Anarchy-X




 道の端(はた)、背の高い花壇状に、小さな花々の植えられているその縁に腰を下ろし、承太郎は、行きかう人々をぼんやりと眺めていた。
 まだ午後の浅い頃、昼食は終わってしまっているこの時間、道を行く人々は誰も何かに追われているような足取りで、みすぼらしい格好で道端に佇んでいる承 太郎になど、一瞥もくれない。
 その人たちの、何かを見据えているような視線をすくい取って、承太郎は意味もなく微笑んだ。
 彼らを、うらやましいとはちっとも思わない。
 仕事を持ち、忙しく日々を過ごし、きっと養うべき家族がいるのだろう。そのために、金を得ようと目の色を変え、そのことで操られているなどとは、1分た りとも思わないだろう彼らだ。
 承太郎は、まるで誰かに向かっているかのように、わずかに肩をすくめた。
 夏が終わって、もうじき、凍死を心配しなければならない冬がやって来る。今はまだ、路上で夜を過ごす必要はないけれど、今いる場所をいつ失うか、承太郎 にもわからない。ずいぶんと長い間、空腹をきちんと満たすだけの食事にありつけたことはないし、ひとりきりで過ごした冬の寒さに、それをちゃんと防げる服 もなかった。
 承太郎は、ずっと飢え続けていた。
 それは、何か食べたいというだけの飢えではなく、きちんと洗濯された清潔なシーツの上で、何の不安も心配もなくぐっすりと眠りたいという飢えだけでもな く、もっと腹の底の方から突き上げてくる、叫びにも似た何かだった。
 何かがおかしいと、ずっと感じ続けている。何かが噛み合わない。どこにいても場違いな気がして、そこを飛び出した先でまた、同じように居心地の悪さを感 じるのだ。承太郎は、そうやって生き続けていた。
 世界が、自分を拒んでいる。ひと握りの、たまたま運の良かった人間が支配しているこの世界が、承太郎を拒んでいる。
 役立たずで能無しのおまえは、この世にはいらない人間だ。醜いなりで歩き回って、美しくあるべきこの世界を、ただ息をして存在しているというだけで汚す ような輩じゃないか。そんな声を、いつも頭の中で聞いていた。
 そうして、その声に逆らいながら、いつの間にか、そういう人間たちが落ちてゆく吹き溜まりに、承太郎も流され、たどり着いていた。
 弱者ばかりの世界。その中でなら、拒まれることはない。積極的に受け入れることもしない代わりに、承太郎がそこで何をしようと、それなりに形作られた秩 序を乱さない限りには、承太郎には、気ままに息をして生きるという自由が与えられる。
 明日、ベッドの中でひとり息絶えているかもしれないという、そういう自由だ。
 それが、承太郎の手の中にあるすべてだった。
 その自由は、ああやって忙(せわ)しく歩き回る恵まれた人間たちの生き方よりも、価値のあるもののような気がして、自分はその自由な生き方を選んだのだ と、承太郎は必死で胸を張ろうとしている。
 ただ、周囲がそうしているからという理由で、学校へ行き、卒業して仕事を見つけ、そうすることが当たり前だからと、何の疑問も抱かずに結婚して子どもを つくり、家族のためと言われて、骨身を削り続ける。ああいう連中は、操られて搾取されていることに気づかないのだと、承太郎は思う。
 家族を人質に取られ、働いても働いても、そのことで潤うのは、彼ら自身ではなく、ひと握りの、自力では椅子から立ち上がりもしないどこかにいる連中が、 世界の努力をかすめ取って、そうして、この世界を支配している。
 そんなシステムに組み込まれるのはまっぴらだ。
 そこからこぼれ落ちて、踏みつけにされる義務だけを押しつけられているのだとしても、承太郎は、あの中へ入って行こうとは思わなかった。
 ここで胸を張っていればいい。おれは自由だと、背を伸ばして、世界をねめつけてやればいい。
 おれを拒んだ世界に、受け入れてくれと媚びることなど、絶対にしたくはない。
 承太郎は、人たちを眺めるのをやめて、ふらりと立ち上がった。
 そろそろ、ちょうどいい時間のはずだ。
 時計を持っていない承太郎は、後ろにあるビルを振り返って、ガラス張りの窓から中が見える1階のオフィスの、壁に掛かった時計で時間を確かめた。
 長い足を持て余すように、ゆっくりと歩き出す。
 行き交う誰よりも背高い体は、時折風に吹かれたようにふわりと揺れる。
 すっかりすり切れた長いコートの裾をなびかせて、その中に包まれた体は、まだかろうじて筋肉に包まれているけれど、中身はとっくに空っぽだと、承太郎自 身がいちばんよく知っている。
 その空洞を満たすために、しなければならないことがあった。
 大きな公園の近くを通り掛った時に、拡声器の声を聞いた。
 足元ばかりを見ていた視線を上げると、何か巨大な獣の贓物を思わせるような動きで、人たちがぞろぞろと歩いているのが見えた。
 何かのデモだろうか。それとも、何か、祭りのパレードのようなものか。
 デモほどは殺伐とした雰囲気はなく、けれど拡声器で叫ぶ男の声は、どこかヒステリックに悲しげで、承太郎は、思わずそこで足を止めた。
 「我々に自由はあるのか! 我々は満たされているのか! この国は変わってしまった、今も変わり続けている! みんなのためではなく、ただわずかの人間 のためだけに、この国は存在している!」
 感じることは、結局誰も同じなのか。
 承太郎は、叫んでいる男の位置を知ろうと、しばらくその集団を眺めていたけれど、男の言葉に痛みを感じ始めて、あきらめて、また歩き出した。
 自分とは逆の方向へ進んでゆくその人の群れを、それでも目だけで追いながら、その傍を、まるで警備か何かのようにゆっくりと付き従ってゆく黒い車に、ふ と気づく。どっしりと大きなその車の、中は見えない濃いグレーの窓が、急にするりと開く。
 中にいた金髪の男と、目が合った。
 色の白い、唇の赤さの目立つその男は、ずっと車の中から承太郎を眺めていたのか、自分のその視線を不躾けとも思わない様子で、承太郎に目を凝らし続けて いる。
 承太郎は、その視線を受け止めて、自由人である己れの寛容さを男に示すために、男をまっすぐに見返し、この集団に関係のある誰かなら、きっと自分を、同 類のように感じているのだろうと、男の視線を好意的に解釈した。
 それにしても、ひどく冷たい視線だと、そう思った時に、男がにやりと笑って、それに眉を寄せた承太郎の視線を切り落とすように、車の窓は再びぴたりと閉 じられた。
 人々は、歩き続けている。拡声器の男の声も、ずっと続いている。
 承太郎も、それに倣って足を前に出し、また歩き出した。
 いつものところに、いつもの売人はいるだろうか。今日の分の薬を手に入れなければならない。そうしなければ、今日を生き延びることができない。
 震え始めた手を隠すために、承太郎は、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
 拡声器の声は、ずっと後ろに、もう消えかかっていた。