青春10のお題@胡蝶の夢

夏の終わり


 何の気まぐれだったのか、花京院の放課後の図書室通いが少し長引いて、承太郎は、花京院が美術部の顧問教師から特別に貸し出してもらっていた、メキシコ人の女性画家の画集を、飽きもせずに眺めて、花京院が借りる本をなかなか選べずに、あれこれと迷っているのを、おとなしく待っていた。
 閉館時間だと、いちばん奥の方へいたふたりにも声が届き、そう言えば、グラウンドのざわめきはもう遠く、廊下を歩き回る生徒の気配もない。
 放課後どころか、下校を促されて、校舎が空になる時間だ。
 花京院は結局、珍しく何も借りないまま、空手で図書室を後にした。
 この間まで、こんな時間でも外はまだ昼間のように明るく、夕方の気配などどこにもなかったと言うのに、あまり見ることのない、人気のない学校の中には、すでに夕暮れの色が迫り始めていた。
 図書室のある校舎の1階へ、ほとんど下りてしまってから、突然、承太郎が、
 「教室へ行ってみようぜ。」
 2段先を下りていた花京院は、下から、承太郎の、ちょっといたずらっぽい表情を、いつもよりもきつい角度で見上げる。
 「今からかい。」
 いやだという口調ではなく、一応確かめるように問い返して、承太郎が長い学生服の裾をひるがえして、今下りてきた階段をまた上がっていくのに、花京院も素直について行った。
 図書室のある2階へ戻って、そこから、教室のある校舎へ、屋根のある渡り廊下を渡る。鍵を掛けられてしまうと、外へ出れなくなるなと、承太郎のすぐ後ろを歩きながら思って、それから、スタンドを使えば、3階からでも外へ出られることを思い出して、花京院はちょっとだけ肩をすくめた。
 承太郎が行った教室というのは、3年生のではなく、2年生の、花京院のいるクラスだった。
 クラスでは、身長順に並べばいちばん最後から数えた方が早い花京院は、教室の後ろから2番目、窓際から2番目の席に坐っていて、まっすぐその机へ向かった承太郎は、後からついて来る花京院を振り向きながら、大きな掌で、机の表面を撫でた。
 「キミが坐れる椅子や机があるってのが驚きだな。」
 「足が入らねえ。寝ようと思うと、腕がはみ出すしな。」
 教室でも帽子を脱がない承太郎---教師たちは、とっくにあきらめているらしい---は、それだけでも充分に目立つのに、長い足と大きな体のせいで机や椅子に納まりきらず、教室のいちばん後ろの席で、椅子を思い切り後ろに引いて、足を投げ出して授業を受けている。教科書は膝の上、ノートも---取っているなら---膝の上、あるいは、堂々と胸の前に腕を組んで、首を折って居眠りをしているか。そんな姿が教師の神経を逆撫でしないわけもないのだろうけれど、売られたケンカを買いすぎて、警察沙汰も数え切れなかったらしい承太郎に、いちいち今さら文句を言う教師もいない。
 カーテンを引かない大きな窓は、そこから中庭が見渡せて、目を刺すような激しさを失いつつある陽の光が、眠くなるような陽だまりを、教室の中に作っている。
 生徒たちでいっぱいの、昼間の教室とは違って、やや赤みの増した、切り取られたような眺めは、何となく感傷的な気分を誘う。
 ふたりは、言い合わせたように、窓際へ並んだ。
 「もう、みんな下校したのかな。」
 向かいの校舎の窓にも、人影は見えない。廊下も、しんと静まり返ったままだ。
 そろそろ、居残っている生徒をきちんと追い出すために、教師が見回りにやってくるのかもしれない。
 こんな時間まで教室に残っていることはないから、よくはわからなかったけれど。
 「・・・ずいぶん、日が短くなったなあ・・・。」
 ひとり言のつもりで、花京院はつぶやいた。
 承太郎が、音をさせずに、持っていたカバンと花京院の画集を、傍の机の上に置いた。
 長い腕が、腰に回ってくる。承太郎の方へ顔を振り向けながら、花京院は、一応形だけは逆らってみる。
 「・・・誰かに、見られるよ。」
 承太郎の手が伸びてきて、花京院のカバンを取り上げて、少しばかり本気で、花京院を抱き寄せにかかる。
 「腹くくりやがれ。」
 「君は来年卒業だからいいけど、僕はもう1年あるんだけどなあ。」
 言いながら、けれど胸を反らして、承太郎の長身に添いながら、花京院はひどくゆっくりと瞬きをした。
 少し顔を上げれば、すぐそばに承太郎の唇がある。ふっくらと厚みのある、奇妙に紅い唇は、血の気の薄い花京院の唇に比べると、いつも必ず暖かい。
 花京院の背中を窓に押しつけるようにして、承太郎が、唇の位置を落としてきた。
 唇は、唇ではなくて、目元に落ちてくる。
 眼球を食べられるという、奇妙な予感がして、花京院は目を閉じて、くたりと体の力を抜いた。
 片腕だけで花京院を抱いて、承太郎は、もう片方の掌で、花京院の頬の辺りを撫でる。そうしながら、唇と湿った舌先が、花京院の両目の上にうっすらと残った、縦に走る傷跡をたどる。
 案外と長いその傷は、髪の生え際から始まって、頬骨に届く辺りで終わっている。よく見なければもう、そんな傷跡があるともわからず、形の良い眉の上に目を凝らしても、その傷を負った砂漠に、一緒にいた承太郎だけが、今は痕をたどることができる。
 舌が、まるであの時流れた血を舐め取るように、何度も何度も、傷跡の上をなぞって行った。
 あの時、そうしてしまいそうだったから。両目から血を流して、気を失っていた花京院を抱いて、その血を啜りとってしまいたいと、そう思っていたから。
 失明するかもしれないと、ひどくうろたえたことと、その後で、大したことはないと知って安堵したことと、その間で、自分の目を差し出せるかと、真剣に考えたことを思い出す。
 「くすぐったいよ、承太郎。」
 いつまでも、目の傷を舐めるのをやめない承太郎に、花京院が小さく言った。
 花京院の目元を、掌で覆って、耳元に、唇を寄せた。
 「大したことがなくて、よかったぜ・・・。」
 視界を覆われて、振り払うように軽く首を振りながら、花京院がかすかに声を立てて笑う。
 「はは、大したことじゃなくなったね、結局。」
 花京院の掌が、自分のみぞおちの辺りを撫でた。
 そこに空いていた穴から、向こうの景色が血まみれで見えそうだったのを知っているのは、今では承太郎だけだ。
 大きな引きつれと縫い跡を残して、不自然にせよ穴は閉じられ、そうして、あの旅は終わりを告げた。
 だから今、ふたりはこうして、放課後の教室で、微笑み合っていられる。
 ぎらつく太陽と、乾いた空気と、砂だらけの風景と、聞いたこともない言葉と、そして、怖ろしい敵と。
 探せば、名残りはいくらでもある。けれど、あの旅は終わったのだ。
 日差しの色が、いっそう濃さを増して、闇の気配をかすかに含み始めていた。
 その気配を恐れていた、あの旅の終わりを思い出したのは、ふたり同時に窓の外へ視線を投げた時だったのかもしれない。
 今度こそ、承太郎は、花京院の薄い唇に、自分の唇を押し当てた。
 まだ暑さがなまぬるく残る教室の中で、温度の違う唇が重なって、ゆるりと空気が揺れる。
 互いの背中に、しっかりと両腕を回して、ふたりは、恐らく同じ場所と時間へ思いを馳せながら、長い間身じろぎもしなかった。
 薄暗さの増す廊下に、人の気配はまだない。


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