前編『さよなら恋の瞳』へ

それから四十年が過ぎた。

心を読む能力を捨て全てを拒絶することを選んだ私は、加えて自らの意識すら捨て、代わりに無意識を手に入れることになった。

だからと言って、何も心に浮かぶことなどないけれど。

お姉ちゃんは言った。こいしは心の扉を閉ざしてしまった。貴女が自ら鍵を回さない限り、私たちは貴女と真に接することなど出来ない、と。

だから何なのだ。

私から接しようとした結果がこれなのだ。自分で選んだ道なのだ。今更後悔なんてしていない。

私は信じた。信じた結果、裏切られた。否、ただ押し付けがましくそう思っているだけかもしれない。今では分別も付く。人間が妖怪を畏れていることなど、十分に知っていて然るべきだったのだ。

あの頃の私は無知だった。常に対等だと信じ切っていた。そのことが既に間違っていることにも気付かず、私はただ盲信的に彼らを追い続けていただけなのだ。

その結果があの日の出来事に繋がる。最初から対等などではなかったのに、それどころか私たち地底の妖怪たちは、殊覚りは同じ地底の妖怪にすら疎まれるような存在だったのに、私は飽くまで対等であると勘違いし続けていた。

知らなかったと言ってもそれが免罪符にはならない。稗田君の行動は尤もなものだったと思う。自分の理解を超えた存在なんて――そんなの、恐ろしいに決まっているから。

けれど。

何故私があの子たちに拒絶されて、とても悲しくなったのか。四十年間考え続けたけれど、未だに答えは出てはいない。

感情を捨てた私では、決して分からないことなのだろうか。

――哲、か。

彼に拒絶された時が、一番失望していた気がする。

何故なんだろう。

彼に憧れていたからだろうか。

違う。憧れではない。今感じることが出来なくとも思い返すことは出来るのだから、それが憧れなんてものではなかったことは分かっている。

なら何なのだろうか。

彼のことについて考えてみよう。

まるで兄のようだった哲。真っ直ぐで、けれど頑固なわけでもなく、年相応の子供らしい感情豊かな少年だった。今でも彼の笑顔は網膜に焼き付いている。

時に勇ましく、時に情けなく。弱みを隠そうともせず、けれど強く、そしていつでも私を一番に考えてくれて私を守ってくれた。

とっても格好いい、私のお兄さん。

だったはず、なんだけれど。

なんでだろう。彼の傍にいる時には、お姉ちゃんと一緒にいる時とは別の心地良さを感じていた。

だから私は彼に懐き、たった二日間だったけれども行動を共にすることを選んだのだ。

その心地良さって、一体何?

 

……よく、わかんないや。

 

 

私は思い耽ることを止め、ふらりと体を揺らしながら歩き始めた。

目的地は地上。

一緒に暮らしているペット、地獄鴉のおくうが、とんでもない力を手にしたと聞いた。

何でも地上に新しく引っ越してきた神様からその力を貰ったらしい。

気になる。

無意識の内にそう思っていた私は、好奇心が疼くままに行動することに決めた。

 

私は無意識を操る妖怪、古明地こいし。

無意識とは深層心理。それを操ることが出来るということは、あらゆることを自由に出来ると言い換えても間違いではない。

けれど私のそれはマイナス方面に働く。自らが疎まれ嫌われることのないよう、私自身の存在を限りなく希薄にすることに執心しているのだ。

だから私は誰にも気付かれない。どこにいても、何をしようとも、決して誰にも分かる筈がない。

故に私はこの世界を拒絶すると同時に、この世界から拒絶されてもいた。

 

 

無意識の力を手に入れてから、お姉ちゃんは私のことにあまり関心を示さなくなった。

今までの過保護なまでの態度から一転、完全な放任主義になったのだ。

とは言っても、私のことを度々気に掛けてくれることに変わりはないんだけど。そう、私がどこへ行こうとも気にしなくなった、の方が正しいのかな。

理由は知らない。私が第三の眼を閉じたこととか、大方その辺りが切っ掛けだったとは思うけど。

あの時お姉ちゃんはとても後悔していたように見えた。私に縋り付き、私があの時止めていれば、私がこいしを守ってやっていれば、と嘆いていたっけ。

そんなこと全然関係ないのにね。

きっとこれは必然だったんだと思う。必要以上に大切に育てられた弊害。現実を直視すればこうなってしまうのは分かり切っていたもの。

……ううん、それも違うわね。きっと私の心が弱過ぎたんだわ。私はお姉ちゃんみたいには強くないから。お姉ちゃんのように、誰からも嫌われるという現実を受け入れ切れなかったから。

全部私のせいなのよ。きっと。

兎にも角にも、それで私はどこへ行こうとも気に掛けられなくなった。諦めなのか、贖罪なのか。どっちにしても家の中に籠るには体力が有り余り過ぎていた私にとっては好都合だった。

目的もなくふらふらと。そうやって出歩くことが、私にとって唯一の楽しみとなった。

当てもなく彷徨う旅は良い気分転換にもなる。風の吹くまま気の向くまま、見知らぬ土地へと旅立つのだ。

えーと……風来坊、だっけ? そんな感じかなぁ。

どこへ行っても、誰も私のことに気付いてくれないのは、ちょっと寂しいけれど。

こんな毎日も悪くはない。私はそう思ってる。

でも、今日は目的がないわけではない。ちゃんと行く場所も決まっている。

おくうに力を与えた、新しくこの幻想郷に来たと言う、山の上に住んでいる神様。

あのおくうですらあんなにパワーアップしたんですもの、私のペットだってもっともっと強くなるに違いないわ。

そうなったらとっても面白そう。うんと凄い力を貰って、地霊殿の皆にうんと自慢してやるんだから。わくわく。

密かな野望を抱いて、私は妖怪の山へと向かった。

 

……そうして、山の頂上に着いたものの。

「おっかしいなぁ……誰もいないなんて」

神社のどこを探しても、人の気配の欠片もない。一応神社なんだから誰かいてもいい筈なんだけど。

予想外の出来事に、私は拍子抜けしてしまった。

私自身の気配は私が望まない限り誰にも覚られることはない。無意識を操るということはそういうこと。例え誰かの目の前を横切ったとしても、例えぴったりくっ付いたとしても、気配が微塵も感じられなければ知覚されることはないのだ。

……だから、私が警戒されてる、ってこともない筈なんだけど。うーん。

そうやって私が悩んでいると、ずっと向こう側から何やら騒がしい声が聞こえて来た。

神社の人が帰ってきたのだろうか。私はその声がする方へ駆け寄り、そっと耳をそばだてた。

「……ゲームなんか一回クリアするだけで十分だと思わないか?

おまけダンジョンなんざいちいち付けてるから本来のラスボスが中ボスに格下げされるんだよ」

『身も蓋もないことを言わないの。そのおまけが一番重要だったりするんだから。

ところであの地獄鴉の言ったこと……ちゃんと覚えてる?』

「勿論。この山の奴らから核融合の力を貰ったって奴だろ?

私もその御利益を受けようとここに来たんだ。忘れるわけがあるまいて」

じっと観察してみると、その人は箒に乗って綺麗な金色の髪を風に靡かせ傍を飛んでいるお人形さんとお話していた。

真っ黒な帽子と服に、真っ白なエプロン。黒と白のコントラストがぴったり調和していて、まさに黒白って感じ。

お人形さんとお喋りしているなんて、ちょっと危ない人なのかな。服装も相俟って余計そう見える。

……それにしても、この人たちも、私と同じ目的なのだろうか。

やけに説明口調なのが鼻につくけど。

でも、私よりはこの辺りの事情を知っているでしょう。私は意を決して話し掛けてみることにした。

ひょい、と更に一歩前に出て、相手に見えるような位置に立った。

「あのー……すみません」

「うわっ!?」

黒白の人は急に止まる。

勢いが付いていたせいで頭から地面に突っ込みそうな体勢になっていた。

それでもぎりぎりで踏み止まって、危ない危ない、と呟いてから私の方を一瞥して言った。

「あー……なんだ?」

とてもぶっきらぼうに言い捨てる。

さっきまで楽しそうに話していたのに、私が出て来た途端に不機嫌になった。なんかヤな感じ。

それでも私は丁寧な言葉遣いで尋ねる。もう子供じゃないもんね。

「ここの神社の人、見掛けませんでしたか?」

「あん? ここの奴なら……さっきあっちの方で倒したぜ」

「え? 倒したですって?」

どういうことなのだろう。

もしかして本当に危ない人なのだろうか。色々な意味で。

私がそうやって訝しんでいると、その人はあぁ、勘違いするな、と牽制してから言った。

「向こうから襲い掛かってきたんだ。私から攻撃する気はさらさらなかったぜ?

正当防衛ってやつだよ」

『よく言うわ。喜々として戦ってたくせに』

また人形が喋った。

腹話術でもしているのだろうか。

……しかし、そうなると、だ。

「うーん……道理で誰もいないわけね。困ったなぁ」

「あー? どうした。何かここに用でもあったのか?

学業成就祈願くらいなら麓の神社でも問題ないぜ。何なら紹介してやるよ。あそこならいつも暇で暇で仕方がない巫女がいるからな」

「違う違う。麓じゃ意味ないの。この山の神社じゃないと。

この神社の御利益が欲しくて来たんだから」

山の上の神様から授かった力なのだ。麓に行ったところで何も意味はない。

だからそう答えると、今度は人形から喋り始めた。

『守矢神社の御利益って……え? 何?』

「さぁな。鴉に核融合の力を授けるような御利益だろう。あんな鳥頭より私に寄越した方がずっと有効活用出来るけどな」

『どうだか』

随分と流暢に会話する。結構お上手ね。

……じゃなくて。

鴉に核融合……もしかして?

「それって……おくうのことを言ってるの?」

「おくう? 誰だそりゃ」

『あの空っていう地獄鴉のことじゃない?』

「ああ、空だからおくう……成程な。ラスボスから中ボスに格下げされる予定の奴だ」

やっぱりそうだ。

“うつほ”なんて名前の鴉、そうそう見付かるわけがない。その上地獄鴉とまで明言されたのだから、これはもう確定したも同然だ。

しかしそうなると一つ疑問が出る。

「貴女達、おくうを知っているなんて何者?」

私たちは地上に生きる者たちに忌み嫌われた存在、地底の妖怪。

ましてや地霊殿に住み着いているペットの名前まで知っているなんて、普通じゃない。それは同時にこの人がただの人間ではないことも示している。

……もしかして。

私が尋ねると、その人は腰に手を当て胸を大きく張りながら声高らかに自己紹介をした。

「おうおう、私の名前を知らぬとな。この大魔法使い、霧雨魔理沙の名を。

そういうお前こそ誰だ? こんな辺鄙な場所にある神社にお参りなんて、それこそ怪しいぜ」

霧雨、魔理沙。

ああ、確かに。

これは、きっと運命の巡り合わせ。

「なーんだ。貴女達だったのね」

「何がだよ。質問に答えろ」

「そんなに私の名前が知りたいの? 聞いても無駄だと思うけど。

私の名前は古明地こいし。山の神様は見つからなかったけど、代わりに貴女という良い遊び相手が見つかったわ。

ねぇねぇ、私と遊びましょ?」

くつくつと笑う。

目の前にいる人――霧雨魔理沙は、眉を顰めて人形にこそこそと囁いた。

「おいアリス、こいつ古明地って……」

『ええ。さとりさんの家族でしょうね。少し驚いたわ。

……何やら不穏なことを言っているけれど』

あら。

お姉ちゃんはこの人たちに何も話していないのか。

ま、別にいいけど。

「お姉ちゃんから話は全部聞いているわ。ゴキブリみたいにこそこそと小賢しい動きをする、人間の癖にやけに強い泥棒さんが来たってね。

でも、泥棒はいけないわね。物は相手から買い取るか、それか貸して貰うべきよ」

「いいや? 泥棒じゃないぜ。お前の言った通り借りるだけだ。私が死ぬまでな」

「ならいいわ」

『いいの?』

さて、お喋りもそろそろお終いにしましょう。

遊びは遊びで真剣に。お姉ちゃんを倒したっていうその実力、見極めさせて貰わなくっちゃ。

「何を聞いたところで全部無駄。無意識の内に貴女は倒され私のペットになる。お姉ちゃんへの良い手土産になるわ。

さあ、楽しい時間を過ごしましょう!」

にやりと私は口角を上げる。

楽しい楽しい、遊びの時間が始まった。

 

 

うひー。

強過ぎ。

 

 

結局勝負は私の負けだった。

なかなか善戦したとは思うんだけど、これが何ともまぁ強い。

まさに前評判通りの実力。お姉ちゃんを倒したのも伊達じゃないってことね。

……ちょっと、悔しいなぁ。

「ふー。お疲れさん。なかなか面白かったぜ」

そう言って魔理沙、さん、は私の頭をくしゃくしゃと撫でる。

何だか懐かしい感覚。

お互いに服はボロボロ、痣もところどころに出来ていたけれど、何故か心の中は晴れ晴れとしていた。

どうしてだろう。こんな気持ち、今まで感じたことなんてなかった。

「ま、ラスボスらしい実力だったと思うぜ。私に勝とうなんざ五百年は早いけどな」

にひひと笑う。

私が浮かべるような笑顔とは、また違ったベクトルの笑顔。

なんて素敵な表情なのだろう。

『私の人形があったからこその戦法だったわよね。もうちょっと頭を使いなさい? 見境なく突っ込むだけじゃ無駄に被弾するだけよ』

「あー? お前の人形の攻撃なんか全部無効化されてたじゃないか。私が果敢にああやって突撃しなけりゃ勝つことも出来なかっただろうよ」

『それは果敢じゃなくて無謀っていうの。全く、計画性も何もあったもんじゃないわ。私の人形もこんなに無駄にして……一体何体作り直さなきゃならないと思ってるのよ。第一ね、あんたの――』

「あーあーぐちぐち五月蝿いな。高がサポート役が出しゃばるな」

『サポっ!? ……そ。分かったわ。それならこっちにも考えがある。楽しみにしてなさい』

妙に上ずった声で、人形は最後にブチっという何かが切れたような音を残して沈黙した。

魔理沙さんはなんだあいつ、と呟いて人形を一瞥してから私の方に向き直る。

「今のは気にしなくていいぜ。……っと。そんじゃま、私たちは先に行かせて貰うぜ」

そう言って、その場を去ろうとした、

次の瞬間。

ボン、と大きな破裂音と、それに伴って小さな爆発が目の前で起こった。

私はあまりの出来事にそれをただただ口をぽかんと開いて見ているだけしか出来なかった。

ボボボン、ボボン、ボン、ボボン。

その音は絶えることなく、魔理沙さんを中心にして数度の爆発が起きる。

しかし、それ程殺傷力があるようではなく、

「のわっ!? なんだなんだ、何が起こった!?」

立ち上る黒い煙と爆発の中、かなり慌てている様子の魔理沙さんの声が聞こえた。

わたわたと手で頭、だと思う、部分を払い、げほげほと咳き込みながら必死でそこから逃れようとする。

そして爆発音が聞こえることもなくなり、暫くしてから漸く煙が散った頃のそこには、顔中を煤だらけにした魔理沙さんが半壊状態の人形を握り締めて涙目になりながら立っていた。

――あぁ、成程。

お人形さんの言ってた“考え”ってこのことか。

自爆装置だ。

今の私との“遊び”にもしばしば使っていた。うんうん、分かる分かる。煙たいよね。

だからこそ、少し愉快でもある。

いい気味、っていうのとはなんか違う。彼女の困っている姿が、どうにもこうにも笑えてしまうのだ。

こう……見ているだけで、楽しめるというか、面白いというか。

「……うう、アリスの奴め……帰ったら覚えてやがれ、くそっ」

そう言いながらぺっぺと口の中に入ったのだろう燃えカスを地面に吐きながら、服にも付いた煤を手で払っていく。

けれどその手も煤だらけ。払えば払う程余計に汚れる。終いには元々黒っぽかったんだ、今更気にするか、と如何にも捨て台詞のような言葉を吐いて諦めた。

私はその様をじっと見続けていた。

とっても面白い。

何なんだろう、この人間は。

不思議な感覚。私の知らない存在。そんなのが今ここに私の目の前にいるなんて。信じられないわ。

あぁ、もっと知りたい。もっと一緒に遊びたい。こんな気持ち初めて。四十年前のあの時以来、一度も出会うことのなかったこの胸の高鳴り。

私は今になって初めて心の瞳を閉じたことを後悔した。こんなに面白い生き物がいるのに、その心の中を知ることが出来ないなんてまるで罰ゲームよ! ああ、どうして私はあんな決断をしてしまったのだろう。今更だけれども、今更だからこそどんなに愚かなことか理解出来る。くっそー、こんなに面白そうな人間を目の前にしてみすみす逃すことになるなんて!

あれ? ちょっと待って、それならお姉ちゃんはこの面白そうな生き物の心を読んだってこと? ショック! お姉ちゃんに先に知られているなんて! 私よりも先によ! 悔しい悔しい、本っ当に悔しい!!

……こうなったら、手段なんか選んでいられるものか。私がずっと一緒にいて、皆に自慢してやるんだ。こんなに面白い人間がいるんだって。そしてその人間は私の友達なんだって。

ペットじゃなくても良い。一緒に楽しい時間が過ごせるのなら、私にはそれで十分だ!

未だに苦い顔をして汚い手のまま髪の煤を払おうと無駄な努力をしている魔理沙さんに話し掛ける。

「ねぇ魔理沙さん!」

「……さんって……いいや、なんだ?」

「私とお友達になって下さい!」

「…………はぁー?」

眉を吊り上げ、顔を顰め、素っ頓狂な声を上げる。

それでも私は怯まない。今ここでまごついてたら、一瞬のチャンスが永遠に失われてしまうから!

「お願いします! 私、魔理沙さんとお友達になりたいんです! 私がずっとずっと知らなかったものを、知らなかったことを、魔理沙さんなら教えてくれると思うんです!」

「ちょ、ちょっと待て。いきなりなんだ? 突然友達になりたいとか。落ちついて順序良く話せよ、な?」

「と、言われても……私はただ貴女が面白そうだな、って思っただけなんだけど」

他に何か理由があってそう言ったのだと思われているのだろうか?

何か勘繰っているのかもしれない。別に何も考えていないのにね。

こういう時、皆がお姉ちゃんみたいに心を読めたらなって思うこともないわけではない。そうなれば不必要に人を疑うこともないからだ。ま、私の心を読めないことには変わりはないんだけど。

そうして魔理沙さんはふむ、と呟き何とも言えないような微妙な表情になる。

「成程……その気持ち、分からないでもないぜ」

あ、分かるんだ。

ちょっと親近感。

「だがな、私が人間でお前は妖怪だ。この種族間の隔たりはかなり大きい。それは分かってるよな?」

「…………まぁ、少しは」

まただ。

また、種族の問題か。

確かに人間からすれば死活問題なのだろう。食うか食われるか、そんな境界線は確かに引かれているのだ。その差は決して縮めることの出来ないものであって、私みたいに――

――かはは。

突然魔理沙さんは笑い出した。

一体何なのだろう。意味が全く分かっていない私は首を傾げることでその意を伝える。

「冗談だ冗談。そんな思い詰めたような顔をするなって。全く……予想通りお前、世間知らずなんだな」

「……? どういう意味、なの?」

何が何やらさっぱりだ。何故笑っているのかすらも分からない。

そう尋ねると、得意げな表情になって相手は言った。

「お前も姉ちゃんみたいに引き籠ってたんなら分かんなくても仕方ないとは思うけどな。……良いことを教えてやろう。今の幻想郷は人間と妖怪が仲良く暮らしている平和な環境なのだよ、こいしくん」

「……本当なの?」

「嘘吐いてどうするんだよ。第一お前もスペルカード使ってたじゃないか。あれが人妖共存作戦の第一段階だったってこと、知らないのか?

……ま、今じゃ私たちのような子供しか使わないようなただの遊び道具だけどな。でもこれのお陰で両者の関係が以前よりずっと近付いたってのは有名な話だぜ」

知らなかった。

お姉ちゃんが時々ペット達とそのスペルカードを使って遊んでいたから私も欲しいとせがんだのだ。てっきりおもちゃか何かだと思っていた。まさかそんな重要なものだったなんて。

ああ、でも遊び道具にしてはちょっと刺激が強過ぎる気がしないでもないわね。服が破れちゃう時もあるし。となると、やっぱり魔理沙さんの言っていることは本当なのかもしれない。

って、ちょっと待った。

「え? 本当に仲良くなったの? いつから?」

「聞いてなかったのか? お前ずれてんだかどうかよく分からないな」

まぁ無意識だし。

わりと話を聞き流していることは多い。

「まぁそんなことはどうでもいいさ。他の奴がどう思おうと関係ない。私は私なりにお前が気に入った。だから友達になってやっても良い、って言ったんだよ。それなら文句ないだろ?」

「うーん……なんか釈然とはしないけど」

「別にならなくてもいいが」

「あ、いえいえ! 何でもないわ、うん! これから宜しくね!」

……微妙に脅されているようで、喜べばいいのか恐がればいいのかよく分からなかったけど。

でも、やった。

とうとう私を妖怪と知った上で好きになってくれる人を見つけた。

あの出来事はやっぱり私の中にしこりとして残っていたみたい。けれどそれもどんどん解れて、今ではもうすっかりなくなってる。

なんだか無性に嬉しくなって、頬が緩んで行くのが分かる。あんまりにも表情が崩れてしまったように感じたので、私は顔を見られないようにやや俯きながらにやにやとした。

言葉に出来ない感情が込み上げてくる。

「ああ、それと、だ」

突然発せられたその声に私は顔を上げ首を傾げる。

「魔理沙さん、ってのは何となく座りが悪いな。もちっと別の呼び名を考えてくれ」

「えー? でもなー」

とは言っても、私自身も何となく違和感を感じていたのだ。だからある意味この申し出は好都合でもあったと言えよう。

しかし、そうなるとどんな呼び方が良いんだろう。見た目だけで白黒、だなんてちょっと余所余所し過ぎるし。かといって霧雨さんじゃ余計に気持ち悪いって言いそう。ゴキブリさんじゃあ可哀想だしね。うーん。

あ、そうだ。

一つ丁度良いのがあったわ。

「……うん、そうね。じゃあ、シーフさん、っていうのはどう?」

「はぁ? おいおい、冗談はよしてくれよ。そりゃ外聞が悪過ぎる」

「うん決定っ! これから宜しくね、シーフさんっ!」

「…………おい、本気か? マジなのかそれ? おい?」

だって、見た目もやってることもそれがぴったりなんだもの。

とまでは流石に言えず。

呆れたような諦めたような、そんな感じの声の調子に、私は思わずくすくすと笑ってしまった。

 

 

そうして私とは泥棒さんに連れられ、山の麓の神社に行くことになった。

一応二人で山の上の神社の中まで探したけど神様はいなかった。いないのならこんなとこにいても時間の無駄だと泥棒さんは言った。私もそう思う。

けれど私には他に行くような場所もない。いつも通りにふらふらと出歩こうかとも考えたけれども、泥棒さんと遊んで結構疲れてしまったのだ。だから正直その考えには気乗りしなかった。

だからといって、わざわざ地底に戻るのもなんだかなぁ、という感じだ。そうやってどうしようかな、と悩んでいる最中にこの話を持ち掛けられた。

「ま、暇潰し程度に下の神社に寄って行こうぜ。茶ぐらいなら飲ませて貰えるからさ」

「暇潰し? そこは楽しいの?」

「楽しいか楽しくないかで言わなくても間違いなく楽しくないな。でも顔を見せて悪いことはない筈だぜ。これから里を出歩く予定なら尚更だ」

楽しくないのか。

でも楽しい神社っていうのも聞いたことないしね。そんな妙な所あったら、言われるまでもなく既に訪れていたことでしょうよ。

しかし里か。里……うーん、あんまり良い思い出はないんだけど、これからのことを考えたらやっぱりその神社には行った方が良いのかな。行くことがないとも言い切れないし。

それに喉も程々に渇いている。お茶が飲めるのなら遠慮なく出して貰おう。よし、決めた。

「じゃあ行くわ。案内宜しくね、シーフさん」

「あいよ。……本当にそれで通すのな、お前は」

苦々しい表情を浮かべる。

本当、この人、ころころ表情が変わって面白いわ。

私の目に狂いはなかったようね。うん、面白い。

そんなことを考えながら、手を繋いで私たちは境内を背にして石段を下り始めたのだった。

 

――とまぁ、そんなこんなでここまで来たわけなんだけど。

「よう霊夢。私が遊びに来てやったぜ」

「帰れ。呼んでもいない」

「おうおう冷たいねえ。気にしないでさっさと上がらせて貰うぜ」

不機嫌そうに眉を顰めた、紅白の装束に身を包んだ巫女さんを尻目に、泥棒さんはずんずんと神社本殿へと進んで行く。

うわー、図々しい。

と私が思うまでもなく、その巫女さんは図々しいわね、と口に出して言った。いや全くです。

「ま、それはいつものことだから良いとして……あんたは誰なの? わざわざ私に倒されに来たわけ?」

そうして不意に私の方をじろりと睨めつける。

どきり。

まるで心臓を射るかのような鋭い目つき。見た目相応の少女のそれではなく、幾らか修羅場を潜り抜けて来たようにも思わせる冷徹な視線だった。

少し気圧されながら、本当に倒されても困るので一応名乗ることにする。

「待って待って! 私の名前は古明地こいし。今来たシーフさんのお友達よ。何も企んでなんかないから安心して」

「企んでないと自分から言うところが怪しい。降伏は無駄よ、抵抗しなさい」

そう言うと巫女さんは懐から御札を数枚取り出して構えた。

うわ、逆効果。

流石にこれはまずい。何だか妖怪退治には慣れてるみたいだし、あんまり痛いのも嫌だしなぁ。

うーむどうしようか、やっぱりここは応戦した方が良いのかなぁ、などと考えていると。

「ああ待て待て。そいつは比較的無害だ、退治する必要はない」

ふと声がした。

その方向――神社本殿――へと顔を向けると、そこには泥棒さんと、その腕に抱かれた猫がいた。

どこから連れて来たんだろう。目を凝らしてよく見てみる。

わー、黒猫だ。

目の前を横切られたら不吉だわね。視線を逸らしておきましょうか。

って。

「あれ? もしかして……」

私がそう言い掛けた途端、黒猫は泥棒さんの手の中から飛び出し、ぼんと煙に包まれた次の瞬間には人間の姿になっていた。

顔の両端で三つに編まれた赤い髪。黒いリボンが可愛らしく結ばれ、頭の上にはちょこんと黒い猫の耳が乗っかっている。ちょっとあざとい。

纏った深緑の服はゆったりと体を包んでいる。けれど僅かに突き出た曲線は、彼女の体が相応に成長していることを如実に示していた。

ああ、間違いない。お姉ちゃんのペット。

「じゃじゃー……ってここここいし様ぁっ!?」

「お燐……だよね? あれ? どうしてここにいるの?」

「それはこっちの台詞ですよ! 貴女様こそどうしてここに?!」

火焔猫燐だ。

いつも以上に騒がしく慌てている。うるさい。

しかし最近顔を見ていないと思ったらこんなところにいたのね。もしかして家出かと思ってたんだけど、お姉ちゃんは知っているのかしら?

「お燐をさっきまで抱っこしてたそこのシーフさんとお友達になったのよ。それより良いの? 確か貴女地底の怨霊を管理してた筈よね」

「ああ、それなら大丈夫です。幾らかのゾンビに見張り番させてるんで」

そっか。

なら安心、なのかもしれない。まぁお姉ちゃんがあそこにいる限り大事にはならないだろうから心配はいらないとは思うけど。

「あら。あんたたち知り合いなの? やけに親しそうに会話してるけど」

「お前さっきこいつが名乗ってたの聞いてなかったのか? 古明地こいし。地霊殿の主人の妹なんだよ。そりゃ知り合いだろうさ」

「そういやそんなことを言ってた気もするわね。ってことは……げげ。あんた覚りなの? 勘弁してよね」

燐が介入したことによって殺気立っていた空気は一変、騒がしい日常のそれになってしまった。

面倒は起こしたくなかったからある意味状況は好転したのかもしれないけれど、代わりに私が覚りと知られてしまった。巫女さんは苦い顔をして私の方に視線を向けている。

全く、会話が要らないのはまだ良いけれど、余計なことまで知られたら困ることだってあるのよね。この子が面白半分に色々口外しなきゃいいけど。

と言われても私には既に覚りの能力はない。だからそうそう心配する必要もないのだ。誤解を解くために巫女さんに事情を説明しようとする。

しようと、したが。

「……あれ?」

「どうしたこいし。ヘンなものでも拾って食ったか」

食べてない。

ってそんな突っ込みを入れている場合ではない。え、あれ、どういうこと? どうして私……え!?

何が何やらさっぱりよ。本当。

そうやって混乱している私を皆が不思議そうに見つめているのが分かる。不思議なのはこっちの方よ。あぁ、このもどかしさは誰にも分からないの?

漠然と、その形すらしっかりしていないけれど、しかし私は確かに感じた。その不確かな形状をしたそれの存在を、私の心が知覚したのだ。

それがどんなに驚くべきことなのか、恐らく私以外の人には誰にも分からないだろう。当然だ。だって私にしか分からないことなんだから。

私がそんな感じにうろたえている真っ最中に、不意にお燐が大声を上げた。

「あーっ! こ……こいし様! それ、それ!!」

私の胸元を指差し叫ぶ。それにつられて一同私共々その指の先――つまりは私の第三の眼――に目を向けた。

閉じてしまった、第三の眼。

あの日以来決して開くことのなかった、私の心の扉。

それが今、本当に薄らとだが、その瞳を見せている。

私の心に突如流れ込んできた情報。それは周りにいる皆の心の声だった。

四十年前までは日常的に聞こえていた声。四十年前からは決して聞くことの出来なかった声。皆の思っていることが、私の体の中へとどんどん入り込んで行く。

なんて懐かしい感覚なのだろう。自然と涙が目から溢れ出てきてしまう。

「やった……やったよお燐! 私、また皆のことが分かるようになった! お燐のことも、きっとおくうのことでも、皆の心の中が分かるようになったんだよ!」

「良かったですねぇ、良かったですねえこいし様! あたい感動です……ひっく……うえええええええん!!」

そうして私たちは二人抱き合い涙を流しこの喜びを分かち合う。

地霊殿にいるペットたちは、元はと言えばお姉ちゃんが私のために用意してくれたものだった。最初は友達のいない私を不憫に思って。あのことが起きてからは傷付いてしまった私を癒すために。

元々動物に優しかったお姉ちゃんがペットたちに好かれるのは当然のことで、動物たちの間でも噂が広がったのか次第にその数は増えて行った。お姉ちゃんも家族が増えるのなら、とそれを拒むことはしない。

お燐やおくうは、そうやって地霊殿を訪れた動物たちの中でも最初期の頃からいた動物だったのだ。

お姉ちゃんは私がいない時を見計らって、動物たちによく相談事を持ち掛けていたことを私は知っている。内容は私のことに関するものばかり。思い出すだけでも私が恥ずかしくなってしまうような、そんな相談。

けれどそれはお姉ちゃんが私のことをどれ程大切に思ってくれているかを表していて、話を聞いていた動物たちは私がどんな問題を抱えているのかを知り、そして共に頭を悩ませるにまで至ったのだ。

お燐はお姉ちゃんを慕っている。そしてそのお姉ちゃんに相談されれば、親身になって話を聞くに決まっている。お姉ちゃんと同様、私のことを心配するようになるのは想像に難くない。

だからお燐は今本当に喜んでいる。長年の悩みがとうとう解消されたと、心の底から喜んでくれているのだ。

それは私にとっても嬉しいことで、きっとお姉ちゃんにとっても嬉しいことで、それにそれに……。

もう、何が何だかよく分からない。

でも嬉しいことだけは確か。だからそれで良いや。

涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっても拭くことなどない。そんな暇があるのなら、今はただこうして

そんな私たちの事情をよく知らない巫女と魔女は、顔を見合わせて不思議そうにただ首を傾げるばかりだった。

 

「……へぇ。妙な話もあるものねぇ」

そう言って紅白の巫女さんこと博麗霊夢さんはずずっとお茶を一口啜った。

あの後その場でへたり込んで動かなくなってしまった私たちを見かねたのか、霊夢さんは私を神社の中に入るように促してくれた。まぁ、境内で大泣きされても困るだろうし何より迷惑だったからだとは思うけど。そのことについては既に謝っておいた。

彼女も笑って別にいいのよそんなこと、と快く許してくれた。ただ、その代わりに何があったのかを教えるように条件を出された。好奇心は強いらしい。

私のことを気遣ってか、お燐が軟らかな表現でそれは勘弁してほしい、といったようなことを二人に伝えていたが、実際私の中ではそれ程トラウマにはなっていない。いや、なってたのかもしれないけれど、こうしてまた第三の眼が開いたのだからそれでチャラだと思う。

だからお燐には申し訳なかったけど、私は私がこの能力を封じるに至るまでの昔話を始めたのだ。半ば体の良い愚痴みたいなもの。喋っていてスッキリはしても悪い気はしない。

泥棒さんにもこの話はしていなかったため、二人は割と興味津津で話を聞いてくれた。暇潰しの類ぐらいにしか思っていないだろうとは思うけれど。

「信じて……頂けるんですか?」

「信じるも信じないもねぇ。あんたがそう言ってんのならそうなんでしょうよ。いちいち疑ってたらキリがないわ」

まぁそりゃそうだけども。

妙にさばさばとした物言いに私は少し奇妙なものを感じた。

だって心の中も本当にそう思ってるんだもの。こんな変な人間、泥棒さん以外にもいたなんて。面白そうだけど凄く変。

「へっ。綺麗なこと言ってるように聞こえるがこいつは他の奴らのことを考えていないだけだぜ。自分に関係がなくなりゃそれで良いんだよ」

「あら心外ね。否定はしないけど」

「しないのかよ」

軽いノリで進む冗談とも本気とも取れないような会話。笑いながら言ってはいるけど、この二人ならその実本気で毒を吐いている可能性もなくはない。

でもきっとこれも日常の会話の一つなのだろう。そう思うとまるで漫才を見ているかのような錯覚すら覚えてしまう。

何故そんなに歯に衣着せぬ物言いをすることが出来るのか、それは多分二人が心の底から信頼し合っているからだろう。本当にそうなのかは読み取れないけれど、絶対の信頼は無意識の内にある筈だから、それで良いんだと思う。

だから私も安心して、二人の掛け合いを見ていることが出来る。

一つ冗談を言って、更にその上に冗談を被せて。時たま相手を貶すような言葉も交えて、

本当の友達って、こんな感じなんだろうな。

泥棒さんと私の関係では、きっとここまで発展することはない。寂しいけれど、それは確かだと思う。

あの二人は家族の縁よりもずっとずっと強い絆で結ばれているんだ。例え喧嘩をしようとも、時間が経てば自然と仲直りしているような、そんな関係。それは家族よりももっとずっと近い。

片方だけじゃない。両方が信じ合い、疑うことすらなく、感情のみでぶつかり合える、とてもとても素敵な関係。

そんな関係を、人は親友、って呼ぶらしい。

じゃあ、私にとっての親友って、誰なんだろう。

 

その時ふと、私の心の中にある人物が浮かんだ。

 

 

そうして私たちは神社を後にした。

お燐は新しくここのペットになったと聞いた。ということは二重ペットってこと? 二股? いやそれは違うか。

とにかく掛け持ちになったそうだ。まぁ、あの巫女さんならそうそう変なことはしないだろうし、誰とも知れない奴に預けるよりはずっとマシかな。

そう判断して二人の見送る中、休んですっかり回復した私たちは元気良く歩き出した。

その途中、突然泥棒さんが里を見て回ってみないか、と尋ねてきた。

「何、そう深い意味はないさ。どうせお前暇なんだろ? ならどうかなと思ってな」

確かに暇だ。何もすることなどない。

それに四十年前とどれくらい里が変わっているのかも少し興味があった。断る理由はない。私はこくりと頷いて了承した。

「よし。それなら決定だ。早速里に向かおうぜ」

からからと私に向かって笑う。

とっても気持ちの良い笑い方。私も思わずつられて笑ってしまう。

けれど、私が笑い始めてすぐに、そうだ、と泥棒さんはぴたりと笑うのを止めてしまう。

あまりにも突然のことだったので、私も何だろうと首を傾げて泥棒さんの顔を今一度見た。

「……その、一つ聞いておきたいことがあってな」

「何? 答えられることなら答えるよ」

「答えられないことはどうやっても答えられんだろうが。……さっきの話な、その友達……っていうのもアレかな? 何と言えばいいんだか……」

なんとなく泥棒さんらしくない濁し方に苦笑する。

「ううん、友達で良いよ。で、それで?」

「あぁ……そのな、お前と特に仲の良かったそいつの名前って何て言うんだ? お前、男の子とかばっかりで名前言わなかったじゃないか。ちょっと気になってな」

名前。

そう来たか。

まぁ、どうせいつもの好奇心からでしょうし、良いでしょう。

「んーと……名前は知らなくて、あだ名だけ知ってるんだけど……“コソ泥の哲”って自分で名乗ってたわね。今考えれば酷いあだ名よね」

私はくすりと笑う。

泥棒さんも最初はきょとんとしていたが、次第に苦々しげな表情ではははと笑い出した。

「そうだな。そりゃ酷いあだ名だ。自分から名乗る辺りが余計酷い。ん、気は済んだよ。悪いな」

「気にしないで良いよ。名前を伏せたのは特に意味もないし。……さ、いこ? 早くしないと日が暮れちゃって見たいお店も閉まっちゃうかも」

「あぁ。早く行けるのならば早くした方が良いに決まってるな。うし、箒に乗れ。里まで一気に飛ばしてやるぜ」

そう言ってにかっと笑う。

泥棒さんの飛び方は凄まじい。一緒に遊んでいる時に分かった。その泥棒さんの乗っている箒に乗せて貰えると分かって、少し心がウキウキする。

やっぱりどうせならスリルを楽しまなきゃね。

……それにしても。

泥棒さんの顔に陰りがあったように見えたのは、気のせいかしら。

でも敢えて心は読まない。人には読まれたくない心もある。私が知るべきでないことだってある。それなら……無闇に詮索してはいけないのだ、と、私は学んだから。

それより今は、今だけを楽しもう。私たちが生きているのは今なのだから。

 

あっという間だった。

速いなんてものじゃない。左手で帽子を押さえて、右手で箒の柄を掴むので精一杯。周りの景色なんて何にも見えなかった。

それでも端々に見えた映像は、とても色濃く鮮明に私の頭の中に残留する。

今まで感じたことのない世界。泥棒さんはこんな世界を今まで独り占めにしていたのだ。なんか悔しいなぁ。

やっぱり寒いには寒いんだけど、風の中を切り裂いて高速で空中を舞うのは何よりも楽しかった。今まで暢気に歩いていた道は、上空からではまるで違った姿を見せる。それは私に新鮮な驚きを齎した。

それでもいちいち驚いている暇なんかなくて、ものの数分で里の入り口に着いた頃には、私は既にへとへとになってしまっていた。

「うわぁ……何だか、まだくらくらする……」

「そりゃそうだろう。幻想郷最速の私が全力を出せば素人は目が回るだろうな」

そこまでじゃないとは思うけど。

泥棒さんがいつも物事をややオーバー気味に言うことにはもう気付いていたので然程気に留めることはなかった。

ふぅ、と大きく一つ息を吐く。

顔を横にぶるぶると震わせて、それから目をぱっちりと開くと小さいながらも活気のある現在の里の様子が目に入った。

瞬間、懐かしい感覚に包まれる。

四十年も経とうとしているのに、ぱっと見ただけではまるで昔に戻ったかと錯覚してしまうくらい、人間の里は変わっていなかった。

よく見ると記憶に残っているお店がなかったり、逆に全然見覚えのないお店がちょこちょこあったりする。それでも全体の印象が変わっていないことには違いない。

道行く人たちもなんだか見覚えのあるように思えてしまう。本当はそんな筈はないんだけど、それでも特徴的で印象に残っている顔がちらほらといたような気すらしてくる。

もしかしたらあの人の子供なのかもしれない、とか。あそこの人は多分あの時の八百屋の子だ、とか。もしかしたらこの中に一緒に遊んだ人もいるかもしれない。そんな空想を頭の中で繰り広げた。

そこではっと思い出して、私は慌てて帽子を胸に当てて第三の眼を隠した。

「ん? どうした?」

「ほら、この第三の眼って特徴的だから。もしかしたら誰かがまだ覚えてるかもしれないし」

私は、多分また同じことになっても同じように負けはしないと思うけど、と付け加えた。

ただの強がりだ。でも、自分自身と向かい合う勇気はもうある。だから例えそうなったとしても、私は以前のように逃げはしないつもりだ。

でもそうなることを望んでいるわけでもない。相手が嫌に思うことがあればそれをしなければいい。だから私は心を読もうとは思っていないし、逆に自分が誰だか分かるような証拠をわざわざ見せつけて誰かを無駄に怯えさせようとも思わない。

要するにお互いの軋轢を未然に防ぐための行為なのだ。

「ま、無駄に波風立てることもないしな。幾ら人間が妖怪に慣れてきたっつっても、内心怖いと思ってる奴は大勢いる。そうした方が無難ではあるぜ」

からからと笑う。

それはきっと真実なのだろう。誰も彼もが皆妖怪に対して友好的だとは思えない。恐れている人もいるだろうし、嫌っている人だっている筈だ。

自分が妖怪だってことは一目で分かるだろうけど、それでも覚りかどうかまでは分からない筈。わざわざ自分からばらすこともない。騙しているようで気分は悪いけど、相手の気分を悪くさせるよりはずっとマシだ。騒がれても困るし。

実際私が心地良く楽しみたいだけなのだ。

「よーし! 準備は万端! レッツゴー!」

私は右手を振り上げ、声を張り上げて叫ぶ。

泥棒さんは苦笑しながら、私の後ろに付いてくるのであった。

 

 

そうして私たちは、色々なお店を見て回った。

まるでいつかの行動をそのまま再現しているかのようだったけど、売っているものやそこにいる人たちで同じものは殆どない。色々なことが新鮮に私の眼には映った。

 

例えば駄菓子屋では。

「ねぇねぇシーフさん、これは何?」

私が手に持ったのは赤く四角い妙な箱。白いシャツと短パンを履いた男の人が両手と左足を上げ、爽やかな笑顔を見せている。

それが何故か妙におかしくなって、何のお菓子か気になったのだ。

「そいつはキャラメルだ。それなりに甘くて上手い」

「へー」

キャラメルっていうんだ。どんな味がするんだろう。

後で買っておこう。

「ま、私はキャラメルよりは金平糖の方がずっと好きだけどな。甘くて甘くて頬がとろけるぜ」

そう言って色取り取りの星の詰まった透明な瓶を開けて、一粒取り出し口に放り投げる。

うめえうめえと言いながらぼりぼりと噛み砕いていた。案外硬いらしい。

っていうか買えよ。

 

例えば八百屋では。

「おう、魔理沙ちゃんじゃないか。久し振りだね、元気だったかい?」

「おっちゃんこそな。あんまり頑張り過ぎるとまた腰痛めるぜ? あんまり無理すんなよ」

お店の主人と泥棒さんが笑いながら会話していた。

住民同士の結び付きは強いみたいね。地霊殿ではご近所付き合いとかがないから、ちょっと憧れてしまう。

そんなことを考えていたら、そのおじさんは私がいることに気付いたようで、

「ん? 見たことのない子だね。こんにちは」

泥棒さんと会話していたような快活な感じとは違い、今度は優しく語り掛けるように私に話し掛けてきた。

私も笑顔で挨拶を返す。

ああ、この何となくあったかい感じ。いいなぁ。

「私の友達だよ。妖怪だが気の良い奴だ。これからちょくちょく里に遊びに来ると思うから、まぁそん時は相手してやってくれよ」

「魔理沙ちゃんの推薦なら安心出来そうだね。何か困ったことがあったら何でも言いな。相談に乗るよ」

にかっと笑うおじさんは、とても良い人に見えた。

――その後、暫く野菜の蘊蓄などを聞いて。

帰り際に、おじさんはバナナを一本くれた。

程よく熟していて青臭い苦みもなく、口の中で蕩けるそれは甘くてとても美味しかった。

 

例えば何の変哲もない道端では。

「あら! 魔理沙ちゃんじゃない! 珍しいわね、何年振りかしら?」

「いやいや、そんなに何年も来てないわけじゃないよ。ちょっとこいつに里の楽しさを教えてやっていたところでさ」

そう言って泥棒さんは私の頭の上にぽんと手を置く。

おばさんは私の顔をまじまじと見つめて目を真ん丸く見開いた。

「あらあらあら! 可愛い子ねぇ! 幾つなの? お名前は?」

満面に笑みを湛えて喧しく喋る。

あまりの迫力に押され、私は若干引き気味に体を仰け反らせてしまった。

その時、頭上からあははと笑う声がした。

「おばちゃん、こいつは妖怪だよ。見てくれは私より小さいが、年齢はずっとずっと高い筈だぜ。なぁこいし?」

私は黙ってこくりと頷く。

「あらそうなの? でも可愛いには違いないわね。飴食べる? ほら!」

私が困っているのを見かねたのか、泥棒さんが助け船を出してくれたお陰で難を逃れることが出来た。

今まで同じようなタイプに出会ったことがなかったからか、私はこのような典型的なおばさんタイプには滅法弱いようだ。今だって完全にペースを崩されてしまい、喋ることすら儘ならなかった。

ああ、耳がキンキンする。

勢いで押されちゃうのはまずいわよね。誰とでも同じように接することが出来なくちゃ。そう、慣れよ慣れ。頑張って早く慣れましょう。

おばさんの差し出した飴を受け取り、その場で口に含んで甘さを堪能しながらそんなことを考えていた。

 

 

そうして、お店を一通り回って楽しんだ後に。

「……なぁこいし。もし“哲”に会えるとするなら、今すぐにでも会いたいか?」

泥棒さんは突然振り返り、私に尋ねた。

もし、今すぐに哲に会えるとするなら。

……会いたくないわけがない。やっぱり彼は私の一番の友達だ。喧嘩別れをしたままでも、そう断言出来てしまう。彼は私の中でそれ程大きい存在になっていたのだ。気がつかない内に、だけれど。

そう泥棒さんが聞いてきた理由は私には分からないけれど、どうあっても私にはこう言える。

「うん。会ってみたいよ。結局碌に話も出来ないまま、遊ぶことも出来ないままに私たちは別れてしまった。もし会えるのなら、この四十年間の空白を埋められるのなら、私は今すぐに会いたい」

誇張でも何でもない。私の心の言葉そのもの。絶対にこれだけは裏返らない。

そんな私の言葉を、泥棒さんはふんと鼻で笑って一蹴する。

「おうおう、そりゃ熱烈だな。全く、その哲って野郎は随分と良い奴だったようだな。自分に危害を与えた内の一人でもあるってのに、今でも会いたいなんて思われるんだからな。

さて、そんなお前に今一度聞こう」

「…………?」

太陽を背にしているため表情は見えず、口元だけが薄らと見える。

その口は、にやりと笑っていた。

「その“哲”とやら、本当にお前の言うように良い奴だったのかな?」

……なんて。

なんて、悪意のある言葉。

それは、いけない。

それは私と、哲と、稗田君と、あの時の思い出を共有している私たちに対する侮辱だ。

例え泥棒さんでも、そんな暴言だけは許せない。

「それ、どういう意味? 場合によっては、私はシーフさんに怒らなくちゃいけなくなる」

「どういう意味もこういう意味もない。ただ言葉通りに額面通りに受け取ってくれれば良い。それ以上でも以下でもなく、ただ言葉のそのままの意味だ。

一つ言っておくぜ。思い出は美化されるもの。特に他人の人となりなんざ把握出来るようなもんじゃない。今お前の抱いている幻想が、本当に現実にあったと信じ切れるのか?」

言っている意味は理解出来なくもない。美しい記憶はどんどん昇華されて、いつしか神格化されるに至る。なんだってそう。昔の方が良かったなんて言葉、その概念をそのまま体現しているじゃないか。

泥棒さんはそのことを言っているのだと思う。あまりに楽しかった記憶がどんどん美化されて、私の中ではもう覆らない程の大きな出来事にすり替わっているんじゃないか、本当はもっと小さな下らない取るに足らない出来事だったんじゃないか、ってこと。

もしかしたら心配しているのかもしれない。そうやって勝手に美化して、勝手に裏切られたと思って、勝手に失望するのはよくあることだから。私にだって何回かそうした覚えはある。

ただ、この件に関してはそうじゃないって、私には断言出来るけど。

でも、もし、泥棒さんの言っていることが最初から額面通りに受け取れるとしたら?

……失望するかもしれないことを覚悟しろ、ってことなのかな。

歳月は残酷だ。何をしようとも、大事を為そうとも無為に過ごそうとも時間は平等に万人に過ぎる。

実際に会ったとして、その時の彼は私の知っている彼と同一人物なのだろうか。成長しただけだから同一人物である、なんてそんな話じゃない。もっと……こう、抽象的な、感情的な、物事の本質とでも言えばいいのだろうか。

私の中の哲が哲たるには、四十年という歳月はあまりにも長過ぎたかもしれない。今現在、多分まだ死んではいないだろうけど、私の知っている哲と今の哲とは、もう既に違う存在となってしまっているのかもしれない。

もし私がそんな彼と出会ってしまったとしたら、大いに失望してしまうだろう。そして否定に走る。これは、こんなのは、私の知っている哲ではないと。私の知っている哲は、こんな存在ではなかったと。変化を認めず拒み、そして更に昔のことだけを美化していく。

時間が経てば人も変わる。それは事実だ。そのことに私がショックが受けるかもしれないと、そうなるよりは今現在の彼の姿を知らない方が良いのではないかと、もしかしたら彼女は心配してくれているのかもしれない。

確かにそうなる可能性は否定出来ない。私が昔を懐かしんで実際以上に華美に飾っているかも分からない。そのことを考えに含めれば、泥棒さんの言っていることも自然ではあるのだ。ましてや、あの時の出来事は私にとって心的外傷となっていたのだから。

……だけど。

少なくとも、今ここにいる霧雨魔理沙には、哲を貶めるようなことをそこまで言われる筋合いはない。

ない、筈だ。

「……ねぇ、貴女。さっきから何を言っているの? まるで哲のことを詳しく知ってるような……」

「そりゃ知ってるよ。知り合いなんてもんじゃないからな」

忌々しいことにな、と付け加える。

はっとした。

「小さい頃から何度も聞かされてきたさ。俺は幼少の頃、とんでもねえ間違いを犯しちまったんだ――って始まりでな。毎回毎回変わらず飽きず、一字一句完璧に覚えてるんじゃないかとも疑ったくらいだぜ。

聞いてもいないのに何度も話しやがる。面倒臭えったらありゃしない。容姿端麗文武両道品行方正と評判の私ですら、回数が三桁を数える頃にはウザったくなってあからさまに嫌がったな」

それは嫌だ。

わざわざそんな妙な副要素を付けずとも、そこまで行っては誰だってうんざりするだろう。

……でも、それって、つまり。

「ああ、そうさ」

そうして泥棒さんはくるりと振り返り、逆光の中表情を見せないままに言った。

「“コソ泥の哲”。本名霧雨哲也。ウチの糞爺だよ」

 

 

ざっざっざっざ。

砂を蹴り上げ、足早に往来の真中を忙しなく歩き続ける。

あまりにも速いので私は少し小走りにならざるを得なかった。

「ねぇ、……ちょっと、待ってって、言ってる、でしょっ」

「…………」

「……シーフさん? 聞いてるの?」

「――いや、聞いてない」

うぉい。

真顔で言うか普通。

俯いて何やら考え込んでいる様子。けれど私は泥棒さんに付いて行くしかなかったため、行動を向こうに合わせなければいけないのだ。

速く歩けば速く。遅く歩けば遅く。立ち止まれば一緒に立ち止まらなければいけない。幸いなのは、泥棒さんが道端で誰かと長話をするような人じゃなかったってことくらいか。

幾ら考え事に没頭してるっていっても、一緒にいる人のことも考えて欲しいものよね。

「そんなに速く歩いて……私が疲れちゃうじゃない。もっとのんびりしましょうよ」

「嫌なことは早く済ませた方が良いってのが私の持論でな。感動のご対面の場を用意してやるだけ有難いと思え」

なんて恩着せがましい。

でもそこまで言い切るとは、どれだけ嫌っているのだろう。私の知っている哲と泥棒さんの知っている哲とが同一人物だと分かってから、哲の話をすると途端に不機嫌になるし。

何かあったのかな?

「ねぇシーフさん、どうして彼のことを悪く言うの? だって親なんでしょう?」

「もうあそことは縁を切った。なるべくなら関わりたくはないんだ。あいつの店に近付くのも本当は気乗りしないんだよ」

ぴしゃりと言い放つ。

あらら。

何か複雑な事情があったのね。

これはあんまり口出ししない方が良いかな。

君子危うきに近寄らず。加えて口は災いの門。余計なことは喋らず触らず、遠い所から眺めていた方が良い。

そう思ってしまった以上、おいそれと口を開くことは出来ない。それきり私は黙りこくるしかなかった。

しかし二人並んで歩いている以上、喋らずに空気が変わることはない。重々しい空気が間に流れているのを感じながら、私は気まずい思いを抱いて淡々と歩かなければならなくなった。

……なんでこんな嫌な目に遭わないといけないのかしら、私。

悪いことをした覚えはないんだけど。うーん、トラブルを呼び込む体質なのかな。余計な貧乏くじばかり引かされている気がしてならない。

ざっざっざっざ。

あるべき筈の周囲の喧騒がふと消え、土を踏む音だけが私の耳を支配する。

会話がなくなっただけで、これ程までに居心地が悪くなるとは。

けれど状況を改善する方法も思い付かない。だから私もただただ歩き続けるのみしかなかった。

――そうして、暫く歩き続けて。

「ここだ」

泥棒さんは急に立ち止まった。

突然だったので危なくぶつかりそうになりながらもぎりぎりで踏み止まり、泥棒さんと同じように右側へと体を向けて仰ぎ見る。

木造の古風な造りの建物。二階の辺りには黒ずんだ木板に達筆な字ででかでかと「霧雨道具店」と書かれていた。もしかしなくても店名だろう。

泥棒さんはずかずかとお店に近付き、そして乱暴にところどころ虫食いのある扉をばんばんと叩いた。

「おーっす。久し振りだな、入るぜ?」

さっき言ったことが本当なら、いちいち断る必要もないと思うんだけど。

でも私のそんな予想は的外れだったみたいで、奥の方からとても不機嫌そうな声が返ってきた。

「悪いが一見さんはお断りしているんだ。今日は帰ってくれ」

「おいおい、この店にはそんなルール無かった筈だぜ? 私が何もかも忘れてはいそうですかと帰るものか」

「んなこた分かってるんだよ。手前が帰るための方便だってくらい理解しな」

けっ、と泥棒さんが毒づく。

「一応言っておく。ここは店だ。そして私は客だ。なら丁寧とは言わないまでも、せめて中に入るよう案内するべきじゃないのか? 商売人としてどうなんだよそれは」

「それでも、だよ。お前にはこの家の敷居を二度と跨がせないと言った筈だ。分かってるよな? 俺がどれだけ頑固かってことが」

「百も承知だよ。……ったく、見ろよ。こうだぜ? 本当面倒臭いよな」

顎でお店の奥の方を見るよう促す。

まだ日は昇っているというのにお店の中は人がいず、天井から吊り下げられた幾つかの電灯はそのどれもがちかちかと点滅していた。

その上何やら棚が多い。私の背丈では届かないような棚すらあった。それらがあるせいで、私の位置からでは泥棒さんの指している個所は見ることは出来なかった。

背伸びして爪先立ちになったり体を左右に揺らしたりしてなんとか見ようとしていたが、雑貨店というだけあって中はごちゃごちゃしていて収拾がついていない。寧ろ逆に泥棒さんは何を見ているのか気になるくらいだ。

散らかっているのは主人の性格が原因かしら。

「……ん? 誰か連れて来たのか。そっちは良いよ。入っておくれ」

私がそんな邪推をしていると、泥棒さんと一緒に私がいることに気付いたみたいだった。私から見て

気の良いおじさんみたいな感じの調子。さっきまで突っ慳貪に会話していた人と同一人物とは思えない程の変わりようだった。

いちいち余計な一言を付け加える奴だな、と泥棒さんは憤慨する。

……仲、やっぱり悪いのかな。さっきからずっと喧嘩腰だし。

何があったのかは知らないし知るべきでもないから口は出せないけれど、……なんだか悲しい。

確かに私だってお姉ちゃんのことが邪魔に思える時もあった。お姉ちゃんからすれば私はまだまだ世間知らずの子供だったんだろうけど、だからって小さい子を相手にしてるかのような態度を取られるのは馬鹿にされてるようで嫌だ。

幸いにも、といって良いのかはよく分からないが、最近はそういうこともなくなったけれど。いちいち口出しされなくなった代わりになんだか気に掛けてくれていないような気がして逆に寂しかった気もする。それが子供である何よりの証拠なのかもね。

だから泥棒さんの気持ちも分からないでもない。度々話し掛けてくる、つまり気にしてくれている間はそればかり強調されて感じてしまって段々邪魔に思うようになり反発してしまうのだ。俗にいう反抗期ってやつ。

きっと彼女もそれに違いない。父親に同じ話ばかりされてうんざりしたって言ってたし。それが原因じゃないにしろ、要因の一つではあったんじゃあないかな。

でも……それで縁を切るっていうのは、ちょっとやり過ぎじゃないのかなぁ。

聞けばもう一人暮らししてるそうだし。自立するのは良いことだけど、泥棒さんの年齢じゃまだ早過ぎる気がする。そもそも人間だ。森の奥深くなんかに住んでいたら、妖怪に襲われる危険だってあるだろう。まぁ私を倒す実力はあるしその辺の心配はいらないみたいだけど。

うーん、お父さんを知らない私には分からない話なのかな。

ふと顔を上げて泥棒さんの方を見る。

彼女はにかっと歯を見せて笑っていた。

「ほれ。呼ばれてるんだ、行けよ。大丈夫、あいつが下手なこと言ったら私がしばいてやるから安心しろ」

「貴女は……いいの?」

「私はいいさ。嫌がってる相手にわざわざ会いに行くこともない。それに元々会いたがってたのはお前だ。そうだろう?」

そうだけど。

……そう、割り切るしかないか。

何とも言えないもやもやとした気持ちを抱いたまま、私は断続的に点いたり消えたりを繰り返している電灯の支配するお店の中へと入って行った。

 

歩く度に、ぎしり、ぎしりと床が鳴る。

もう建てられてからそれなりに時間は経過しているのだろう。老朽化が激しい。外側は立派なものだけど、近い内に改築するのは必然ね。

切れかかった電灯のせいで目がちかちかしてしまう。お客さんに優しくない店ね。それともたまたまだったのかしら? どちらにしても運が悪いわ。

時折しゃがみ込んだりして棚の間に入っている見慣れないものを物色する。中には何に使うのかよく分からないようなものもある。道具店じゃなくて明らかに雑貨店だった。店名を変えた方が良いと思う。

そうして大分進んだ頃、漸くお店の一番奥、カウンターの向こう側で小さな電灯を付けて新聞を広げている彼の姿が目に入った。

髪の毛にも白髪が混じり、虫眼鏡を使って新聞の細かな字を次々と追っているその様は、やはりただの古びたお店の主人でしかなく到底哲本人だとは思えない。

けれど時折見せるふとした動作や僅かに残っている少年期の頃の面影が、彼が本当に哲なのだと私に確信させる。

時間の流れって残酷なものよね。

まさかこうも変わってしまっているとは。多分、泥棒さんにそうだと言われなければ哲と気付くこともなかったでしょう。記憶自体はあれ程鮮烈に頭の中に残っているのに、見た目では判断出来ないなんてね。

改めて人間と妖怪の時間の流れの差を感じるわ。

その時、ちらりと彼が私の方を見たのを感じた。

「悪いね、妙なところを見せちまって。あいつの友達なんだろう? 大変だな、何か後で適当に見繕ってサービスしようか」

視線は合わせないまま、ぼそりぼそりと呟くように義務的に謝る。

私のことに気付いてないのかしら?

精一杯、出来る限りお道化てみましょうか。

「えへへ。こんにちは、哲」

怖かったけれど、泥棒さんの言ったことを信じて。

あんまり、不自然に見えないように。

私はにっこり笑ってぺこりとお辞儀をした。

そうしてから顔を上げると、先程まで憮然とした如何にも普通のおじさんだった哲の顔が、今は私の方を見詰めていた。その顔は驚愕の表情に満ちている。

持っていた新聞をゆっくりと置き、かたかたと震え始めた手はぽとりと虫眼鏡を零した。

目を見開き、ぽかんを口を大きく開けて、私に向けて指を差している。

「お……おま……え? ちょ、ちょっと待て、おい魔理沙! どういうことだこれは!」

「こっちに振るな。私の知っているのは今のこいしだからな。昔のことは知らん」

遠い後ろから聞こえてくる声。やや投げ遣り気味だった。

……私がいても親子で漫才をしているように思えるのは気のせいだろうか。

もうちょっと何か、というか最初くらい私に声を掛けてくれても良いのに。ちょっと傷付くなぁ。

少し俯きながら、上目遣いで哲の方を見る。

「ごめんなさい、何も言わないで。迷惑だった……かな?」

「いや! そんな、全く、迷惑なんかじゃない。ただ、少し驚いただけで……」

しどろもどろとして鼻息荒く必死に弁解している。

その瞬間、私の瞳には子供の頃の彼の姿が映った。

悪いことをしているのを見つかり、慌てて謝り許して貰おうとする哲。悪ガキそのものだった、彼の子供時代。

外見は変わっても、中身は変わってないってことか。

私はゆっくりと目を閉じる。

「久し振りだね。元気だった? あれからもう四十年も経ってるんだよ。哲なんかすっかり老けちゃって。一瞬どこのおじさんかと思っちゃったよ」

優しく語り掛けるように。

なんて心地よい感覚なのだろう。思い出を共有している存在が近くにいるだけで、こんなに心が安らぐのか。

哲はかはは、と微かに笑う。

その笑い方は何となく、泥棒さんのそれを彷彿とさせた。

成程、あの笑いは遺伝だったのね。じゃあ親子って関係は本当みたい。別に疑ってもなかったけど。

「そう言うお前は全く変わってないな、こいし。……いや本当、変わってない。あの頃と何も変わらない。何もかもが全く一緒だ」

私の全身を何度も上下に往復して、まじまじと見つめながら言う。なんだか恥ずかしい。

全く、でもないけれど、私の外見が成長していないのは事実だ。妖怪の一生は長い。人間とは比べ物にもならない。

加えて私はついさっきまで全てを拒絶していたのだ。妖怪という種族は極めて精神的な存在。時間の経過さえ、私は受け入れなかったのだろう。変わっていないのも頷ける。

大体はお姉ちゃんの受け売りだけど、私の見た目が変化していないことは事実だ。どんな理論があろうとも、事実だけは変わりようがない。ただそこに在るのみ、なのだ。

まぁ、哲からしたら驚きでしょうね。四十年は結構長い。それだけ経って、子供の頃に出会った妖怪と再会して、しかも外見が変わっていないとなると常日頃から妖怪と接している人でもない限り驚くに決まっている。

そんなことを彼に逐一説明する気はさらさらないが。

「流石に中身まで変わってないことはないけどね。今はもう年相応に乙女なんだから。あんまり子供扱いして貰っちゃ困るわ」

「……そうか? 見たところ胸の辺りは平坦のままのようだが」

「叩くよ?」

右手で拳を作り振り上げる。

哲は笑いながら悪い悪い、冗談だと頭をぽりぽりと掻く。そんな冗談あってたまるか。

……いきなりセクハラ発言とは。四十年の歳月は純粋な少年をここまで薄汚く汚れさせてしまうのか。エロスね。エロスのパワーって凄い。

その冗談を皮切りに、一つ二つと楽しい昔話を交わし合ったが、そもそも二日間しかなかった繋がり。私にとってはとても濃かったけれど、実際話す内容などそれ程ない。すぐに尽きてしまった。

共通する話題もない。地上にいる間は無意識のままだったし、地下にいたところで地上と共通する話など何もないのは明白だ。唯一共通している事項で泥棒さんがいたけれど、あれを目の当たりにしたらわざわざ自分から口に出す勇気なんて出て来ない。仕方なくそのネタは封印されることとなった。

そうして何も手を打つことが出来ずに、訪れ始めた静寂が薄ぼんやりとした灰色の闇と同化して、何となく気まずい雰囲気が辺りに流れ始める。

あぁどうしよう。何だか居辛い。旧友が二人向かい合ってだんまりとは、これはちょっと精神的に厳し過ぎる。

暫く無音の状態が続く。

向かい合うことに疲れてしまった私は持て余し気味に下を向いて、床の木目を黙々と数えていた。

とその時、ふと哲が口を開く。

「……なぁ、こいし」

「何?」

声に即座に反応して、下を向いていた顔をぴくんと反射的に上げる。

視線の先には予想に反して、とても苦しそうに思い詰めたような顔があった。

「な、何? どうしたの!? お腹でも痛いの?」

「いや……その、な……。

…………すまん。あの時は、本当に悪かった」

思わずポカンとしてしまう。

一体何の話をされているのか、何を謝られているのかさっぱり分からなかったからだ。

哲は頭をカウンターにぎりぎりと擦り付け、消えそうなか細い声で謝り続けていた。

謝られるようなことをされた覚えはない。思い当たることなんてあるわけない。突然のことに混乱していた私は、思わずちょっと待って、と何も考えずに口走っていた。

「ど、どういうこと? 悪かったって……え? 貴方、何かしたっけ?」

「……憶えてないのか?」

「と、言われましても……」

そもそも何を指しているのか分からないから憶えてるも何もない。私の方が答えに窮してしまうのだ。せめて何の話をしているのかぐらいは言って欲しい。

それとも哲からすればそれだけの情報で伝わるようなことなのかしら。あれ? もしかして本当に忘れてるのかなぁ。

困惑したまま黙っている私を見て首を傾げながら、哲も困惑した表情で説明を始めた。

「いや……その、お前と会って二日目、稗田を――って稗田は覚えてるよな? あの本馬鹿」

「うん。それは覚えてるよ」

本馬鹿って。どういう例え方よ。合ってるけど。

「嫌なことを思い起こさせるようなもんだからなるべく話したくないんだけど――ほら、一番最後の時。稗田が余計なこと言い出してからの騒ぎさ」

苦々しげな表情に変わり、最後の方は言い捨てるようにして言った。

あぁ成程そのことか。そうか、確かに哲にしてみれば負い目を感じているところもあるのかもしれない。あの件は私の心が弱過ぎたのがいけなかったんだし、そもそもそういった態度を取られても仕方がないところもあるわけで。

もう既に私の中では全て終わったことで、気にするもしないもない過去の出来事だったんだけど。でも哲はまだ苦しんでいたのか。らしいと言えばらしいけど、流石に四十年は悩み過ぎではないだろうか。

うーん、私はもうそんなこと怒ってもないんだけどなぁ。

私のために悩み続けていてくれたのは分かるが、私としてはあまりそのことで悩んで貰っても困る。だからそのことをそのまま伝えた。

「大丈夫よ。そんなこと、別に気にしてないし。大体私が――」

「いや! 例えこいしが妖怪でも、そして種族が覚りだったとしても、あの日あの時あの場所での俺たちは真に加害者だった。こいしに酷いことを言って、その上逃げ出しまでして……今考えると本当に酷いことをしたよ。こいし自身は何も悪くない筈なのにな」

うわー、本当にそこまで私のことを気に掛けてくれていたのか。

逆にこっちが恥ずかしくなってしまう。

「お前が飛び出して行ってから、我に返った俺はすぐに追いかけたんだが……見失っちまってなぁ。本当、あの時のことは今でも後悔してるよ」

目を細めて、どこか遠くの方を見詰めるように言う。

ノスタルジーに浸っているように見えた。

「次の日も、その次の日も、大体一週間ぐらいか? 自分の行ける範囲は……それこそ危険な場所でも、朝早くから日が暮れるまでお前を探してたんだよ。お前と最初に会ったあそこなんか、何度行ったことか……。

ま、その甲斐なくお前は見つからず捜索も打ち切りになったんだがな。毎日毎日遊び過ぎだって母親に怒られてさ。暫く強制的に店の手伝いさせられてた。

……本当に後悔したよ。あんなこと言わなければ、あんな態度を取らなければ、お前は俺に失望することなく今も楽しく遊んでいられたのかな、ってな。後にも先にもあんなに後悔したことは他にねえ。

――――すまない。本当に、すまなかった」

そして、とても哀しげに俯いた。

あぁ。

何となく、薄くぼんやりとだけれど、でも確かに覚えている。

自分を失ったまま地上を散歩していても誰にも気付かれない。極限まで希薄になった存在はどんな手を使っても感知することは出来ないから。

それが私の無意識の力。自発的に使おうとしないからこそ、そこまで全てを拒むことが出来る。

だから、本当に幽かな記憶しかないけれど。

たった一回だけ、彼とどこかですれ違ったような気がするのだ。

好き勝手歩いているのだから当然誰かとすれ違う可能性はある。でも、相手が私がそこにいるなんて分かることもないし、私がそれを知覚することもない。お互いにそこには誰もいないと認識するだけだ。

……本当なら、そうやってすれ違ったことなんて覚えている筈がないんだけど。ほんの僅かでもこうして記憶が残っていることなんてなかった。思い出せたことに私自身が驚いているくらいだ。

やっぱり、彼だけは特別なのかしら。変な話だけどね。

私はにこりと笑う。

「ううん。いいの、哲。私が弱かったから、私が悪かったから。だからあんなことになってしまったのよ。謝るべきはむしろ私の方」

「お前が悪い筈あるものか! 俺たちが悪いんだよ、あんな勝手なことばかり言って、こいしの気持ちも知らないで……! くそっ、過去に戻れるのならあの瞬間の俺をぶん殴って正気に戻したいくらいだ!」

今の貴方が当時の貴方を殴ったとしたら、多分血が出るだけでは済まなくなると思うんだけど。

しかしあんまり謝られても困る。私自身の中ではもう終わってしまったことなのだ。泥棒さんのお陰でこうして自分を取り戻すことが出来たし、何も文句などはない。

それより何よりこうしてまた哲と出会えたことが嬉しいのに、謝られてばかりではそれも半減してしまうではないか。

「もう謝らなくても良いよ、哲。何も気にしてないって」

「いや、そんなわけにはいかない。俺はお前に酷いことをした。押し付けがましいかも知れないけれど、その償いをさせて欲しいんだ」

あぁ、予想通りの答え。哲ならそう来ると思ってた。

やっぱり哲は変わってないな。外見や環境が変わってても、その本質は全然変わってない。当然のことなのかもしれないけれど、そんな彼が少し微笑ましくすら思える。

そんな彼が、私は好きなのだ。何事も真っ向勝負で挑むところも、常に真っ直ぐで自分の考えを曲げない頑固なところも。お調子者なんだけどそのまま突っ走ることはなく、怒られてしまったらそのまましゅんと落ち込んでしまうように、常にありのままでいたところも。

結局最後には、全て自分で背負い込もうとするところも。

自分を犠牲にして、他の人の責任まで全て引き受けてしまう。ガキ大将的な性質ではあるけど、決して大将にはなれなかった哲の性格の根本。

ずるくないのだ。飽くまで正当で、飽くまで対等でいようとする。子供らしい正義感を持ってて、無邪気なんだけどいざというところで頼りになる、まるでヒーローのような哲。

私の最初の心の扉を開いてくれた。私に新しい世界を見せてくれた。私に挫折を教えてくれた。

……魔理沙だってそう。哲と同じように、私の閉じてしまった心の扉を開いてくれた。私に楽しい世界を見せてくれた。私に知る勇気を与えてくれた。

根本的なところで、この親子は徹底的に同じなのだ。いつの間にか私は重ねて見ていた。とても申し訳ない話だけれど、私の中では――泥棒さんは、哲の代わりなのだ。

でも泥棒さんが好きと言うことに変わりはない。ただ、その切っ掛けが哲だったというだけで。泥棒さんは泥棒さんでたくさん良いところがあるのだ。だから私は友達になりたいと願ったのだ。

……でも、それ以上に、私は哲のことが好き。

全部全部ひっくるめて好き。壊れるくらいに大好き。壊れてしまっても大好き。壊れてしまったから大好き。直った今では、もっとずっと破裂するぐらいに好き。

だから、いつも一緒にいたかったんだよ。

そこまで思って、やっと気付く。

私が彼に抱いていた感情、それが何か。

簡単なことだったんじゃない。ただ、近付き過ぎたからなかなか気付けなかっただけで、でも胸の奥では理解していて。

切っ掛けが必要だった。その切っ掛けを得た今、私ははっきりとその感情が何だったのかを言える。

――私は哲に、恋していたんだって。

「……じゃあ、謝る代わりに、一つだけお願い。聞いてくれる?」

「勿論。俺のことを許してくれなくても良い。ただ、今は何かをさせて――」

「だから怒ってなんかないって。許すとか許さないとか、そんな話しはもうお終い。そんなことはもういいの。だから聞いて欲しい。あのね――」

妙な所に固執する。

どうして私が今更哲に会いに来たか、一生分からないんでしょう。

貴方に会いたかったからなのに。

全く、久し振りに会った相手がそんなにうじうじしていては、百年の恋も冷めてしまうわよ。

真摯な態度も度が過ぎれば格好悪い。こんなに謝り倒しだと、女の子は逆に逃げて行っちゃうんじゃない?

私は別だけどね。

「――私と、デートしてくれますか?」

 

ぱちん、ぱちんとスイッチを押すと、店内の電気が一斉に消え、目を凝らさないと一寸先も見えないような状況になった。

「いいの? お店はどうするの?」

「もうここは殆ど客が来ないんだよ。数年前までは繁盛してたんだけどな、最近はさっぱりだ。ぎりぎり食い繋いではいるがな。

後継ぎもあの通りだし、潰れたって誰も気にせん。一日くらい突然店を閉めたって構いやしないさ」

からからと笑う。

私にはカラ元気としか思えなかった。

「ほら、出掛けるぞ。外へ出ろ外へ」

「あ、わ、わわ」

哲に後ろから小突かれ、足を縺れさせながら転ばないように微妙なバランスを保って私は歩き始めた。

――返事はイエス。

そうと決まれば即日決行、とばかりに哲はもう店を閉めようと言い出した。

私自身はすぐにしようとは言っていないし、何よりそんな気も心構えも何もなかったのだからとても驚いた。

彼の性格を考えればそう言い出すことは少しは予測出来ていた筈なのだが、如何せんその時の私は興奮と混乱で頭がいっぱいだった。完全に前後不覚に陥っていたのだ。

ううむ、泥棒さんも外にいるし何とも気恥ずかしいんだけど。

止めることも出来ないままに、私はただ流されるばかりだった。

 

「ようこいし。全部聞こえてたぜ。いやぁ、何ともこりゃ素晴らしい文句だことで」

そう、当然そのことをネタに持ち上げられるわけで。

泥棒さんはにやにやとしながら私を詰る。

「うう……聞こえてたんならどっか行っててくれれば良かったのに。なんか恥ずかしいじゃん」

「ふふん。そんな美味しい話を聞き逃すわけにはいかんのだよ。まぁ、相手が自分の血縁者ってのはかなり微妙な気分だけどな」

ええ、そりゃ微妙でしょうね。

「そこら辺にしておけ。あまりこいしを苛めてやるな」

泥棒さんの言葉を遮るように哲は口を開いた。

詰りの対象には彼自身も含まれている筈なのに、気後れしているようには全然見えない。大人の余裕ってやつ?

何も気にしていない様子で、哲は更に続ける。

「それより、だ。……魔理沙。お前が顔を見せること自体珍しいと思ったが……まさかまさかのおまけ付きとはな。どういうことだ? 説明して貰おう」

「おまけは私の方だ。こいしが会いたいと言ったから連れて来た。それだけのことだよ」

哲と泥棒さんの視線がぶつかり合う。

無言のままの二人の間には、見えない火花が確かに散っていた。

そうして暫く睨み合う二人だったが、いずれ哲がふぅと深く息を吐いて目を閉じ、続けて喋ることで息の詰まる時間は終わった。

「成程な。理由としては十分だ。……それで、帰る気はないのか。魔法の森の生活はなかなか大変だろうに。後悔してるんじゃないのか?」

「住めば都ってやつでね。生憎私の辞書では後悔なんて言葉ここ数年ですっかり消えちまったみたいでな。快適な生活を放り出して戻る気なんざさらさらないぜ」

つんと哲の言葉を撥ね退ける。

泥棒さんの決意は相当の物らしい。哲の方から譲歩しようとしているのがよく分かるのに、彼女自身がそれを全く聞き入れようとしていない。これでは歩み寄るも何もないじゃないか。

こうして一応普通に会話出来ているのならもうすこし仲良くしたって良いんじゃないかなぁ。やっぱり理解出来ない。だからと言って無闇に心を読んだりはしないけれど。

でもこれ程似ている親子だ。案外どうでも良いようなことで喧嘩したまま別れてしまったのかもしれない。理由がどうでも良ければどうでも良いほど、喧嘩というのは長引くものだ。

まぁ、その仮定が通るのならよっぽどどうでも良いことが理由になってしまうんだけど。

哲ははぁ、と溜め息を吐いて私の方を見る。その様子からするといつものことらしい。よっぽど頑固なのね、泥棒さんも。

「ま、店を継いでくれりゃそれが一番良かったんだけどな。今更そこまで望みはしないさ」

まるで独語するかのように呟く。

いや、やっぱり彼のそれは独り言だったのだろう。誰かに問い掛けるわけでもない。ただ淡々と自分の意見を述べただけのようにも思えた。

一歩、歩み寄る。

哲が、泥棒さんの方へと。

一瞬だけ身を逸らせたけれど、そのまま止まり腕組みをしたままつんと横を向く。

それは一種の拒絶のようにも見えたけれど、それでも哲は更に歩み寄り、泥棒さんのすぐ横にまで近付いた。

結局、親子が二人並んでいるような形になって。

そして、哲は不意に、

「――たまにゃ帰って来いよ。親は親で子供は子供だ。幾ら関係を切ろうったって、その事実だけは一生切れんさ。俺は俺なりに、お前のことが心配なんだよ」

「……っ」

泥棒さんの頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと乱暴に撫でた。

すぐにその手を邪魔そうに片手で払い、泥棒さんは頬をほんのりと赤く染めながらはんと鼻で笑う。

「手前に心配される程私の体は弱くはない。寝言も大概にしろ」

「そういう口の悪いところが似てるのが余計むかつくんだよ。娘なら娘らしく言葉遣いを改めやがれ」

「こんなになったのは誰のせいだかな。……ま、どうでもいいさ」

帽子を取って、ぷいと横を向いた。

今までとは違って、減らない口答えもせずに。

なんだかんだ言っても、父親を嫌いになり切ることは出来なかったらしい。

「さっさと行けよ、糞親父。手前がでれでれしてるところを見ると背筋がぞわぞわするんだ」

「ん? お前はついて来ないのか。こいしはお前の友達なんだろう?」

「感動の出会いを邪魔する程私も野暮じゃないってことだよ。娘の心遣いに感謝しな。

……つーわけだこいし。ま、精々昔話を楽しめよ。四十年振りの再会、なんだからな」

続けてそういやアリスに人形まだ返してなかったっけ、どんなこと仕返してやろうか、などと物騒なことを呟く。

きっとそれは照れ隠しなのだろう。全然関係ないことをいきなり持ち出してきては論点をずらす。

でも頬が緩んでいるからばればれだ。

――案外、二人は仲が良いのかもしれない。

それは良いことだ。とても良いことだ。この上なく良いことだ。

出来れば、交わす言葉に棘がなければもっと良かったんだけど。流石にそれは高望みか。

でも、まぁ、いっか。

本当は、嫌いじゃないと分かっただけでも良い。

人間は相手の心が読めないから私たち覚りにはとても不器用に見えるけど、彼らには彼らなりの解決法があるんだ。

それが分かっただけでも僥倖だ。うん、勉強になった。

「……じゃあ、ここでお別れね。今日はありがとう、楽しかったわ」

「と言っても私は大したことはしてないけどな。まぁその糞親父をコキ使ってやってくれ。働く気もねえただのぷー太郎だしな。喝の一つでも入れてやってくれよ」

「糞糞繰り返すな。俺の品性まで疑われる」

「え? 貴方の品性なんてそんなものでしょう?」

おいおいこいし、そりゃないぜ、と哲が半ば笑いながら嘆く。

その声があんまりにも情けなく聞こえて面白かったものだから、思わず私たちも声を上げて笑ってしまった。

 

 

そこは、里の外れに位置する見晴らしの良い場所。

河童か何かが立てたのだろう。それは人間の里どころか幻想郷にすら不釣り合いな、ぽつんと一つだけ建った石で出来た塔。

使われなくなって久しいようで、元々は灰色だった筈だが今は全体が黒く薄汚れている。

……っていうか使ってたのかしら。どこにも繋がっていないみたいだし、一体何のために建てたのかも分からないわね。

そこに着くと哲は無言で一心不乱に備え付けの梯子を使って上り始めた。どうするつもりなのかは分からなかったが、慌てて私もその後に続く。

結構高いのでかなり根気を入れて上らなければいけなかった。行きだけでもうばててしまいそうで、帰りのことを考えると少し憂鬱だったけどそうやって考えてる間にも哲はどんどん進んで行ってしまう。選択肢などは既になかった。

服が汚れても構わない。というか構えない。汗がじっとり滲んでくるのが分かる。薄汚れた服がぴったりと体に張り付いて気持ち悪い。息切れすら起こしそうになった頃に、漸くてっぺんに着くことが出来た。

見ようによっては煙突にも見えたけれど、一番上に上っても穴なんか何処にも開いていない。まさに石塔と言うか、どちらかというと石柱と言った方が正しいかもしれない。

そうして落ち着いてから周りを見回すと、初めてそこが石塔でも石柱でもなく、高い高い展望台だったということが分かった。

展望台と言うには遠くを見るためのスコープも何もない、ただの簡素な場所だったけれど、そこから見える絶景は言葉じゃ形容出来ない程素晴らしいものだった。

下をのぞけば賑わっている里の様子がよく見える。忙しなく動き回る小さな人々は、まるでお人形さんのよう。

そう、例えるのならそれはジオラマ。私の見てきた人間の里が、ここからだと比率はそのままに縮小したかのように見えてしまう。

とても不思議な感覚だった。

ふと、哲が口を開く。

「デートとは程遠いもんだから、凄く申し訳ないんだがな……いや本当。疲れただろ? ごめんな。

でも、どうしてもここをお前に見せたかったんだよ。ずっとずーっと、お前に見せてやりたくてたまらなかったんだ」

そう言う哲の横顔は、とても嬉しそうに見えて。

ずっと見せたかった、ってことは、きっと遠い昔にこの場所を知ったのだろう。私と会うより前のことかな。

ああ、四十年前に一緒に見れたとしたら、どんなに楽しかっただろう。どんなに嬉しかっただろう。

今更そんなことを思っても何も変わりはしないけれど、この驚くべき光景に素直に感動するには、少し時間が経ち過ぎていた。

この純粋な喜びを、もっと早くに味わいたかったなぁ。

そう思えるのは、やっぱり今初めてこの風景を見たからで、でも実際にあの頃に見たとしたらこんな感情を抱くことは有り得ない。何だか奇妙だ。こういうのをなんて言うんだっけ? パラドクス?

……ほら、だから嫌なんだ。素直に見ることが出来ない。必ず何か余計なことを考えてしまう。脱線して脱線して、本題なんかどっかに行って。本当に感動しているのかどうかすらも曖昧になってしまう。

そういう意味で、私は大人が子供に酷く劣っていると思う。純粋に感動したい時に、こんな余計なことばかりが浮かんでしまいさえしなければまだ良いのになぁ。

感動、か。あの言い草からすると、哲は多分子供の頃にこの風景を見たことがあるのだろう。自分の住んでいる場所をこうして全く違った角度から初めて見た時、彼はどう思ったのだろうか。

わざわざ口に出して聞く程のことでもないけれど、敢えてそれを哲に問う。

「貴方は……初めてここに来た時、どう思ったの?」

「初めて?」

「そ。初めて」

そこが重要なのだ。

哲はそうだなぁ、と腕組みをして瞼を閉じて考え込み始めた。

低く唸る声が吹く風の音に混じり妙な音楽を奏でる。正直聞くに堪えない。

暫くした後、哲は漸く結論を出した。

「勿体ないな」

「…………はぁ?」

思わず怪訝な声を出してしまう。

だって意味が分からない。唐突に勿体ないとか言われても困る。

あからさまな私の声の調子に哲はんー? と首を傾げた。

「言い方が悪かったか? 最初はさ、俺一人でここに来たんだよ。で、あんまりにも驚いたもんだからさ。勿体ないなって思ったんだ。

だってこの風景を見てるのは俺一人だってことだろ? 誰も俺以外に知らないんだぜ。こんな凄えもん、俺だけの秘密にしとくにゃ勿体なさ過ぎる。そう思わないか?」

ああ、そういうことか。なら理解出来る。最初からそう言えばいいのに。

確かに既に同じ光景を見た私なら頷ける。これを自分だけの秘密にしておくなんて勿体ない。すぐにでも誰かと一緒に見て、その感動を分かち合いたくなるだろう。

但し私の場合は、こうして哲が横にいてくれたからそんなもどかしい思いに苛まれることはなかったが。

成程、成程。哲らしい。感動するより先にそう感じてしまうとは。私と完全に意見が一致するなんて、やっぱり哲は面白い。

そういうところが、私は好きなのだ。

「そうだね。私も同じ立場だったらそう感じると思う。本当、これを独り占めにしておくなんて意味ないもんね。

ありがとう、哲。こんな素敵な場所を教えてくれて」

そこから見れば、見えるのは里を上から見た図なのだけれど。

ぐるりと周りを見回せば、この世界の全てがこの石塔から一望出来ることが分かる。

私の知っている場所。私の知らない場所。どこがどこに通じているか、どこからどこへと進めるのか。その全てが大まかにではあるが見ることが出来るのだ。

それはとてもとても素晴らしい景色。ああ、こんな場所を教えてくれた彼には感謝してもし切れないぐらい。

出来ることなら、もっと早く連れてきてほしかったけどね。

そんなことが無理なのは重々承知だ。朝の時点ではまだ私は心を閉じたままだったのだから。偶然に偶然が重なって、とんでもなく低い確率で哲とまた出会えたのだから。

そう考えると、今こうして哲と気持ち良く話せているのが夢みたい。全く、人生って分からないものね。運命なんて言葉すら信じてしまいそうよ。

或いは必然だったのかもしれない。私が泥棒さんと出会うこと――いえ、もしかしたらその切っ掛け、空が巨大な力を手にしたこと――ううん、もっとずっと前、例えば――。

辿ればどれが始まりなのかさえ分からない。突き詰めればどこまでも遡れてしまう。全部の出来事が一続きに連なっていて、もうそれ自体が奇跡のように私には思えてしまうのだ。

そのどれもが偶然で、そのたくさんの偶然で、私たちは今こうして再び出会うことが出来たのだと考えると――なんて、なんて素晴らしいことなんだろう。

「ここにいると色んなことが思い浮かぶだろ? 普段生活してるだけじゃ絶対に思わないようなことがさ、たっくさん頭ん中を埋め尽くす。その感覚がたまんねえんだ」

「うん、分かるよ。変に……って言ったらおかしいかもしれないけど、感傷的になっちゃって……今の私がまさにそう。なんだか変な感じね」

私は声を上げて笑う。

本当、おっかしい。運命だとか奇跡だとか、憧れながらも内心馬鹿にしていたところもあったのに……今の私は、今まで平然と触れてきていたものがそうなのかもしれない、って思い始めてるんだから。

価値観が変わる、ってこういうことを言うのかもしれない。私の中の物事に対する認識が改められていく。何でもないようなことが、全部全部大切だったように思えてしまう。

だから、……この四十年間、私はとても時間を無駄にして来ていたんだって、痛感する。

結局私が傷つきたくなかったから。哲も稗田君も、本当は必死に私のことを理解しようとしていたのかもしれないのに、私はそれを全て拒んで逃げ出して閉じこもって。

それで、今こんなに後悔しなければならないんだ。

時間は決して取り戻すことは出来ない。特に、人間と関わってしまったのならそう。比喩的だけれども人間と妖怪に流れる時間は違うのだ。私たちの一生に比べると、人間たちのそれは……とても儚くて、そして短い。

横にいる哲を見る。遠くを見据えて動かない。どこか草臥れて、瞳に精彩はなく、子供の頃にあった筈の体いっぱいに溢れる活発さは既に底をついている。

対して私は――実際、何も変わっていない。

それが、私たちとのズレなのだ。一緒にいられる時間を、既に四十年も失ってしまった。それがどれ程の損失か、今になってやっと分かる。

……こうして笑って話していられるけれど、実際こんなに私との間に距離ができていたなんて。

泥棒さんの言っていたことは――やっぱり、本当だったんだ。

でも、同じ哲には変わりない。私の好きな彼と、今ここにいる彼と、それは絶対に確実に同一人物だって私は分かっている。

それで今は十分じゃないか。

――そうだ。

もう、遅いかもしれないけれど。

いえ、もう遅いのだけれど。

どうせなら、この想い、彼に伝えてみよう。

秘めたままじゃ、きっと後悔することになると思うから。

今私が後悔しているように、もう二度と話すことが出来なくなった時に、きっと……必ず、後悔するとおもうから。

だから、言おう。

「……ねぇ、哲也さん」

「うん? 名前は教えてなかった筈だけど……あああいつか。余計なことを言いやがる。

で、何だ? 急に改まって」

余計なことを言うのは貴方譲りだと思うけど。

名前がどうこうなんて、わざわざ言うことでもないでしょうに。勝手に自己完結してるし。しかも合ってる。尚更言わなくていいじゃない。

あーもう、変なこと言うから脱線するじゃない。黙って聞いてれば良いのよ、もう。

と、口で言えたらどんなに良いか。実際の今の私は緊張でがちがちだ。

それでも勇気を振り絞る。

「私ね、四十年前のあの時……貴方のことが好きだったんだよ。知ってた?」

ああ。

何でこんな変化球を投げてしまうのだろう。

違う、四十年前なんてそんな話、今はどうでもいいのに。

そんな私の脳内の混乱を余所に、哲は笑いながら返した。

「おお知ってたさ。俺ぁもてもて王国の王様だからな。こいしが惚れるのも無理はない」

ふふんとでも言いたげに。

真面目に聞いていない。あれだけ真面目な雰囲気で言ったのに冗談扱いか。何だってこんな奴を好きになったんだ私は。

……でも、仕方ないじゃない。あの時、初めて会った時、胸がときめいてしまったんだから。

もういいや。こうなったらやぶれかぶれだ。

「そうじゃなくて! ……その、ね。本当のことを言うと……今も、好き、なの」

最初は怒鳴るように、段々とか細く消え行く声に。

そんな声では哲には届かなかったようで、てんで分からないといった様子で首を傾げた。

……もう一度言えってこと? もしかして。

うう、何でこんな辱めを受けなければいけないのだろう。畜生、いいわよ、何度だって言ってやるわ。

「だーかーらーっ! 貴方が好きなの! ずっとずっと好きだったの! 初めて会った時から、ずっと! ずっと!

無意識の間だって貴方の姿を探してた! それくらいに好きなのよ! 深層心理の根っこまで、心の底から好きになれた、初めての人が貴方なの!!」

力の限り、空に向かって自分の想いを叩きつけるように。

そう、言い切った。

一瞬だけ、世界の全ての時間が止まったように思えた。

そして一度凍りついた時間は、その直後に氷解し始め緩慢にまた動き出す。

「……二度も言わせないでよ、馬鹿」

ああ、もう、顔が熱い。

どれだけ覚悟してても恥ずかしいものは恥ずかしいのよ。

絶対耳まで真っ赤じゃない。うわーもう顔見られたくない見られたくないって言うか見ないでよもう!

そして私は赤くなった顔を両手で隠し、しかし指と指の隙間から彼の顔を窺い見る。

完全に呆けている様子。瞳がぱっちりと開き、私の方を信じられないというような顔で見詰めていた。

だから見るなって。

「……え、いや、あー……すまん、ちょっと待ってくれ。言っている意味が全く分からん」

唖然としたままに淡々と喋る。

大分混乱しているようだ。それも仕方ないか。劇的な別れをした友人と再会したその日に告白される、なんて話聞いたことないもん。自分自身驚きだわ。

……一目惚れって恐ろしいわね。つくづくそう思う。

「あー……その、なんだ、こういう時は……ありがとう、って言うべきなのか?」

歯切れの悪い声が聞こえる。

でも私は何も答えない。赤面したまま顔をつんと横に背けて黙ったままでいる。

分かり切ってるけれど、それでも、答えを聞くまでが義務だと思う、から。

……少しだけ、辛いけど、ね。

ちらちらとあちこちを向いていた目が、私の瞳をしっかりと捉え。

少しはにかんだような表情で、哲は言った。

「……でも、悪いな。俺は不器用だから、二人を同時に愛することは出来ないんだ。

そして、俺は妻以上に誰かを愛するようにはならないと思う。多分な」

……やっぱり。

大体、分かってた。

泥棒さんがいるってことは、つまり彼には奥さんがいるわけで。

その奥さんを蔑ろにすることなんて、哲には出来ないって最初から分かってた。

いえ、そうすることを期待してた、かな。もし奥さんがいるのにイエスと答えていたら……多分、私は哲をこれ以上ないくらいに軽蔑すると思うから。

こんなことを言いたくはないけれど、私の中の哲はそういう人だもん。

私の好きになった哲は、どっちつかずの態度なんて取らない筈、だもん。

だから、これは当然の結果。

「ごめんな、こいし。俺もお前のことは好きなんだ。でも……やっぱり、俺にとってお前は愛する対象にはならない。恋愛感情とはちょっと違うんだよ。

何つーか……こう、変な話だけどさ、家族みたいな存在になっちまってんだよ。四十年経っても俺にはお前が、俺の後ろをちょこちょこ着いてくる女の子にしか思うことが出来ないんだ。

今も好きだって言ってくれるのは本当に嬉しい。嬉しいけど……その、なんだ、…………悪い」

「……ううん。別に良いよ。そう答えると思ってたし。

寧ろすっきりしたわ。うん、これで全部気は済んだ。ここまですっぱり言われると、逆に心が晴れ晴れとするわ」

ええ、本当。

これで綺麗さっぱり、全部洗い流された。

未練なんて、残って、ない。

うん。

だめだ、堪え切れない。

「ぷっ……」

もう限界だった。

笑いが口から零れ出る。

ああ、もう止まらない。出れば出る程余計に出てくる。

そんな私を見ている哲はぽかんと口を開けていた。

「あーおっかしい! こんな真面目な雰囲気、私達には似合わないよ。だからさ、はい! お終い!」

ぱんぱんと両手を高く掲げて打ち鳴らす。

それは幻想と現実の切り替わりの合図。現実離れした出来事は全て夢の泡沫となり消え、意識は現実へと引き戻される。

――そう、まだ辛うじて残っている、私の無意識を操る能力の、その残滓。

今の哲は、私が告白したことを全て無意識の内の――白昼夢だと勘違いしている筈だ。

何だかんだ言って、私の心はまだまだそんなに強くない。勇気を貰ってやっとなのに、相手に私の恋心を知られたまま平然としているなんてとても出来ない。

……言葉に出せないことがとてももどかしいけれど。

だから、せめて心の中でだけでも謝ろう。

――ごめんなさい。

はっと我に戻った哲はびくんと体を跳ねさせる。

催眠術に掛かった状態から意識が戻るかのような動きに見えて、それが何故だか殊更面白く思えた。

「ね。哲。稗田君のところ連れてってくれない? まだ生きてるんでしょ? 久し振りに会いたいな!」

「あ? あ、ああ……そりゃ生きてるけど……良いのか? なんてったって稗田だぞ?」

戸惑いながらも、私を気遣っているのだろう。稗田君だけは私の正体を最初から知っていた。私に嫌悪感が残っていても仕方がないと、哲はそう考えている筈だ。

でも、それ程私も子供じゃあない。そんなことはとうの昔の話。今では寧ろ彼がどんな風に成長しているのかが気になっているくらいなのだ。

流石に相手が拒むのであれば、無理に会いに行こうともしないけどね。

私は元気良く頷く。

「勿論。それより向こうが私のこと嫌だって思ってるかもしれない方が心配だよ。わざわざ嫌がってる相手に嫌なことをする程、私も嫌な性格じゃないからね?」

「ああ、それなら心配はいらない。何だかんだで俺たちも仲直りしてさ、お前のことは半ばタブー扱いだったけど……あいつもあいつなりに、お前のことを気に掛けてたみたいだからな」

「そっか。なら行こうよ。夜になってからじゃちょっと迷惑そうだしね。そうと決まればレッツゴー!」

元気良く、右腕を振り上げ叫んでみる。

もう既に日は暮れかけて、吹きつける風が肌寒い程。

橙色の夕焼けが、少し眩しく感じられた。

 

 

そうして久し振りに会った稗田君は、とてもやつれているように見えた。

以前別れた最後の場となったあの部屋に、布団を敷いてここ数年を寝たきりで過ごしているらしい。

体は元々弱かったそうで、実際今の年齢でもまだ生きている方が不思議なのだと彼は語った。

それでも実際に話している限りは、そんな風には全然思えなかったのだが。

ただ、時折儚く見えてしまう彼の言動は、やはりもうこの先があまり長くないことを私に伝えてしまうのだ。

稗田君は私の姿を見つけると、弱弱しげに微笑んでこう言った。

「――ごめん、こいしちゃん。僕は君に酷いことを沢山言ったよね。どれだけ謝っても、君の心の傷は癒えないかもしれない。だけど――それでも、謝らせてくれるかな」

そうしてから、彼は無理やり体を起こして、私に向って頭を下げた。

勿論そんなことはしても何にもならないと私は止めた。けれど彼は話を聞かず、頭を下げたままにこう続けた。

「僕は今もまだ、君のことが怖いんだ。本当に申し訳ないけれど、どうしようもなく怖い。妖怪ってだけで、もうこの場から今すぐにでも逃げ出したくなる程にね」

そこで私は初めて、彼が小刻みに震えていることに気が付いた。

彼の言っている言葉をそのまま鵜呑みにすると――やっぱり私が怖いからってことなんだろう。

それは人間からすれば当然のことなんだろうけど、それでもどこか寂しく思えた。

結局私たち妖怪が人間と仲良く付き合って行けているのは、人間たちがかなりの譲歩をしているからなのだ。そして大多数の人の影に、こうして震えて怖がっている人もいる。そのことを、私はすっかり失念していた。

――結局、稗田君とまた仲良くなれるかもしれないなんて、そんな虫の良い話があるわけなかったのだ。

怖いものは怖い。分かり切っていること。無理やり克服しろなんて、私には決して言えることじゃない。

だから、静かに去ろうとした。

その時だった。

 

「……待ってくれ」

私が立ち上がろうとした時、不意に稗田君の声が聞こえた。

見ると体の震えは既に止まって、顔を上げてきっと私の方を見詰めていた。いや、最早睨んでいたと言う方が近いかもしれない。

「まだ、何か話があるの?」

そう言った時、自分でも驚く程に声に冷たい響きが混じっていたことに気付いた。

拒否されていると感じる時、同時に自らからも拒否している――ふと、そんな言葉を思い出す。

それは私が無意識と同一化した時に理解出来た言葉だった。

今の私は、稗田君から拒否されているように感じているけれど――その実、私から彼を拒否しているのではないだろうか。

何より、今の冷たい響きがそれを表しているじゃないか。

軽い自己嫌悪に陥り掛ける。

そんな私の心中を知ってか知らずか、稗田君は淡々と続けた。

「僕はやっぱり、妖怪古明地こいしが怖い。恐ろしい。今すぐにでも逃げ出したいくらい、僕はその存在を嫌っている。それは確かだ。

正直、二度と顔を見たくないとまで思っている」

ずきん、と心が痛む。

なんだかんだ御託を並べたけれど、やっぱり彼は私のことが嫌いで。

そして同時に私も彼のことが嫌いで。

だから、永遠に平行線のまま交わることなくこの先も続いて行くのだろう。

ずきん、ずきん。

あぁ、痛いなぁ。

でも、この痛みは受け入れなければならない。またここで逃げてしまえば――私は結局、何も成長していないことになるじゃないか。

だから逃げない、苦しいけれど、絶対に。どれだけ傷付いても、血を流しても、私はもう逃げないんだ。もう逃げ続ける時間は終わったんだ。

……出来れば、また仲良くお話したかったんだけど。

――悔しいなぁ。

「でも」

どくん。

心臓が跳ねる。

続けて聞こえた稗田君の声。

でも――何?

その言葉は、それまで言っていたことを覆す奇跡の言葉。

今この時私は、この上なく期待している――!

「――でも、僕は友人古明地こいしとは、これからも仲良くしたい。それだけは間違いない」

ああ。

なんて、なんて救われる言葉だろう。

私の期待は、私の想いは、決して通じていないわけじゃなかったんだ!

その瞬間、世界が明るく華やぐように、私の視界は明るく広がった。

本当の視界じゃない、これは心の瞳で見る、真実の世界――

私の第三の瞳の視界。

開き掛けた瞼は、今ぱっちりと完全に開いた。

「僕が好きなのは妖怪古明地こいしじゃない。友人古明地こいしなんだ。だから――

厚かましいかもしれないけれど、これからも僕らと一緒に遊んでくれるかな?」

「――――うん! 勿論!」

にっこりと笑って、その問いに快く応じる。

それは私の四十年来の願い。私の四十年来の夢。

叶うことはないと思ってきた、夢のまた夢が叶った瞬間。

こんなに嬉しいことは、他にない!

 

 

 

 

夜の帳はとうに降り、月が煌煌と輝く黒い空。

息が白く見える程、冷たい空気の中で私たちは二人並んで歩いていた。

「良かったな、こいし。稗田と仲直り出来て」

「うん。哲もありがとうね。今日一日振り回しちゃって」

「はは、良いさ。元々はデートって言われたのに結局それらしいことしなかったしな。……今度、埋め合わせするか?」

私はその問いに首を横に振る。

「ううん。もう良いの。もう十分楽しませて貰ったしね、あんまり哲にばっかり色々して貰っちゃ悪いよ」

「……そうか。お前が良いなら良いんだけどな。俺に出来ることなんて少ないし」

そして、私たちはふと立ち止まる。

地底と霧雨道具店と、進む方向は正反対。

その分かれ道に今私たちは立っているのだ。

「どうする? そっちの方まで送って行こうか?」

哲の問いに、私はまた同様の反応を返した。

「哲也さーん? 私は妖怪ですよ? それもそんじょそこらの妖怪じゃあ太刀打ち出来ない程強い、ね。

貴方に送って貰ったら、今度は貴方が危なくなっちゃうじゃない。女の子に送って貰う中年オヤジだなんて、締まるものも締まらないわよ」

「ははは、それもそうか。送って貰うわけにもいかんしな、お前の言う通りだ。うんうん。

……じゃあ、ここで一旦お別れ、かな?」

「そだね。ここで一旦、お別れ。またいつか、会う時まで。

って言っても多分毎日来るけどね? 無駄にしちゃった分の時間、精一杯面白おかしく楽しむ予定なんだから」

「ほう。そりゃ面白そうだ。稗田も巻き込め。死に掛けだろうが知るものか。俺たちが死に掛けるぐらい全力で楽しもうぜ」

「そこまで行くと流石にやり過ぎだと思うけどね」

私は笑う。哲も笑う。

夜の冷たい張りつめた空気の中では、笑い声がよく響く。

何重にも反響する自分たちの笑い声を聞きながら、より一層大きく笑うのだった。

またいつか、会う時まで。

そのいつかは明日かもしれないし、明後日かもしれない。一週間後かもしれないし、何かが起きればそれは一ヶ月後にまで延びるかもしれない。

でも、永遠に訪れないわけじゃない。

それが分かってるだけでも十分だ。

お姉ちゃんに報告しなくちゃいけないことも沢山あるしね。一日じゃ語り尽くせないし。何日か掛けてじっくり話してあげようと思う。

さぁ、明日からやることは沢山あるわ。どれから始めよう。選ぶことがこんなにも楽しいだなんて、今まで思いもしなかった。

でもきっと、これから毎日そうなる筈ね。いいえ、そうならなきゃおかしいわ。だってこんなに苦労したんですもの。それに見合うだけのご褒美は、あってもいいんじゃないかしら?

何はともあれそのためには、一度お別れを言わないと、ね。

「さよなら哲! またね!」

「おう! じゃあな!」

右手を高く上げて、ぶんぶんと力の限り大きく振り、いつまでも別れを惜しみ続ける。

それは、夕暮れ時に見掛ける子供たちの、それぞれの帰路に着く光景とよく似ていた。

と、思う。

 

 

そうして、哲とも別れ、里から出て、真っ暗な空を仰いだその瞬間。

ふと、自分が一人ぼっちになったような錯覚に包まれた。

草の擦れ合う音。虫の鳴く声。風の吹く音。

それらに囲まれながら、私はたった一人でここにいるんだ。

そう、どう足掻いても、結局私は一人ぼっち。

いつだって傍に誰かがいてくれてることは分かっている。誰かが私を想ってくれているのも知っている。でも、そうじゃない。そういうことじゃ、決してないんだ。

――そう、私の隣には、私の一番心から愛する人がいない。

ああ。

分かってた、ん、だと思う。

分かってた、筈なのに。

どうしてだろう?

涙が溢れて止まらない。

分かり切ってたことなのに。

だって、哲はもうとっくの昔に結婚してて。もうそれなりに大きな子供だっていて。お店の中では悠々自適な生活を送るだけの毎日。彼は完全に満たされていた。

その間に私が入る余地なんてない。そんなの、分かり切ってた筈なのに。

なのに。

どうして、こんなに悲しいんだろう。

どうして、こんなに恋しいんだろう。

……ああ、そうか。

私は哲に恋していたけど、それは初恋だったから。

私の生まれて初めて抱いた、本当に好きという感情だったから。

それが決して報われないと、再度現実を突き付けられたから。

だから、こんなに悲しいんだ。

だから、こんなに恋しいんだ。

でも、これは諦めたから流れる涙なんかじゃない。

それを踏み台にするために、流さなければいけない涙なんだ。

次のステップに進むために、私が成長するために流さなければいけない涙なんだ。

拭っても拭っても溢れ出る。だけど。

流れる涙をそのままに、私は真っ直ぐ前を向く。

 

――私の初恋は、いつの間にか、私の知らない内に失われてしまったけれど。

でも、彼らのお陰で私はまた一歩前に踏み出せるんじゃないかと思う。

まずは一歩踏み出して、その次にまた一歩踏み込むの。そうやって相手の内側にまで入る。

一歩一歩を繰り返すことで、私にヒトを愛することが出来るのなら。

私はもう迷わない。色んな人と出会って、失敗を繰り返して、色んな人を好きになって、失敗を繰り返して。何も恐れず、拒まず、逃げることなく立ち向かって――

失ってしまったものを取り戻そう。

欠けた時間は戻らない。欠けたものも直らない。だから埋めていこう。綺麗に見えなくても、どれだけ歪になっても。これから何十年も掛けて。

最後には、必ず取り戻してやる。

ああ、吹いてくる風が心地良い。

新しい旅の始まりには、丁度良さそうに思えない?

一人で問い、一人で答え。

それがいつの日か、二人で問い、二人で答えられるようになる日まで、私は前に進んで行こうと思う。

今の私には、きっとそれが出来るから。

これから長い長い時間を歩むための、第一歩となる筈だから。

……だから、せめて、今、この時だけは。

どうか、涙を流させて下さい。

あとがき

きっと明日からは、真っ直ぐ進んで行ける筈。

 

拙作「さとあや」と同時系列のお話、如何だったでしょうか。

あなたの心に何かを残せていたのなら幸いです。

某氏のイラストよりアイデアを得、且つタイトルと台詞の一部を無断でお借りしてしまいました。すいません、そしてどうもありがとうございました。あの絵はとても素晴らしい作品です。

 

妖怪古明地こいし、その覚りとしての能力を封じるに至るまでと、また目覚めるに至るまで、そしてそれから。過去と現在と未来の出来事は、全て一綴りになっています。

長い長い時間を費やし、やっと得た答え。こいしはきっと、その答えを更にこの先の未来へと繋げていくことでしょう。

決してハッピーエンドではないけれど、彼女にはまだまだ先がある。終わらせなんてさせはしない。本当に最後の最期に、彼女に最大最高の幸せを。