襟の中に指先が入る。ぐるりと内側をなぞって、硬い爪が、喉仏に当たる。ごくっと、思わず喉が鳴った。
「なに緊張してやがる。」
そういう押し殺した承太郎の声も、きちんと震えていた。
「別に。」
まるで揃えたように震える声。思わずあごを襟元へ引きつけるようにすると、あごの下に、軽く承太郎の手の甲が触れる。ただそれだけなのに、びくりと電気でも通ったように、花京院の肩が縮んだ。
屋上は、単に承太郎が隠れて──一応──煙草を吸うというだけの場所だった。
ついさっきまで。
煙草を挟んでいた指先に、今はわざわざ脱いだ帽子をつまんで、承太郎が顔を近づけて来る。
別に深い意味はない。好奇心だ。承太郎は、花京院ほど背の高い誰かと抱き合ったことはないと言ったし、花京院も、承太郎ほど背の高い誰かに、こんな風に近づいたこともない。だから、試してみようと、どちらからともなく、そんな姿勢になってみただけだ。
向き合って、不慣れな角度に顔を近づけて、帽子のつばが当たる前に、承太郎がそれを脱いだ。帽子に隠れない承太郎の額の白さに、花京院は思わず目を細めた。そのまま、目を閉じた。
唇が触れた後で、両腕が互いの体に回る。唇はただ、重なっているだけだ。
それ以上はどうしたらいいかわからないまま、それでも高校生のふたりは、腕に力を入れれば、少なくとも体はいっそう近くなると悟って、腕の輪が相手の体の線に沿う位置を、1分近く探し回る。
自分にもっと近く体を傾けて来る承太郎に向かって、花京院はついにプライドを捨てて、爪先立ちになる。まるで飛ぶようにかかとを上げて、承太郎に向かって体を伸ばし、ついでに、両腕も承太郎の肩に伸ばした。
こんなに上向くと、首の後ろが詰襟に当たって痛いと、初めて悟る。
ああ、だから、もっと別のことをするならみんな服を脱ぐのかと、見当違いのことを思った。
承太郎の唇から鼻先へ当たる煙草の匂いが、今だけは不快でない。
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まるでけもののようだと思うのは、むしゃぶりつくように抱き合うからではなく、時々ほんとうに食われていると感じるからでもなく、彼が好んで取らせる、這う形の姿勢のせいだ。
背中を見せることも腹を見せることも、動物たちの世界では負けること、弱者を意味するはずで、Nateたちが殴り合う金網の中では少しばかり意味を違えて、それでもやはり、背を見せるのはたいていの場合負けに直結する。
自分が負けたのもそうだったと、NateはMaiaを抱き返して思う。もう一度やれば、きっと結果は違うはずだ。隙を狙って右フックを叩き込めるはずだ。次があれば、マットに沈むのは、今度はMaiaの方のはずだ。
その次が、もう恐らくないことを知っていて、Nateは考え続ける。
こうして抱き合うのに、勝ちも負けもない。だからNateは、求められれば素直に、彼に背中を預ける。這い、背中に彼が重なって来て、触れ合う腰の辺りに、一瞬で熱が集まる。
こうしている時に、吐く息の合間に、Demianと名前で呼ぶと、途端にうれしそうに口元がゆるむ。それを見たくて、Nateは体をねじり、姿勢を変える。正面から抱き合うと、今度は口づけが続いて、名前を呼ぶどころではなくなる。
けものだと思ったから、そうして、動物たちはどうやって互いを呼び合うのだろうかと考えた。彼らも名前らしきものを持つのだろうか。その名前を、人間にはわからない音で、こんな風に呼び合うのだろうか。
いや、とNateは思った。これはきっと、人間たちだけだ。名前を与えられ、それを使い、呼び合い、呼び方と音に、暗号のように思いをこめる。これは多分、人間だけがすることだ。
背中に入れた娘の名前の刺青、同じように、けれどもっとこっそりとひそやかに、Maiaの名前を自分の体のどこかに刻み込むことを想像する。今彼が、自分の内側に彼の痕跡を刻み込んでいるように。
考えるだけだ。実際にはやらない。そんな勇気はさすがにない。
刺青のないMaiaの躯を探る。どこかに自分の名を刻んでくれと言ったら、多分この男は即日実行するだろう。
色恋沙汰には疎いNateにも、この男がなぜか自分には本気で惚れているのだと確信できた。肌に注がれるMaiaの熱さは、言葉より表情より仕草より雄弁だ。
なぜ、とは訊かない。思っても、口にはしない。Maiaにも多分説明はできないだろう。それはただ、あの金網の中で殴り合った数分間に、起こってしまったことだった。
金網の内側に閉じ込められて殴り合い、それを見せ物にされる、ある意味ではけもの以下の彼らだからこそ必要な、人らしい感情のやり取りのひとつだ。
時々混じるポルトガル語のつぶやきが、どうやら愛情を込めたものらしいと悟っても、さすがにそれにきちんと返事をする大胆さはまだ湧かず、Nateは言葉が分からない振りで、代わりにMaiaにまた口づける。
食むようではなく、噛みつくようでもなく、ただ静かに、抱き合った腕の位置さえまだ迷う10代の少年のように、Maiaに口づけて、Nateは、自分と同じ長さの腕が、自分の腰に回ると、もっと近く躯を寄せて、自分から這う形に姿勢を変えた。
見えない刺青を刻み込むために、Maiaが背中に重なって来る。
首筋に歯が立った。Nateはそれを笑い、避けようともせず背中を少し丸める。もっとと、思わずこぼれたつぶやきは、Maiaの耳には届かないままだ。
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承太郎が眼鏡を失くした。どこへ置いたかわからないと言う。
ウェザーも手伝って、家の中のあらゆるところを探したのだけれど、ほとんどフレームの見えない、男物にしては華奢なそれは、どこかへ紛れてしまえばほとんど透明も同然で、午後の半ば、3杯目のコーヒーを分け合いながら、ひとまず捜索は本格的な休憩に入った。
「車の中は探したんだろう?」
「使うのは論文を書く時だけだ。外には持ち出さない。」
確かにそうだ。ウェザーでさえ、滅多と承太郎の眼鏡姿は見ない。
「最後に見たのはおとといだ。書斎で掛けてたのは間違いない。」
「でも書斎には見当たらない。」
ウェザーが言うのに承太郎がうなずく。忌々しそうに、眉間にしわが寄る。論文の下書きに向かっている時よりも表情が険しい。そんな違いがわかる自分に、ウェザーは内心照れたけれど無表情のままだ。
結局承太郎は、不機嫌な表情のまま、冷めたコーヒーを片手に書斎に戻ってしまった。
夕食の少し前、何か食べたいものはあるかと訊くためと、コーヒーのお代わりのために、ウェザーは静かに書斎に行った。
小さくノックをして、反応がなければ入っても構わないということだ。中から声がする時は、邪魔をするなと、そういう承太郎の意思表示だった。
「夜はどうする? 夕べのポテトとハムがまだ残ってる。」
湯気の立つコーヒーのマグを片手に近づくと、承太郎が広い肩からこちらへ振り向く。横顔の目元を大きく縁取る黒い眼鏡のフレームが、突然ウェザーの目の中に飛び込んで来た。
「それでいい。サラダか何か──」
と言い掛けたところで、うっかり声をかぶせてしまった。
「そんなの持ってたのか。」
左側へ回り、空になっているマグを取り上げて、持って来たマグを代わりに置く。そうしながら、視線は承太郎の、黒々とした、レンズのぶ厚い眼鏡に釘付けだ。
「大学院の時に初めて作ったヤツだ。捨ててないのは覚えてたが、まさかまだ机の中に入ってるとは思わなかった。」
似合わないわけではないけれど、実際よりもずっと若く見える承太郎を、その黒縁眼鏡は面白いほど幼く見せて、どこかちぐはぐな印象が、やけに好ましくウェザーには思えた。
「アンタのサラダにはニンジンをたくさん入れよう。目にいいんだろう、確か。」
ふっくらとした唇が、わずかの間前に突き出され、不機嫌を示すその仕草は、口づけを誘っているように見えて、ウェザーは自分が感じたその通り、ノートの上でペンを持った手を止めたままの承太郎へ、少し猫背気味の背をさらに丸める。
唇が触れると、眉の辺りに、その太い黒縁が当たる。洒落っ気のかけらもないその感触に、ウェザーはふと少年の頃に戻ったような気がした。
夕食のサラダにニンジンの細切りが大量に入ったその翌日、承太郎の寝室のバスルームの浴槽の縁、ちょうどシャワーカーテンの陰になるところに、探し物の承太郎の眼鏡を見つけたのは、ふたりで一緒にシャワーを浴びようとした時だった。
そうだ、おととい、同じようにシャワーを浴びた時に、ウェザーが外したその眼鏡を、慌しくそこへ置いたのは承太郎だった。
抱き合うための両腕が、その壊れ物のような眼鏡に邪魔される時間が惜しくて、深くは考えずにそこに置いた。そうしてそのまま、忘れてしまっていた。
「見つかったからいい。」
「・・・風呂に持ち込むのはやめよう。忘れてたのはお互いさまだ。」
ウェザーが、ちょっと視線を泳がせて言う。
「そうしよう。」
短く言って、もう、また眼鏡のことは忘れて、承太郎はウェザーの首に両手を掛けた。
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