青春10のお題@胡蝶の夢

木陰で読書


 昼休み、図書室へ行くのかと思ったら、昨日案外と長い小説を借りてしまった花京院が、
 「教室はうるさいから、外に出るよ。」
 わざわざ誘うという口調ではなく、承太郎にそう言った。
 花京院の、昼休みと放課後の図書室通い---始業前だけはごめんこうむっている---に、いつのまにか付き合うようになっている承太郎は、昼休みなんてどこで過ごそうと一緒だと、黙って花京院と肩を並べて歩き出す。
 まだ寒くなる季節ではないから、校舎の裏側にある、大きな木がまとまった敷地の隅ぎりぎりの木陰へ、ふたりで身を潜めても、空気はまだぽかぽかと暖かい。
 「何読んでやがる。」
 同じ木に背中をもたせかけて、花京院は膝の上に本を開き、承太郎は、短い昼寝のために、学生帽のひさしを下げて目元をいつもより深く隠すと、胸の前で長い腕を組んだ。
 「三国志。」
 小さな単行本の背表紙は3センチほどはあったから、きちんと自分のしおりを持参しているのは花京院の几帳面さの現われだ。
 「君も、1年の時にこの本を読んだんだろう?」
 ふたりとも、互いに顔をそちらに向けもせずに、ぽつぽつと、ぶつ切りの会話を続ける。
 昨日、本の後ろにある貸し出しカードの最初から3人目に、承太郎の名前を見つけて、今よりも幼くてもっとぎこちない承太郎の字に、こっそりと微笑んだことを、花京院は思い出している。
 図書室通いは、もう小学生の頃からの習慣だけれど、友達のいなかった花京院は、貸し出しカードの名前になど、興味を覚えたことなど今までなくて、だから、承太郎と知り合って以来、図書室で手に取る本の貸し出しカードに、承太郎の名前がないかと調べるのが、花京院の新しい習慣になっていた。
 「・・・覚えてねえ。」
 忘れた頃に、承太郎がぼそりと言う。うそだと、明らかにわかるぶっきらぼうさは、同じ文面を花京院がたどって、自分の頭の中を覗き込むだろうことに対する照れ隠しだ。
 追求はせずに、花京院は、読書に没頭することにした。
 本を読むのは、元々大好きだった。
 兄弟のいない花京院には、読書は絶好のひとり遊びだったし、3、4歳の頃にはもう、ひとりで絵本を読んで、何時間でも過ごしていたと母親は言う。
 そのせいか、文字を覚えて書き出すのも他の子たちよりも早く、小学校中学校とも、図書室にばかりいた花京院は、いつもひとりで目立たない、けれど成績だけは良い生徒だった。
 仕事で忙しく、あまり家でのんびり過ごすことのない父親が、あれは小学2年生の頃だったろうか、日曜日の午前中、突然花京院を、一緒に散歩に行こうと誘った。
 父親と、そんなふうに出掛けるということは滅多となかったから、珍しく子どもっぽくはしゃぐ花京院を彼が連れて行ったのは、家から少し遠い、公立図書館だった。
 「まだ、ひとりでここまで来ちゃいけないよ。」
 歩いて30分近くかかるその場所への道順を、一度で覚えられるわけもなく、花京院は、建物の前で、つないでいた父親の手を、ぎゅっと握ったことを覚えている。
 学校の図書室の、何倍もある広さと、何十倍もありそうな本の数と、そして学校では絶対に目にすることのない、もっと年上の人たちの読む種類の本と、花京院は、有頂天になった。
 騒いではいけないと、声をひそめて言う父親を置いて、ひとりで中へ走って入る。背の高い、見上げるような本棚の間をきょろきょろと歩き回って、自分の目線にある本の背表紙を、片っ端からなぞって行った。
 一度に10冊、期限は2週間、そんなことも、学校の図書館とは雲泥の差だった。
 背伸びしても届かないカウンターで、父親は自分の身分証明書を使って、花京院の貸し出しカードを作ってくれた。そんな手続きをする父親を見上げて、花京院は、父親がとても大きく見えたことを思い出す。
 花京院の名前と誕生日と年齢と、住所と、それから保護者の名前---父親の名前---を記入した登録カードは、カウンターの奥の引き出しに納められ、そして、司書---と言うのだと、帰り道、父親が教えてくれた---が、花京院の名前だけの入った薄い水色の貸し出しカードを、手渡してくれた。そのカードは、カウンターのそばに無数に並ぶ小さな引き出しのひとつに、父親の手によって、きちんと納められた。
 か、と書かれた札の貼ってあるその引き出しを指差して、
 「今度来た時は、ここを開けて自分のカードを出して、借りたい本と一緒にあそこに出すんだよ。」
 父親が、カウンターを指差しながら言った。花京院を見下ろして微笑むその目元の表情に、今の自分がとてもよく似てきているのを、花京院は知っている。
 水色の貸し出しカードは、たちまち裏表いっぱいになって、3年生になる前に、2枚目の半ばへ届いていた。4年生になると、自転車に乗ることを許可されて、ひとりでも簡単に来れるようになった。それからは、週に2度は通うようになって、その頃にはもう、子ども向けの本ではなくて、大人の読む小説にも、わからない漢字や表現に頭を悩ましながらも、手を伸ばすようになっていた。
 ぶ厚い、大人が使うような辞書を、両親が買ってくれたのも、その頃だったろうか。
 承太郎の住むこの街へ引っ越して来て、そう言えばずっとばたばたしていたので、まだ公立の図書館へは顔を出していない。この学校の図書室が、案外大きいせいもあった。
 そこでももしかすると、承太郎の名前を見つけるのだろうか。15歳ではなくて、もっと幼い、7歳や8歳の承太郎が、絵本や字の大きな薄い本の中から、ページをくるたびにこぼれ落ちてくるのかもしれない。
 承太郎が、一体いつからこの街に住んでいるのか、確かめたこともないのに、花京院はそんなことを思った。
 「承太郎。」
 しおりをきちんと差し込んで、読んでいた本を閉じた。
 「今度、市立の図書館に連れて行ってくれよ。」
 眠っていたわけではなく、けれどゆっくりと上下していた承太郎の腹の辺りが、ぴたりを動きを止めた。
 親指で、めんどうくさそうな仕草で、帽子のつばを持ち上げる。その下から現れた、濃い深緑の瞳が、じろりとこちらへ動いた。
 「やれやれ、週末まで、てめーの本読みに付き合うのかよ。」
 「土日はいつも、やることがなくて暇だって言ってたじゃないか。」
 「付き合わせるなら、その後でうちに寄れよ。てめーと出掛けると、連れて帰れってオフクロがうるせー。」
 「はは、だったら、出掛ける前に夕食はいらないって言っておくよ。」
 「そうしろ。」
 寄りかかっていた木の幹に背中をずり上げて、帽子をかぶり直しながら、承太郎が、ひどく優しい声を低めた。
 「ついでに、泊まっていけ。」
 うまく反応しそこねて、花京院は、頬を染めることもせずに、顔を斜めに傾けてこちらを見ている承太郎に、奪われた視線を動かせずにいる。
 初めて聞いたわけでもないこんな声音に、けれどいつも花京院は、縛られたように身動きできなくなる。
 何か言い返そうと、唇を動かしかけた途端に、承太郎の後ろから現れたスタープラチナが、ひどく素早い動きで花京院の前へ移動してくると、開きかけた花京院の唇に、自分の唇を押し当てて行った。
 体温などないはずのスタンドの唇が、承太郎のそれのように、熱くて柔らかくて、ほうけた後にようやく、花京院は我に返ってハイエロファントを出そうとする。
 「承太郎ッ!」
 翠の影が完全に姿を現す頃には、もう平然と、木の幹から腰を上げている承太郎がいた。
 「授業に遅れるぜ。」
 からかうように低い声が言って、学生服の長い裾がふわりと舞った。
 「・・・すぐに行くよ。」
 立ち去る承太郎の大きな背中を見送って、花京院には、もう数十秒、よけいに必要だった。
 立ち上がる前に、頬の赤みを消そうと、スタープラチナの触れた唇は避けて、ごしごしと甲で拭う。
 葉陰から、きらきらと降り落ちる陽の光が、手の中の本の表紙に当たって、音もなくそこで砕けていた。


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