「そういえばさー」
突然こいしが口を開く。
そこでふっと一同は口を噤み、ほんの一瞬だけの静寂がその場に訪れた。
その瞬間をこいしは逃さない。すかさず次の言葉を口にした。
「お姉ちゃんって、運動できるの?」
さとりは飲んでいたコーヒーを口から吹き出す。げほげほ、と暫く咽てお燐に背中を擦られながら、さとりは息も絶え絶えにこいしに言った。
「で、できない筈がないでしょう?私はこの地霊殿の主たる古明地さとりなのですよ。姉を見縊るのも大概になさい」
明らかに動揺している。そもそも地霊殿の主がどうたらは関係がない。否定するにしても少々大袈裟過ぎるのではないか。もしかしたらさとり様、本当に――などという疑念が一同の脳裏を過った。
だが心の中ですら、覚りにとっては筒抜けである。
勿論さとりも自分にとって不都合なその考えを見逃すわけにはいかなかった。
「そこ!妙なことを考えない!」
さとりにずびしと指を差され、はっと目を見開くお燐。思わず手で口を押さえてしまう。
しかし誰もが同じことを考えていたため、寧ろ他の者はやっぱり同じことを考えるよねとほっと安堵したような表情になるのだった。
「じゃあ、腹筋でもしてみる?」
こいしが無邪気に問う。
確かに腹筋なら今すぐにできて結果によってさとりの体力がどれ程なのか簡単に判断できるだろう。手っ取り早い手段である。そうだそうだ、やろうやろうという声がそこかしこで上がった。
けれどもさとりは一世一代の大決断をするかのような表情になり、暫く沈黙を保ってから、こくり、と小さく頷いた。
こいしの尻の下に足を挟ませ、両腕でふくらはぎを抱かせるような恰好で下半身をがっちりと固定する。
「っん、くっ――――」
やけに艶めかしい声を漏らして、さとりはゆっくり上体を起こそうとする。
腰から上だけ折り曲げ、ぐぐぐっ、と少しずつ持ち上がって行く上体。呼吸をするのも忘れ、完全に集中し切っていた。
次第に顔は紅潮していき、目を見開き、歯を食い縛りながらさとりは必死に力を込める。どこか遠くからお姉ちゃん頑張れーという声が聞こえたような気がした。
頑張れ。頑張れとはどういうことなのだろうか。もう十分に頑張っているじゃないか。見て分からないのか。それともまだ足りないというのか。どれだけ頑張れというのだ。程度を言え程度を。いややっぱり言うな、もうこれ以上頑張れないから。
そんな訳の分からない思考が頭の中を埋め尽くす。脳に酸素が十分に行っていないせいでまともに働いていないのだろう。
そうして、三十秒程掛けて漸く顎が自身の膝についた時。
さとりは、不意に意識が薄れて行くのを感じた。
頬には赤みが差し、息は詰まり、目は潤み、首筋にはじわりと汗が滲んでいて、汗ばんだ肌に服がぴたりとくっ付いている。体を捩じらせつつも必死で上体を起こしていたため、微妙に服が肌蹴て何とも言えない妖艶な色香を醸し出していた。
それでもやり切った。えも言われぬこの達成感。やった、私はやったのだ。きっちりきっかり一回分。もう良いじゃないか。うにゅラッシュ、私はもう疲れたよ。少し眠ってもいいかい?
どんどんと無意味な言葉が頭の中を埋め尽くして行く。まともな思考など何一つとしてない。
もう限界だった。
最愛の妹と最高のペットたちに囲まれて死に行くなんて、とても理想的な末期だろう。
ああ、願わくばこのまま時が止まってしまえばいいのに――
「あっ――――っはぁ」
口から不自然なまでにアダルティな発音の喘ぎ声が漏れてしまう。
自分にこんなに色っぽい声が出せたのか、と白く染まりかけた意識の片隅、その一欠片でぼんやりと思った直後、完全に白く塗り潰されて。
そして――力尽きた。
暫くして目覚め、漸く落ち着いたさとりは、それでも息切れしたままで一同に問うた。
「…………ど、どう?」
どうって。
どうもこうも。
これはえろい。
全員の心の裏に過るそんな言葉。それは瞬時にさとりに伝わり、彼女を興奮させる。
「しっ……仕方ないじゃないの!久し振りにやったんだから!別にいいじゃないのよ!」
「まぁまぁ、落ち着いて落ち着いて……」
お燐が慌てて腫れ物に触るような扱いでさとりに取り成す。
しかしこいしはそんなお燐にも構わず本音をぶちまけてしまう。
「お姉ちゃんって、もしかして運動音痴?」
ぴしりと石のように固まるさとり。あわわわと口を押さえるお燐。無邪気に口元に笑みを浮かべるこいし。何も分かっていないお空。
折角のお燐の気遣いも、こいしの一言で全て台無しになってしまった。ぎぎぎ、と軋む音が聞こえるようにすら思える小刻みの動作で、さとりはこいしの方に振り向き言った。
「……どういうことかしら、こいし……?」
「どうって……別に?そのままの意味だよ」
聞き直すことでもないでしょうに、とでも言いたげにこいしは返す。
けれどさとりには聞き直さないことなどできなかった。聞き直さずにはいられなかったのだ。何故ならそれを問い返さねば、自身がそうだと認めたも同然のことになってしまうからだ。
腹筋が一度しかできなくて何が悪い。何がおかしい。そんな何十回もできる程私がむきむきではないことは周知の通りでしょう。体力なんて最低限の生活ができるくらいにあれば十分なのよ。そのようなことをこいしに向って弁明するかのようにさとりは言う。
こいしは憐れむような視線をさとりに向けて言った。
「……だって私だって腹筋くらい三十回は続けてできるよ。でも……お姉ちゃん、一回だけって……」
その時、さとりに電流走る――
なんと、なんとなんと妹でさえ三十回も続けてできるというのだ。確かに日頃よく外出するし元気な子だなとは思っていたけど、まさか最低でも自分の三十倍の体力を有しているとは。とても自分の妹とは思えない。悪魔に魂を売り渡して永遠の筋肉でも手に入れたのではないかと訳の分からない邪推すらしてしまう。
しかし、このこいしですら三十回も続けられるとなると、他の者もできないとは限らない。到底信じられないが、自分の体力が極端に低いことを認めざるを得なくなってしまうかもしれない。そのことを想像すると怖気すら覚える。
愕然とした表情で、ぶるぶる震えながらお燐を指差しさとりは言った。
「なっ……り、燐、貴女は?貴女は私と同じ側よね?」
「あー……私もそれなりに散歩とかしてますしねぇ。一応猫並みには体力はあるかと」
眉を八の字に曲げ、こめかみをぽりぽりと人差し指で掻きながらお燐は答える。
気まずそうな表情であった。
さとりはちっ、と舌打ちをする。お燐にそうだという意識は全くなかったのだが、さとりにはそれが皮肉にしか聞こえなかったのだ。
何それつまり自分には並みの体力すらないってこと?そりゃ言われなくても分かってるけど、わざわざ改めて言い直すことないじゃない。自慢?
そしてその言葉はそのままざっくり自分に刺さることに気付く。今まで何もせずに呆けていたのは自分ではないか。何もお燐に非などない。寧ろ責められるべきは自分じゃないか。一瞬でもお燐に敵意を抱いた自分に嫌悪感を抱き、そして後悔する。
どうしようもない絶望感に包まれる。と、そこであるペットの姿が脳裏に浮かぶ。そうだ、あの子ならもしかしたら見かけによらず、ということもあるかもしれない。ギャップ萌えという需要は確かにあるものだ。聞かない手はない。
さとりはゆっくりと振り向き、縋るような目でお空を見た。
「そうよ!空、空はきっと私を裏切らない筈!そうよね!?」
「うにゅ?」
「お言葉ですけどー。お空は体力バカですよ?多分ペットたちの中でもダントツに運動神経も高い方かと」
お燐がお空に代わって答える。
首を横に振りながらまるで認めないとでも言うように頭を抱えるさとり。よもや地霊殿の主人たるこの私が最も貧弱だとは!いや、そりゃちょっとは運動不足かなーとか思ったりもしなかったりだけど、でもでもまさかペットにまで負ける程だなんて全く思いすらもしていなかったわよ!?
しかし現実は非情である。この地霊殿の中でさとりが最も脆弱だということは今や明白であった。そういえば最近お菓子も少し食べ過ぎたかしら、とここ数カ月間の記憶が蘇る。
ああ、もしかしたら。
そんな疑念に包まれて。
気まぐれに腹をつまむ。
少しぷにぷにしていた。
ああ駄目だ駄目だこれでは私の地位もプライドも品格も全てが全て台無し地に落ちてしまう!
体力はなく、体には贅肉、そして日々を緩慢に怠惰に過ごす。何そのニート。カリスマの欠片もない。
こんな姿、自分でも望んではいなかったのに。
――そうだ、変わらなければ。
きっと今の私は望まれていた姿とは遠くかけ離れていることだろう。自堕落にのんべんだらりと過ごす様は一体どのように彼女らの瞳に映っていただろうか。奇異の目で見られることが多かっただけに、そんなことにも気付けなかった。
さとりはこれまでの自分の行為を恥じ、そして悔い改めようと再度決意する。
自分は運動不足だ。それはどうしようとも覆らない事実。目を背けても、そこに純然たる事実としていつまでもじっと横たわっているのみ。勝手に変わることなど決してない。
ならば、見詰め直せば良い。
意識的に働きかければ、きっと好転するだろう。少なくとも運動不足であるという現状からはずっと改善できる筈。何もしないままこのままぶよぶよ肥え太るより、一時の苦痛を堪え今目前の問題から逃げることを止める方がずっと良い。
これまでは知らなかった。けれど、知った今では変えられる。ならば変わろう。自分のために、みんなのために、いつか誰かが夢見た姿に変わろうではないか。
「――分かったわ。今までの私が間違っていた。でも、漸く気付いたの。自分から変わろうとしなければ、決して変化は訪れはしないってことを」
静かに、一人ごちるように呟く。
その言葉に周囲の者は息を呑んだ。
「うにゅ?」
「お姉ちゃん!」
「さとり様、じゃあ――」
「ええ。私は変わるわ。この地霊殿の主たる相応しい体力を手に入れ――嘗ての威厳を取り戻すの!」
そう、さとりは高らかに宣言する。
その時、ぱん、ぱん、と大きな乾いた音が響いた。
音の主はこいし。満面に笑みを湛え、姉の決意を褒め称えるための拍手の音であった。
次いでぱらぱらと、次第に大きくなる拍手。
自らの妹やペットの奏でる歓喜の音に包まれて、さとりは静かに口を開いた。
「みんな。これは極めて個人的な問題で、とても厚かましいお願いかも知れない。だけど――」
そこで一旦言葉を切る。
一瞬だけ空気が張り詰め、さとりが再度口を開くのを、一同は全員待ち構えていた。
そしてさとりはすっと目を閉じ、自らを見つめる視線に背を向けて、溜めて溜めて、溜めて溜めて溜めて溜めて溜めてから漸く続けた。
「――私に、力を貸してくれるかしら?」
さとりは振り向いて、首を傾げてにこりと笑う。
聞くまでもなかった。
今一度、リーダーとして立ち上がろうとする自らの主人に手を貸そうとしない従者など、この地霊殿にいる筈もない。
全員が全員、一様に声を揃えて肯定の意を返すのであった。
その光景にさとりは感極まった様子で、しかし泣くのを堪える。
この涙はいつの日か、悲願を達成した時にこそ流すべきであると思ったからだ。
今は皆の優しい心遣いに感謝しながら、まずはその期待に応えてからでなければ感動したところで意味はない。
みんなのためにも、頑張ろう。さとりはより固くそう決意するのであった。
翌日、さとりはあまりの筋肉痛の激しさに続けることを断念した。
短編を書いてみようシリーズ第二弾。
タイトルの元ネタは言わずもがなのブートキャンプ。地霊殿のドタバタ話。
正直一回はオーバー過ぎだと自分でも思うのですが、現実で十回が辛いとか言ってる人を知っているとあんまり適当な数は設定できないんですよね。
というわけで、誰にでも分かるくらいの少なさで。
紫もやしの共通点は気付きませんでした。成程成程、一つ面白い話ができそうですね。