「お姉ちゃーん!見て見てー!」

屋敷の中に、妹の声がこだまする。

ああ、これで何度目だろう。既に指では数えられないくらい重ねてきた経験。毎度毎度の既視感に、すっかり慣れてしまった現状だ。

どうせまた、想像通りなのだろう。私は振り向き、やや諦め気味に妹へと視線を投げ掛けた。

「猫拾った!」

「返して来なさい」

がん、と頭に衝撃でも受けたかのように口をぽかんと開け驚愕する妹。その腕の中では今にも逃げ出さんばかりの勢いでもがき続けている黒猫。明らかに懐いていないのに、どうして連れて帰ろうと思ったのだろうか。不思議でならない。

「もう何十匹ペットが家にいると思ってるの?いい加減にしなさい」

私も私で妹に甘い。そろそろ厳しくしなければ、と思いつつも毎回甘やかしてしまうのだ。お陰で家には数十匹のペットが住み着いている。ここまでくると流石に食費が馬鹿にはならない。

そこで私は躾は躾、と心を鬼にすることに決めたのだ。お金という現実的な問題もある。だから今回は我慢することを覚えて貰うつもりだ。

……ったのだが。

「…………うー」

「はぅぁっ!?」

ズッキューン、と胸を撃ち抜くハート型の弾丸。顔を真っ赤にして涙目で頬を膨らませるその様は、私の決意をいとも簡単に崩してしまった。

「お姉ちゃんの馬鹿!死ね!」

「ああああごめんなさいこいし!お姉ちゃんが悪かったわ!」

泣いている姿も可愛いが、やはり良心がそのままにしておくことを咎める。私は慌ててこいしに手を合わせて頭を下げた。

しかしそれでも止まらない。尚も声を上げて泣き続ける妹に、私は狼狽しつつも何とか宥めようとする。

「本当にごめんなさい……お願い、良い子だから泣き止んで?ペットも飼っていいから……はっ!」

しまった!今自分は何を口にした!?こいしをきちんと躾けるのではなかったのか!ああもう、失言にも程がある!

言ってしまったことは取り返しがつかない。妹は嫌がる猫を高々と掲げて喜びくるくると踊り回っている。こうなったら、もう言うことは聞かないだろう。何しろ私自身がお許しを出してしまったのだから。

……いや待て古明地さとり、あの黒猫の首をよく見ろ。あそこに巻かれているのはなんだ?そう、首輪じゃないか!ご丁寧に鈴まで付けている。

これを見れば一目瞭然。この猫は誰かのペットなのだと、よく言い聞かせればきっと納得してくれるだろう。これを軸にして話を進めよう。反発もあるかもしれないけれど、こいしなら分かってくれる筈……!

「……ね、ねぇこいし。ほら見て、この猫は首輪を着けているわ。きっと元々誰かのペットだったのでしょう。だから返さなきゃいけないと私は思うな」

「私は思わないわ」

「え!?……で、でもきっと元の飼い主さんも心配してるだろうし……こいしだって、自分のものを人に取られたら嫌でしょう?違う?」

「うーん……違わないけど……でも、この子公園にいたんだよ?」

「そりゃ公園にもいるでしょう。猫だって散歩はするわ」

「段ボールの中にいたの」

アウトー!

まさかの捨て猫!完璧に役成立してるじゃないのこれ!まさかまさかの展開だわ!

こいしはすっかりこの黒猫が気に入ってしまったようで、その柔らかそうなほっぺをすりすりと猫の額に擦り寄せている。畜生!私と代われ!

「はい」

「はい?」

ぐいと突き出される猫。不機嫌なのを隠そうともせず、低い声でごろごろ唸っている。

「ほらよく見て、この子とっても可愛いの。お姉ちゃんも気に入ると思うよ?」

ああなんだ……そういうことか。てっきり代わらせてくれるのかと思ってしまったわ。

まぁ私の一番のお気に入りはこいしなんですけどね!

とそれはさて置き、言われた通りじっと観察してみる。少し薄汚れているけれど、ふさふさとした毛は気持ち良さそう。私を睨みつける黄色い瞳も、どこか愛嬌があるように感じられる。基本的に人懐っこい顔立ちなのね。太ってもいなく、痩せてもいない、程良い体型もマル。ゆらゆらと揺れる尻尾なんか、今すぐそっと撫でてみたい。

よし。

「合格!」

「やった!」

って合格じゃない!今回はこいしのためにも絶対に駄目だと言い張るって決めたのは何だったのよ!私の馬鹿!

私が頭を抱えているのには無関心に、喜び飛び回るこいし。

そんな顔見たら、止められるわけないじゃない。

……はぁ。

流されるのも私の悪い癖、だと分かってるんだけどね……。

近い内にノートに記されるであろう赤い文字を思い浮かべて、私は嘆息した。

 

 

こいしはよく外出する。元気なのは良いことだが、その間ペットは当然の如くほったらかしである。

で、誰がその世話をしているのかと言えば……無論私がやらざるを得ないのだ。

もう慣れてしまったし口うるさく叱ったところでこいしの行動が変わるわけでもないので、今は完全に私の仕事と化している。それでも良しとしてしまうのが余計悪い影響を及ぼしているとは分かっているのだが、でも仕方ない。だってこいし可愛いんだもん。

そういうわけで、いつも通りにペットたちにご飯を与える。基本は市販のそれぞれの動物専用の餌。最初の頃は私たちの食事の残飯だったが、次第に量が多くなってくるとペットたちのご飯の方がメインになってくる。そうなるともうペットフードを用意した方が安いくらいなのだ。

各々の部屋を回り餌を配給。無邪気にご飯を貪る姿は、ちょっとした心のオアシスにもなっている。この時だけはこいしが動物を連れてきたことに感謝。

頭を撫でてやったりすると目を細めて尻尾を振り振り。何とも愛らしい姿に、私も思わず顔を綻ばせてしまう。

そうして一匹ずつ、回り回って最後の部屋。

先日家にやってきた、あの黒猫の部屋だ。

こいしは勝手に“リン”と呼んでいる。理由は首輪に付いている鈴から。何とも安直な名前だから、私としてはもう少し捻りたいところだ。

こんこん、と扉をノックし、ノブを回して中に入る。

部屋の中心には地べたに伏せたまま、つまらなそうに視線だけこちらに向ける彼女がいた。

「こんにちは」

「…………」

笑みを浮かべて挨拶をする。しかし何も反応はないまま、ぷいと向こうを向いてしまった。

予想はしていたけれど、釣れない態度に少しむっとしてしまう。

「……そう。ご飯を持ってきたんだけど……まだお腹は空いてないみたいね。じゃあ、これは私が食べてしまいましょう」

ぴくり。

猫の耳が動く。

……が、それ以上の反応はない。

まだ素直になれないだけみたいね。まるで子供みたい。

思わずくすりと笑ってしまうと、猫が突然こちらを振り向いた。

「……にゃー」

表情は不機嫌なまま。何か言いたいことでもあるのだろうか。

しかし心の中を読んでもにゃーにゃー言っているばかりで何も分からない。猫語はまだ修得していないのだ。分かる筈もない。

……うーむ。

「食べたいの?」

「にゃあ」

ドライフードを小皿に出しはいと差し出すと、形振り構わず飛び付く猫。

私がいるのも忘れたように、がつがつと一心不乱に食べている。

まずい、可愛い。

思わず手が伸びて額を撫でようと指が触れた瞬間、猫ははっとして大きく後ろに飛び退いた。

ふしゃーと唸り、私を威嚇している。

まだ心は許していないらしい。

仕方がないので後ろに下がり、もう手は出さないことを示すと警戒しつつ慎重に近付いてきて、何度も私に目配せしながらまた餌を食べ始めた。

食べている時だけは無邪気に見えるんだけど……うーん、触らせては貰えないのかしら。動物たちとの触れ合いが私の生きがいだと言うのに。

まぁ、初日だしこんなものでしょう。

私は割り切りただご飯を貪る様を見つめ、中身が空になる前に部屋を出た。

何も焦らずとも、時間を掛けてゆっくり仲良くなれば良い。

撫で撫でするのはそれからよ。

 

数日経つと、以前より懐いてくれているのがはっきり、でもないが分かることが多くなった。

例えば近付いても大げさに逃げることがなくなったし、背中ぐらいは少しなら触らせてくれるようにもなった。頭や尻尾に触ろうとすると依然として私を威嚇するが、それでも最初と比べればずっと進歩していると思う。

他の子たちよりは随分とゆっくり、だけれど確かに心が近付いているのが分かる。そのことが何より嬉しかった。

そう言えば名前もちゃんと決めなくちゃね。一応暫定版では“リン”だけど、本当にそのまま確定しちゃっても良いのかしら?なんかしっくり来ないんだけど。うーん……。

「にゃー」

「あら……?どうしたの、珍しい」

などと思い耽っていると、いつの間にか彼女が私の足元にいた。

いつもは自分の部屋にばかり籠っていて中々出てこない。時折こいしが遊び相手として連れ出すのを見るくらいだ。

ましてや、私のところに自分から来るなんてこと、今まで一度もなかった。

一体どういう気紛れなのだろう、珍しいこともあるものだ、と首を傾げていると、ふと膝の上に重みを感じた。

視線を下に向ける。

黒猫がいた。

「――――っ!?」

あまりのことに椅子から転げ落ち、ばたん、と大きな音を立ててしまう。

咄嗟に飛んで逃げ出していた彼女が、仰向けになった私の顔を覗き込んだ。

その動作が、たまらなく愛おしく思えて。

「……あぁぁぁぁ!もう駄目えええぇぇぇえっ!!」

たまらずごろごろと床を転がる。

「やーん!かーわーいーいー!」

本音が口を衝いて飛び出、自然と頬も緩んでしまう。ここ地霊殿の主たる私にあるまじき失態を現在進行形で晒しているが、それも致し方あるまい。だって可愛いんだもん☆

動物を連れて来るのはこいしだが、私だって妹と同じくらい、いやそれ以上に動物のことが好きなのだ。でなければ毎日の世話などやってられない。だからこそ、こうしてたまに羽目を外してしまう。

黒猫はごろごろと縦横無尽に部屋の中を転がり続けている私を、不審そうな目で見続けている。

やべ、鼻血出そう。

何とか抑え、転がるのを止め大きく深呼吸。幾らなんでも暴れ過ぎだ。取り敢えず落ち着こう、私。

その時にゃーん、という声が聞こえたのでそちらの方を見ると、至極迷惑そうにしている猫がいた。

鼻血が垂れた。

だめだこりゃ。

たまらず彼女を抱きかかえ、再度ごろごろ転がり回る。

腕の中でにゃーにゃーと抗議の声が物凄いが、それでも私は放さない。もう放すもんか。

ああ、幸せ。

 

 

ある日私が買い出しに行こうとすると、いつの間にかリンが足元にくっ付いていた。

そういえば、と散歩にも連れて行っていないことを思い出す。部屋の中にずっと籠っているのもストレスがたまるものね。少し配慮が足りなかったかしら。

「貴女も一緒に来る?」

「にゃーん」

いつも通りの受け答え。

それを私は肯定と受け取り、彼女と一緒に家を出た。

 

「必要なものは粗方買い終わったし……そろそろ帰りましょうか?」

リンに問い掛けるけど、買い与えた魚を食べるのに必死で聞いてないみたい。まぁ、そもそも答えが返ってきたところでどういう意味なのかは分からないけれど。

のんびりと歩いていると、ふと前方に柄の悪い鬼が三人程いるのに気付く。

筋肉質のあいつは恐らくリーダー格。一人は痩せ。もう一人は……襟の大きな黒いコートを着ている。何だあれ。

全員酔っ払っているようで、やけに騒がしかった。

「……明るい内からお酒なんて、随分と良い御身分よね」

つい悪態をついてしまう。というのも、ここ地底の旧地獄区域――今は旧都と呼ばれている――に於いて鬼は凄まじい権力を持っているからだ。

妖怪の中でもヒエラルキーは存在する。地底ではその頂点に立つのが、彼ら鬼だというわけだ。それをいいことに所構わず傍若無人な振る舞いをしていることが、私にはとても不快だった。

無銭飲食も何のその。酒の臭いをぷんぷんさせて通り掛かる人に絡むことだって日常茶飯事。そんな奴らばかりではないことも知っているが、やはりどうしても彼らのことを好意的に見ることはできなかった。

そんな風にして顔を顰めていたからだろうか。その三人の鬼たちは私の姿を見つけると、へへへと下卑た笑いを漏らしながら近付いてきた。

「よう姉ちゃん。俺たちと一杯やっていかない?」

いつの時代の誘い文句だ。

酒臭いったらありゃしない。こんな奴らと関わっていたら、服に酒の臭いが染み付いてしまいそうだ。適当にあしらってその場を後にしようとした。

……が、いつの間にか三人に囲まれていた。

「おおっと、釣れない態度だね。良いじゃんちょっとぐらい」

「そうそう。何も変なコトしようってんじゃないんだからさぁ」

「…………」

前を向いても後ろを向いても鬼。しかも臭い。

他の旧都の住民たちは、我関せずといった顔でまるで私たちがいないかのように振舞っている。そりゃ巻き込まれたくはないだろうけども、少し薄情過ぎやしないだろうか。

まぁ、助けなんかいらないけどね。

「そこを退きなさい。私は貴方たちとは違って暇じゃないのよ」

「……あん?おいおい、手前俺らが下手に出てるからって嘗めてんじゃねえぞ」

あ、しまった。

負けるわけなんかないと思ってたから、つい挑発するような口調になってしまった。

指の関節をぽきりぽきりと鳴らし、にじり寄ってくる彼ら。

と、突然ヒョロがあれ?と声を上げる。

「おい見ろよ、こいつが連れてるのって……」

「あぁ?……おっ!俺らの飼ってた猫じゃねえか!なんだ、とっくにくたばったのかと思ってたぜ」

はて何のことだろう、と思考を読んでみると、どうやらこいつらは前の飼い主だったみたい。その割には記憶があんまり鮮明じゃないけど。

……でも、自分で捨てておいてくたばったのか、って、一体どういうことなのかしら。

沸々と怒りが湧き上がってくる。

「丁度良いや、こいつサンドバッグにピッタリだったしな、へへ……よし姉ちゃん、その猫置いてったら許してやっても良いぜ?」

「……はぁ?」

「こいつ、元々俺らのもんだったんだよ。いつの間にか逃げ出してたんだけどよ……見つかってよかったぜ。というわけで返せ」

何を、馬鹿なことを。

白々しい。

リンを、動物を、いったい何だと思っている。

「誰が。この子は私たちの家族よ。お前らのような奴に渡せるわけないじゃない」

「……へぇ。なら姉ちゃんが代わりに俺らのもんになってくれんのかな。それでも構わないぜ?なぁ」

「おう」

「…………」

くつくつと笑う鬼共。

だから。

その、下卑た、笑いを、こっちに、向けるな。

下衆共が。

「リン、帰るわよ。こんな奴らと関わっていてはいけないわ」

呼び掛けたその時、初めて気付いた。

彼女の体が、がくがくと小刻みに震えているのに。

さっきのあいつらの言葉から推測するに、余程酷い仕打ちを受けてきたのだろう。その末に捨てられたわけだ。

なんて可哀想に。

こいしが拾ってきてくれて、本当に良かった。

と、突然ぐいと肩を引っ張られる感覚。

「おいお前、何勝手に――」

ぱちん。

振り返ると同時に、私の手はすっと伸びて奴らのリーダー格の頬を叩いていた。

それが、決定的だったようで。

「……んのアマァッ!!」

激昂して、殴り掛かってきた。

 

「――想起!『黒歴史』!」

ま、それも全部想定範囲内のことなんだけど。

私が突然宣言したのに驚き、思わず手を止めてしまっている。

「……な、なんだ?」

私の頭の中に、彼らの恥ずかしい過去が流れ込んでくる。

「――あ、ああ、ああああっ!!」

同時に、彼らの頭の中にも過去の失態が鮮明に蘇って。

「…………」

これこそが、種族覚りたる私の秘術。

彼らの眠る恐怖の記憶は、今この瞬間身を起こした。

「……へぇ。貴方、小さい頃は泣き虫だったんですって?未だにホラー映画も一人で見れないの。おトイレ、ついて行ってあげましょうか?」

「ぐあああぁぁっ!そ、それを言うな!」

耳を塞いで膝を折り、涙を地面にぽとりと零すリーダー格の男。勝手に自分の最も恐ろしい映画の記憶まで呼び起こして、墓穴にも程があるわね。

次。

「中学校の時、教室に誰もいないと思って裸でリンボーダンスをしていたら憧れの彼女に見つかった……馬鹿なんですか?」

「のわあぁぁぁぁ!!ななな何故それをぉぉぉぉっ!!」

まぁ覚りですし。

若気の至りとは雖も、ちょっとこれは羽目を外し過ぎじゃないかしら。流石の私もドン引きよ、それ。

地に倒れ伏し、あがあがと呻き声を漏らしながらもがく彼はまるで虫のようだった。

さて最後。

「ふーむ。闇に隠れて生きる裏の闇殺者(キラー・イン・ザ・ダーク)、二丁剣銃(トゥイン・ガンソード)の異名を持つ七つ星の伝説のハンター。生き別れの妹を探して闇の世界へと入ったが、既に彼女は敵の魔の手に堕ちており洗脳されて心操者(マインド・マニピュレイター)として自分の前に立ちはだかった、と……。

……えーと、これが貴方の設定なの?」

何この人マジやべえ。

正直近寄りたくもない。

流石に今の脳内設定を暴露されたらいてもたってもいられなくなるだろう。そう私は考えて、すっかり勝利を確信していたのが――

しかし、三人目の彼は未だにしっかりと立っていた。

「――よくぞ見破ったな。流石だ、我が妹よ」

なんか巻き込まれてるー!?

しかも現在進行形だ!まずい、これでは私の想起は全く役に立たない!何しろ相手はこれを恥ずかしいことだとは思っていないのだ!

全くの想定外の出来事に狼狽していると、男は私の襟を掴んで言った。

「――今目を覚まさせてやる。少し痛いが我慢しろ」

「っ!?」

振り下ろされる手刀。一人で練習でもしていたのか、綺麗に私の首筋を打った。

一瞬息が止まり、全身の力が抜ける。意識まで飛びはしないが、仰向けに地面に倒れるには充分だった。

すぐに立とうとするが、中々体に力が入らない。そうこうしている内に先程の二人が回復してしまったようで、逆に倒れてしまった私を嘲り笑っている。

「ふん、良い様だぜ。たっぷりとお返ししてやるから覚悟しな」

「恥ずかしい過去を暴露されたからな。お前にも恥ずかしい経験をさせてやるよ」

「くぅ……ち、近寄らないで!」

「――まだ、洗脳が解けていないのか」

お前はもう黙ってろ!

などと心の中で吠えてみても現状は何も変わらない。じりじりとにじり寄る彼らを追い払う術などもうなかった。

どこの秘孔を突いたのか、未だに立つことすらままならない。最早ここまでかと覚悟を決め掛けた、

その時だった。

私の視界に、赤く眩い光に包まれたリンが入ったのは。

煌々と輝くルビーのような透明な光は、段階的に収縮して行く。そうして完全に消えた後には、なんと少女に変わっていたのだ!

セミロングの燃えるような赤い髪に、鬼たちを睨みつけるどことなくエロい目つき。深緑のだぶついた服に、二本の黒い尻尾をゆらゆら。どこからどう見てもリンとは思えなかったが、しかしぴくぴくさせている耳は紛れもなく彼女のものだった。

「……おい、お前ら」

「あぁん?」

私に向けて振り上げた右手を下げ、三鬼は声のした方を振り向く。

その先には、当然というか何というか、牙を剥き鋭い爪をわきわきとさせているリン。但し人型。

赤い眼をギラギラと光らせるだけで、三匹ともを威圧していた。

「私のご主人様に触るなよ?小指一本触れてみろ。息する間もなく喉を掻っ切ってやるよ」

口調は平坦で、何の感情も感じられない。だから余計に恐ろしい。

暫く両者は睨み合っていたが、やがて鬼の方がくっ、と小さく漏らした。

「ちっ……誰だか知らねえが、今回は勘弁してやるよ!次はねぇからな!」

「怖いわけじゃねえんだからな!これは戦略的撤退って奴だ!勘違いするなよ!」

「――くっ、腕が……共鳴、しているだと……まさか……“奴ら”が近くに……?」

悔しさに顔を歪めながら言葉を吐き捨て、踵を返してどこかへと走り去って行く。

……なんとか、難を逃れたみたい、ね。

ふぅと一息吐き、胸を撫で下ろしてリン(?)の方を見る。彼女は未だ歯を剥き出しにして、三鬼の逃げた方向をじっと睨み続けていた。

「ふん。他愛もないね。弱虫の癖に粋がるなってんだ」

「……ねぇ、貴女、もしかして……?」

「……そうだよ。私はただの猫じゃない、火車ってぇ妖怪なのさ。だからこうして人に変化することもできるんだよ」

そう言うとポン、と音がしてリンの全身が白い煙に包まれる。風に吹かれて煙が全て飛んで行った後には、元の黒い猫がいた。

そして私の方に近付いてくると、ひょいと私の胸の上に乗る。

そのままそこに座り込んでしまった。

あ、自制できない。

思わず手が伸び、華奢な体をぎゅっと掴んで抱き締めてしまう。

「……ありがとう、リン。とても頼もしかったわ。貴女は素晴らしい、最高の私のペットよ」

リンの体は、触れた時に一瞬だけびくりと跳ねたけれど、

私が頭を撫でても逃げようともせず、にゃんと一声鳴いただけだった。

心なしか、どこか満足気な響きを伴った声だった。

 

 

「……と、まぁそんな感じで」

「へー!お燐にもそんな過去の話があったんですね!」

瞳をキラキラと輝かせ、羽根をパタパタ前後に動かし感嘆の声を上げる空。

この子はリンが燐になった後から来たんだっけ。なら、今の話も知らないのも頷ける。

「あの頃は燐も尖がっててねぇ……一度懐いてからはとんとん拍子だったけど、それまではかなり大変だったわ」

そうそう。あの頃の記憶が蘇ってくる。まるで難易度の高いツンデレのようだった。攻略した時はかなりの達成感を得たことを思い出す。

こう、強気な子を陥落させた時みたいな、そんなイメージが近い。多量に分泌されたエンドルフィンが全身に廻り廻って思考が快感に満たされる至福の一時。あの快楽は何物にも代え難いものだった。

そんな風に当時のことを回想していると、いつの間にか空が目の前にいた。昔のことに思い耽っている内に、いつの間にか意識もそちらへ飛んで行ってしまっていたようだ。

空は私の服の裾を掴んで言った。

「ねぇねぇさとり様!お燐のお話、もっと聞かせてよ!」

「……ふーむ。他のお話、ですか。そうね……例えばこんなのはどう?」

空のせがむままに、燐の今とは似ても似つかない過去の素行を更に暴露しようとする。

が、それは突如部屋に飛び込んできた彼女の怒号に掻き消されてしまった。

「ちょっと待ったー!何を企んでいるかと思えば、なーにとんでもないこと話そうとしてんですかさとり様ー!」

「あら。見つかっちゃったみたい」

勿論燐だ。

がるると唸り、怒りのオーラを全身から迸らせている。まるで出会った頃を彷彿とさせる殺伐とした雰囲気を纏っていた。

「ほら見なさい空。あんな感じよ」

「へー……なんだか怖そうですね」

「誰がだー!ちょいとさとり様、こいつぁおイタが過ぎると思いますよ?流石に私も黙っちゃいられません!」

私たちに向かってだっと駆け出す燐。

それと同時に私は空の背中に乗った。

「うにゅ?」

「逃げるわよ、空。今の燐は手が付けられないわ」

「あいあいさー!」

びしっと敬礼をし、即座に宙へと飛び出す空。燐の爪が上から振り下ろされる頃には、私たちはもうそこにはいなかった。

地獄烏の空にとって、空中は自分たち専用の道路みたいなものだ。燐とは比べ物にならない速さで飛び回り、適当に撹乱した後で部屋を飛び出す。

が、それに負ける燐ではない。急な動きにも迅速に対応し、追い付けないまでも何とか姿を見失わないように食らいつく。

「待てー!二人とも捕まえるまでいつまでも追い掛けるぞー!」

「空、もっとスピードを上げて。振り切るわよ」

「あはははは!はーい!」

「あれ?何してんの、お姉ちゃんとお空と、それにお燐と……そうか、遊んでいるのね!私も混ぜなさい!」

燐の怒号が轟き、空の笑い声が地霊殿に響く。

何かの遊びかと勘違いしたのか、いつの間にやらこいしまで加わって。

更に何匹かのペットまで巻き込んで、私たちの追いかけっこは日が暮れるまで続いた。

あとがき

まぁ、一般的なトラウマと言えば黒歴史だろうなぁ、なんて発想から。

過去の奇行を思い返して、なんであんなことしたんだろう、ってしにたくなりませんか?

私はなります。