青春10のお題@胡蝶の夢

片思い×片思い


 少し絵を描きたいからと、図書室の奥へ居残ると言った花京院に、承太郎は、棚から本を取り出して、付き合うと、無愛想に言った。
 別に、帰ってもすることもねえしな。
 ほんとうのことなのだろうけれど、案外さびしがり屋なのかもしれないと、花京院は少し笑っただけで、それをいやがりはしない。
 承太郎は、絵を描く花京院の手元が見えないように、椅子ひとつ分間を空けて、図書委員がいやがるのを承知で、どっかりと机の上に、長い足を乗せた。
 別に読みたい本でもなかったけれど、小さなスケッチブックに、寝かせた鉛筆の先をを滑らせる花京院の、熱心な横顔を眺めている方が、ひとりで帰るよりはよっぽどいい。
 けれどそうしながら、そんな熱っぽい視線が、白い紙の上に注がれているのに、ちりちりと焦げるような、小さな嫉妬が湧く。
 何を描いているのかと、スタープラチナを出して覗かせるのは簡単だったけれど、その気配に花京院が気づかないわけもなく、そんなことをしたら、帰れと言われかねないなと、承太郎は視線を本のページの上へ戻した。
 時折、ちらちらとスケッチブックから目元を上げているところを見ると、窓の外かどこか、そんな辺りを眺めているらしい。そこからは、空と雲と、グラウンドの切れ端と、それから葉の繁る樹が見えた。花京院が描いているのはどれだろうかと、視線の方向を見定めようとして、けれどかなわないまま、承太郎はまた、本を読んでいるふりをする。
 しゅっしゅっと、鉛筆の先が滑らかに動いている。ほとんど消しゴムを使っていないと、そんなところまで観察しながら、絵を描く花京院を描けたらと、似合いもしないことを思った自分に、承太郎はこっそりと苦笑した。
 絵を描くのは苦手だ。美術で良い点をもらったことはほとんどない。音楽にしても、ギターを弾きはするけれど、それが学校の成績につながるわけもなく、筆記はともかくも、実技は練習すら熱心にしたことはない。
 けれど色を塗るのは好きだ。絵の具を混ぜて色を作って、白い紙を塗りつぶす。現実にない形や情景を、現実にありえない色合いで埋めるのが好きだ。写実ばかりの美術の時間は、だから苦痛でしかない。
 承太郎の方を見ようともしない花京院を盗み見て、その肌の色をパレットに作ることを想像する。チューブから出した肌色に、白を少し混ぜて、それから、ほんの少しだけ水色を紛れ込ませて、わずかに赤みを帯びているのは、横に広い唇と、耳の輪郭の辺り。どんな色なら、その肌の色を再現できるだろうかと、頭の中で、あれこれと絵の具を選ぶ。
 きっと何か、筆の種類や塗り方もあるのだろう。紙の上に再現される色を思い浮かべて、けれど承太郎にはその腕も知識もなく、頭の中で結ぶ像が、紙の上に表されることはない。
 こっちを向け、と花京院に向かって念じてみた。伝わるはずもなく、花京院は、相変わらず承太郎がいることも忘れたように、紙の上で動く鉛筆の先だけを見つめている。
 何か、色鮮やかな絵を描く画家の画集でもないかと、手にしていた本を閉じかけた時に、花京院が不意に言った。
 「君の絵を、見たことがあるよ。」
 鉛筆の先を操る指先が、止まることはなかった。
 おれの、とうっかり声が上ずった。一体、どの下手くそな、どうしようもなくやる気のない絵が、花京院の目に触れたのだろうかと、慌てて去年からの記憶をたどりながら、柄にもなく狼狽える。
 花京院が初めて承太郎の方へ視線を流して、薄く笑った。
 「ここへ来る前だ。中学の時にだよ。」
 「ちゅうがくぅ?」
 一体何の話かと、帽子のつばの下で、承太郎は眉間にしわを寄せた。
 「中学の時に、君の絵が、参考作品ってヤツさ、美術展に入選した作品だって、授業で紹介されてね。珍しい名前だから覚えてたんだ。」
 「・・・美術展・・・」
 そう自分で呟いてから、承太郎はようやく思い出す。今までに一度だけ、美術で5をもらった時のことを。
 「絵も、好きだったよ。入選作だからとか、そんなのじゃなくて、何て言うか、自由に描いてるっていうそんな感じで、とても好きだった。」
 また自分の手元に視線を戻して、花京院が言葉を続けていた。わずかに微笑んでいる横顔で、お世辞ではないのだとわかる。
 「美術教師が勝手に出品しやがった絵だ、手元に戻って来ねえからどうしたかと思ってたら、年度末になってから入選したとか抜かしやがって・・・」
 珍しく早口に、そんなことを言い訳がましくまくし立てながら、承太郎は帽子のつばを強く引き下げた。寝起きの顔を、不意打ちで見られたような気恥ずかしさに気づかれないように、閉じた本をまた開いて、さり気なさを装ってみる。
 画用紙全体を小さな小さなスペースに区切って、ひとつひとつを塗りつぶして何かの形を表現するという、丁寧さと根気の必要な課題だった。表す形はともかくも、色を塗るという作業に没頭できるのがうれしくて、常にない熱心さで色を選んで作ったことを覚えている。あれだけは、どちらかと言えば嫌いな美術の授業で、唯一楽しい課題だったと、放課後に居残りまでして仕上げたことを、承太郎は思い出していた。
 それなりに権威のある美術展に、その絵を出品した教師の意図はいまだわからないけれど、思いがけず入選してしまったのだから、承太郎の、滅多と外に出ることのない熱意が、絵に表れていたということなのかもしれない。
 ホリィと、その時珍しく家にいた父親の貞夫が、ふたりで連れ立っていそいそと美術展に出掛けて、承太郎の絵の写真を撮って来た。きっとその写真は、ホリィが大事にしているアルバムのどこかに貼られているのだろう。
 唯一自分でも気に入っていたその絵は、結局承太郎本人の手元に戻って来ることはなく、今もどこかの中学で、ずっと年下の生徒たちの目に触れているのかと思うと、照れくさいよりも、何だか不思議な気がした。
 「僕はだから、君のことは、出逢う前から知ってたんだ。」
 「・・・妙な話だな。」
 そうだねと、花京院がまた笑う。
 「僕はずっと絵を習ってたから、そこからはみ出した考え方とか表現なんかがしにくい。でも君のあの絵は、そんな形なんか、まったく無視してるように見えて、うらやましいと思ったんだ。どんな人が、こんな絵を描いたんだろうって、ずいぶん長いこと考えてたよ。」
 流れるような花京院の言葉に、奇妙な熱がこもっていて、そのことにまた、承太郎はひとり戸惑う。
 「僕は、指先でしか絵を描いて来なかったけど、君は、全身全霊であの絵を描いてた。そんなことのできる君を、心底うらやましいと思ったよ。」
 一体誰の話をしてるつもりなんだと、どこかで止めさせなければと、けれどうまい茶々も思いつかない。自分に向けられる見当違いの賛美を、今はうまく聞き流しもできない。
 承太郎は、心底うろたえて、照れていた。
 「・・・おだてたって、何も出ねえぜ。」
 そう言うのが、精一杯だった。
 「君に今さら世辞なんか言ったって仕方ないだろう。」
 花京院が、憮然とした口調にけれど笑みを込めて、そう言い返して来た。
 「・・・君に、あんなふうに、熱心に丁寧に描いてもらえた絵は、とても幸せだと思うよ。」
 あちら側に置いた筆箱に手を伸ばして、鉛筆を取り替えるような仕草で、スケッチブックの陰に、花京院の横顔が隠れてしまった。
 「僕が、あの絵になりたかったくらいだ。」
 まるでその時を狙ったように、少し低い声で、承太郎の方を見ようとはしなかったのは、花京院も照れていたのかもしれない。
 言いたかったのはその一言だったのだと、少し上ずった口調が、承太郎に伝えてくる。
 花京院は、それきりまた、描いている絵に視線を据えて、けれど柔らかく微笑の浮かんだ横顔をこちらに向けて、また鉛筆を滑らせ始めた。
 承太郎は、ふんと、興味などないという素振りをしっかりと見せてから、再び開いた本のページに向かって視線を落とした。


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