 どこへいようと、まったく変わらない不遜な態度で、おもしろくもなさそうに教師の声を聞きながら、それでもたまには真面目に、ノートを取っていることもあって、少しばかり好奇心の浮いた承太郎の横顔に、一体どんな教科の、どんなテーマが好きなのだろうかと、黒板の方へ向かう承太郎の視線を追ったことも、何度かあった。
 受験と進学という、高校最終学年には避けがたい現実が、目の前に迫りつつあった。
 東京の大学へ行くらしい承太郎は、けれど具体的なことはまだ何も口にせず、まるで花京院と同学年であるかのように、周囲の3年生ほど焦っている素振りもなく、よほど自信があるのか、それとも留年くらいはへでもないと、あの豪胆な性格のゆえなのか。
 承太郎がどこへ進学しようと、花京院には関係のない話だ。もちろんそれは、どこへだろうと、必ず追いかけてゆけるという自信がある、という話であって、承太郎の進路を気にしている自分を見つけるたびに、花京院は、自分の胸の内を覗き込まざるをえない状況に追い込まれて、ひとりため息をこぼす。
 廊下の方を振り返ってから、花京院は、意を決して、承太郎の席に腰を下ろした。
 机の高さは、自分のそれと変わらないように思えたけれど、椅子が高い。これでもあの長い足は、きちんと収まらずに、腹立ちまぎれのように投げ出されることになるのか。
 承太郎の姿勢を思い出しながら、花京院は、自分のカバンを承太郎の机の横に掛けて、それから、椅子を思い切り後ろに引いて、だらしなく両足を投げ出してみた。腹の上に両手を組んで、少しあごを引き気味に、承太郎の視界を想像しながら、自分の目の位置を定める。
 あの長身を折り曲げて、一体どんなふうに教室の中を眺めているのだろう。大学へ行けばもう少し、伸びやかに呼吸ができるようになるのだろうか。
 どこにいても窮屈そうなのは、あの長身のせいだけではない。与えられた型にはまることを、とことん毛嫌いする承太郎には、校則や制服や受験や試験というものは、きっとわずらわしいだけだろう。
 命のやり取りに神経をすり減らしながら、けれどどこかのびのびと、常に楽しそうだった、あの旅の間の承太郎を、花京院は鮮やかに思い出すことができる。
 そうして、そんな承太郎に、常に視線を奪われていた自分のことを、もっと鮮やかに思い出して、花京院は、不意に襲われた胸の痛みに、小さなため息を、どこか愉しげに滑り落とす。
 これは恋だ。
 友情というものにすら縁のなかった自分に、突然訪れた、これは恋だ。
 日毎深くなる想いを怖ろしく思いながら、けれど、それにつれて色と鮮やかさを増す自分の世界に、花京院はずっと浮かれたままでいる。
 決して聞き逃すまいと、誰かの一言一句に耳をそばだてる、決して見逃すまいと、誰かの一挙一動に目を凝らす、すべてを憶えているために、自分が精密な録音機器であるかのように、全身を敏感にして、揺れる空気の波すら見えるほど、花京院は、承太郎に向かって開いている。
 それが、愉しくて仕方がない。
 好きだと、心の中で告げるだけだ。それ以上のことをする気はない。いわゆる親友という位置にいられるなら、それをわざわざぶち壊す必要もない。
 それでも、1日1日深くなる気持ちが、少しずつ先走る気配を濃くして、向き合うたびにいやでも真正面に見える承太郎の唇が、自分に触れるところや、あるいは、それに触れる自分の姿を想像することを、今ではもう、止められなくなっている。
 いつも帽子の影に隠れた、濃い深緑の瞳とは対照的に、鮮やかに目立つ、ふっくらとした唇を、グラマラスだと表現してから、ひとりこっそりと頬を赤らめたのは、一体いつのことだったろうか。
 きっとあれは、柔らかくてあたたかいのだろうと、思いながら花京院は、自分の薄い唇を噛む。
 君が好きだ。
 不安定な年頃にありがちな、そんな他愛もない、名すらない想いなのだろうと、自分をなだめながら同時に、ろくな知識もないくせに妙に具体的に、承太郎との未来を想像する自分がいる。
 ひねくれもので陰気な自分にも、そんな可愛らしいところがあったのかと、少し気持ちの悪い気分を味わって、一体いつこんな気持ちとさよならすることになるんだろうなと、5年先の自分の姿を思い描こうとするけれど、うまく像を結ばない。
 5年後の自分の隣りに、やっぱり承太郎が、あの長身で窮屈そうに立っているのだろうかと、そう考えて、胸の辺りが暖かくなった。
 やっぱり君が好きだ。
 花京院は、承太郎の机を、掌ですみずみまで撫でた。
 もう30分もすれば、登校してくる生徒でいっぱいになる校舎の中、この教室にあふれる、承太郎と同じ空間にいられる彼のクラスメートたちに下らない嫉妬をしながら、花京院は、承太郎の机を抱きしめるように、その上に顔を伏せて、両腕を机の裏側にまで伸ばした。
 来年、この机と椅子は、一体誰が使うんだろうかと、そんなことを気にする自分にあきれて、いい加減に図書室へ行こうと、椅子から立ち上がる。
 カバンを取って、けれど立ち去る前に、少しばかりのいたずら心で、ハイエロファントの触手の先をほんの少し、机の上に残しておいた。
 承太郎にだけ見える、ここに自分がいたというしるしを後に、花京院はようやく呼吸を整えて、何事もなかったようにその教室から出て行った。


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