Suite Sister
Mary A 承太郎が教会に来なくなって、数日が経っていた。 何があったのかはわからない。そもそも、そんなことは花京院には一切知らされない。 プッチがただ、あの男の面倒は、もう見なくてもいい、ここにも現れることもないだろうと、そう短く言っただけだ。 説明はない。伝えられることだけに、花京院はうなずくことしか許されていない。 顔色を変えずに、表情を読み取られずに、部屋を出て行くことに、ただ必死だった。 承太郎は、もうここへはやって来ない。会うこともできない。足元が震えていた。震えを止めようと、また無意識に十字架を握っている。そうしても、いつも のように心が安らぐことはなく、胸の内側が体温を失くして、冷えてゆくのを感じるばかりだった。 ひとりで、きちんと食事はできるのだろうか。あんな状態で、自分の身の回りの世話ができるのだろうか。眠れない目を開いたまま、天井をじっと見つめて夜 を過ごす承太郎の姿が、目の前に浮かんだ。 1日の作業に戻るために、心を落ち着けようとする。食事の準備もあるし、今日は礼拝堂の窓を全部きれいにしようと思っていたのだ。 けれど、そんなことはすべて、頭の中から吹っ飛んでいた。 何があったのだろう。まさか警察に捕まったのか。あるいは、捕まりそうになって、どこかへ逃げ出さなければならなくなったのか。それとも、誰かを殺そう として、逆に自分が傷つく羽目になったのか。 無事でいるならいい。どこへいても、無事でいてくれるならいい。そう思いながら、手の届くところへはいないのかもしれない承太郎に、会いたいと思った。 今すぐ会いたくて、仕方なかった。何が起こったのか、承太郎の口から聞きたかった。 承太郎の無事だけを祈ろうと、部屋へ戻って、聖書を開こうかと思った。けれどそれだけでは、騒ぐ胸を静められそうになく、いつの間にか両手で十字架を握 りしめていることに気がついて、花京院は慌ててそこから手を放した。 花京院の動揺を、いくら隠したところで、プッチはすでに悟っているだろう。 他の男たちと違って、承太郎とは、寝ろとは命令されなかった。ただ世話をして、面倒を見ろと、そう言われていただけだった。それでも、ふたりの間に何が 起こっているのか、プッチが知らないはずはない。そのことをプッチが口にしないのなら、花京院も、起こってはいないことと振る舞いたかった。 承太郎とあんなふうに抱き合ったのは、あれは命令ではない。花京院の意志だ。そうしたかったから、承太郎に触れたのだ。神に仕える者として、あれがある まじき行為であることは自覚していて、それでも、そうせずにはいられなかった。 他の男たちに好き勝手させている躯を、それとはまるで別の意味で、承太郎に与えたかった。 違う。与えたかったのではない。承太郎に、受け入れて欲しかったのだ。何もかもを脱ぎ捨てて、神への誓いも、過去も、自分のして来たことも、何もかもを 置き去りにして、ただひととして、承太郎と抱き合いたかったのだ。 一瞬でも、心が重なったと、そう思えた。錯覚かもしれないその気持ちだけで、まだ生きて行けると、そう思えた。 それなのに、承太郎が消えてしまった。 もう会えないと、そう思うだけで、足元が崩れて行くような気分になる。 これは罪だ。明らかに、神への反逆だ。それでも、神への愛と同じに、承太郎への深い感情が、花京院の胸の中に間違いなくある。どちらも選べない。捨てる ことはできない。花京院にとっては、どちらも救いだった。どちらも、このまま生きてゆくために、失うわけには行かない。 せめて、無事でいてくれ。目の前にはいない承太郎に向かって、花京院はつぶやいていた。 引き寄せられるように、礼拝堂へ向かっていた。 必死に祈ろう。承太郎のために、神に祈ろう。ひざまずき、十字を切り、両手を組んで、そこに額を乗せ、ただひたすらに、承太郎の無事だけを神に祈ろう。 花京院にできるのは、ただそれだけだった。 ふと、どこか自分の知らないところにいる承太郎が、他の誰かに体を洗われ、食事を与えられ、眠るために寄り添われている、そんな姿が浮かんだ。男か女か もわからないその誰かに、胸に突き刺さるような嫉妬を感じた。 自分はもう、神の足元へなどは近寄れなくなってしまっているのだと、礼拝堂のドアを開けながら思う。自分の声は、二度と神には届かないだろう。それで も、祈ることをやめるわけには行かない。 それから、毎日承太郎のために祈ることが、花京院の新しい日課になった。 6時を過ぎて、教会の表のドアに鍵を掛け、明かりを消して、花京院は自分の部屋へ戻ろうとしていた。 就寝の時間になるまでは、たいてい開けたままにしてある裏口のドアから、その時人影が入って来るのが見えた。 「承太郎・・・?」 思わず小さくささやいて、花京院はわずかに足を速めてそちらへゆく。けれど近づくにつれ、その影が承太郎よりもひと回り小さく、そしてやや背を丸め気味 のその姿に、いやな見覚えがあることに気がついて、足を止める。 「よお。」 いつもの薄笑いが、薄暗い廊下に浮かんでいる。 「今日は、日曜日じゃない。」 思わず、声が尖った。 花京院に近づきながら、スポーツ・マックスが腕を伸ばして来る。当然という仕草で花京院を自分の方へ引き寄せて、そのまま地下へ向かって歩き出そうとし た。 「何の用だ、今日は日曜じゃない。」 プッチに聞かれまいと、鋭い声はけれど低い。スポーツ・マックスは、花京院の抵抗などものの数にもせずに、地下へのドアへ花京院を引きずってゆく。 「どこかの誰かを殺したくなるのが、日曜だけとも限らないだろ?」 薄ら笑いの横顔に、凶暴さが宿る。ぞっとして、花京院は思わず体の力を抜いた。 花京院の声にプッチが気がついたとしても、スポーツ・マックスを止めてくれるとも思えなかった。むしろ、騒ぎ立てたことを咎められるだけだろう。 黙っていれば、すぐに終わる。今日は日曜日ではないから、スポーツ・マックスも、長居をするようなことはしないはずだ。 抵抗したところで、何の得もない。余計に悦ばせて、興奮させるだけだ。 そう思うのに、素直に足が動かない。階段で足がもつれ、引かれる腕に抗うように、必死で手すりをつかんだ。 あの部屋へ、引きずり込まれる。ベッドの傍の床へ投げ出されて、体を起こそうとしたところで、首の後ろをつかまれた。 首を締めつけるその手に、容赦はない。花京院は声も出せずに、体を反らしてただうめいた。 おとなしくしていればすぐにすむ。素直に足を開いて、好きにさせればいいだけだ。いつだって、そうして来た。同じことだ。何も変わらない。 体を引き上げられ、膝立ちになったところで、スポーツ・マックスが、片手で前をくつろげ始めた。 「ほらよ。」 すでに半ば勃ち上がったそれが、唇にあてがわれる。花京院は、目を閉じて首を振って、それを避けた。 スポーツ・マックスを押し返して、本気で抵抗を始めた。 「いやだ、ここではいやだ!」 逃れるために、首をつかんだままのスポーツ・マックスの手を引き剥がそうと、そこへ両腕を伸ばす。うなじの辺りに食い込む指先が、いっそう力を増して、 皮膚が破れそうに痛かった。 花京院が、本気でいやがっているのを見て取って、スポーツ・マックスが、癇癪の青筋をこめかみに立てた。馴れ合いの、羞恥ばかりの抵抗なら前戯として歓 迎しても、拒否されるのはプライドが許さないのだ。プッチの前ではあまり見せないスポーツ・マックスの凶暴さが、ふと剥き出しになる。血走った目が、ぎら りと光ったのを、必死で暴れる花京院は見損ねた。 小さな風が起こり、右目のそばに、熱い衝撃が走る。殴られたのだと悟ったのは、床になぎ倒されてからだった。 転がった先で、唇を、ベッドの足に打ちつけてしまった。縦に裂けたそこから、生温かい血が、口の中とあごへ、流れ始める。 意識が、半分遠くなった。 胸元をつかまれて、だらりと力ない体を、ベッドに上に投げ出される。うつ伏せにされると、そのままずるずると床へ落ちそうになる。肩の辺りを押さえて、 スポーツ・マックスがそれを引き止めた。 髪が乱れて、顔全体を覆っている。わずかなその隙間から、部屋の様子がぼんやりと見える。 神父服の長い裾を跳ね上げて、腹へ、手が触れる。腰の辺りに指先が触れ、それから、下肢が乱暴に、膝近くまで剥き出しにされた。 花京院の頭を押さえつけながら、押し入って来る。うめく声すら出なかった。 唇から流れた血が、シーツに染み込んでゆく。自分の血の匂いに、吐き気がする。 承太郎を抱いて、眠ったベッドだ。承太郎の寝顔を見守って、何時間も過ごしたベッドだ。この部屋で、優しさだけを分け合っていた。素肌を触れ合わせるこ とさえなく、けれど何かが通じ合っていると、そう思っていた、大事な場所だった。 そこで今、スポーツ・マックスが自分を犯している。 痛みだけが、花京院を容赦なく現実に引き止めている。 これが現実だ。男たちに投げ与えられるだけの肉としての、これが花京院の現実だ。 淫売、と、愉しそうにスポーツ・マックスが罵る声が聞こえた。 躯が引いてゆく。そうされる時の抵抗感に、躯が思わず慄える。躯が外れ、終わったのかとほっとする間もなく、うつ伏せだった躯をひっくり返され、両足を 抱え込まれた。 また全身を押し込まれて、内側の柔らかな粘膜をすり上げられる痛みと熱に、投げ出した腕が揺れる。ベッドがきしんで、花京院の代わりに悲鳴を上げてい た。 胸に、手が伸びて来た。そうして、衣服に包まれているそこを探り、あのしるしがちゃんとあることを、指先に確かめる。 「・・・ちゃんと着けてるじゃねえか。いい子だ。」 揃えた両脚の間で、萎えたままただ揺れているだけの下肢の部分にも視線を落として、スポーツ・マックスが満足気に嗤う。 胸の輪を服の下に見つけて、無理矢理指先を通そうとした。躯を押し込みながら、けれどそれには、そのままでは無理があると悟ったのか、ボタンを引きちぎ りそうに、手荒に胸元を開こうとし始める。 厚い布の引き吊れる音がして、現れたシャツをはだけ、やっと見えた花京院の素肌に、スポーツ・マックスのぶ厚い掌が乗る。そうして、胸に光る銀の輪に指 先を通し、そのまま上に引っ張った。 今度こそ、ほんとうに声が出た。悲鳴を上げて、背中をシーツから浮かせて、少しでも痛みをやわらげようと、スポーツ・マックスの動きに従う花京院は、ま るで操り人形のようだった。 唇をねじ曲げて、スポーツ・マックスが笑う。のたうち回る花京院を見下ろして、スポーツ・マックスが嗤っている。 内側で、痛みの元がいっそう大きく脈打ったと感じた次の瞬間、ずるりと躯がほどけ、慌てたように、スポーツ・マックスが胸の辺りをまたいで来た。 そうして、自分の手でこすり上げる仕草を数回繰り返した後で、わざと花京院の、血まみれの唇めがけて、吐き出して来た。顔を振って避けようとしても、素 早く頭を押さえつけられて、果たせない。 花京院を汚して、やっと満足したのか、スポーツ・マックスはゆっくりと体を後ろに引いた。 ベッドを下りる前に、それが仕上げだとでも言うように、花京院のシャツの胸元で、汚れた自分の手とそれを、ちゃんと拭ってゆく。ズボンと下着をまとわり つかせて、立てたままの膝に、ついでだと、噛みつきもした。花京院はもう、ぴくりとも動かなかった。 「・・・日曜に、またな。」 身支度を整えて、薄気味悪い笑みを、来た時よりもいっそう深くして、スポーツ・マックスが立ち去ってゆく。 体のあちこちが痛む。殴られたところは、後で腫れるかもしれない。どうしたとプッチに聞かれたら、どこかで打ったとでも言おうかと、そんなことをぼんや りと考えている。 考えながら、承太郎に会いに行こうと、そう決めていた。 胸の上で、花京院は、空の拳を強く握りしめている。 足音をひそめる。静かに動くのには慣れている。部屋を抜け出し、そっとドアの鍵を開け、すっかり闇の濃い外へ、滑り出してゆく。 最後にこんな時間に外に出たのは、一体いつだったろう。花京院は後ろを振り返り、教会が静まり返ったままなのを確かめると、足早に歩き出した。 辺りに音はなく、かすかな足音だけが響く。誰かが自分を見咎めなければいいがと、ごく自然に背中を丸め、肩を縮めて歩く。何も持たず、何も考えず、ただ 承太郎に会うために、足を先へ進める。 こんな季節に、しかもいっそう冷える夜に、大した防寒もせずに外歩きは、端からは自殺行為にも見えるだろう。それでも不思議と寒さはあまり感じずに、花 京院はひたすら足を速めていた。白い息を吐いて、冷たい風が、荒れた手と顔の傷にしみる。歩けば歩くだけ、承太郎に近づいてゆく。 こんな夜に、どこか風をしのげるところで、新聞紙やありったけの衣類を体に巻きつけて、必死で夜を過ごそうとしている浮浪者たちのことを思うと、そこに ごく自然に承太郎の姿が重なって、寒さのせいではなく、花京院の胸は痛んだ。 承太郎には少なくとも、まだ住む場所がある。路上で暮らす羽目になる前に、きっと薬のやり過ぎで命を落とすだろう。自分の未来が想像できないのと同じく らい、花京院は、承太郎が長く生きるとは思っていない。今すぐにでも薬をやめない限り、その日はそう遠くないように思える。 はっきりとそう感じながら、けれどその日をやり過ごすことばかりに必死なことに、あまりにも慣れ過ぎてしまっている神経には、それすらふわふわと現実感 がなく、今が承太郎と重なっているならそれでいいと、少し先のことからさえ、目をそらしてしまう。 一体、後どれだけ承太郎と一緒にいられるだろうかと、今この瞬間、その承太郎の行方が確かではないのに、花京院はまた考えた。 ひどい現実逃避だ。いつだってこうやって、正視すれば耐えられない現実を、つかみどころのないただの風景として、他人事のように眺めるくせがついてし まっている。 心と体を切り離して、体が感じていることを、心が感じてしまわないように。感覚を遮断して、後で、あれは夢だったのだと思い込めるように。 承太郎と会えないという現実が、今はどこか遠くにある。その現実に背を向けて、花京院は今、承太郎に会いに行くために、歩いている。自分の吐く白い息を 浴びて、顔を真っ赤に染めて、花京院は、自分の前だけを見つめている。 花京院にとってはすっかり夜でも、街中はまだ明るく、人通りも多い。 承太郎のアパートメントの中にも、明らかに住人ではない人間が、入り口近くに数人いた。 花京院よりもはるかに年嵩に見える、こんな寒さだというのに、肌を剥き出しにした服装で、売春婦と知れる、白人と黒人の女たち。花京院の神父服を見て、 すれ違う時には、やけにあたたかみのこもった視線を投げて来た。それに軽く会釈を返して、彼女たちには見えないように、花京院は悲しげな表情を浮かべる。 それから、どう見ても10代にしか見えない、極彩色の服装をした、肌の色も顔立ちも様々な少年たち。つばを斜めにかぶった帽子が、彼らの幼さを際立たせ ている。声高に、何か下品なことを喚いていたけれど、花京院が近づくにつれ、ここでは異様にしか見えないだろう神父服の長い裾に、一斉に目を凝らして、目 配せとともに声をひそめる。刺すような視線は、よそ者へ向けるそれだ。視線を交わさないように注意して、彼らの、神を蔑む、きちんと聞こえるつぶやきに は、反応を返さない。神にも他人にも敬意を払わない彼らのような態度には、とっくに慣れっこになってしまっている。 地下へ下りる階段は、呼吸の音が響くほど、静かだった。 どれもそっくりなドアを通り過ぎて、突き当りへ急ぐ。 「承太郎。」 ひそやかにドアを叩いて、中へ呼びかけた。2度それを繰り返してから、今度は、もう少し強く叩く。やはり、もうここにはいないのかもしれない、管理人に 訊いてみようかと、そう思い始めた時に、人の動く音が聞こえて、 「・・・何しに来た。」 承太郎の、低めた冷たい声がした。 思わずドアに掌を当てて、承太郎に触れようとするように、顔を近づける。 「会いに来たんだ、君がもう、教会へは来ないと聞いたから。」 声が、知らずに切羽詰っていた。承太郎の、声の冷ややかさを正確に聞き取って、一体何事かと、焦る気持ちが湧く。ドアを開けて、顔を見せることさえして くれない。教会へ来ないと決めたのは、自分に会いたくないという承太郎の意志だろうかと、ここで抱き合った日のことと、そして昨日スポーツ・マックスに踏 みにじられた、自分の罪深さを改めて振り返る。 何もかもすべてを後悔して、承太郎は、あれは過ちだったのだと、花京院を消し去ろうと決めたのだろうか。 「承太郎、顔を見せてくれ。君が無事だと、確かめに来たんだ。」 口を開けば、裂けた唇と、殴られた傷が痛む。それにドア越しの会話は、少しばかり迷惑な時間でもあったから、花京院は必死に承太郎を説き伏せようと、さ らにドアに体を近づけた。 数瞬の後で、ようやくドアが細く開いた。 片目だけようやく見える幅に、承太郎が立っている。その表情の険しさには目もくれずに、花京院は思わず安堵の笑みを浮かべた。 「承太郎・・・。」 花京院の口元辺りに視線を据えて、承太郎の目つきがいっそう険しくなった。 ドアが大きく開き、花京院を中に引きずり込む。その後で廊下に顔だけ突き出して、承太郎は左右を確かめるような仕草をした。 「・・・警察でも連れて来たか。」 取った花京院の腕を放し、部屋の真ん中に突き放すようにして、威嚇するように大きな音でドアを閉める。 「警察?」 よろめいた体を立て直しながら、いつものくせで、右手に十字架を握りしめた。突然出て来た警察という言葉に、湧くのは愕きと困惑ばかりだ。 「警察が、君を捜してるのか。」 「てめーがタレ込んだんならそうだろうよ。」 体半分だけ花京院に向いて、やや斜めに傾けた肩が、花京院に対する凄まじい怒りを見せていた。剥き出しの肩も腕も首も、間違いなく花京院が触れたそれ だ。そこには優しさも穏やかさもなく、ただ怒りに燃える承太郎の、濃い深緑の瞳があるだけだ。 花京院は訳がわからずに、小さく首を振った。 「何のことだ、どうして僕が、君のことをわざわざ警察に言う必要があるんだ。」 ドアの前から動かずに、承太郎はただ花京院をそこから睨みつけている。その手を花京院に向かって振り上げないためにか、慄える拳が、ドアにあてがわれた ままだった。 「てめーの、おれをサツに売って、あのゲス野郎と逃げる計画はどうした? あのゲス野郎は何て言った? あいつが、そんなに良かったのか!」 大声が小さな部屋中に響く。隣りの部屋にも筒抜けだろう。うっかり聞いてしまった他人が、そうと理解できることを、承太郎に今しゃべらせてはいけない と、花京院は努めて穏やかな声を作った。 「承太郎、頼むから、落ち着いてちゃんと説明してくれないか。君の言ってることは、僕にはさっぱり分からない。僕はただ、神父様に、君はもう教会には やって来ないからと、そう言われただけなんだ。」 「とぼけるなッ!」 体ごとぶつかって来そうに、承太郎が目の前にやって来る。大きな体が立ちふさがって、そして、花京院の襟元を両手で掴んだ。 承太郎の手をゆるめるつもりで上げかけた手を、花京院は痛みに顔を歪めながら、そのまま体の脇にだらりと下ろした。抵抗する気はまったくないと示して、 なるべく真っ直ぐに承太郎を見つめる。視線をそらしたら、即座に殴られるだろうと、思った。 「ほんとうだ、僕には君の言ってることが、まったく分からない。警察なんて知らない。僕が教会から逃げ出すなんて、死んだって有り得ないことだ。」 締めつけられた喉から、かすれた声を絞る。疑いと怒りに承太郎が細めていた目が、少しずつ落ち着きを取り戻すのが見えた。 ドアの前から動かなかったのは、間近で花京院を見つめて、触れてしまえば、たとえ裏切りだろうと、花京院のすべてを受け入れてしまうだろう自分を、自覚 していたからだ。苦しさに眉を寄せているその表情すら、ずっと眺めていたいと、承太郎は思った。 何を信じればいいのか、相変わらず確かではなかったけれど、そう予想した通り、花京院を信じたい気持ちが勝って、承太郎はそっと手を放した。伸び上がっ ていた体を元に戻しながら、花京院が喉の辺りを掌で撫でる。 花京院に会わない方がいいと言ったDIOは正しかった。会えば、たとえ目の前で裏切られても、それを受け入れてしまうだろう承太郎の心の内側を、DIO は正しく読み取っている。 今この瞬間にも警察がここに踏み込んで来るかもと、まだ思いながら、それでもこんな時間に、自分に会いに来たという花京院を抱しめたい気持ちを、承太郎 は抑えられない。 承太郎は、だらりと両腕を下ろした。 「・・・誰にやられた?」 まだ新しいように見える痣や傷に触れないように、右頬辺りに手を伸ばしながら、訊いた。 傷のない側の唇の端をわずかに上げて、花京院が笑顔を作る。 「礼拝堂で、階段を踏み外して、ベンチで打ったんだ。」 よどみなく言うけれど、視線が承太郎を避ける。 花京院のあごを軽く持ち上げて動かして、承太郎は顔の左右を確かめた。右目の青黒い痣は、ちょうど拳くらいの大きさだったし、ざっくりと縦に走る上唇の 傷は、木よりももっと硬いものに当たって裂けたもののように見えた。黒々としたかさぶたが、傷の深さを表していて、縫った方が良かったのではないかと、自 分のことのように心配になる。 「プッチか?」 「違う、転んだんだ。」 目を伏せて言い張る声が、弱い。プッチでないとすれば、スポーツ・マックスしか思い浮かばない。証人保護プログラムとやらの話で、ふたりの間に何が齟齬 でも生じたのか、それとも、別のことで争う羽目にでもなったのか。 自分のせいかと思って、胸が痛んだ。そしてまた、スポーツ・マックスへの憎しみが深くなる一方だ。 それ以上問い詰めることはせずに、けれど嘘だと見抜いているときちんと表情に伝えて、承太郎はやっと花京院から手を外した。 「君が、教会に来なくなった理由を、説明してくれないか。警察とか何とか、一体誰がそんなことを。」 顔の傷から話をそらすためにか、花京院が早口に言う。 今度は、承太郎が首を振った。 花京院のそばをすり抜けて、ベッドの方へゆく。しわの寄ったシーツの上にどさりと腰を下ろすと、ベッドの枠が壊れそうな音を立てた。 膝に腕を乗せて、そこに体を傾ける。ごく自然に、床に視線が行き、花京院を見なくてすむ姿勢を作った。 「てめーはおれをサツに売る、代わりにサツは、てめーを証人として保護する。あのスポーツ・マックスも一緒にだ。ふたりでどこかに逃げて、組織から姿を くらます、そういう計画だと聞いた。」 ぼそりぼそりと、区切った言葉を床に投げ捨てるように、承太郎はゆっくりとしゃべった。話しながら、内容に吐き気がするのを止められずに、口元が歪む。 それを写したように、花京院も眉を寄せていた。 「どうして僕が、よりによってあの男と一緒に逃げるんだ。僕を殺したって平気な男だぞ、なんでそんな奴と・・・。」 決して正確ではない、花京院の、スポーツ・マックスに対する印象だ。スポーツ・マックスは、花京院を愉しみで殺したりはしない。殺してしまっては、もう 遊べなくなってつまらないじゃないかと、へらへら笑いながら言うような男だ。花京院を、おもちゃとして気に入ってはいても、一緒に危ない橋を渡るような真 似をするなど、ありえない。花京院は、スポーツ・マックスにとっては、お気に入りではあっても、ただの遊び道具に過ぎないのだ。そんな道具のために、自分 の身を危うくするようなことを、あの男がするわけがなかった。あれはそういう男だ。花京院は、それを躯で思い知っている。 スポーツ・マックスへの嫌悪を剥き出しにして、花京院は思わず吐き捨てていた。聖職者にあるまじき花京院の語調に、承太郎がやっと顔を上げる。 「おれが知るか。てめーとヤツの間のことなんざ、おれにわかるわけがねえ。ヤツがてめーに惚れてようと、てめーがヤツに惚れてようと、おれには関係がな い。」 平坦に言い放った承太郎に向かって、花京院が、はっきりと失望と絶望の表情を、口元に刷いた。 「・・・承太郎。」 すがりつくような、咎めるような、憤ったような、そんな声だった。 顔色を失くして自分を見据えている花京院の視線を受け止め続けることができずに、承太郎はまた床に視線を落とす。視界の端に、握りしめた拳がふたつ、そ うとわかるほどはっきり震えているのが見えた。 「頼むから、僕とあの男がそうだって、本気で思ってるなんて言わないでくれ。君がそんなことを、ちらとでも思ってるなんて、信じたくない。」 「おれも、てめーがおれをサツに売ろうとしてるなんて、信じたくもねえ!」 「それはうそだ! 僕は、君を傷つけるようなことは、絶対にしない! 君に二度と会えなくなるなんてごめんだ!」 思わず高くなった声と、ほとんど真っ直ぐに打ち明けてしまった自分の心の内に気づいて、花京院ははっと口をつぐむ。 怒ったように唇を噛みしめて、承太郎がベッドから立ち上がり、また花京院の目の前に走るようにやって来た。同時に伸びて来る両腕に、殴られるのかと身構 えた時に、両頬を包まれ、額がぶつかっていた。 「・・・だったら、おれと一緒に逃げろ。そうしたら、てめーを信じてやる。」 熱い息が、唇に触れる。承太郎の腕に手を掛けて、花京院は、体を離したいのか、それともこのまま承太郎を抱きしめてしまいたいのか、よくわからなかっ た。 「・・・それはできない。無理だ、承太郎。」 「なんでだ。」 目を伏せ、首を振る花京院の言葉を終わらせずに、承太郎が問い詰める。 「なんで、あそこから逃げ出さない? なんであそこで、淫売の真似事なんかしてやがる。あのゲス野郎に惚れてなくても、あいつとヤるのはいいのか。あい つがそんなにいいのか。」 誰かを縛ったり、躯を傷つけたりすることなど、承太郎は想像したことすらない。それを好む性癖で、ふたりが一緒にいるのなら、承太郎はとんだ道化だ。ス ポーツ・マックスを憎んで、そこに嫉妬があることをもう否定できずに、承太郎は、花京院を残酷に問い詰め続けた。 「違う、そんなことじゃない。そんなことじゃないんだ。」 弱々しく、花京院が反駁する。 もうはっきりと、花京院の気持ちが自分の上にあることを感じながら、花京院に、どうしようもなく魅かれていることを思い知りながら、それでも、自分の躯 が思うようには反応しないことに、承太郎はこっそりと焦りを感じている。 触れ合うことはできる、他にもやり方はある、けれど、花京院と躯を繋ぐことは、今の承太郎ではかなわない。薬をやめて、多少健康を取り戻したところで、 躯の機能が戻って来るとは限らないのだ。花京院がそうすることを望んでいて、スポーツ・マックスと続いているのなら、花京院の口から、それを聞きたかっ た。はっきりと、慈悲などかけらもなく、真っ直ぐに告げられたかった。そうすれば、花京院を諦めきれると、承太郎は思った。 「説明しろ。」 額を触れ合わせたまま、承太郎はゆっくりと瞬きをした。 自分自身に死刑宣告を下すように、花京院にその宣告をさせるために、とことんまで追い詰める---花京院と、自分の、両方を---ために、承太郎は言葉 を重ねた。 「おれには聞く権利がある。てめーには説明する義務がある。説明しろ、花京院。」 花京院の瞳に、昏い翳が差した。 表情が消えて、ふと、手の中にある体温が失せる。承太郎は、思わずそこから手を放した。 承太郎から顔を背け、肩を回して、花京院は、この間そうしたように、そこにある椅子に腰を下ろした。 承太郎は、ベッドに戻り、その端に腰掛けた。 正面は向かずに、承太郎に向かって斜めの姿勢を保ったまま、しばらくの間、花京院は迷っている風に、じっと唇を閉じている。 もう先を急がずに、承太郎は、花京院が話し出すのを待った。 「僕がまだ、中学2年の時の話だ。」 突然、昔話を始めた花京院に驚いて、何の話かと耳をそちらに向け、一言も聞き漏らすまいと、何か辻褄が合わないことがあれば、すぐに聞き返すつもりで、 承太郎は、自分の方を決して見ようとはしないままの花京院に、強く視線を当てる。 「僕はその時、両親と一緒にメキシコにいたんだ。冬休みだった。」 楽しい思い出を語る時に、必ず人がそうするように、かすかに口元をゆるめて、花京院が続ける。 けれどその微笑は、数秒と続かずに、空ろな表情にすり替わった。 床のどこかをうつろっている視線は、けれどもっと遠くを見つめている。記憶をたぐり寄せるその手元に、視線が移る。また、唇が動き出した。 「僕らはそこで、家族全員3人で、誘拐されたんだ。」 震えのない声に感情の色は一切なく、同じように無色になった花京院の姿が、承太郎の視界の中に小さくなる。続く声も、遠のいて行ったように思えた。 |