The Void
裸で横たわる花京院を見下ろして、承太郎は、それがほんとうに花京院なのかどうか、確信が持てなかった。
裸の姿など、しげしげと眺めたこともない。覚えているのは、せいぜいシャワーを浴びたばかりの背中だとか、素足だとか、そんなものだ。まじまじと見つめていられるほど、余裕のある年頃ではなかったし、あの頃はまだ、自分のあの気持ちに、名などなかったからだ。
薄暗くて、目に残っているはずの傷跡はよく見えない。腹に穴を開けて死んだのだから、体に大きな傷跡があっても良さそうなものだけれど、それも見当たらない。なめらかで平たい、筋肉の線ばかりが見える、花京院の体だった。
思ったよりも厚い肩と、盛り上がった胸に比べれば、痛々しいほど薄くて細い腰の辺りが、花京院の、まだ成長しきらない年齢を表している。
承太郎は、花京院を、ただじっと見下ろしていた。
まるで誘うように、腕を伸ばす。表情に、どこか恥じらいが浮かんでいて、見て取った途端に、心臓が跳ねた。
動かない。花京院に、自ら応えることはせず、承太郎は、スタープラチナを呼び出した。
薄青い肌の巨人が、裸の花京院に、ゆっくりと近づく。それが自分に覆いかぶさるのに、抗いもせずに、花京院は、その青い肩越しに承太郎を見つめたまま、スタープラチナの首に両腕を回す。
巨(おお)きな掌が、花京院の肩や腰に触れる。
そうしたいと、承太郎が、長い間思っていたように、スタープラチナが、ゆっくりと動いている。
承太郎はそこに突っ立ったまま、ふたり---というべきなのか---を見下ろしていた。
スタープラチナの背が、花京院をすっかり覆ってしまっていて、腰に回りかけた両脚が、白く浮き上がって見えるだけだ。精一杯伸びた爪先が、もがくように動く。スタープラチナが首に歯を立てると、承太郎には聞こえなかった声が、スタープラチナ越しに聞こえた。
青と白の足が絡む。膝の内側が、スタープラチナの腰や腹を、やるせなげにこする。触れるその感触が、承太郎にも伝わる。承太郎は、それをただ、黙って見ている。
肌色よりもひと色濃い舌が、花京院の頬を舐めた。口づけをねだるように、花京院がそちらへ顔を向けながら、けれどスタープラチナは、花京院から素早く唇を外して、今度は耳朶を噛む。ピアスごと口の中へ含んで、あるとも思えなかった歯列に当たると、そこでかちかちと音を立てた。
また、声が聞こえる。
声変わりはすっかり終わっているのに、まだ安定しきらない、少年の声だ。17にならずに死んだ、花京院の声だった。
求める気持ちばかり先走る、稚拙な応え方が、花京院の止まった時間を、何よりはっきりと示している。膚に触れる唇や指先や掌に、慄えるばかりの躯だ。
積もったばかりの雪の上を駆け回るような、紺碧の波の中へ飛び込んでゆくような、何かを汚(けが)して、乱しているのだという、どこか嗜虐的な歓びが、足元からはっきりと這い上がって来る。そして、それを自ら求めるような、花京院の表情だった。
16というのは、こんなにも稚ない姿だったか。
今では、血の繋がった自分の娘よりも幼い、花京院の姿だ。
若さという、傲慢な輝きに満ちて、これが、あの時絶たれた命なのだと知らなければ、こんな風に見つめることもしないだろう。他人の若さには、興味もない承太郎だ。
花京院。知らずに、つぶやいていた。
生きていれば、自分と同じように時を過ごして、きっとあの頃と同じように、肩の触れそうな近さに、呼吸をしていただろう、承太郎が失った、大事な何かだ。
花京院。今度は、はっきりと呼んだ。
スタープラチナの肩越しに、焦点の合わない目が見える。こちらを見ている。おとなしくスタープラチナに抱かれて、けれど花京院は、間違いなく承太郎を見ている。
首筋や鎖骨の辺りや肩に歯を立て、うっすらと痕を残す。まるでしるしだ。おれのものだと、叫んでいるような、そんなしるしだ。
スタープラチナが花京院に触れ、承太郎が、花京院を蝕んでいる。死人とは思えない皮膚の触感が、現実と夢の境い目を見極めがたくしている。承太郎は今、花京院を抱いている。
承太郎はもう、17ではなく、だから、これが現実なのだとしても、花京院と対等の関係を持てるはずもなく、だとすれば、これはただの暴力に過ぎないから、そんな汚いことはやめろと、胸の中で理性が叫んでいた。
たとえ求められたとしても、今では自分の息子と言ってもいいはずの花京院に、腕を伸ばすことなどできるはずもないのに、だから、言い訳のために、スタープラチナを使っているのか。
恐らく違う。今花京院に触れているのが承太郎ではなくスタープラチナなのは、承太郎が、花京院に触れるのを、怖がっているからだ。
胸の中の痛みが、皮膚の上に、確実に這い出て来ている。
腹をぶち抜かれた花京院の痛みと、それを写した承太郎自身の痛みと、それが、皮膚の上を這い回り始めている。花京院に触れながら、承太郎が感じているのは、痛みばかりだ。
長い時間をかけて、この痛みに慣れて来たのだ。痛みが治まったわけではない。ただそれに、慣れてしまったというだけの話だ。死んでゆく痛みと、失った痛みと、その両方を背負って、いつの間にか、承太郎の心は干からびてしまっていた。
胸の中で、干からびて小さくなった心の残骸が、風に吹かれてからころと音を立てる。その音に耳を澄まし、承太郎は、花京院の声が聞こえないかと、あるはずのないことばかりを考える。風の中に花京院の気配を感じるのが、ゆき場のない、悲しい希(ねが)いなのだと気づかない振りをして、こんなところまで来てしまった。
スタープラチナの青い腕の中で、花京院が喉を反らした。
まるで絞め殺すように、その腕の輪をしめて、スタープラチナは、無表情に花京院を抱いている。
その腕は、承太郎であって承太郎ではない。承太郎であって承太郎ではないスタープラチナが、花京院を抱いている。花京院は、その違いに頓着しないように---あるいは、気づいていない---、その腕の中で、わずかに息をふりこぼすばかりだ。
聞こえる声も応える腕も、稚なさばかりが目立つ。こんな幼なさで、あの旅に耐えたのかと、改めて驚きながら、そこで命を止めてしまった花京院の、流れを止めた後の時の長さを、承太郎はまた思った。
生き残ったことを、心のどこかで恥じていた。まるで、卑怯な取引をした結果だとでもいうように、自分の幸運と、花京院の不運を呪って、自分の代わりに花京院が死んだのだと、そう思うことをやめられなかった。
スタープラチナが、しがみついたままの花京院を抱き上げて、膝の上に乗せる。承太郎の前に、剥き出しの胸や腹を見せて、花京院が喉を反らした。
唾液に濡れた唇の間に差し込まれた指先を、花京院はためらわずに噛む。歯列の食い込む痛みに、承太郎は、帽子のつばの陰で目を細め、大きく開かせた花京院の膝の間に、掌を滑り込ませてゆく自分であって自分ではない、スタンドの動きを、視線の先に追っている。
血の色を上げた皮膚の色が、目に突き刺さるようだ。
見たことのない花京院の裸の躯は、それはほんものなのか、それとも承太郎の、ただの空想の産物なのか。
勃ち上がった花京院のそれに、スタープラチナが手を添える。あごの辺りをつかんだもう一方の手に、花京院がすがるように、胸を寄せている。
白く頼りない躯が、スタープラチナに触れられて、ただ慄えていた。
承太郎。
何が起こっているのか、知覚もしていないように、花京院が小さく呼ぶ。
高められて、逆らう術もないように、スタープラチナの膝の上で、痛々しく開いた躯が、驚くほど素直に反応していた。
それに目を凝らして、けれど見つめ続けることができずに、承太郎は数瞬目をそらす。自分であって自分ではない何かに抱かれている花京院を、承太郎は、見ていることができなかった。
反った背中が、腹の辺りに触れる感触がある。そんな必要もないのに、抵抗を封じるように、両手首を背中にまとめて、スタープラチナは花京院を自分の方へ引き寄せながら、相変わらず花京院に触れたままの掌を、そっと動かし続けている。
声が聞こえる。今はもう、隠すつもりすらない喘ぎが、承太郎の耳にも、じかに届く。
湿るのは、スタープラチナの掌だ。花京院の熱をすっかり包み込んで、響く声に合わせるように、こすり上げるのをやめない。強く、弱く、あるいは、爪を立てるようにして、追い立てながら、先走るのを引き止めて、その青い掌が、花京院を翻弄している。それを、承太郎も感じている。
胸にも膝にも掌にも、花京院の全身を感じながら、承太郎はそれを見ている。ゆるんでは引きつるように動く、花京院の躯を、承太郎は目の前に眺めている。筋肉の形が、はっきりと浮き出る開いた腿の内側や、何かを蹴るように動く爪先や、足らない酸素を求めて、半開きで喘いでいる唇や、その唇が、自分の名を音もなく形作るのを、承太郎は、黙って見ている。
花京院の声が、次第に音量を増して、今では誰かに聞かれることをはばかる様子もなく、スタープラチナの掌の動きに合わせて、あごの辺りが上下する。濡れて開いた唇の奥に、桃色の舌が見えた。しゃべる時のようになめらかに動きながら、目の前の承太郎に何かねだるように、卑猥な言葉を発しているように思えた。
果てることを許さずに、スタープラチナ---承太郎---が、強く握り込む。痛みなのかそれとも快感か、花京院が耐えているのがどちらかわからないまま、喘ぎ続けるその声を聞いている。
まるで拷問だ。自白が目的ではない、ただいたぶるために行われる、生きている花京院なら受け入れるはずもない辱めだ。承太郎はそれを眺めて、自分を罰している。自分を置き去りにした花京院を責め、花京院を守れなかった自分を責めている。
スタープラチナがずっと握ったままの手首には、今頃指の跡がついているだろう。
高められるばかりで、達せない苦しみに、花京院があごを突き上げ、酸素を求めるように、ぜいぜいと喉を鳴らす。逃れようとするのか、わずかに動く肩や膝が、こんな時にはやけに骨張って見える。
初めて承太郎は、自分の足元に向かって目を伏せた。
するりと、突然静かにスタープラチナは花京院から手を外し、それから、腿の裏側に指先を滑り込ませた。
何をしようとしているのか、花京院にはわからないようだった。戸惑った表情を浮かべて、相変わらず背中につかまれたままの手首の方へ、首をねじる。
その時、スタープラチナは、確かに承太郎自身だった。
長い間、面に表すこともなかった承太郎の凶暴さが、痛みとともに、今承太郎の全身を覆っている。そうすることが、花京院の腹に拳で穴を開けたDIOのやり方の、そのまま模倣であることを自覚しながら、承太郎は、スタープラチナ越しに、花京院の躯を押し開きにかかる。
何の前触れもなく、優しさもなく、花京院の痛みになど構いもせずに、スタープラチナは、花京院を侵そうとしていた。
「いやだッ!」
初めて、花京院が叫ぶ。声が、強く空気を揺らした。その空気に、顔でも殴られたように、承太郎は数度素早く瞬きをする。
「承太郎!」
懇願するように、はっきりと目覚めたような目と声で、花京院が承太郎を見上げた。
スタープラチナに隔てられることなく、ふたりの目が合った。
16の花京院は、自分の父親と言ってもおかしくない今の承太郎を見て、一体何を思うのか、その表情からそれは読み取れず、花京院はただ、あの頃と変わらない色の瞳のままで、すがりつくように承太郎を見つめていた。
ようやく見えた花京院の、目の上に走る傷跡が、くしゃりと歪んだ。そして、そこをなぞるように、透明な涙がこぼれて行った。
「いやだ、君でなければ、いやだ。頼む承太郎、僕は、君でないと、いやなんだ。承太郎。」
両膝を引き寄せるようにして、前かがみに躯を隠しながら、花京院が言う。涙につかえる声が、けれどはっきりと、その意志を伝えてくる。
花京院は知っている。承太郎が、スタープラチナを使った理由を、ちゃんと知っている。
確かにこれは、花京院だ。承太郎が、ひそかに欲しがって、手に入れたかった花京院だ。手に入れることのできなかった、これは確かに花京院だ。
スタープラチナが、唐突に姿を消し、花京院だけが、裸のまま床に座り込んでいた。承太郎を見上げる角度を変えずに、床を這うように承太郎の足元へ近寄って来る。獣のような仕草は、けれど花京院の高潔さを損なうことはせず、自分の足に腕を巻きつけて、そこから掌を滑らせながらゆっくりと立ち上がる花京院を、承太郎は、指一本動かさずに、ただじっと見つめている。
「承太郎。」
腹の辺りから、声が聞こえた。
「花京院。」
触れるほど近くに寄った唇に、息を吐きかけるように、応えた。
もう、我慢できなかった。
後ろ髪を乱暴につかみ、喉に噛みつきながら、抱きしめた。背高い承太郎に、精一杯爪先を立てて自分の体を沿わせて来る花京院を、背骨を折るような勢いで抱きしめた。
熱いとも冷たいとも、よくわからない花京院の膚に唇を当てて、そのまま崩れ落ちながら、さっきスタープラチナがそうしたように、大きく開かせた花京院の膝の間に、自分の躯を割り込ませて、そこで繋がろうとする。
傷つけるためではなく、わかり合うために、花京院とひとつになりたかった。
ただ受け入れて、耐えて来た以上の痛みに、耐えられるとは思わなかったから、だから、花京院に触れるのが怖かった。花京院に触れることは、新しい痛みを呼ぶ。承太郎の、決してふさがることのない傷のそばに、また新たに傷が生まれる。吹き出す血が、けれど今は流れ落ちることを厭わない。今は、それどころではなかったから。
承太郎。花京院が呼んだ。
目を細め、痛みに声を殺しながら、自分の上で動く承太郎を、両脚の輪の中に、いっそう近く引き寄せようと、折り曲げた膝が、時折承太郎の二の腕の近くを蹴る。
承太郎に、どう応えていいかわからない---知るはずもない---花京院は、ただひたすらに、承太郎を受け入れようとしている。
粘膜に触れる。血の感触に似ている。内臓の中は、不自然な形に承太郎に押し開かれて満たされて、抗う動きと受け止める動きを、交互に繰り返していた。
ふたりは、痛みを分かち合っていた。痛みなしには繋がれないことを、心のどこかで哀しくも思いながら、けれどその痛みゆえに、深く強く結びついているのだということを、ふたりは皮膚と粘膜をこすり合わせて、思い知っていた。
こんなことをする必要はなかったけれど、こうしなければならなかったふたりだった。
体を倒して、花京院に胸を寄せる。そうして、花京院の手首---スタープラチナが、ずっと握っていた---を取ると、そこに指先を滑らせて、承太郎は掌と指を重ねた。
自分の重さを気にしながら、内側で角度が変わって、また痛みが増したらしい花京院の額に、穏やかに唇を落とす。
指の間に指を差し込んで、承太郎の手を握り返す花京院の手首には、やはり薄赤い指の痕が残っていた。
繋がっている。皮膚に隔てられて、決してひとつにはなれないふたりの、これが精一杯の融け合い方だった。
熱を交ぜて、そこに新たな熱を生み出しながら、痛みは何か別の名を持ち始めている。
鼻先の触れる近さで、花京院が承太郎を見ている。承太郎も、花京院を見つめている。
「花京院。」
呼ぶと、微かに、唇の端が持ち上がった。
頬骨を食むように、舌先が触れると、涙の味がする。それをすっかり舐め取ってから、承太郎は、初めて花京院に口づけた。
ただむやみに押しつけるだけの、少年のようなそれだ。
動くと、歯が唇に当たる。その痛みに、今は微笑みを浮かべて、承太郎は、いっそう強く、花京院の中で動く。
花京院の、何もかも稚拙でしかない応え方に、いとおしさだけが増してゆく。握りしめる手に力を込めながら、動くたびに、胸の中でからころと、干からびた心の残骸が音を立てていた。今はそれを、聞かない振りをした。
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