Angst
夢かと思ったのに、掌の中にある鎖の感触はひどく現実的で、いつの間にそうしたのか、少し太めのその鎖は、しっかりと拳に巻かれていた。
鎖の先は、黒っぽい革の首輪に繋がっていて、その首輪は、花京院の首にしっかりと回っている。
闇の中に、そこだけきれいに切り取られたように、白くにじむ花京院の姿は、どう見ても普通ではなかったけれど、今はそれに気を使う気にはならず、3歩分離れて、床に這うように手足をついている花京院に向かって、承太郎は、ひどく冷たい仕草で鎖を引いた。
「ここに来い。」
自分の足元へあごを振る。
先の尖った革のブーツには傷ひとつなく、闇の中でも、なぜかそれははっきりと見えた。
あの頃、承太郎の履いていた革靴は、いつだって傷だらけで埃だらけだった。花京院の靴もそうだった。砂漠や舗装されていない道---とすら呼べない道---ばかりを歩いていたから、休む間もなく襲ってくる敵たちと、闘うだけの毎日だったから。
あの頃よりも、わずかに筋肉の落ちた体は、一体花京院の目にはどう映っているのかと、ゆっくりと床を這ってくる花京院を見ながら、承太郎は静かにあごを引く。
もうあの裾の長い学生服ではないけれど、帽子も、足首に届きそうなコートも、そのコートの襟元から伸びる碇を模した鎖も、結局のところは、あの頃と大して変わっているようにも思えない。けれどそう思っているのは承太郎だけで、今承太郎の足元へ這い寄りながら、花京院は承太郎を見上げて、これは一体誰だったろうかと、内心首をひねっているのかもしれないと、自虐的に考えていた。
花京院が近づいたせいで、たるんで床にぐねぐねと線を描く鎖を、承太郎はわざと音をさせて引き寄せると、まるでその場で首を吊り上げる意図でもあるかのように、鎖を手にしたまま、頭上よりさらに上に腕を伸ばす。
不意に引き上げられたことに逆らいもせず、花京院は首輪の回った喉を伸ばして、声も立てずに膝立ちになる。
崇拝すべき誰かの前に引き立てられた咎人か何か、そんな仕草で、承太郎を見上げている。
床にわずかに引きずる学生服の上着は、着古された様子もなく、珍しく前が全部開いていた。その下の、目に痛いほど白いシャツは、襟が乱れて、みぞおちの辺りまでボタンが外れている。下肢は、上着やシャツに覆われている以外は剥き出しだ。えぐれたように、骨と筋肉の形に張りついているくるぶしの皮膚が、はっきりと見えた。裸の爪先すら、見たこともなかったから、承太郎は、思わず花京院の素足に向かって、すっと目を細めていた。
にせものかもしれないと、思った。これは、花京院なんかではないのかもしれない。承太郎の知っている花京院は、服従を強制されるなら、その場で首を切り落とされることを願うような、そんな男だった。
男、と思ってから、少年と、頭の中で言い換えた。
40を過ぎてしまった男にとって、17というのは、まだ子どもでしかない。
そう思って、ようやくいとしさが、堰を切ったようにあふれて来た。
あの頃と比べれば、いささか変質してしまったいとしさは、触れれば切れそうな真っ直ぐさと純粋さを失った---完全にでは、ないにせよ---代わりに、深さと熱さを増している。増し続けている。それをもう、承太郎は止める術を知らなかった。
あまりにも長く、花京院を待ち続けていたので。
上げていた腕を下ろして、もう一方の手で、花京院の頬に触れた。指先に髪が当たる。皮膚のぬくもりに、心のどこかで安堵しながら、自分を見つめたままの花京院を見つめ返して、その唇に、親指の腹を滑らせた。
「何か言え。」
承太郎の親指の下で、戸惑ったように、花京院の唇がわずかに動く。声を失った人のように、喉の辺りが軽くあえいでいるのが見えた。
横に広い薄い唇が、数度かすかに開いては閉じた後で、
「・・・承太郎。」
なめらかに発音された言葉だったけれど、それを思い出すのに時間がかかったのだとでも言いたげに、まだ戸惑うように、花京院の唇が慄えている。
「もっと言え。」
今度はあまり間を置かずに、また花京院が、承太郎と呼んだ。
喉でだけで声を出している、どこか通りの悪い発声を訝しんで、けれど今は、大声でなくても声が届く距離であることと、何よりも花京院の声がじかに聞けたことをひそかに喜んで、承太郎はもう一度、いとしさを込めて花京院の頬を撫でた。
唇に触れたままだった親指の先で、合わせ目をなぞる。その動きに合わせたようにうっすらと開いた唇の間に、承太郎は、やや乱暴に親指を差し込んだ。
割った歯列の間から、舌先が伸びてくる。そうして、承太郎の親指を、舐めた。
何かが、自分を憐れんでいるのだと悟って、承太郎はもっと深く、自分の指を花京院の唇の間に突き立てる。その根元を、花京院が軽く噛んで、止めた。
きっと、何をしても許されるのだろう。どんな振る舞いも、今まで待った時間の長さゆえに正当化されるのだと、そんならしくもないことを考えながら、静かに自分の指を食んでいる花京院を見下ろして、承太郎は今、待ち続けた時間の長さを憎み始めていた。
後ろにあるソファは、けれどひとり掛けだ。承太郎の長身も、あまり無理せずに収めてくれる。手にした鎖をゆるめはしないまま、ぎゅっと鳴る革の感触の中に背中を馴染ませて、承太郎は、尊大な仕草で、花京院に向かって膝を大きく開く。
「来い。」
短く命令すると、反抗の言葉も表情もなく、花京院がまたゆっくりと這い寄ってくる。
鎖と首輪のせいで、まるで飼われているけもののようだ。人には馴れないはずの、肉食の動物を想像しながら、自分の膝に両手を掛けている花京院をもっと近くに、鎖を引いて引き寄せる。
言葉ではなくて、手の仕草と鎖の動きで促した。承太郎の思う先を正確に読み取って---とても、意外なことだった---、花京院の手指が、承太郎のベルトを音もさせずに解いた。
あの頃、胸や肩の厚さを裏切るように、削いだ線で描かれていた腹の辺りは、今は、薄いシャツの上に筋肉の形がはっきりと現れている。しなやかさは失っても、靭さは変わらない。そこに今、花京院が、掌を乗せている。
触れられているのだと思って、その手を一度、自分の口元に引き寄せた。
指の長い手だ。癇性に切り込まれた爪は白っぽく、骨張った手首に続く掌のふっくらとした線の健やかさに、承太郎は思わず目元をなごませる。
「・・・承太郎。」
また、花京院が呼んだ。
伸びた腕と広げた掌越しに、見上げている。乱れたシャツと、革の首輪がなければ、あのままの花京院だ。不意に、手の中に巻いている鎖のことを思い出して、承太郎は、また唇を冷たく引き締める。
膝を軽く持ち上げて、花京院の脇腹の辺りを軽くつつくようにして、先を促した。
離した花京院の手は、名残り惜しそうに承太郎の、コートの胸元を滑り、それから、下腹へ戻っていった。
唇が開く。いつだって固く結ばれたまま、ろくに開くことさえなかった。声を立てて笑うようになったのは、いつからだったろう。その声と表情が、いつだって鮮やかに思い出せるように、承太郎の中に刻み込まれてしまうには、時間が足りなかった。笑う花京院の声も唇の形も、憶えていると言えるほどは、はっきりと憶えてはいなかった。
そんなもの、いつだって見れると、そう思っていたから。
両手を添えて、扱いきれないという、わずかに苛立ちと焦りの見える表情を口元に刷いて、花京院は、張りつめた承太郎のそれが表す線が鋭く尖る辺りに、軽く歯を立てる。すでにすっかり勃ち上がっているそれに、ややひるんだ様子で、完全に口の中に収めてしまうにはためらいがあるのか、伸ばした舌先で、探るように、そっと舐める。
あたたかな舌が、そこで動く。添えられた節の高い指が、そんな必要もないのに、壊れものでも扱うように---それとも、単なる困惑と躊躇の仕草なのか---、力は入れずに絡んでくる。
焦れたわけではなかったけれど、承太郎は、不意に花京院のあごを片手で引き寄せて、もっと奥へ、自分で突き入れていた。
むごく扱いたいわけではなく、ただ我慢ができずに、待っていた時間の長さの中で、真綿で首を絞められるように、心がじわじわと殺されていたのだと、今ようやく思いついている。それを、性急に取り戻そうとするかのように、今、花京院の唇を、思いやりもなく侵している。
具体的に、一体何をしたかったのだろう。触れ合うどころか、剥き出しの膚を見ることさえ、滅多となかった、あの50日の旅の間に、自分は一体何を望んでいたのだろうかと、遠くなってしまっている記憶を手探りでたぐり寄せながら、識らなかったからこそ、躯を重ねるという安直で陳腐なことは考えつきもしなかった自分の、あの頃の幼さ---若さではなく---を醜悪だと今思えるのは、きっと承太郎が、きちんと大人になってしまっているからだ。
あのままだったら、ふたりは笑い合って、識らないということを、際限のない情熱で埋め合わせて、もっと優しく互いに手を伸ばし合えたのだろうか。
40を越えた承太郎には、19になる娘がいて、花京院は、その娘よりもさらに若いのだと思えば、歳ばかり取ったくせに、心はあの頃に置き去りにされたままの自分の不安定さを、まるで八つ当たりのように---ほんとうは、違う---、花京院にぶつけようとしている。
怒りだ。長い間、どこへあるとも知れず、心の底に、澱のように淀み降り積もっていた、静かに静かにそこに在った、深くて冷たい、怒りだ。
花京院を失ったという、怒りだ。
いきなり、鎖を右の方へ引いた。承太郎の膝の間で、つたない仕草で顔と手を動かしていた花京院が、不意に体を斜め後ろに引かれて、驚いた表情を浮かべて、肩を不自然に揺らす。
あまり余裕のない首輪の内側へ指先を差し込んで、承太郎は、荒々しく花京院をまた自分の方へ引き寄せると、拳に巻いていた鎖をじゃらりと振り外して床に放り投げて、引き破りそうな勢いで、花京院の制服を脱がせた。
留めるものなど何もない、つるりとした裏地の制服の上着は、白いシャツの肩を滑って、簡単に床に落ちる。両腕を抜かせて、その間にも引き寄せた首輪をゆるめることはせず、半ばボタンの外れた、胸元が剥き出しになっている白いシャツだけになった花京院を、捕らえて皮を剥いだ獲物のように、自分の膝の上へ、背中から抱え上げる。
シャツの裾に両手を滑り込ませて、腰を支えた。
背骨の終わりが見える。自分の膝の上で、無理に足を開いた形に、不安定に揺れる肩を支えるように、花京院の全身の筋肉が緊張しているのが、シャツの上からも見て取れた。
痛めつけるように、そこで、無理に躯を繋げた。そんな姿勢では、どちらも苦しいだけだとわかっていて、今必要なのは苦痛なのだと、承太郎は、無理矢理花京院の中に押し入ると、耐えようとする花京院をいっそう苛むように、両手を背中の方へまとめてしまう。そうして、首輪から垂れて、動く承太郎につれてふらふらと揺れている鎖で、束ねた両手首を巻いてまとめた。
花京院の喉が、両手の重さに引かれて、反る。かまわずに、下から、動く。
思わず開いた唇から、殺した悲鳴が、かすかにもれていた。
苦しい。何もかも。苦痛だらけだ。
両手を添えて、いっそう足を大きく開かせると、さらに不安定になって揺れる花京院の体を、承太郎は自分の胸に抱き止めた。
胸と背中が重なる。シャツに隔てられて、けれど、躯の熱さは、きちんと伝わる。革のソファが、こすれ合う皮膚のように、湿った音を立てていた。
覚えもない硬さに勃起したそれが、花京院の中に、今間違いなく出入りしている。狭い筋肉を押し開いて、なまあたたかい粘膜の奥へ、浸り込もうと、それを受け入れている花京院の苦痛には知らん振りをして、承太郎はいっそう深く、自分に近く、花京院を抱き込んだ。
承太郎の腹と自分の背中に挟まれた、鎖に巻かれた花京院の手が、そこだけはきちんと抗うように、承太郎が動くたびに、わずかにもがく。
あの赤いピアスの揺れる耳朶を、唇だけで噛んだ。それから、歯を立てた。
熱くて、苦しい。全身の血が、逆流している。
反った背中の表情に満足できなくなって、承太郎は、花京院の目の前に、スタープラチナを呼び出した。目の前に突然現れた青い巨人の姿に、花京院が目を見開く。それを、スタープラチナが、黙って見ている。
青い、巨(おお)きな手が、花京院に伸びる。首と肩に触れ、大きさとぶ厚さに似合わない穏やかな手つきで、残っていたシャツのボタンを外す。
承太郎は、相変わらず容赦もなく花京院を揺すりながら、今は目を閉じて、花京院のうなじの辺りに額をこすりつけている。
すっかり開いてしまったシャツの前から両手をそれぞれに差し入れて、スタープラチナは、花京院のシャツを、肩と腕から滑り落とした。
なぜかその時だけ、ひどく悲しそうに目元を歪めて、花京院が、乱れた前髪の奥で目を伏せて、やめろと、小さく言った。
背中でまとめられた手首に引っ掛かったシャツは、くしゃくしゃに波打って、みじめに見えた。
スタープラチナが、花京院を見ている。花京院の剥き出しになった体の前面から、承太郎の着ているシャツの星模様の一部が見えた。花京院を揺すり上げて、そのせいで線をあらわにしている胸の辺りの筋肉の形が、なぜか見えた。
スタープラチナは、血まみれの穴を覗き込んでいる。ぐしゃぐしゃに潰されてしまっている筋肉の断片と、砕けた骨の名残りの尖りと、切れてしまった神経や血管の残骸と、血は乾いているように見えたけれど、穴の内側は、内臓の湿りで、生々しい艶を見せていた。
その穴を、承太郎は、背中の側から見ている。
スタープラチナの、薄青い皮膚が見える。血の色とその青は、どう考えても気持ちの良い組み合わせとは思えず、それを理由に目をそらしてしまおうとして、けれど承太郎は、貫通しているその血まみれの穴から見える光景から、目が離せない。
鮮やかな赤だ。花京院の、これは間違いなく内側だ。
今自分が入り込んでいる、末端ではなく、これは、花京院の体の、内側の真ん中だ。心があると言われる、心臓の近く、そここそが、花京院そのもののように思えた。
承太郎は、躯の動きを止めた。そうして、向こうから花京院---と自分---を見ているスタープラチナを、穴越しに見返して、数瞬の間に迷う心を定めて、花京院のその傷に、そっと唇を寄せた。
血の匂いに、けれど躊躇もせず、内側へ向かって、舌を伸ばした。
生ぬるく、鉄の味が舌に乗る。もう、されるままになっている花京院に、ようやく憐れが湧いて、この血の匂いと味は憶えておこうと、承太郎は、ゆっくりと自分の、花京院の血と体液に濡れている唇を舐めた。
それから、ぽっかりと開いた穴の向こうを眺めながら、そうしてみたい気持ちに勝てずに、花京院の肩甲骨に両手を添えた後で、右手の指を揃えて伸ばすと、そのまま、静かに花京院の傷の中に差し入れる。
触れれば痛むとか、そんなことは思いつきもしなかった。
ぬるりと、中で触れる。引きちぎれてしまった筋肉や、砕けずに残った内臓や、そこからにじむ血や、そんなものが、差し入れた手に触れる。胸の前まで突き通るのに、さして時間も掛からず、人のからだというのは、案外と儚いものだと、手首から肘の距離にも足らない花京院の胸の厚みに、あの時の花京院の幼さを、承太郎は悲しさとともに実感している。
内側を見られ、触れられていることを恥じるように、初めて、花京院の残った内臓が、承太郎に触れて、ゆらりとうごめいた。
承太郎は、花京院の胸から尽き出した手を、そこで大きく開いた。それを、胸元にあごを引き寄せて見下ろしている花京院を、スタープラチナがじっと見ている。
今承太郎の頬を濡らしているのは、花京院の血ではない。唇の端に伝う自分のそれに気がついて、承太郎は、花京院が泣いているのにも気がついた。スタープラチナが伸ばして拭ったその指先を濡らしているのは、間違いなく花京院の涙だ。
花京院の体の真ん中を通った腕を、承太郎はようやく引き抜いて、まだ躯は繋げたままで、花京院の髪の中に指をもぐり込ませると、自分の方へ無理に引き寄せた。
とがったあごが、上向く。その横顔へ向かって、唇を寄せる。涙に湿った唇を重ねて、互いの苦痛をいたわるために、触れるだけの接吻をする。
唇を重ねたまま、承太郎は、花京院の手首から鎖をほどいて、スタープラチナが、首に回っていた首輪を外して、どこかへ放り投げた。
唇が離れても、花京院は承太郎に向かって上半身をねじったまま、自分の肩口へ承太郎の首筋を抱き寄せ、そうして、涙を舐めた。その涙が、自分のためだけに流されたのではないと知っていても、花京院は、承太郎の苦しみを放っておくことはできずに、その塩からい涙を、ゆっくりと舐めた。
花京院に抱き寄せられたまま、承太郎は、あたたかく湿った舌にあやされながら、同じほどあたたかい花京院の中で、自分の怒りがゆっくりと鎮まってゆくのを感じている。
スタープラチナが、承太郎の涙を舐め取っている花京院の頬を、濃い青い舌で、承太郎の代わりに舐めた。
無残に貫かれた穴を、今は正視もできないように思えて、塞ぐためのように、そこに薄青い掌を乗せ、そうして、スタープラチナ---承太郎---は、気がついてしまった。
気がついて、承太郎は、花京院に抱かれたまま、耐え切れずに、声を放って泣き始めた。
心臓がない。
鼓動が聞こえない。
そこを突き抜けた拳が、花京院の心臓を、跡形もなく、こなごなに砕いてしまったのか。
自分の肩に額をこすりつけて泣く承太郎の、心の動きを悟ったのか、花京院は悲しみばかりの笑みを浮かべて、自分の胸に乗ったスタープラチナの手に自分の手を重ね、自分の膚を濡らす承太郎の涙を、時折思い出したように、指先ですくい取ることを繰り返している。
胸に穴を開けた、裸の花京院に背中からしがみつき、承太郎はもう、自分の苦痛に終わりがないことを悟って、そうして、その苦痛をやわらげてくれるのは花京院だけなのだと、染み通るように思いながら、叫ぶように、泣き続けた。
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