青春10のお題@胡蝶の夢
屋上の指定席
こんなことにスタンドを使うのはどうかと、自分でも思いながら、花京院は校舎の最上階へ向かって、ハイエロファントグリーンを這わした。
目指しているのは、最上階をさらに越えて、屋上へ出て、右の角を曲がったところだ。
一度、戦闘の傷で視力を一時的に失って以来、敏感になっている嗅覚は、煙草の匂いを逃さない。
ハイエロファントの伝えてくる気配は、大きな影と、そして煙草の煙。ああいるなと、そう確かめてから、花京院は階段を昇り始めた。
屋上でひとり煙草を吸っている承太郎の様子を、ハイエロファントにまだ探らせながら、少しずつ強くなる煙草の匂いに、ほんの少し眉を寄せる。
4階へたどり着いて、もう人影のない踊り場から、屋上へ続くドアへ向かいかけたところで、承太郎が花京院のハイエロファントの気配にようやく気づいたのか、自分のスタープラチナを出した音---スタンド使いにしか聞こえない---が、鼓膜を破りそうに伝わってくる。
すばやくこちらに引き戻そうとしたけれど、それよりももっと速くスタープラチナの腕に捕らえられて、人型ではあるけれど、顔の造作ははっきりしないハイエロファントの唇があるはずの辺りに、スタープラチナの唇が触れた。
おい、承太郎!
ドアのノブに伸びかけていた手で、慌てて口元を覆って、噛みついてやろうと思っても、ハイエロファントには、そもそも口というものがない。それに比べれば、あらゆるところが主とよく似たスタープラチナの濡れた舌先が、頬の辺りへ滑って行った。
「接近戦で僕を押さえ込むのは卑怯だろう。」
ドアを開けて、右へ足を向ける。承太郎が長い足を持て余すように坐って、壁によりかかって煙草を吸っていた。
「スタープラチナを引っ込めてくれ!」
「ハイエロファントを出したのは、てめーの方が先だろうが。」
ふたりの目の前には、手足を翠に光る紐状にして、必死に逃れようとしているハイエロファントと、それに絡みつかれてもびくともせずにハイエロファントを抱え込んだままのスタープラチナが、主たちのそれぞれの思惑のために、複雑に絡み合っている。
スタープラチナが、出現した時に比べれば穏やかな音を立てて、すっと消え去る。
やれやれと詰襟の前の辺りを、ほっとしたように撫でて、花京院もハイエロファントを引っ込めた。
「まったく。ここに君がいるかどうか、先に確かめようとしただけじゃないか。」
「そんなくだんねえことにスタンド使ってんじゃねえ。」
口ほどにはふたりとも、怒ってはいない表情で、花京院は承太郎の隣りに腰を下ろす。
日の当たるコンクリートが剥き出しの屋上は、上着を脱ぎたいほどに暖かかった。
承太郎は、火をつけたばかりらしい長い煙草を、軽く上向いて、うまそうに喫っている。花京院は、その横顔を眺めてから、持って来た紅茶の缶のプルトップを開けた。
ここは、承太郎の指定席だ。教師たちも、承太郎以前にここで煙草を喫っていた生徒を、見つけるたびに厳しく罰していたらしいのだけれど、承太郎だけはなぜかその難を逃れていて、今では承太郎---と花京院---以外の誰も、ここへは上がって来ない。
学校でわざわざ煙草を喫いたいとは思わないなあ。
缶の紅茶を飲んで、花京院は思う。
喫煙の習慣があるとは言っても、別にヘビー・スモーカーではなく、丸1日喫わないこともあることを、花京院は知っている。承太郎のそれは、今おれの邪魔をするなという、わかりやすい看板のようなものなのかもしれないと、以前考えたことがあった。
喫煙の習慣、特に未成年のそれを、良いことだとはちっとも思わないけれど、煙草を喫う承太郎のそばにいることが、花京院は別にいやではなかった。
じじっと、音を立てて、煙草の先が燃えている。灰が、落ちもせずにそこにとどまっていて、今日は風もない空気の中に、紫煙が、わずかにゆらめて見える。
承太郎は、左手に持っていた、小さな筒状の携帯灰皿に、煙草の灰を落として、それから、煙草を持っている右手を、花京院の方へ差し出してきた。
「一口くれ。」
「これ、ミルクティーだよ、甘いよ。」
きちんと豆から挽いたコーヒーの好きな承太郎に、缶を見せて警告したけれど、承太郎は早くよこせと指先を振る。
花京院は、承太郎の指から煙草を取り上げて、代わりに自分の紅茶を手渡した。
半分ほど残った煙草のフィルターが、少し濡れているのを見てから、花京院は、それを自分の口元へ運んだ。
花京院の缶の紅茶を飲みながら、承太郎が目を見開く。
「喫うのか。」
咎めている口調ではなくて、ただ驚いて、承太郎が訊いた。
「喫わないよ。くわえてるだけさ。」
それでも、口の中にだけ煙を吸い込んで、すぐに吐き出して、喫っているというポーズだけは楽しんでみる。
承太郎の匂いだと、そう思って、花京院は照れくささを隠すために、胸元に膝を抱き寄せた。
缶の紅茶と煙草を取り替えて、まだそのまま、花京院は、何度か承太郎の煙草を口元に運ぶ。手つきが馴れなくて、少しずつ短くなる煙草を、指先から落としそうになりながら、それでも、制服の上に灰を落とすという不様はうまく避けて、花京院は、承太郎の手ごと、携帯灰皿に空いた方の手を添えて、見よう見真似でそこに灰を落とす。
承太郎が、缶を花京院に渡して来た。花京院は、煙草を承太郎に返して、紅茶を受け取って、それから、抱えた膝の上にあごを乗せて、少し自堕落な仕草で缶の中身を口の中へ流し込む。
「・・・君のいれたコーヒーが飲みたいな。」
煙を吸い込む承太郎の胸が、大きくふくらんだのが見えた。
「放課後、ウチに来るか?」
まんざら冗談でもなさそうに、承太郎が言って、花京院の方を避けて、煙を吐き出した。
「ここで飲みたいな、できたら。」
「ハイエロファントに運ばせるか。」
「ハイエロファントじゃあ、距離が足りない。」
「じゃああきらめろ。」
「魔法瓶にでも入れて持って来ればいいじゃないか。」
「・・・オフクロに届けさせるか・・・。」
少し低めた承太郎の声に、ふたりは顔を見合わせて、そうして、それが果たして良い考えなのかどうか、同時に考え込む表情を浮かべる。
承太郎が、喫っていた煙草を、携帯灰皿の中で揉み消して、蓋を閉めたそれを、ポケットの中に戻す。
「・・・僕らなら、校舎の外から、ここまで上がって来れるけど・・・。」
缶の中身を確かめるために、軽く振って、その音に紛れるように言ってみた。
「・・・日曜なら、誰もいねえな。」
「・・・ホリィさんのサンドイッチ、トマトとレタスとハムのやつがサイコーなんだけどな。」
無責任に、願望だけを口にしてみる。承太郎が、少しだけ呆れたように、胸元にあごを引きつけた。
「てめーで言いやがれ、コーヒーは俺が責任持ってやる。」
「楽しみだな。」
屋上のピクニックが、ほんとうに実現するかどうか、花京院は、楽しみで声を立てて笑った。
残っていた紅茶の残りを、空に向かって仰向いて、伸ばした喉の奥に、一気に飲み干す。
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