「霊夢、貴女もたまにはお化粧をしたらどう?」

そう紫が言ったのは一週間前のことだった。

どうやら外界からまた色々と持ち出して来たらしい。その中に化粧品があり、いつもの気まぐれで私にこの話を持ち掛けたのだろう。そう霊夢は考えた。

「いえいえ霊夢。私は以前から思っていたわ。確かに今の貴女はまだ若く、そして美しい。素材が良いからお化粧なんていらないと考えるのも無理ないわ。でもね、化粧というのは何も醜さや衰えを隠すための物だけではないの。本当の効果はね、貴女自身の美しさを最大限にまで引き出すことよ。特に貴女の場合すぐに顔色が悪くなったりするから必要ね。どう? 試しに一度やってみない?」

まるで化粧品会社のセールスマンのような文句で霊夢に進める紫。普通であれば軽くあしらい話はそこでお終いなのだが、霊夢だって年頃の女の子だ。美しく着飾ることに興味がないわけでもない。ただそれ程執着していなかっただけで、切っ掛けさえあればおしゃれをしたいのだ。

詰る所霊夢は快諾した。

約束は一週間後。つまり今日である。朝から浮き足立っている霊夢を見て、今日も今日とて遊びに来ていた霧雨魔理沙は怪訝な顔をして尋ねた。

「……大丈夫か? なんだかいつも以上におかしいぞ」

「失礼ね。私のことをいつもおかしいと思っていたの?」

笑いながら腰に手を当てるジェスチャーで自分の気持ちを表す霊夢。一見するとただポーズを取っているだけのように見えるが、魔理沙は真の意味を知っていた。

霊夢が妙に可愛らしくポーズを取った時、それは本気で怒っていることを示しているのだと。

危険を察知した魔理沙は慌てて取り繕う。

「悪い悪い、そういう意味じゃないんだ。こう……何と言うか地に足がついていないというか……」

「そりゃ私の能力だし」

「いやそういう意味でもなくて」

今日の霊夢はいまいち話が噛み合わないなぁ、と悩む魔理沙。対照的に霊夢はウキウキとしていた。魔理沙の戯言など全く気にしていない様子だ。

どこまでも不可解な霊夢の様子に、魔理沙はただ首を傾げるばかりだった。

突然霊夢は手をパンと打ち合わせた。

「そうそう、今日はお客さんが来るのよ。邪魔だからどっか行ってて」

「はぁ? どーせスキマとかその辺り……わっとと」

霊夢に背中を押されどんどん玄関へと連れて行かれる魔理沙。途中で何度か転びそうになる。

完全にお見送りモードに入った霊夢に、

「紫のこと、知ってたの? なら話は早いわ、さぁ出て行って」

と言われてはもうどうしようもない。大人しく魔理沙は引き下がった。

「――良かったの? 一番最初に見て貰いたいのではなくて?」

「……いきなり出てこないで。心臓に悪い」

「いつものことじゃない」

魔理沙が神社から去るのを見届けた霊夢の背後に、いつの間にか紫が立っていた。

よく勝手に現れて勝手に消えている紫だが、こして突然話しかけることも少なくない。不意打ちが多いので霊夢が面食らうことも日常茶飯事だ。紫曰く霊夢のその驚く顔がとても可愛いかららしいのだが、毎回寿命が縮むような思いをさせられている霊夢にするとたまったものではない。

「ま、それはそれとして……そろそろ始めましょう。貴女だって外を出歩いて皆に見せびらかしたいでしょう?」

その言葉に霊夢は少しだけ赤面して、一拍の間をおいて小さく、こくりと頷いた。

全面が朱く塗られ、両面に金箔で鳳凰が描かれた櫛。そんな高価そうな櫛を使って、紫は霊夢の髪を梳いていた。

「……綺麗な髪ねぇ……手の上で流れるような軟らかさ。細く長く、鋭い輝きを放つその色は、全てを吸い込みそうな全き黒……なんてね。霊夢、貴女髪の手入れくらいはしているようね」

「ま、ね。最低限はしないと」

「本当に必要最低限でしかないけれど」

最後に余計な一言を付け加える。褒められているのか貶されているのか。霊夢は苦笑した。

「これだけ上質なら寧ろ手を加えない方がいいわね。髪をおろしてそのままにしましょう。リボンは取るとして……」

言いながらどんどん実行していく紫。手元に鏡がないため何をしているのか霊夢には分からないが、手がせわしなく動き続けていることは分かった。

流れるような手の動きが、何故だかとても心地良い。思わず眠ってしまいそうだ。霊夢は意識を失いかけながら、朧気にそう思った。

しかし、紫が突然手を打ちならしたので現実に引き戻される。

「はい。髪お終い。梳くだけだったから簡単だったわ。……どうしたの?」

「ううん……何でもない」

流石に睡魔に引き込まれていたとは言えない。適当に受け流そうとする霊夢。しかし目を擦りながら答えたので紫にはバレバレであった。

紫は笑いを堪えながら、次の段階へと移るため下準備を始めた。

「脱ぐの?」

「ええ。白粉やらを塗るとき、服についてしまうと嫌でしょう? だから……ええ、精々サラシ一枚ね」

「えー……」

霊夢は口を尖らせて嫌悪感を露わにする。幾ら同性といってもやはり肌を晒すのは抵抗心が強いのだろう。

しかし紫は気にせず服を脱がせていく。霊夢も最初は多少なりとは抵抗していたが、最終的にされるがままにされていた。

次第に現れる幾重にも巻かれた白い布。起伏が殆どないのは果たしてサラシ故なのか。少しだけ覗く谷間がどこか寂しげである。

「うーん……この平坦な胸! いつ見ても頬擦りしたくなるわ!」

言う前から既に頬擦りしている。右から左へ、左から右へと顔を押しつけながら移動する。

「ちょっ……やめなさい! あんたこれやりたかっただけでしょ! やめっ……」

少しずつ顔が紅潮してくるもその強気な語調は変化しない。しかし紫にその言葉は届かなかった。

「やめろって……言ってん……で……はぁぅっ!」

尚もゴロゴロと顔を転がす紫。そうすることにより霊夢の呼吸は次第に乱れ、荒く激しくなってくる。

霊夢が目を瞑り、喘ぎ声を小さいながらも漏らすようになった頃。紫は突然動きを止めた。

「…………?」

「余計なお遊びはここまで。そろそろ閑話休題としましょう」

「え? ……あ、あぁ、うん、そうね」

冷静に紫に窘められる。完全に呑まれていた自分を恥じる霊夢。動揺しているので原因は紫にあるということをすっかり忘れている。

すっかり紫の術中にハマった霊夢であった。

「まずは眉を整えて……剃ってもいいわよね?」

「何を?」

「眉よ。そのままでも良いけれど。どうせなら形も綺麗にしたくはない?」

紫の言葉に一旦動きを止め、悩む霊夢。数秒後頭の中で整理がついたのか、軽く頷いて、

「そうね。どうせだから、ね」

と言った。

待ってましたとばかりに剃刀を懐から取り出す紫。傍から見れば刃物を振り回している胡散臭い妖怪である。危険だ。

「じゃ目瞑って」

「ん」

しかしいざ剃るとなると慎重な動きでゆっくりと撫でるように剃刀を当てる紫。まるで完成直前の彫刻を彫るかのような緩慢な動作だ。

どこを剃ればより効果的に全体に対して映える形になるか。その完成図は紫の頭の中では全て思い描かれていた。

現段階は完成させるための作業。しかし毛という物は扱いがなかなか難しい。一度剃れば形それ自体は保てないのだ。表面上ではアイブローがある。しかし毛は戻ってこない。

だからこそ慎重にならざるを得ない、ある意味ではもっとも神経をすり減らす作業であった。

だがそこは紫。完成した眉を見ればお分かり頂けると思うが、正に完璧の一言に尽きる形に仕上がっていた。

普段の眉も形は悪くない。しかし整っているかと言われれば首を傾げるくらいではあった。それが今では眉だけで霊夢を本当の淑女と錯覚させるまでの要素を孕むようになった。

「か・ん・ぺ・き! 霊夢の眉もさながら、私の腕が恐ろしいわ」

手を頬に当てうっとりとする紫。対照的に手を頭に当てうんざりとする霊夢。

「あー……自己陶酔しているところ悪いんだけど、ちゃっちゃと進まない? ずっとこんなペースなら疲れるんだけど」

「あぁ、そうね。じゃ次はこれ」

そう言って紫が手に取ったのは一つの小瓶。中身は化粧水と乳液を混ぜたものだ。

「はい目瞑って」

「また? 結構面倒なのね」

基本的に平均的成人男性と同程度の化粧知識しか持たない霊夢。朝顔を洗ってはいお終いを繰り返すだけだったから、どれほど時間がかかるものなのか具体的には分かっていなかった。

仕方がないと言えば仕方がないのだけど、もう少し色気を出すよう前々から指示しておくべきだったのかしら、と紫は内心で嘆息した。

次に紫が懐から取り出したのはファンデーション。現代の白粉である。顔に塗って使用する。

しかしファッションには疎い霊夢。外形が幻想郷で売っているものとデザインが違っているせいか、それが何なのかよく分からなかった。

「……何それ」

「ファンデーション。こっちで言えば白粉ね。それくらいは知っているでしょう?」

「……まぁ、名前くらいは」

何だか馬鹿にされているようで、それが霊夢には悔しかった。その感情を表さないように努めていたが、やはり紫にはバレバレであった。

こんなところも可愛いのよね、と霊夢には聞こえないように呟きながら白い液体を手に取り伸ばす。

十分に伸ばした後、霊夢の顔に直接塗りたくる。細部まで隙間がないように、塗り残しをなくすように。紫の細い指が縦横無尽に動き回り、霊夢の顔を蹂躙する。

「……なんか気持ち悪いんだけど」

「文句言わない。乾けばまともに見えるんだから。折角おめかししても顔色がゾンビじゃ目も当てられないわよ」

「むー」

膨れっ面になる霊夢。ころころ表情を変える様は誰が見ても少女そのもの。普段の霊夢の振る舞いを知る者にとっては信じられない光景だった。

少しずつ本来の女らしさを取り戻していく内に心まで少女へと戻っていったのか。それともこれが本来の霊夢か。どちらにしろ紫にとって愛らしい霊夢には違いないので良しとする。

「よしよし、じゃあ次ね」

「子供扱いしてない?」

「してないしてない」

それから、幾つものステップを踏み。

ようやく最後の仕上げ、そして最も大きな段階へと至った。

「……本当にこれであってるの?」

「順番なんて人次第よ。私を疑ってるの?」

「そりゃまぁ」

紫は苦笑した。全く減らず口ばかり叩く娘である。だがこれも毎回のことだ。気を取り直して着る衣装を決める。

「どうせ黒髪美人なら和服にしなくちゃね。……そうね、こんなのはどうかしら」

そう言うと紫はスキマを開き、中から着物を取り出す。形は崩れていなく、皺もないので新品と思われる。

「なんだか暑そうね」

「向こうでは夏のお祭りの時によく着るわ。……そうだ。貴女、お祭りをすればいいのよ。人を集めるには効果的よ」

「どうせ集まるのは妖怪ばかりでしょう? ……でも、ま、考えておくわ」

霊夢も人が嫌いなわけではない。寧ろ友好的な部類である。さらに参拝客であるなら大歓迎だ。面倒事を持ってこなければ誰であっても邪険にすることはない。

拒むことをしてはいないのに、何故博麗神社に人が来ないのか。それは神社が里から遠く離れた位置にあるからだ。

里から一歩でも出れば妖怪から狙われてもおかしくはない。また、神社までの道に妖怪がよく出ると言われる一本道があった。これでは里人が来れるはずもない。

それでも頭を使えば行き来することぐらいはできるのだが、致命的な問題が一つあった。

博麗神社には年中強大な力を持つ妖怪がうろついていることだ。

これではまず普通の里人は寄り付かない。行くのは自殺志願者か迷い人くらいだ。そんなこんなで博麗神社に参拝客が来なくなって久しい。

そこで紫は客寄せのために祭りを催せばよいと考えたのだ。危険さえ取り除けば万事上手く行くはずだ。ではどうするか。その点において霊夢は考えていた。

手っ取り早い方法としては結界を張るとか。場合によっては紫たちの協力も得なければならないでしょう。広報はブン屋辺りが勝手に騒ぎ立ててくれる。報酬は宴会場の提供。なんだ、簡単じゃないの。

割とあっさり考えがまとまったため、霊夢は俄然やる気になった。博麗神社例大祭が行われる日も近い。

夢想に耽る霊夢を放り、紫はせっせと着付けをしていた。これがなかなか難しい。豊富な経験を持つ紫でも、長い時間を掛けることになった。

――そして。

「……あらあら。あらあらあらあら」

「……なによ」

「いえ、ね。まるで見違えるというか……あんた誰?」

「どういう意味よ?」

「そのままの意味」

紫がそう言うのも無理はなかった。今の状態の霊夢を見ても誰も霊夢と分からないだろう。それ程様変わりしていた。

そもそもアイデンティティの一つである腋が見えないことが致命的だった。

何よりメイクを行った紫自身が驚いているのだ。他の者ではこれが誰なのか、分かれども受け入れることができるのは極少数だろう。

「ま、それは良いとして……最初はどこに行くの? やっぱりあの黒白さん?」

「……流石にあんな追い返し方しちゃった後だと、ね。あの時は興奮してたけど今思えば悪いことしたわ。だから……」

複雑そうな表情で言う霊夢。ただ、皮肉や冗談などではけしてないことは確かだと紫には思えた。

「そ。じゃあ里辺りが無難かしらね。きっと皆さんは大いに驚くことでしょう」

「……そうしようかな。ありがと紫。今日はなんだかいい日になりそうよ」

「お化粧には色々な効果があるわ。気分を変えるのもその一つ。……さぁ、もう行きなさいな。こんな天気の良い日にいつまでも家にいるのは不健康よ」

笑顔で応える霊夢。全く、人というのは数時間でこうまで変われるものなのか。

「うん。じゃあ出かけてくるわ。家は放っといて良いから。行ってきます」

「行ってらっしゃい」

そうして、玄関から出ていく霊夢を見送って。

紫は一人呟いた。

「……にしても、よくもまぁあれだけ変わるわね」

いつもと変わらない時を刻んでいた人間の里。そこにいつもと違う人間が現れた。

一度歩けば風が吹く。一度止まれば時間が止まる。一度座れば大地が震え、一度立てば天すら晴れた。

今現在この里において、全ては博麗霊夢を中心に動いていた。

……大丈夫、よね……? なにもおかしくないわよね……?

しかし霊夢の心中は穏やかではなかった。初めて『着飾る』ということをした霊夢にとって、今の自分が他人にどう見えているのかが気になるのは当然と言える。

ましてやこんな状況下では尚更だった。

なんと霊夢の姿を見た者全てが水を打ったような姿だったのだ。ただの一人も身動ぎさえしない。誰もが目を見開き、間抜けのように口を開けたままぼぅっと突っ立っていた。

その中で動いているのは優雅に歩く霊夢ただ一人。彼女の恐れは如何程であったろうか。我々にそれを推し量る術はない。

余りにも異常な里人の様子に、霊夢は一度振り返ってみることにした。見る人見る人同じような反応で、寒気すら覚えていたのだ。気を紛らす、ただそれだけのこと。しかしそれが間違いだった。

振り返る。そこにはより恐ろしい光景が広がっていた。

自分を見つめる眼、眼、眼。その場に留まっていた里人は、全員霊夢の姿を覗き込むように見つめていた。

思わず小さな悲鳴を漏らす霊夢。その小さな音を引き金に、里人たちははっと我に返ったようにそれぞれの元いた活動場所へと戻って行った。

そのタイミングを計ったかのように、霊夢の背後から声がする。

「もし、そこの御淑女」

「ひゃぁっ!?」

飛び上がりそうなまでに驚く霊夢。ある種の怪談のオチを望まずして体験したようなものだ。

泣きそうになりながら恐る恐る振り返る。

そこには、半人半獣の賢い白澤、里を護る頼もしい味方。皆大好き慧音先生がいた。

見知った顔でほっと無い胸を撫で下ろす霊夢。そう言えば声も聞き覚えがあった。そう、最初から怯える必要などなかったのだ。

何事もなかったかのように優雅に挨拶を返す。

「あら、上白沢さん。御久し振りですわ」

先程までの狼狽ぶりがまるで嘘のようだ。普段の霊夢にはまず見られない言葉遣い。黒白が聞いたのならげーげー吐いてしまうだろう。

しかし、慧音の言葉は霊夢の予想の範疇外のものだった。

「いや、見ない顔なものでしたから……もしや、外から迷い込んできた者かと」

何を言っているのだろうか。ふざけているのかしら? いや、こいつはそんな冗談を言えるような性格では……。

あぁ、そうか。この着ている服が見慣れないものだもの、印象も違って見えるわよね。そう思って霊夢は説明しようとした。

しかし、慧音がそれを遮って喋る。

「……待て、私の名前を知っていたのは何故だ? ……そうか! お前、妖の類だな? 変化し、里に入って人を喰おうとは……嘗められたものだな!」

「え? ちょ、ちょっと!」

「だがな、襲われると分かっていてぼうっと見ているわけでもない! 虚仮にしてくれるな!」

霊夢の話を全く聞かず迎撃態勢に入る慧音。右手にはスペルカードを握っていた。

「今夜はお前で満漢全席だ!!」

そう叫ぶと同時にお得意のレーザーを放出する慧音。里の中にいるからか、いつもより隙間が多い。

お陰で霊夢は容易に避けることができた。

「待ちなさい! 私はあなたの知ってる……霊夢よ! 博麗霊夢!」

その言葉で一瞬攻撃が緩む。しかし、

「お前が博麗の巫女だと? 大概にしろ! 私の知っている博麗の巫女はそれ程小奇麗ではなかった! その名を騙るな! 恥を知れ!!」

と慧音が叫ぶと攻撃は更に激化した。それをいとも簡単に避けていく霊夢。

その顔は、とても悲しそうだった。

サラシの中から徐に一枚の札を取りだす。それを掲げ、小さな声でそっと呟いた。

「……夢想封印」

宣言と同時に霊夢の周囲に虹色に光る球が無数に浮かぶ。それに触れた慧音の弾は全て塵と化した。

霊夢がさっと手を振り降ろす。それを合図に縦横無尽に暴れ出す虹。動きには一見法則がなく、その実慧音の放つ弾幕を確実に消していた。

全ての弾が飲み込まれ、消去すべき対象を失った球は新たに対象を定めた。

四方八方十六方、更には上下を加えたあらゆる方面に散らばっていた球はある一点に収束する。

慧音は虹に包まれた。

逃れようともがく慧音。しかし虹は少しずつ膨張し、中心点にいる慧音を圧迫していった。

慧音の姿が完全に光に包まれ見えなくなっても、それでも球は膨張し続けた。

拡散、収束、膨張。その果てにあるのは何なのか。

爆発だった。

慧音を中心に据えた虹玉は、対象をしっかり逃さず爆発した。

そんな中にあっては一溜りもない。慧音は爆風に巻き込まれ、遠く離れた位置へと吹き飛ばされた。

戦いは終わった。霊夢は服に付いた砂埃を払い、一言呟く。

「……余計なこと言うからよ、バカ」

その顔は、どこか寂しく。

口調は突き放すようでありながら、悲しさを内に含んでいた。

そして霊夢は、その場を後にした。

「くぅ……」

大の字に倒れている慧音。

衣服の所々が千切れ破れている。身体も全身が軋むように痛んだ。

それでも意識はまだ保てている。それ自体が不思議なくらいだ。

「……あれは……確かに」

そう、あれは確かに霊夢だった。博麗の巫女にしか扱えない秘術、夢想封印。それが使えるのなら間違いない。

……早とちり、しすぎたか。

私の悪い癖だ。

しかし。

あの外見は、一体……?

そこまで考えて、慧音は消え行く意識に身を任せた。

「全く失礼しちゃうわ」

それ程小奇麗ではなかったって何よ。バカにしてんの?

まるで普段の私が何も意識してなかったって言ってるみたいじゃない。

ああ、そうか。あいつは普段からお硬いものね。そっちの方面には疎いに決まってるわ。

…………。

……あれ。

くそっ、なんでだろう。泣きそう。

だめよ、泣くな私。泣くな。

そう、次よ次。きっとあの紅魔館のメイド辺りは分かってくれるわ。人間だし。

そう気丈に振る舞う霊夢の背中は、しかし、どこか寂しげだった。

もしかしたら、この後の悪夢を霊夢自身何となく感じ取っていたのかもしれない。

その形容通り、それは悪夢だった。

言葉通り夢であったのならどんなに良かっただろうか。しかし人の夢とは儚い。現実は残酷であった。

ポジティブ思考で丸一日掛け知り合いをほぼすべて尋ねたけえども、皆が皆一様の反応であった。

「誰?」「迷いこんできたのか」「おいおい、私を笑わせるな」「霊夢はそんなこと言わない」「分かったからお帰りなさい」

要約すると『誰てめえ』。慧音の言葉など全く手緩かった。特に年齢を重ねた者程より鋭い言葉を放ったのだ。中には卒倒する者までいた。

精一杯頑張ったのに。皆に見せるために頑張ったのに。どうしてこんな仕打ちが。

実際頑張っていたのは紫だが、そんなことは関係ない。メンタル面で頑張ったのだ。否定など誰にも許されない。

なのにこの仕打ち。霊夢の乙女心はもう粉々に粉砕され、ズタズタに裂かれていた。

もう本当に駄目かもしれない。立ち直れなくなりそうな霊夢の脳裏に、ある一人の人物の影が急に浮かんだ。

そうだ、霖之助さん。あの人ならきっと分かってくれる。男の人だし。

今まで女ばかりだったからダメだったんだわ。そうよ、彼なら私を理解してくれるわ。

一縷の望みだけを糧に、霊夢は力強く香霖堂への一歩を踏み出した。

結論から言うと、同じだった。

決戦の地、香霖堂。ここで全てが決まる。

店の前に立ち深呼吸。数回やって何となく落ち着いた気分になってから扉に手を掛ける。

無論引戸。勢い余ってガンと強烈な音を立てて戸を開いてしまった。

しかしそれも霖之助にとってはチャイム代わり。ページをめくる手を止め、ゆっくりと顔を上げた。

「……やぁ。見ない顔だね。ここは初めてかな?」

霊夢にはその言葉だけで十分だった。

二人の距離は確かに五間は超えていた。しかし霊夢にとってそんなことは関係ないようで、たったの三歩で霖之助の目の前にまで迫った。

伝説の術、縮地。今ここにその業が再現された。

「――もしかして、君はれ――」

霖之助は全く動じず、言葉を続けようとした。いや、もしかしたらただ気付いていなかっただけかもしれない。だがどちらでも良いのだ。

いずれにしても、その言葉の途中で霖之助は顔面を殴りつけられていたのだから。

渾身の一撃。霊夢の悲しみが如何許りか、それを垣間見ることのできる綺麗な一手だった。この技は後に『三歩必殺』と呼ばれることになる。

カウンターより内側にあるものを巻き込みながら吹き飛ぶ霖之助。何が起きているのか全く分からないといった表情だ。

そのまま壁にたたきつけられ、床へとずり落ちる。その衝撃で意識を完全に失ったようで、横たわったままでピクリとも動かない。

霊夢は構わず店を後にした。

走った。霊夢は走り続けた。

どうしようもなく苛立って。どうしようもなく悲しくて。

自分の中の感情を抑えられない。もう溢れ出している。そのうち爆発してしまうだろう。

そんな自分が、どうしようもなく嫌いで。

自分を理解してくれない皆が、どうしようもなく嫌いで。

抑えきれない衝動を、走ることでごまかしていた。

風のように。どこまでもどこまでも。涙を流しながら。

キラキラと舞う粒。それは霊夢の理想と希望そのものだった。

闇が辺りに差し迫り。

気がつくと、もうすぐそこに博麗神社があった。

きっと知らず知らずのうちにここへ向かっていたのだろう。丁度良い。こんな顔……誰にも見られたくないから。

化粧は涙でぐちゃぐちゃ、服は乱れて人に見せられたものではない。

やっぱり無駄だったのよ。私には過ぎた夢だった。明日からはいつも通り、それでいいじゃない。

……紫には、あとで謝らなきゃいけないけど。

純粋に期待してたとは到底思えないけれど、それでも。

彼女の行為を、無下にしてしまったことは確かなのだから。

さて、もう着いた。さっさとお風呂に入ってご飯作らなくちゃ……。

ああ、なんて馬鹿らしいのだろう。一人で騒いで一人で落ち込んで。これではまるで。

「……まるで道化ね」

「そう言うお前が一番道化に見えるな」 

ぼやく霊夢に応える声。しかし霊夢は全く動じなかった。

屋根の上に人影が見える。見え辛くとも、確かにいる。

「……下りてきなさい、魔理沙。そしてすぐ帰って」

「あぁ、そうだな。そうしないと見れないもんな」

今朝から一度も会っていなかった、黒白の魔砲使いがそこにいた。

すっと立ち上がり、ノーモーションで屋根から飛び降りる。まるで猫のように着地するその一連の動作は、芸術の域にまで達していた。

「紫に教えてもらったよ。……なんだ水臭い。私とお前の仲じゃないか」

「腐れ縁ってやつね。朝は御免なさい。事情は紫から聞いたでしょうけど。……追い出すのはやり過ぎだったわ」

「そんなことは気にしないさ。その綺麗な顔を一回でも見せてくれたらな」

笑いながら言う魔理沙。対照的に、霊夢の表情は暗く俯いていた。

「……それはできないわ。あんたにだけは見せられない。帰って」

「あぁ? そんなこと言われちゃ見ないわけにはいかないな。こうなりゃ実力行使で……」

「帰って!!」

霊夢の突然の大声に驚き、口をポカンと開けて止まってしまう魔理沙。対して霊夢は顔を真っ赤にして、半ベソをかいていた。

「お……おい、どうしたんだよ霊夢。少し落ち着こうぜ? な?」

よく事情を知らない魔理沙は、霊夢に歩み寄ろうとする。が、霊夢がそれを手振りで制した。

「来ないで! ……お願い、本当に、見られたくないの」

と言われても全くピンとこない。魔理沙は何が何だか分からなくなっていた。

「……なぁ、霊夢。何があった? お前らしくもない。教えてくれよ」

「…………」

魔理沙が問うても答えない。とりあえず落ち着くまでそっとしてやろうと、魔理沙は見守っていた。

数分が経ち。

「……あのね」

「んむ」

ようやく口を開いた霊夢。魔理沙は真摯な態度で応じた。

「私がお化粧をすることになった切っ掛けは、紫が話したと思うんだけど……」

霊夢の話した内容は、魔理沙には俄かに信じられない言葉だった。

「……本当か?」

「本当よ」

鼻を啜りながら答える霊夢。話している途中で辛さを思い出したのか、一度泣き始めてしまったのだ。

「信じられないな……やっぱり、どう考えてもおかしい」

「……じゃあ、私が嘘を吐いてるって?」

「んなこた言ってない。それが全て本当だとしたら、あまりにも酷いなってことさ」

「でも、私は実際に言われた」

「あぁ。本気で言ったなら私がそいつらをぶん殴ってきてやる。霊夢の心を傷つけて、何が楽しい、ってな」

「…………」

「でも、今の霊夢はとんでもなくネガティブだ。皮肉すらも悪口に取っちまう。……なぁ、頼むから顔を見せてくれないか? 笑いもしない。貶しもしない。私の純粋な感想を言ってやるさ。だから」

魔理沙が呼びかける。しかし霊夢の返事は聞こえない。

夜の闇に包まれて何も見えない。真偽を知るためには霊夢が心を開いてくれるのを待つしかなかった。

数分。魔理沙が諦めかけた頃。

「……分かった。でも、本当のことを言って。ブスでも何でも良い。お願いだから本当のことを」

「オーケー。じゃあ、こっちに来て」

右手に自然のものではない炎を出現させる。魔理沙の操る魔法の類だ。

完全に闇に支配されていたそこは、魔法の火によって明るく照らされる。

まるで蝋燭の灯りのよう。幻想郷の名に相応しい光景が、その場に映し出された。

「さぁ」

魔理沙が優しく左手を差し伸べる。霊夢は恐る恐るではあるが手をゆっくりと差し出した。

触れ合う指先。最初はただ撫でるように、次第に指が絡み合い、最後には掌が重なった。

互いの指ががっちりと組み合わさり、全く離れる気配を見せない。それは両者の繋がりがそれ程固く結ばれていることをこの上なく示していた。

不意に魔理沙が手を後ろに引く。

「あっ」

霊夢はよろけ、足をもつれさせた。転びそうになったところを上手に魔理沙が受け止める。

「悪いな、そろそろ顔を見たくなった」

「勝手ね」

「勝手だ」

「なら勝手に見なさいよ」

霊夢はそう言って満面の笑みを魔理沙に向けた。

「……おい霊夢」

「何よ」

「こいつぁ凄い発見だ」

「へぇ、それは何?」

「…………お前、すっごく美人だ」

「…………」

「やばい、ちょっと待って。え? え?」

「……皮肉のつもり? 嫌な感じ」

「いや、そんなんじゃなくて」

「じゃあ何よ」

「…………」

「…………」

「……可愛い」

「何? 聞こえなかった」

「可愛い」

「もう一度言って」

「可愛いっつってんだ! 聞こえたか!?」

一度目は、耳を疑って。

二度目で、体が浮くような思いに。

三度目には、頬が緩んでいた。

いつもそうだ。

こいつにだけは、自分が隠せない。

「うわっ!?」

恥ずかしくなって、思わず魔理沙を張り倒す。

左手は未だ繋いだままだったので、必然的に私も倒れることに。

倒れた衝撃で、魔理沙の右手の火は消えてしまった。一瞬にして暗闇が私たちを包む。

下敷きになった魔理沙から、カエルのような声が聞こえた。

「……何のつもりだ、霊夢」

「今言ったの、本当?」

相手の質問には答えない。もう主導権は握らせない。

魔理沙は空いた右手で頬を掻きながら、小さくか細い声で言った。

「…………私は、嘘なんか、つかねえ、よ」

ああ、やっぱり。

私の中に抑えることのできない衝動が生まれる。その衝動は私を行動に移させるに十分なものだった。

魔理沙の体を抱き締める。

ぎゅう、っと。精一杯。

「おい、ちょっと待て! 締まってる、締まってるから!」

無視。

今ぐらいはいいじゃない。傷ついた私を慰めようと来たんでしょ?

なら慰めてよ。

「……はぁ。やれやれ、だぜ」

諦めたように息を吐く。そう、それが魔理沙。今までだってそうだった。

どこか軽薄で、誰にでも好かれて、何でもできて。

でも、本当は努力家で、何事にも最後まで追求し、どこまでも諦めない。

それが魔理沙。

私には持ってないものを沢山持っていて、私が持っているものを殆ど持っていない、そんな奴。

そこでようやく確信に至る。

博麗の巫女は本来誰にでも平等であるべき。……でも。

やっぱり、こいつだけは、特別なんだと。いつも皆とは違った意見で、でもそれが私の一番望んでいる言葉で私に応えてくれる。

だから、こういうと現金なのかもしれないけれど、……やっぱり魔理沙は大切な人なんだ。

その時、ふと思い出す。

あぁ、以前にもこんなことを考えたっけ、と。

「……どうした? いきなり笑い出して」

「……何でもない!」

いつの間にか笑っていたのか。魔理沙に指摘されて初めて気付く。それがまた更におかしくて。

「……はは、変なやつ」

おかしくておかしくてたまらない。

さっきまで泣いていたのに。さっきまであんなに悲しかったのに。

ほら、今ではどうだろう?

二人で笑い合っているじゃないか。

ね。だから、私にとって魔理沙は特別なんだ。

さて、これからどうしよう。お泊り会でも開こうかしら。なんだかどうでもよくなっちゃったし。

空を見上げる。そこには一面星が広がっていた。

天気は晴れ。私の心も、いつの間にか晴れていた。

あとがき

挑戦作第三弾。前作に引き続き霊夢さん真白。

ネタ元はいじめスレでした。ネタ切れと言うより良いネタを見つけてどうしようもない衝動に駆られて、って感じで一気に。

卒倒したのは早苗さんだったり。鼻血吹き出しながら。地味に同じ世界なんですね。

紫は裏で色々動いていた、というのはまた別のお話なのですが、その描写が全くなかったことについては少し反省。お話を読んで分からなければそんな設定あっても意味ないですものね。

霊夢かわいいなぁ。