本編『或一柱の神様の話』へ

「ん。これ甘い。当たり引いたかも」

「返せ。それは私のよ」

「そうケチくさいこと言わないの。参拝客も増えた。信仰も集められた。何が不満なのよ」

「あんたがいることが、よ」

霊夢は心底嫌そうに言う。

それでも天下の大妖八雲紫は気にせずはもはもと蜜柑を頬張り続けていた。

今日は式神の八雲藍、更にその式の橙も引き連れて博麗神社へとやって来ているのである。

彼岸、白玉楼、守矢神社、博麗神社を巻き込んだ大騒動からはや半年。霊夢の一回忌まで後一ヶ月というところまで来ていた。

時の流れるのは早い。神になってから余計霊夢はそう思うようになった。

何がいつ起きるか分からない、一日一日を大切に、などという高尚な考えを持っていたわけではないが、実体験からもう後悔はしたくないと思いやれることはすぐにやるようになったからである。

とは言っても基本はだらだら、信仰を集める努力すらしようとしない。以前以上に怠けるようになった、と彼女の友人霧雨魔理沙は語る。

「おう、今は冬じゃないか。なんでお前が起きてるんだ? さっさと寝ろよ」

紫に笑顔で辛辣な言葉を掛けるのは現博麗の巫女(自称)、霧雨魔理沙である。

巫女とは言っても見習いレベル。しかも魔法使いと何でも屋も兼業しているらしい。多方面に手を広げ過ぎである。

巫女業の方は予想外にも真面目にこなしているらしいが、これまでの悪行のせいかなかなか人間からの信仰は集めることができていないようだ。早苗の布教活動が割と盛んであることも影響しているのだろう。如何せん状況が悪過ぎた。

が、彼女のひたむきな姿勢を無視しているわけではなく、次第に心を動かされている里人もいないわけではないとのこと。魔理沙の努力家気質な部分が幸いしたとも言える。

そんな魔理沙の軽口にも、紫は全く動じずに返す。

「あらあら、随分と嫌われてしまったのねぇ。でも残念ながら眠ることは許されませんの。私にもやることは沢山あるのよ」

「ほー。お前さんのやることなんざ碌でもないことに決まってるけどな」

そう言って二人は笑い合う。

見掛けは和やかな雰囲気だが、内容はとても穏やかでない。

見る人が見れば、二人の間には火花が散っていたことだろう。実際は日常の掛け合いの一つなだけなのだが。

そんな霜月の、ある日の午後であった。

 

猫は炬燵で丸くなる。

主人たちが卓の上で何やら物騒な会話を交わしている間、橙は一匹の黒猫と炬燵の中で戯れていた。

「へー。お燐ちゃんって言うの?」

にゃー、と黒猫は小さな声で受け答えする。

橙に首を撫でられて、とても気持ち良さそうな表情をしていた。

お燐こと火車の火焔猫燐は平時、こうして黒猫の姿でいることが多い。いわゆる化け猫の類なのだ。

人間の姿にもなれるが体への負担が大きい。だから大概は猫状態のままである。またそうした方が他人に甘えやすく、お燐にとっても好都合であった。

まだまだ幼い橙にとって、新しく博麗神社の一員となった彼女は格好の遊び相手だった。

「えへへ。あったかいね」

「にゃーん」

そうやって笑っていると、少しずつ身体が熱くなってくる。

炬燵の中は半ば密室状態。空気の通り道すらないのだ。

じわりと汗が滲む。

思考はゆっくりと、しかし確実に停止へと向かう。

上気して赤くなった頬が、お燐には妙に艶めかしく見えた。

二人して二本の尻尾をゆらゆらと揺らす。

とても気持ちが良い。

このまま二人で溶けてしまいたい。

橙色の灯りに包まれて、見つめ合い戯れるその様は、どこか頽廃的で淫蕩な雰囲気を醸し出していた。

どちらからともなく互いに擦り寄る。

蕩けるような吐息が混じり合い、二人の濃厚な獣の匂いがそこに充満する。

息が荒くなり、既に言葉も発することができない。否、既に言葉など要らなかった。

二人の間では、会話などと言う無粋な行為はもはや必要ではなかったからだ。

だから行動で示す。だから触れようとする。

手を伸ばしてそこに触れれば、もう壊れてしまいそうなのに。

なのに、手を伸ばすことは止められなかった。

「お……り、ん……ちゃ――」

そして二人は、そのまま――

 

気絶した。

原因は酸欠である。

 

 

ダウンした二人を風通しの良い部屋に運んだ後、九尾の化け狐八雲藍が居間に戻ると既に人間たちは酔い始めていた。

どこぞの鬼がいつの間にやら酒でも差し入れしたのだろう。

こうなると誰もが歯止めを効かせようとしなくなる。全てが終わった後の惨事を誰が片付けると思ってるんだ、と頭の中でぼやきながら藍は紫の横に座った。

「ほら、貴女も呑みなさい。折角久し振りにこうして集まったんだもの、楽しめる時に楽しみましょう」

紫も上機嫌で藍に酒を勧める。

が、藍はそれを露骨に嫌そうな顔をして拒否した。

「私まで酔い潰れたら収拾がつかなくなります。またあの時と同じ目にあうのはもう懲り懲りですよ」

以前にも同じことがあったらしい。

しかし紫は藍の言葉を鼻で笑って一蹴する。

「何を言っているのやら。貴女程の酒豪が酔い潰れるのなら私たちは急性アルコール中毒で皆お陀仏よ。

……それとも何か? 私の酒が呑めないと言うの、藍?」

「あんたの酒じゃない。私の酒よ」

「霊夢の酒でもないっつーの。元々は私のお酒だって」

ほんのりと頬を赤く染めた霊夢が絡み、更に少女の舌っ足らずな幼い声が続く。

きっと例の鬼が近くにいるのだろう。密と疎を操る彼女にとって、自分の姿を見えなくさせることなど造作もないことなのだ。

……あぁ、もう混沌とし始めている。

この先のことを考えるととても気が重くなる。藍は頭を抱えたい気分であった。

「兎に角! ……酌は私が致しますから、あまり無理をなさらずにご自愛下さい!」

打ち切るように藍が叫ぶ。

そのどこか母親を思わせるような言葉に、周囲の物は堪え切れずに吹き出した。

 

 

酒というものには加減がない。

自覚して控えるのならまだしも、酒好きを自称しているにも拘らず羽目を外そうとしているのだから尚更だ。

ただ、この場合は酒というよりも彼女たちに加減がないというべきなのだろうが。

紫は兎も角、他の人間二人が予想以上に速く且つ多量に飲むので藍は少し驚いた。

他愛もない雑談の合間に、まるで空気のように酒を呷るその様は、凡そ人間離れした勢いだ。

それでも顔に差している赤みはそれ程濃くなったように見えないのである。この齢でそれなのだ。藍は空恐ろしいものを感じる。

そこで紫に早く注げ、とせっつかれた藍は、既に何瓶目か分からない酒瓶を持って紫の下へと寄った。

「だからねぇ、あんたらみたいなのがいるから人間の参拝客が来なくなるのよ。誰が好き好んで妖怪に会いに行くって言うのよ」

ぶつくさと文句を垂れ始めるのは霊夢。顔はそれ程赤くはないが、時折瞳の焦点が合わなくなるのでそれなりには酔っているのだろう。顔に出ないタイプなのだ。

紫は口を尖らせて答える。

「酷い言い草ねえ。気弱な里人たちの方が悪いのよ。私は責任を持って条約を守りますし守らせます。少なくとも私の眼の届く範囲では、妖怪共には手を出させません」

里の平和を守るための条約を結んだのは紫自身である。それに人間を喰い尽くしてしまっては妖怪たちも生きてはいけない。共存共生のために必要な条約であった。

それにより人間の安全はある程度保障されているのだが、やはり人間にとって妖怪は脅威なのだ。自分からむざむざ命を差し出すわけにもいかない。自衛することを優先している里人にとって、博麗神社は余程のことでもない限り近付きたくすらない場所なのだ。

勿論妖怪と仲良くしたい者や“肝試し”と称して無謀な若者たちが参拝することもなくはない。がそれは極々少数派である。紫たちのような妖怪が神社に入り浸っている限り、これ以上の参拝客増加は見込めなかった。

「でも里人たちの気持ちも分からなくはないぜ。妖精やら低級妖怪やらがいっぱいいるのならまだしも、泣く子も黙る大妖共がうじゃうじゃだ。霊夢がいなかったら正直私もここに来るのは御免蒙りたいな」

にやけながら魔理沙は紫の方を見る。

本当に御免蒙るかどうかは疑わしい。

そんな魔理沙の視線を浴びながら、紫は何を言っているのやら、と彼女の言葉を一蹴した。

「霊夢がいなくなったらここに来る理由がなくなるじゃないの。貴女も私も、ね」

「ははっ。そりゃそうだ」

そして三人は笑う。

根本の原因が己にあると再度突き付けられた霊夢は、嬉しいような腹立たしいような悲しいような、何とも言えない気持ちでその光景を眺めていた。

 

一頻り笑って束の間の静けさが訪れた頃に、霊夢がぽつりと一言漏らした。

「……そう言えば今、大結界の見張り番が空席になってるわけだけど……その割には何も動きがないわね。紫?」

そして紫の方をじろりと睨む。

博麗大結界の見張り番。博麗の巫女が代々任されている、幻想郷の平衡を保つためには欠かせない重要な仕事である。

こればかりは流石に努力して出来るような代物ではない。産まれついての素質がなければ境界を視ることすら不可能。ましてやいざという時にその解れを探し出すことなど到底無理なのだ。

かと言って今の霊夢にそれが出来るかというとそうでもない。彼女は死んだ時点でそれまでの博麗霊夢とはまた別の存在となったのだ。記憶や性格が残っていても、元来の能力などは微塵も備わっていない。本質が違うのだ。

だから霊夢は紫に尋ねた。何故未だに手を打とうとしないのか、と。

幾ら今は大丈夫でも、放っておけばいずれ皺寄せすることは目に見えている筈なのに、紫に目立った動きはない。

それを咎めているのだ。

だが紫は動じることなく泰然たる態度で霊夢の言葉に応じる。

「――いえいえ。しっかりと次世代の博麗の巫女は選出してありますわ」

はっきりと、そう言い切った。

勿論その言葉を魔理沙は聞き逃さない。

「……おいおい、ちょっと待てよ。今ここの巫女をやってるのは私だぜ? なのに次世代の博麗の――」

「誰が貴女を博麗の巫女と認めたと言ったの?」

ぴしゃり、と。

言葉を遮り冷たく言い放つ。

軽く撫でれば傷ついてしまうであろう程の鋭く冷たい氷の刃を、紫は躊躇なく魔理沙に向けた。

いつものような戯言ではない。彼女の瞳はしっかりと魔理沙を見据えていた。

その場にいた全員の浮かれた酔いが一遍に醒める。

紫は尚も続ける。

「どこぞの馬の骨にこの幻想郷のバランスを保つという大役を任せるわけにはいかない。ただの人間如きが扱える仕事でもないのよ。それは重々承知でしょう、霊夢?」

「……ええ、そうね」

やや俯きがちに頷く霊夢。

紫の言葉を否定するどころか完全に同意したことに、魔理沙は衝撃すら受けた。

自分は認められたと思っていた。霊夢と一緒にこの仕事を続けていられるのだと、元博麗の巫女自身に認められたとばかり思っていた。

だが今の言葉はなんだ。そんなのは自分の勝手な思い込みで、思い上がりで、……まるで浮かれていたのは自分だけだったのだと、思い知らされたようなものではないか。

愕然として言葉を失う。

「しかし霊夢の頓死は予想外だったわ。私も慌てて閻魔様に相談して、次期博麗の巫女を選びましたもの」

「次期博麗の巫女? 誰それ」

「貴女の知らない子よ。十分に育って、仕事がしっかりできるようになったらちゃんと紹介するわ」

霊夢が尋ね、紫が答える。

自分の後釜だ、多少は興味があるのだろう。また正式な博麗の巫女になるかもしれない存在である。気になるのも無理はなかった。

そんな霊夢の横顔を、恨めしそうに魔理沙はじっと睨んでいたが。

「けれどその子はまだこの世に産まれ落ちてすらいない。だからそれまで代役を誰かに任せる必要がある」

そう、紫はこともなげに言う。

まだ産まれてないのか、と何故か一瞬ほっとするような空気が場に広がった。

そこで魔理沙は、ん、待てよ、と聞こえるか聞こえないか程度の小さな声でぽつりと呟く。

「それなら私で良いだろう。境界の解れなんざそっちで管理できるんだろ? 雑用だけなら私でもできるじゃないか」

確かにそうだ。何だかんだ言って、実際に境界を監視しているのは紫である。霊夢はどこかに異常があった場合、それをすぐさま察知するためのレーダーのような役割しか果たしていなかった。

それなら、自分でも十分事は足りるのではないか、と魔理沙はそう言ったのだ。

否定されたが故の苦し紛れの反論かとも思えたが、彼女の平時と同じ飄々とした表情から見ると単純に疑問に思っただけだろう。

しかし紫は、そんな魔理沙の言葉を冷徹に退ける。

「もう一度言うわ。誰が貴女を博麗の巫女と認めたの?」

呆れたような視線を魔理沙に投げ掛ける。

「私は私の認めた者しかこの幻想郷を預ける気にはなれない。それこそ、私が全幅の信頼を置けるような、ね」

それは、魔理沙では足り得ないという意思表示。

紫が信頼を置いている相手などそうはいない。人間でも霊夢ぐらいだろうか。少なくとも妖怪退治が関の山の彼女では、決して紫の信頼を得ることなどできはしない。

「じゃあ……その子が生まれるまでの間、誰か代わりでもいるんですか?」

突然藍が口を開く。

好奇心たっぷりといったような表情。恐らく今まで聞きたいのを我慢していたのだろう。

「ええ、勿論その候補者は既に用意してあるわ。修行も積ませてあるし、きっと霊夢とそう変りない成果を出してくれることでしょう」

ほぉ、と藍は頬を撫でる。

一方魔理沙は酷く悔しそうにしていた。

そんな魔理沙の様子を見て、霊夢は幾分か憐れに感じながらしかしそれも当然かとも考えていた。

霊夢自身博麗の巫女という職業が如何に幻想郷に於いて重要なものであるかは理解している。理解しているつもりである。魔理沙のそれなどお遊びの類に過ぎないことも、十分過ぎる程に分かっていたのだ。

幾ら魔理沙が努力して、未来のいつか本物の巫女と成り得たとしても、

“博麗の巫女”には、決してなれないということを。

「私の用意していた“予備”はね、そう――」

一旦言葉を切り、きっと紫は一人を見据える。

そして軽く一息吸い言った。

「藍。貴女よ」

「…………はぁ?」

全員眉を顰め、紫の顔をまじまじと見る。

一際間抜けな声を上げたのは、他でもない藍自身であった。

 

 

その時、すぱーんと大きな音を立てて障子が勢いよく開いた。

「たたた大変です霊夢さん! 助けて下さいいいいぃぃぃっ!!」

唐突に叫び目を白黒とさせながらその向こうに現れたのは、緑髪の青と白の装束を着た少女。

奇跡の現人神こと、風祝の東風谷早苗である。

何事かと全員がそちらの方へ顔を向ける。

「おいおい、どうしたんだ? いつにも増して慌ててるじゃないか」

口元を緩めながら魔理沙が尋ねる。どうやらいつも慌てているらしい。

だがそんな魔理沙に構うこともせず、早苗はずかずかと中に押し入り霊夢に詰め寄った。

「諏訪子様が! 足を! 気紛れ過ぎます! 山から逃げ出してもうどこに行ったのかさえ! ああ! 窓に! 窓に!!」

「はいはい。何言ってんのか分かんないわよ。落ち着いてから喋りなさい」

「これが落ち着いていられますかー!」

だん! と乱暴に台を叩く。

早苗は鼻息荒く真っ赤な顔をして肩を上下に動かしていた。

そんな早苗をじろり、と霊夢が睨む。

「……はい。息を吸ってー。吐いてー。吸ってー。吐いてー」

淡々と言うのに合わせ、早苗は深く呼吸をする。

霊夢の言うことを素直に聞く辺り、どことなく可愛らしく思える。

それを暫く繰り返した後、まだほんのりと頬に赤みを残したまま困った表情で早苗は言った。

「……すいません。あまりにも突飛なことが起こったものですから……ご迷惑をお掛けしました」

「そういうのはいいから。ほら、さっさと話しなさい」

酒を一杯呷り、ぞんざいに霊夢は返す。

早苗はこくりと頷いて、やや緊迫した表情に戻って話し始めた。

「それが……先日、諏訪子様が暇を持て余していた時のことです。いつもは私や神奈子さまとお話ししたりして過ごしていたそうなんですが、その時はたまたま二人とも出払っていた、と。ご自身の支配するミシャグジ様も話し相手にはなりません。どうしようかな、と考えていたところ、ふとアイデアが閃いたそうです」

――そうだ。足を生やしてみよう。

その言葉にほぼ全員が一様に体をぴくりと動かす。だが何も口にしないままに、そのまま視線で早苗に話を続けるよう促した。

早苗も行動でそれに応える。

「諏訪子様は坤を司る。その徳は万物の成長です。何かに足を生やそうと思ったとしても造作もなく実行に移せるでしょう。

……ただ、その対象が問題でした。“足”を得たミシャグジ様は、何と諏訪子様を振り切り脱走してしまったのです」

喉の奥から振り絞るような声で体を震わせながら早苗は語る。

しかしあの白い蛇に逞しい二脚の脚が生え、うぞうぞと動き出す様を想像していた一同は吹き出すのを堪えるので精一杯だった。

「既に山を下り、ともすれば里に禍を振り撒いているやもしれません。そこで霊夢さんのお力を貸して頂きたく、こうして訪ねた次第でございます」

神妙な表情で、早苗は頭を下げた。

しかし、

「…………ぷ」

あまりにも真剣な顔で言うものだったから、

「――わっはっはっは! 駄目だ、もう抑え切れん!」

魔理沙は思い切り吹き出してしまった。

一人の箍が外れれば、自然と他の者の箍も外れてしまう。ある一人を除いた全員が、つられて一緒に笑いだす。

一人は腹を抱えて笑い、一人は声を上げないまでも肩を震わせ、一人は袖で口元を隠しつつ小さくくつくつと笑う。

予想外の光景に、早苗は呆気に取られてぽかんと口を開けていたが、やがて自分が馬鹿にされていると気付くと顔を真っ赤にして怒り出した。

「なっ……し、信じていないのですか!? あれだけ真面目な顔をして聞いておいて、そんなに笑うだなんて酷いです!」

突っ込むべきはそこなのだろうか。

だが早苗が必死になって否定すればする程に嘲るような声は大きくなっていく。

「だ、だってさ、お前、足って! 足が生えたからって何だってんだ! あはははは!」

「……はぁーっ。ああ、まだ面白い。早苗、貴女冗句の才能あるわよ。うん」

「馬鹿にしないで下さい! あーもう、貴女たちは何なんですか! この緊急事態に! もっとちゃんと聞いて下さいよ!」

早苗は地団太を踏む。

それを見て更に笑いは大きくなる。全くの悪循環だ。

比較的常識のある藍でさえも笑う始末。最早手に負えないかと思われた。

だが、たった一人未だ妖艶な笑みを浮かべてじっと座っている者がいたのだ。

そう。

八雲紫である。

「――どこかの国では、あっても役に立たないもののことを過去の出来事になぞらえて“蛇足”と言ったそうよ。いわゆる故事成語、という類のものね。

多分貴女の信奉している神様も同じことを思って実行した、そうじゃない?」

早苗をじっと、射止めるかのように見詰める。

急に話し掛けられたからか、上手に対応できずしどろもどろになりながら早苗は答えた。

「え、いえ、それはよく分かりませんが――蛇足、ですか。外の世界にいた頃、勉強したことはありますが……考えてみれば、確かにそれと同じですね」

うんうんと一人頷き納得する。

何の話をしているのか分からない神様と人間は一様に眉を顰めた。

「で、その蛇足が何だってんだ。流石にんな酔っ払いが考えた与太話に付き合う程、私も暇じゃないぜ」

「与太っ……あ、貴女!」

魔理沙の軽口に思わず触発されそうになった早苗を、紫は手で押し止める。

その挙動で我に返った早苗は何か言いたげにしながらも、そのまま飲み込んで押し黙った。

「……ええ、関係はしませんわ。だけど与太話、というのは少々早合点が過ぎると私は思うの。

ほら、聞こえない? どこか遠くから、まるで地響きのような音が」

「地響きだ? そんなもん全然聞こえない――」

ど、ぅん、と。

その時、低く地面が唸るような音が微かに、しかし確かに耳に届いたのを魔理沙は感じた。

はっとなって顔を上げる。

次いでみしり、みしり、と神社が軋むような音を立てた。

「……おい霊夢、聞こえるか?」

「聞こえないわけがないでしょう。……と、いうことは……」

「勿論、この風祝さんの言ったことは真実ですわ」

勝ち誇ったように、悠然と紫は言い放つ。

だから言ったでしょうに、などと早苗はぶつぶつと文句を呟いていた。

冗談だとばかり思っていた。いや、冗談としか思えなかったのだ。そんなものが現実にあるのだとは到底考え難い。しかしよくよく考えれば真面目一辺倒の早苗が冗談を言うとはとても思えなかったし、何よりわざわざ紫が擁護するということはやはりそれは真実なのだろう。

先程まで笑っていた三人は思わず押し黙る。

そしてもう一度考え直す。もし早苗の話したことが全て事実なのだとするならば、それは非常事態に間違いないのだ。ミシャグジ様は祟神である。厄災こそ振り撒きはするが、決して幸福を齎すことはない。平穏こそが何よりの幸福なのかもしれないが、ミシャグジ様がネガティブ性の神様であることは確かである。

つまり、いて良いことなどあまりない。

「……外に出ましょう。音が聞こえるのなら、もう目視できる範囲にはいる筈。場合によっては――退治しなければならない」

藍がぽつりと呟く。

全員がこくりと頷いた。

 

外に出ると、そこには既に橙とお燐が並んで遥か遠方を見ていた。

「あ、藍様」

「なんだお前たち。いつの間に起きてたんだ?」

「さっきから凄い音が遠くから聞こえてきてたので……ちょっと、様子を見ようと思って」

にゃーん、と高い鳴き声が続く。恐らく同意しているのだろう。

それから二人と同じ方向、山の中腹辺りを見る。

そこに広がっていた光景は、魔理沙たちの心を奪うに足るものであった。

「……な、んだ、これ……」

呆けたように魔理沙は呟く。

霊夢などは言葉すら忘れてしまったかのように目を大きく見開いて唖然としていた。

無理もないだろう。そこには予想以上におぞましい地獄絵図が描かれていたのだから。

――鱗はなく、すべすべとした光沢のある白い皮。

――牙をむき、涎を垂らしながらぎょろぎょろと辺りを見回す。

――腹部にはさながら人間の脚のようなものが無数に生え、百足のように波打ち移動する。

そう、それはまさしく百足。蛇を模したその体は、今や節足動物と同等の移動手段を持ち得ていたのだ。

「なんだあれ! やばい! やばいぞあれは! 気持ち悪いっ!!」

とても苦々しげな顔をし言い捨て体を震わせる。

気持ち悪い、その一言に尽きるのだ。想像していた一脚だけならまだしも、ああもうじゃうじゃと蠢いているととても直視などできない。生理的嫌悪感を催すには足りるどころかお釣りさえ返ってくるだろう。何を思ってあの蛙神はこんな姿にしたのだろうか、想像は及びもつかない。ただただグロテスクを追求した最悪の姿だった。

さしもの霊夢もこれには相当堪えたようで、真っ青な顔をして口元を押さえていた。コードネームGを持つ、あの古代から生きる黒き忍者など目ではない。少し気が緩めばリバースしてしまうような状態だ。

よくよく考えれば守矢神社の二柱は蛇と蛙、爬虫類と両生類なんてゲテモノもいいとこである。ましてや霊夢と魔理沙、二人は普段こそ大人ぶっているが、実際はただの女の子。本来ならもっとぎゃーぎゃー騒いで然るべきなのだ。生活している環境も影響はしているだろうが、それでも倒れもしない辺り精神的には強い方だと言えよう。

とすると焦ってはいるけれども至って平然としている早苗は何なのだ、という疑問が浮かび上がるが、彼女の場合同居人が同居人である。田舎の子供に虫嫌いが少ないのと同じ道理だ。

と、場が騒然としている間にミシャグジ様は急激に体勢を変えた。

「……何か、始めようとしてますね……」

言わずとも見れば分かる。その場で歩き回るのを止め、じっと止まってある一点の方向を向いていた。

そしてぐぐっ、と数え切れないほどの膝を折り曲げ、少々高さが低くなる。人間で例えれば屈んでいる状態だろう。

その時はっと何かに気付いたように、紫はぽつりと一言漏らす。

「もし、私の予想が当たっているとするなら――そうね、私たちも伏せていなければ危険かもしれない」

いつも通り何の話なのかよく把握のできない言葉だ。どういう意味かは分からない。だが少なくとも言われた通りに従わなければ危険なのだと直感的に判断した。

すごすごと頭を下げ、べったりと地に伏せる。

紫は何もない宙にすっと一線を引いたかと思うと、すぐさま他の者と同じようにその場に伏せた。

直後、全員が一瞬黒い影に包まれる。

不審に思った魔理沙が首だけ挙げて見てみると、

そこには落下しつつある白き大蛇が身をくねらせ宙を舞っていた。

「――――っ!?」

息を呑む。

だが、声を上げるまでの時間などなかった。

――ぱりん。

何か、ガラスの割れたような音がして、

次いで博麗神社を下敷きにし、巨大な炸裂音を轟かせてミシャグジ様は落下、もとい着地した。

耳を劈くような爆音と共に地がうねり、震え、風を巻き起こし木々が騒がしくざわめく。

ざあざあと枝と枝が擦れ、しなり、その身に生やしている無数の葉を辺りに撒き散らした。

その様子を見ていた霊夢は少しだけ嫌な顔をして、そして視線を神社の方へと向けて目を見開いた。

方法はどうであれミシャグジ様が落下してきた、ということは、やはりその下敷きになった博麗神社はその分の衝撃を直に受けているわけで。

もぞもぞと蠢き活動を始めつつあるミシャグジ様の真下には、見事にただの木屑と化した神社の残骸があった。

「――あ、あ、あああぁぁぁぁぁぁっ!! わ、私の神社がぁーっ!?」

叫び愕然とする霊夢。

自分の家が目の前で破壊されたも同然である。その驚きたるや計り知れない。

その声を聞いた紫は起き上がり、あらまぁ、と頬に手を添えて言った。

「そうならないために結界を張っておいたんだけど……うーん、少し弱かったみたいね。失敗したわ」

てへっ、と茶目っ気をたっぷりと込める。

だがそうしたところで現実は何も変わらない。依然として霊夢は全身から悲壮感を漂わせたままで項垂れていた。

博麗神社、潰れる――どこぞのブン屋が次回の一面にでかでかとそう書くのがありありと浮かぶ。

他人からの視線を気にしているわけではない。しかしだからと言ってマイナスイメージがつくのは困る。仮にも神社なのだ。なのにその本殿がこの有様ではご利益など知れたものだと多くの人間に思われてしまうだろう。そうなれば信仰の減少は必至だ。

文字通り降って湧いた不幸に霊夢は思わず涙目になる。

全く、祟神の“ご利益”はどうやら本物のようである。

 

そんな霊夢を放っておき、紫は懐から扇を取り出し広げ口元を隠して泰然と構えた。

「――さて。藍、良い機会だわ。これはいわゆる事件――つまり異変と後に呼ばれることになるでしょう。良い機会じゃない、博麗の巫女は異変を解決するものよ。今ここで、一度実力の差というものを見せておいた方がどこぞの人間も諦めがつくというものじゃない?」

そうして魔理沙の方を横目で見てくつくつと笑う。名指しこそしていないが誰のことを言っているのかは明白であった。

魔理沙は憤慨する。

「……くそっ、馬鹿にしやがって。私だって妖怪退治ぐらいなら出来るんだぞ。そうそう見くびられてたまるか」

「なら貴女も精々勝手に頑張りなさいな。それだけの覚悟は持っているのでしょう? ねぇ、“黒白”」

ねっとりと、嫌な表現で魔理沙を挑発する。

それは宣戦布告であった。

白黒は魔理沙を表す代名詞のようなものだ。しかしその言葉に含まれているものは魔理沙の外見、それも服装のツートンカラーが故にである。決してその内面は言葉に反映されていない。

敢えてその表現を使うことで、紫は言外に、お前など博麗の巫女ではない、という皮肉を込めていたのかもしれない。

だから、どうとでも取れるその言葉は魔理沙の心に火をつけるのに十分足りるものであった。

「言ったなっ! よーし見てろ。この私こそが博麗の巫女だって手前に認めさせるまで死んでも食らいついてやる! お前ご自慢の式が無様に倒される姿をそこで見ているがいい! はーはっはっは!」

どうにも空回りしているように思える。

だがそれだけ魔理沙には気迫が籠っているということだ。曰く“人間如き”であっても、気合いだけは十分らしい。

役者は揃った、とでも言うかのように紫は鼻でふふんと笑う。

「丁度良い対抗馬がいたわね。相手がいた方が燃えるでしょう? さぁ、行きなさい藍。貴女は私が直接手を掛けた式。負けることは許されないわ」

睨めつけるような視線で藍の瞳を射抜く。

主の言葉に藍は少々戸惑いつつも、深々と頭を下げて返事をした。

「……分かりました。必ずやその命、果たしてみせましょう。不肖八雲藍、紫様のご期待に添えられるよう尽力致します」

「尽力、だけでは足りないわ。絶対に達成してみせなさい。出来なければ修行をもう一度やり直させるからね」

「……はい。分かりました」

そうしてもう一度会釈する。

礼儀正しすぎて堅苦しいことこの上ない。

そのやり取りをただ見ているだけでも胸焼けを起こしそうだったので、魔理沙はぷいと横を向いた。

「……ん?」

そこで初めて違和感に気付く。

しかしそれが何なのか、正確には判別付かない。いつも通りの風景。ただ一つ違うのは、既に倒壊した神社のみで――

いや、違う。

……あぁ、そうだ。

「あの蛇が――いない――!?」

その魔理沙の素っ頓狂な声で皆が同じように博麗神社のあった場所へと視線を向ける。

会話に夢中で気付いていなかったのだ。

その場の誰もが、いつの間にやら件の神がどこかへ行ってしまったことを。

あの大きさで物音を立てずにどこかへ行くなど誰も予想していなかったのだ。だからこそあんな掛け合いも暢気にしていられた。

早苗ですら顔が強張っているのを見ると、どうやらこうして見失ったことは割と危険な状態にあるのだろう。危機感は更に高まってくる。

実感はないが、しかしミシャグジ様が里の方に行った想像をして、魔理沙の背筋はぶるっと一瞬だけ震えた。

ああ、もしかしたら。

これは、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない――

未だに喚いている霊夢の泣き声を遠くに聞きながら、魔理沙は脱力していくのを感じた。

 

 

空を駆け、優雅に舞い踊る様はまさに疾風怒涛。

音速の弾丸が空気を裂くように、魔理沙は大気を突き抜ける。

神社にいる時はいつも着ている紅白の制服を脱ぎ捨て、真黒なローブを身に纏い箒に跨り高速で走り抜ける。

その姿は正しく魔女。水を得た魚のように、魔理沙は生き生きとした表情で飛んでいた。

「いやぁ、この感覚も久し振りだな。最近はお勤めで忙しかったからな」

風を全身に受け、髪は靡いて服がはためく。

本当に心地良さそうな表情で、魔理沙は抱え込むようにしていた同乗者に語りかける。

「なぁ、お前もそう思わないか?」

その言葉に応じるかのように、黒い猫は体から白く眩い光を発し始めた。

段々と光は大きくなり、終いには魔理沙ごと包み込む。

その光がすっかり消え去った頃に、黒猫は赤い髪の少女に姿を変えていた。

無論お燐である。

ぶら下げた二つのお下げを揺らし、振り向き答える。

「と、言ってもねぇ。私はただの猫だしさ。まぁ、こうしてお空を飛ぶのは気持ち良いとは思うよ――」

言い終わるか、終わらないかのその内に。

箒はぐらぐらと大きく揺れだし、危うくバランスを崩しそうになる。

「おっ、うわっ」

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとお姉さん! 落ちるよ落ちるよ落ちちゃうよ! あー死ぬー!」

「騒ぐな。お前がいきなり変化したからだろうが。そりゃバランスも崩すぜ」

しかし魔理沙は手慣れた様子で上手に箒を操り難なくコントロールを取り戻した。

魔理沙の前でどっかりと腰を落ち着けているお燐はそれまでの焦った表情から口を尖らせて不満そうな表情になった。

「だーってお姉さんが聞いたんじゃん? 私は猫のまんまじゃ喋れないんだよ。流石にこれはお姉さんが迂闊だったと私は思うな」

「あぁそうだな。ところでお前がいるせいで前が見えないんだが、代わりに運転してくれるのか?」

「あ、そうだ。ちょっと前口上考えたんだけどさ、聞いてくれない?」

箒の先頭は特等席だ。視界に広がる光景は筆舌に尽くし難いものであり、また吹き付ける風も心地良い。魔理沙が箒を好んで使う理由もこれであった。

折角のそんな席である。奪われたくがないために空々しく話題を逸らしたのが見え見えだ。

しかしそうされると魔理沙自身の視界が遮られる。危険なことこの上ない。さっさと猫の姿に戻らないようなら実力行使で自分が前に出ようと心の内で決めた。

お燐は無邪気に笑い、右手の人差し指を立てて朗々と仰々しく喋り始めた。

「貴方の魂運びます。地獄特急猫車。出発しますよお客人。快適な永遠の死後の旅、どうぞお楽しみ下さいませ――

こんなキャッチコピー、どうかな?」

「語呂が良いだけだな。そんなんじゃ誰も乗ってこないぜ。もっと客の目を引き付けるような言葉を選べ」

「万年閑古鳥のお店を営んでるお姉さんには言われたくない台詞だねえ」

「猫のくせにいちいちうるさい奴だ。大人しく黙ってろ」

「にゃーん」

ぽん、と音を立てて黒猫に戻るお燐。

もう一度両腕で抱くようにお燐を覆い、魔理沙は前屈みになって更に速度を上げる。

視界は開けた。後はミシャグジ様を見つけるだけである。

 

 

魔理沙は華麗に空を飛ぶ。同行人は一匹の猫。

紫は本当に危なくなった時にしか手は出さないようでにやにやと気味の悪い笑みを浮かべながら魔理沙を見つめているだけだったし、早苗はおろおろするばかり。

霊夢に至っては彼女らしくもなく地に伏し怨嗟の言葉を口からただただ漏らすのみ。役立たずばかりである。

そんな時、魔理沙の目に留まったのは一匹の黒いつやつやとした毛並みの猫。

――そうだ。この猫をお供にしようじゃないか。魔女は黒猫を従えてるって決まってるしな。そうだそうだ、それが良い。

妙なことを口走りながら、魔理沙は暴れる黒猫を抱き抱える。

そして、どこに置いてあったのか定かではない箒を手に取り言った。

「紫。お前の思惑に乗るのは少し癪だが……だが、それとこれとは話が別だ。私は博麗の巫女として、その責務を全うするぜ」

そんな魔理沙の言葉にも動じず紫は微笑みながらやんわりと返す。

「そう。貴女が博麗の巫女に足るとは到底思えはしないけれど……まぁ、異変を解決してくれるのなら何でも構わないわ。どうぞ、頑張って頂戴」

魔理沙の神経を逆撫でするような言い草に変化は見られない。

だがもう言葉は交わさなかった。それ以上話せば、間違いなく挑発に乗ってしまうだろうことを魔理沙自身が気付いていたからだ。更にそんな言葉にいちいち噛み付いている暇もない。そんな時間があるのなら、まず真っ先に異変を解決しに行くべきだろう。

沸々と湧き上がって来そうな怒りを抑えつつ、不自然に引きつった笑顔を紫に向けたまま魔理沙は箒に跨り空へと飛び去った。

 

ちっと小さく舌打つ。

「――ああ、今思い出しても腹が立つ。あのスキマめ、私をさんざんコケにしやがって。人間様を嘗めるなよ、あの霊夢だって元々は人間だったんだからな。……まぁ、少しばかり人間離れしていたような気がしないでもないが」

少しではない、ときっと彼女に関わった者の多くは言うことだろう。

これまで異変解決に乗り出したメンバーの中で、最も人間に近いのは魔理沙である。それは本質的な意味でもあったし、また実力的な意味も含まれていた。

つまり魔理沙は実際一番人間らしく、またそれ故に一番劣ってもいたのだ。

それをコンプレックスに感じていたことは魔理沙も薄々気付いていた。しかし才能は努力でカバーできる、と騙し騙しここまで歩んできたのだ。だからこそあのような人外共と肩を並べて軽口を言い合うことができた。

……だが、それもここまで。魔理沙の次に人間に近いであろう霊夢は今や神と成った。紅魔館で働くあのメイド長など、種族が人間であると言う程度の者だ。白玉楼の従者など、元より人間ですらない。新入りの風祝は現人神。論外である。

純粋に人間と呼べるのは、既に魔理沙以外にいなかった。

才能は努力でカバーできる、なんて、一番最初に言い出したのは誰だろうか。

その言葉を信じて魔理沙はここまで走り抜けてきた。そう、それこそ一度も休まずに全速力で駆けてきたのだ。

なのに、追い付こうとしていた彼女たちとの距離は縮まるどころかより遠ざかっている。

それが、つまり、才能と努力の差。

才能に勝る努力などありはしない、と再度突き付けられたかのような現状。それはとても残酷な現実であった。

今もこうして、私が博麗の巫女だなんて息巻いてはいるが……実際、それは虚勢に過ぎない。

紫に言われたことは全て真実である。魔理沙に博麗の血など一滴たりとも流れてはいない。それだけでも不適合なのに、重ねて魔理沙には巫女たる素質がほぼ、全くと言っていいほどになかったのだ。

里人の誰かに尋ねたとしても十中八九藍の方が魔理沙よりもよっぽど巫女らしいと言うだろう。それぐらい、魔理沙が巫女だなんて鼻で笑われる程度の戯言にしか聞こえなかったのである。

外面も内面も、どこも巫女らしくなんかない。実績など妖怪退治の業績程度。それでは適職は巫女と言うよりただの退魔師であろう。

どこもかしこも、巫女だなんて思われる要素なんてなかった。

――畜生。

魔理沙は袖で、瞳に溜まった涙を拭う。

「――くそっ、くそっ、くそっ! そんなんで諦めてたまるか。結果さえ出せば良いんだよ。今やるべきことは――ただ一つだけだ!」

自分に言い聞かせるように。

脆弱な自分の立場を知りながらも、魔理沙は立ち向かっていかなければならないのだ。

そうしなければ、自分の好きなあいつらと一緒にいられなくなってしまうから。

一緒にいたい、ただその一心だけなのだ。

魔理沙は更に速度を上げる。そんな思いを覆い隠すかのように。ただ、目的のために一心不乱に。

そんな魔理沙の腕の間で、お燐は哀しそうに一声鳴いた。

 

 

一方、藍と橙の二人組。

ミシャグジ様が逃走したことが発覚したあの後、藍は橙を連れてすぐさま捜索に出た。

異変解決はどれだけ早くこなせるかが肝要である。加えて現在の状況は一刻を争う深刻なものだ。故にその判断は最善と言えた。

単独のままの藍はくるくる回りながら高速で空を飛んでいた。

そうして一度立ち止まり、暫くくるくる回り続けるとぴたりと回転を止めその場に留まる。

「……上空から見れば、すぐにでも見つかると思ったが……一筋縄ではいかない、というわけか。成程、手強い相手のようだ。――橙!」

誰に話しかけるでもなく、ただ淡々と独語した後に藍は己が式の名を呼んだ。

程なくして二本の尾を持った少女が藍以上の速度でくるくると回転しながら飛んでくる。

「はい。お呼びでしょうか」

「こっちは見ての通りだ。そちらの成果は?」

藍が尋ねると、橙は残念そうに首を横に振る。

それを見て自分と同じ結果に終わったと知った藍は顎に手を当ててふむと考え込む。

ミシャグジ様は大蛇の形を取っている。とすれば、元来の移動手段も蛇のそれとほぼ変わらないとみて間違いないだろう。

あの大きさの蛇が地を這うのであれば、なかなかに大きな被害が出そうなものだが。

しかしこうして上空から幾ら探しても見つからない。となればそれまでの移動手段以外の方法を取っているとみてまず間違いはないだろう。

“足”とは移動手段のことでもある。諏訪子がミシャグジ様の脚を増やしたのならば、当然ミシャグジ様自身の移動手段自体増えている筈だ。言葉には言霊が宿る。その程度のこと、起こったとしても何らおかしくなどはない。

とすれば、やはり空からこうして見回るだけでは限界があるだろう。もう少し、何か他の策を講じるべきか――そう思った時のことであった。

二人の体を、黒い影が包み込む。

はっとなって、瞬間顔を真上に上げた。

そこには白き大蛇が、無数の脚を異様な速度でバタつかせて空を悠々と飛んでいる光景があった。

思わずぽかんと見上げたまま、声を出すことすらせずにただただぼーっとそれを見続ける。

暫くそんな光景を見た後に、藍ははっとなって我に返った。

「お、おい橙! いたぞ、奴は空だ!」

その藍の言葉で同じように虚ろな瞳でそれをただ見つめ続けていた橙も、はっと我を取り戻した。

見つけた以上、逃がしてはおけない。そのまま二人は言葉も交わさず、ミシャグジ様目掛けて飛んで行く。

――くそっ、まさか空を飛んでいるとは。

藍は内心歯噛みする。

あの足のバタつき方、速さ。予想外のことだったとは雖も、やはり予想して然るべきことだっただろう。

そう、右足を一歩前へ出し、右足が落ちる前に左足を出す。

そうして空を文字通り駆ける。

その理論を地で行っているのだ。

何と言う滅茶苦茶な理論であろうか。しかし目の前でそれを実証して見せられているのだ。疑ったところで何も変わりはしない。

自らの愚かさに舌打ちしつつ、藍は紫に命ぜられた対象に向かって飛翔していった。

 

二人揃ってミシャグジ様の前に陣取り、声高々に宣言する。

「あいや待たれいそこの神。我こそは八雲紫が使う式、化け狐の八雲藍であるぞ。最早これ以上の狼藉、見逃してなど置けるものか。いざ、成敗!」

どこの時代劇だ。

橙も藍の妙に芝居がかった口上に少々戸惑い気味である。眉を八の字にして見るからに困っていた。

一瞬逡巡し、そして微妙に視線を逸らしたままにおずおずと橙は口を開く。

「あ、あのー……。流石に、そういうのはあんまり通じないと思いますよ?」

「ん? そうか。まあ蛇だし喋れなさそうだしな。一応名乗っておくのが筋だと思ったんだが」

まぁいい、と藍は呟きじろりと睨む。

九つに分かれた金色の柔らかそうな尻尾が、まるで生きているかのようにゆらりゆらりと揺れ始める。

「では始めよう。橙、まずは相手の動きを封じなければならない。結界を張れ」

「え……は、はい!」

それまでのふざけた感じから急に真面目な雰囲気になったので、橙は面食らいながらも藍の命令に従う。

いきなり目の前に現れた二人に全く動じないミシャグジ様を軸に、橙は大きく迂回して藍のちょうど反対側に立った。

そして何の合図もなしに、同時に印を組み呪文を唱える。

するとミシャグジ様を取り囲むように、細く四角い光の線が一瞬走った。

その光の線は平行に動き、開き、閉じ、やがて立方体の形を取ってミシャグジ様を包み込んだ。

そこで漸く自らが捕らえられ掛けていることに気付いたミシャグジ様は、全身をのた打ち回らせてもがき何とか逃げ出そうとする。

しかし堅固な結界が緩むようなことはなく、四角い檻はびくともせずに鎮座したままだった。

暫く印を結んだまま切迫した表情でその様子をじっと睨んでいた藍だったが、抵抗を諦め項垂れるミシャグジ様を見て初めてふぅと息を吐いた。

じんわりと滲んだ額の汗を拭い、やや疲れた表情になる。

「――よし。お疲れ様、橙。成功だよ」

そして未だ目を瞑りむむむと唸りながら印を組み続けている橙に向かって呼び掛けた。

あまりに集中し過ぎて周囲の様子が分かっていなかったのだろう。はっと現実に引き戻された橙は、目を真ん丸く見開いて辺りをきょろきょろを見回し、そして状況を呑み込むとはぁ、と大きく息を吐いた。

一部始終をずっと見ていた藍は笑う。

「ははは! 何、久し振りの大仕事だったからな。無理もない。私も少し疲れたよ。

……しかし、少し手間取ったとはいえあまりにも呆気ないものだな。もっと手強いかと思っていたが」

藍は顎に手を掛けて考える。

この程度なら成程、確かに魔理沙でも簡単に捕らえることはできるだろう。そういう意味では先に見つけられたのは幸運だったか。

だが、あまりにも手応えがなさ過ぎる。神というものはこの程度だったか? これでは橙一人でも上手く立ち回れば調伏できるではないか。そんな弱小な存在が祟神として君臨できるのだろうか? いや、そもそも土着神洩矢諏訪子がこの程度の存在を制御し切れないとは思えない。嘗て恐ろしき祟神を束ねた力ある神として世に轟いた彼女の名は、ただの一妖であった自分の耳にすら届く程であった。こうして幻想の存在となるまでに信仰を失い弱体化しているのは確かだろうが、それでも高々妖獣でしかない自分に劣るとは到底考えられないのだ。

――もしや。

閃きかけたその時、ぴしり、と何かにヒビが入るような音がした。

その音に俊敏に反応し、顔を即座に上げる。

視線の先には、巨体を力任せに暴れさせ脱出を図っている大白蛇がいた。

「まずいっ! 橙、もう一度結界を結び直すぞ! このままでは――」

もう、遅い。

一度入った亀裂は巨体が揺れる度に広がる。

藍が呼び掛け、橙が慌てて印を組み直そうとしている間に――結界は決壊した。

ガラスが割れるように粉々に砕け霧散する。狭い牢獄から解放されたミシャグジ様はまるで喜びを表すかのように体をうねらせる。

……本来結界というものは、力任せに扱って破れるものなどではないのだ。いわゆる概念的な境界を、妖力を込めることによって具現化し藍は自由自在に操っていた。

紫程のレベルになれば概念を概念のままに操ることができるが――しかし、藍とてなかなかの手練なのだ。そうやすやすと結界が破られる筈がない。ましてや、元々は“境界”という概念なのだから。

そこで藍はふと思い出す。

――そうだ。あの時、紫様は結界を張られていたじゃないか。

あの巨体が落下してくるのを予測して、神社周辺を守るために。

忘れていたが――あの時、紫様の結界は確かに破られた。

藍は脱力し、はは、と力なく笑いを零す。

なんだ、それなら、私の結界なんて通じる筈ないじゃないか。

とんだ思い上がりだ。自分の主の能力すら通じなかった相手に、自分如き矮小な能力など気休め程度にもなりやしない。

例え橙がいたとしても、藍と紫の差には確固たる隔たりがある。幾ら詰めようとしても縮まることのない、無限に近い隔たりが。

なのに、どうして勝てようか。

ぐるぐる、と唸り声を上げて、ミシャグジ様は藍の方に向く。

その時藍は、全身の毛が逆立つのを感じた。

ミシャグジ様には目がない。なのに、なのに――

――なのに、確かに視られていた。

体が動かない。汗がだらだらと流れ落ちる。呼吸をすることすら忘れていた。

間違いなく、藍はミシャグジ様に畏怖の念を感じていた。

それまでは何と言うこともなかったのに、一体どうしてこのような状態になってしまったのだ。

今や足は今にも崩れ落ちそうになり、体ががくがくと震え、唇は戦慄き戦慄き完全に委縮してしまっている。

何故? どうして?

決まっている。

この神は、今まで私を知覚することすらなく活動し続けていたからだ。

今はどうか。

中途半端に行動を阻害したせいで、その存在は知覚され――その邪魔な存在を、今にも叩き潰そうとしているのだ。

そう、例えるのなら周囲を飛び回る蠅が如く。今の私は虫けらと同等、いやそれ以下にしか思われていないのだろう。

だが相手の思考の内に入ったことで、その意識は僅かながらも確実にこちらに向けられる。

敵意、にすら足りないかもしれない。だが、今の私に向けられているこの意識は、私にとって間違いなく敵意であり――

そして、これまでに味わったことのない程の威圧感を伴っていた。

これが、神。

藍は嘆息する。

まるで位が違い過ぎるのだ。神の威光がどれ程のものか、その片鱗にすら藍は気圧されてしまう。

人間が蟻を弄び、終いには殺してしまうように。

この白き神にとって、藍自身も蟻のようにしか見えていないということ。

最初から、土俵自体が違っていた。

侮っていた? いいや違う。気付かなかっただけだ。あまりにも大きなその威厳に、大き過ぎるが故に気付けなかっただけである。

だから、こうして一度意識をほんの少しでも傾けられれば。

まるで蛇に睨まれた蛙のように、足が竦んで何もできなくなってしまうのだ。

――成程、確かに蛇だ。ならば私は蛙かな?

そんなどうでもいいことが、藍の頭の中を埋め尽くしていく。

ミシャグジ様は涎を滴らせ、舌舐めずりをしまるで吟味するかのように藍のことをまじまじと見詰める。

それでも尚、藍は一歩たりとも動くことすらできなかった。

――あぁ、紫様。今この時だけは、貴女のことを恨みます。

そもそも最初から、あの早苗とかいう風祝は言っていたじゃないか。“霊夢さん、助けて下さい”と。

それが何を意味していたのか。今の私にならよーく分かる。

所詮妖怪如きが神と対等に渡り合えることなどできない。第一その程度であれば、既に述べた通りこのように手綱を放したとしてもまたすぐに掴むこともできるだろう。異変にだってなりゃしない。

霊夢は何だ? 神だ。もう神なんだよ。妖怪にすら劣る、身体能力の低いただの小娘じゃないんだ。今この私の目の前で生臭い息を漏らしながら私のことをじっと威圧しているこの蛇と、あいつとは、同等の神様なんだよ。

逆に言えば、神様じゃなきゃ太刀打ちできる筈ないんだ。

貴女はそれを知っていたのでしょう? なのに気紛れで私たちにそれを押し付け、自分は高みから見物するなんて――

ああ、もう、この際そんなことはどうでもいい。今はただただ貴女のことを恨みます。いえ、恨ませて下さい紫様。どうせ最期なのですから。

きっと私は、もうここで――

その時藍は、ふと自分を呼ぶ声に気付いた。

若く幼い程にきゃんきゃんと甲高いその声。今や金切り声に近かった。聞き慣れて既に久しい。

きっと橙だ。

しかし自分はもう動けない。だからせめて、お前まで巻き込まれる前にどこかへ逃げてくれ。藍は心からそう願う。

そして腹を据えた。

諦めた、と言い換えても問題はないかもしれない。でも、己の実力を過信したのは確かだ。その代償として考えれば、ある意味これは当然の結果なのかもしれない。

相手は祟神。崇め敬いさえすれば禍を振り撒くことなどないが、侮ったりすればその厄はいつか必ず自らの身に降り掛かることだろう。

自分は敬意を忘れた。だから、これは当然の結果なのだ。

ぐっと歯を食い縛り、目を閉じ、来るべきその瞬間を待ち受ける。

ぐるる、とミシャグジ様が唸り、一瞬の間をおき、そして――

ミシャグジ様は大きく口を開いて藍に襲い掛かった。

その素早い動きは目にも止まらない。藍も目を瞑っていたが、音と大気の流れ方でその異常なまでの速さは理解した。

これでは、もうどう足掻いたとしても逃げられないだろう。

橙の叫ぶ声が聞こえる。

でも、私はもう納得したから。

だから、もう良いんだ。

藍は不思議なまでに落ち着いた心で、自らの行く末を受け入れようとした。

 

腹部に鈍く、しかし強烈な痛みが走る。

腹を食い破られたのだろうか。藍は少しばかり顔を顰めてそんなことを考えた。

今自分の体はどうなっているのだろうか。少し興味が湧いたが、もう瞼を開くことすら億劫だ。

どうせなら、このまま丸呑みにしてくれればいいのに。

それは願望だったのか。薄れ行く意識の中では、決してそれに答えが出ることはない。

全ての流れに身を任せ、白く塗り潰される意識を手放す。

そうして全てを失おうとしている時に、こんな言葉が聞こえてきた。

「――これは貸し、だぜ。覚えとけ」

聞き覚えのある声だった。

 

 

その時、霧雨魔理沙は流星であった。

風を超え、音を超え、炎の弾丸のように一筋の弧を描くその様は疾風怒涛を体現していた。

大きく前に身を乗り出し、前へ前へと進もうとどんどん加速する。

その魔理沙の瞳には、今にもぱくりとミシャグジ様に丸呑みされてしまいそうな藍の姿が映っていた。

初めは困惑した。何故向かい合って尚動こうとしないのか。先に動いた方が負ける、といった切羽詰まった状況にも見えない。どころか魔理沙には藍が体の力を抜いてぼーっとしているようにしか見えなかった。

何かの罠かと考えた。しかし、どうにも様子がおかしい。まるで藍は立ち竦んでいるかのように、体をがくがくと震わせていたからだ。

そこで気付いた。

理由は分からないが、藍は今逃げられない状況に置かれているのだ、と。

よくよく見れば橙も泣き叫び藍の名を呼んでいる。その様子は必死そのもので、流石に演技とするには少々真に迫り過ぎていた。

ミシャグジ様が、頭を大きく後ろに反らせる。

――まずい。

直感的にそう思った魔理沙は、何も考えず藍を助けるために駆け出した。

実際、間に合うかどうかは運であった。例え全速力を出したとしても、ぎりぎり手が届くかどうか。タイミングが悪ければ藍だけでなく魔理沙まで致命傷を受けてしまうことだろう。

そういう意味で、これは賭けだった。

魔理沙は右手を真っ直ぐ後ろに向ける。

手の中にあるのはミニ八卦炉。既に魔力は十分に満ち満ちており、いつでも使用は可能だった。

何の躊躇いもなく、魔理沙は魔力を解き放つ。

物凄い熱量を伴った光のエネルギーが、小さな射出口から暴れるように飛び出した。

勿論その反動も凄まじい。それが魔理沙の狙いだった。

自身の最高速には限界がある。どんな手を尽くそうとも、例えば天狗の早さには届くことはないであろう程度だ。

そこで魔理沙は人間が音速を突破できる唯一の方法を編み出した。

ブレイジングスター。自慢の八卦炉をブースターに用い、直進力を極限にまで高めることのできる魔理沙の最終奥義とも呼べる技だ。

言ってしまえばただの突進なのだが、しかしその瞬発力と最高速度は特筆すべきものがある。ほんの一瞬だけなら、そう、あの天狗でさえも話にならない程に。

今この時、魔理沙は確かに幻想郷最速だった。

軌道の先には藍。無論、優しく抱き止める時間などなかった。

要は、あの位置から他の位置へと吹っ飛ばせば良いのだ。

単純明快である。

藍の腹部を狙い撃ち、魔理沙は藍を躊躇することなく撥ねた。

しかしそのまま吹き飛びはしない。箒の柄に引っ掛かり、魔理沙と共に藍は直進する。

それでも呻き声一つすら上げることなく、ただ眉を軽く顰めただけだったのは彼女が妖怪故の丈夫さを持ち合わせていたからか。普通の人間であれば吐き気の一つや二つ催してバーゲンセールでもやっていたことだろう。

そんな下らないことを魔理沙が頭に思い描いていると、背後からがちっと硬質な音が聞こえた。

恐らくミシャグジ様の牙が空を噛み砕いたからだろう。魔理沙がぼやぼやしていれば今頃噛み砕かれていたのは藍と、加えて魔理沙だったのかもしれない。

そう考えるとぞっとする。

だがそんなミシャグジ様から魔理沙たちはどんどんと遠ざかって行く。車は急には止まれない。暴走隕石と化した彼女らの速度は弱まりつつも、しかしミシャグジ様が遥か遠くに見えるまでに進まなければ止まることすらできなかった。

惰性で動き続ける箒を無理やり停止させ、魔理沙は藍を持ち上げ箒の上に乗せるとぱしんと頬を引っ叩いた。

何度も。

何度も何度も何度も何度も。

やがて頬が赤く腫れ上がるまでになってきた頃だろうか、漸く藍は目を覚ますに至った。

小さく呻き声を上げながらゆっくりと瞼を開き、そしてはっと身を起き上がらせる。

「ここは……い、いやそんなことより魔理沙! 何故お前がここにいる!?」

最初はぼんやりと、しかし徐々に覚醒して行く意識の中で、藍は自分のすぐ目の前にいる魔理沙の存在に気が付いた。

藍にしてみれば突然ひょいと出てきたのとそれ程差異はない。先程まで自分は今ここで死ぬのだろう、と悟り切ったような言葉まで頭に浮かべていたのだ。なのに今驚異のミシャグジ様の存在は既になく、代わりにいるのは金髪の魔女。驚かない筈がないのである。

そうやって驚いている真っ最中の藍の様子を見ながら魔理沙はふふんと笑う。

「たまたま通り掛かったら目標に食われそうなお前がいたんでな。流石に目の前で困ってる奴を助けないまでに腐ってる私じゃない。少々手荒な真似をしたと思うがまぁ許せ。こうして助けてやったんだから」

まるで天狗のように鼻高々である。傲岸不遜なことこの上ない。

そんな風にして有頂天になっている自身を窘めるかのような視線にも気付かず、魔理沙は間髪入れずに口を開いた。

「まぁ、しかしあれだな。幾らなんでもビビり過ぎじゃないのか? 所詮蛇は蛇だ。立ち竦む程じゃないだろ。なぁ、藍」

かちり。

藍の頭の中で何かのピースがかちりとはまった。

危ない。こいつは完全に奴を舐めている。

魔理沙と私では基本的な能力からしてズレがあり過ぎる。所詮人間が妖怪に勝てる筈はない。私ですら勝てはしなかったのに、どうして魔理沙が勝てる道理があろうか。

いや、ない。

反語である。

ミシャグジ様は既にどこかへと行ってしまったのだろう。今現在は視界から消えたことで興味も失ったようで、どこかから飛来してくるような兆しも見えず安心できる状態にあった。しかしそれは藍自身が、という意味でしかない。幻想郷全体に災厄が振り撒かれる危険性は依然としてあるままなのだ。

ということは藍や魔理沙の使命は未だ終わっていないのだ。それはそうだろう。ミシャグジ様の無力化が今回の異変解決への一番の近道であり、それは達成できていないのだから。

だがそれはつまり、魔理沙がこれからミシャグジ様を追い掛けるであろうことも示唆していた。

「ま、お前は適当なところで休んでろよ。ちょちょいのちょいで私が退治してきてやるからよ。博麗の巫女だなんて、お前にゃ固執する理由なんてないだろう?」

魔理沙はけらけらと笑いながら言う。

悪気はないのだろう。いつも通りの軽口だ。多少棘はあるが、しかし悪意を持って発せられた言葉でないことは明白である。

だが、魔理沙の言うことは間違っていた。

藍には、博麗の巫女に固執する理由があったのだ。

「――いいや、違うよ。お前じゃ博麗の巫女は務まらない。いや、務めさせられない。寧ろ……務めさせたくない、と言うべきか」

「はぁ? 何言ってんだ。全然分からん」

困惑した表情を魔理沙は見せる。

しかしそんな魔理沙の言葉を無視するかのように藍は淡々と続けた。

「理由は大まかに分けて二つある。一つは物理的に無理、なんだよ。私ではあの神は倒せない。一度対峙して分かった、あれは度を超えた恐怖を内に秘めているんだよ。絶対的な力を有している、という恐怖をね。

だから私は奴には勝てない。先程のように、ただ立ち尽くして貪られるのをただ待つだけだろうな。……お前なら、尚更、だよ。所詮は人間だ。今回ばかりは身の程を弁えた方が利口だぞ」

「そう言って私の獲物を横取りする気か? はん、見くびって貰っちゃ困るんだよ。はったりだか何だかは知らないが、もしそれを本気で言ってるのなら引っ込んでな。お前の出る幕じゃないってこった。

人間様を嘗めるなよ。私たちは絶対に無理だなんて言葉は知らないんだ。やる前から気後れしてるようじゃ、それこそ勝てるわけないんだよ。臆病者にゃ用はない、ってな」

挑発するような言い草。

まるで藍の言葉など意にも介していない様子であった。

それでも藍はまだ続ける。魔理沙が自分の言うことを聞くまで、せめてもの情けを掛けてやるために。

「――まぁ、人間の強さは私も知っているからな。それは否定しない。運が良ければ逃げ果せることもできるだろう。運が良ければ、な。

だが……それ以上に、私はお前自身のことを思いやって言っているんだ。二つ目の理由だよ。それを、分かってくれないか」

「思いやる? この場合の思いやるってのは私のために道を譲ることを言うんじゃないのか。お前の勝手な考えで、私の行動を邪魔されちゃかなわないぜ。

……お喋りももう良いだろ。お前にはあいつが倒せない。私にはあいつが倒せる。やる気がないんならここで待ってろ。今から追わないとまた姿を見失っちまうからな」

強制的に話を打ち切り、魔理沙は来た方角へと体を向ける。

引き返してミシャグジ様を探し、当初の目的を完遂するためだ。

ぐっと前屈みになり、エンジンを掛け発進に向けて準備をする。

そこで、

「――行かせはしないよ」

ぐいと乱暴に、藍は魔理沙の肩を掴み引っ張った。

魔理沙はじろりと藍の方を一瞥し、すぐにその手をぱしんと払う。

「邪魔をするなって言っただろ。そうまでしてお前が巫女になりたいのか? 一体何だってんだよ」

「いいや違う。違うんだよ、魔理沙」

藍は首を何度も横に振り、はぁと一つ息を吐いた。

「どうやら分かっていないようね。……二つ目の理由。いいかしら、これは私が“私個人”として貴女に忠告することよ。しっかり聞きなさい」

藍がすっと目を細め、語り掛けるように言う。

その様子からそれがふざけていたり油断を誘うものではなく、真に真剣な話だと悟った魔理沙は口を噤んでこくりと頷いた。

「貴女は霧雨魔理沙であり、霧雨魔理沙以外の何者でもない。だから何者にも縛られることはない。ただの人間として日々を過ごすことだってできるわ。……お願いだから、どうか、博麗の巫女に執着することを止めてくれないかしら。

博麗の巫女は常に中立の立場であらねばならない。人と妖の間を取り持つ存在であるからには、ね。

故に誰とも近付くことはできない。誰とも深く関わり合えない。生前の霊夢の態度を見ていたでしょう? 貴女はそれを強制させられるのよ。……そんな機械染みた生を、未だ人間である貴女には送ってほしくないのよ。それを運命付けられた子までは、流石に救うことはできないけれど、……でも、貴女ならまだ引き返せる。貴女なら、まだ選び直すことができるの。

……お願い。どうか、ここは――身を、引いて?」

本心から、だろう。

疑うべき余地などない。こんな場面で嘘を吐くような奴ではないと魔理沙は以前の戦いで知っていたし、また紫の命令であったとしてもここまで汚い手は使う筈がないとも知っていたからだ。

藍は式だ。使われる道具だ。しかし、考える頭は持っている。判断できる知識も知能もある。例え自らの主がそこまで汚いやり方を好む者だったとしても――藍自身の真っ直ぐな心が、それを許しはしなかっただろう。

この澄んだ眼差しを見よ。如何に魔理沙のことを考え思いやっていることか。そこに虚実の異なった二つの事象などあるものか。あるのはただ一つ、真実のみである。

そんな言葉を、どうして一蹴することができようか。

――だが、魔理沙は首を横に振る。

「悪いな。私には私の信念っつーもんがあるんだ。お前の優しい心遣いは有難いが――そんな生温い幻想に浸かっているくらいなら、私は喜んで厳しい現実って奴に立ち向かってやるよ!」

魔理沙は、精一杯の精悍な顔付きで答えた。

ここで引き下がっては、今までの自分を否定することになる。何のために今までそこまで執着してきたのか。その全てが水泡へと帰してしまうのだ。

そう、何のために?

決まっている。

――お前の一番好きな奴と、ずっと一緒にいたいからだろうが!

そのためなら誰と戦うことになろうとも、決して厭うことはない。

それが、魔理沙の心の奥深くに刻んだ固い固い決意であった。

魔理沙の決意をそのまま表したような言葉に藍は一瞬驚いたような表情を見せ、すぐに瞳を閉じふっと息を吐き出すと、

「そう。……なら、もう絶対に手加減をすることはないでしょう。ここからは八雲紫が壱の式、“八雲藍”として――魔理沙、お前を倒すっ!」

高らかに宣戦布告した。

 

 

その頃の博麗神社。

早苗は一度二柱に相談すると言い残し帰り、霊夢は未だ神社の惨状に項垂れたまま。紫はそんな霊夢の様子を愛おしそうな目でただ見つめていた。異変解決組と比べると、随分と暢気なものである。

そんなゆったりとした時間が流れる中、霊夢は突然乾きかけた涙の跡を袖で拭うと立ち上がった。

「……? どうしたの霊夢?」

「決めた。私があいつをしばく」

突如物騒な言葉を吐く霊夢。紫は口元に笑みを浮かべて悠然と言う。

「あら、どうして? 良いじゃない、二人に任せておけば。きっとどちらかが頑張って退治してくれることでしょう」

その真意は見えない。心の底は奥深く、様々なものが入り混じり黒く濁って何を考えているのかすら判然としない。

胡散、とは彼女のためにある言葉なのだろう。

「それじゃあ私の気が済まないのよ。自分の家を壊されて、それで指を咥えてただぼーっと見てろって? 笑わせんじゃないわよ。私直々に神罰を食らわせてやるわ。

さーって、何やろうかしら。まぁ皮は剥ぐわよね。あ、でもお酒にするのも良いかも? 白い蛇だから展示物として飾るのもアリかしらね。人来そうだし。あぁ楽しみ」

「ふーん……ま、それもそうね。行ってらっしゃい」

段々と殺気立ってくる霊夢を我関せずという顔で、手を振り送り出す紫。

そんな紫の方にもちらと視線すら向けず、霊夢は雲一つない大空へと風に乗るように飛んで行った。

 

その場に残ったのはただ一人。境界の大妖八雲紫のみ。

彼女は懐から取り出した扇を広げ、ふわりと優しく口元に当てる。

実に優雅に、実に胡散臭く。大仰な一挙一動は、彼女の特徴を増長させるためのものだった。

そして、虚空に視線を投げ掛け紫は独語した。

「――機械仕掛けでもない神様は、仄めかさずとも自ら行動に移りました。

……全て目論見通り、とでも言うのでしょうか? これで結局思い描いた通りの絵図が出来上がると言うのですから、私には到底理解できませんわ」

誰かに語り掛けるような調子。

紫は更に続ける。

「まぁ、私もこの異変を利用させて頂いているのですから文句を言うつもりは毛頭ないのですが……それにしても、恐ろしい発想です。

まるで他の存在のことなど知ったことではないかのよう。まさかとは思いますが、対策を何も考えていらっしゃらない、ということはないですわよね?

――地の神」

断定するように。

それに呼応するかの如く、紫の背後にある草むらががさごそと音を立てて揺れる。

間髪入れずに、

「……あれ、いつの間にバレてたのかな」

幼い少女のような声と、ぴょこんと二つの大きな目玉がその草むらから飛び出した。

 

 

縦横無尽に空を駆けるは、二つの金色の光。

一つは黒混じりの弾丸。一つは太陽の光を反射した円盤。

時折ぶつかり、時折離れ。加速と減速を繰り返しながら、二人は元来た道を戻りつつあった。

だが、両者の関係は所謂追う者と追われる者。加えて藍は魔理沙の戦力を奪うことだけが目的だ。故に魔理沙の消耗が激しいのも道理であった。

最初はほぼ同速度、どころか魔理沙の方がやや上回っていた。そのままのペースであれば逃げ果せていた筈だ。しかし藍の猛攻は魔理沙の体力を徐々に削り、今や藍が多少速度を緩まなければいけない程までに速度は落ちていた。

アドバンテージを完全に奪われ、このまま進んでもいずれ墜ちるだろうと悟った魔理沙は不意にぴたりと音もなく停止した。藍もほんの僅か遅れてそこに留まる。

魔理沙は肩を上下させ、振り返り藍をきっと睨んだ。

「……ふん。私に追いつけるとは思ってなかったぜ。仰々しい前口上を並べただけはあるな」

「それが人間と妖怪の差だというものだよ、黒白。私相手に息切れを起こしていては、奴に勝てる筈もあるまいに。力を過信するな。ここは退け」

「悪いが……それはできないな。あぁ、絶対にできない」

自分に納得させるかのように何度も呟きその度頷く。少なくとも藍に向けて発された言葉でないことは明白であった。

魔理沙の一貫した行動は、このように自己暗示して漸く保てるのだろう。鋼鉄のようにも思える折れない心は、何度も熱し打たれて形成されるのだ。

強い精神だ、と藍は思う。普通の人間なら折れるどころか最初から諦めているだろう。あれだけの大物を目にして怯まないのは虚勢だけでは決してできない。目的のために一心不乱に進むことのできる猪突猛進さは、時に強さとなり得ることもある。

でも、それだけだ。

「信じることは素晴らしいよ。盲信とは強さだ。どのベクトルを向いていようが、それだけは確か。自身の目的を信ずるお前は確かに強い。

だから私は、それを上回る程の強さでお前を叩き潰さなくちゃならないんだよ――悲しいことにね」

藍は袖から一枚の紙を取り出す。

「質量を伴った式とは、中々使い勝手が悪くてね……本体、依り代となる生物がいなければ式を憑依させることもできない。かと言って常に連れ歩いていることも、無理ではないが面倒だ。一応生きているんだからね。

だから私は、式に速さを求めた」

右手に持つそれは、紛れもなくスペルカード。

藍はそれを高々と掲げ、凛とした声で宣言した。

「さぁ、来い! ――式神、『橙』!」

それと同時に、嵐の真っ只中にいるような錯覚に襲われる程の強い風が吹く。

空気の渦が二人を中心に生じ、それは大きな竜巻となった。

慌てて箒にしがみ付き、風に飛ばされないように注意する魔理沙。お燐もうっかり魔理沙の服から飛び出さないように必死である。

体に吹き付ける風は次第にその勢いを増して行く。竜巻は今や風の刃となり、下手に動けば肉がざっくりと抉り取られるだろうことが容易に推し測ることができた。

動くことはできない。そこに留まることを強要されている。

瞬間、朱と白の光が周囲を飛び回っているのを魔理沙は見た。

直後ふっと風は止み、竜巻も渦も全てが掻き消された時。

藍の使役する式神、橙が藍の隣で跪くような形でいた。

とは言っても、空中であるから実際には跪いてはいないのだが。

「この通り、橙は足が速い。そりゃあ天狗には劣るかもしれないが、その速さには目を見張るものがある。私ですら追い付くことはできないよ。

いつどこで何をしていようとも、式神は使役者が名を呼べばそこに戻ってくる。式だからね。ただ、そこに来るまでの間は待たなくてはいけないんだ。質量を持つが故の弱点、だな。

その弱点を補ったのが、この橙だ」

橙は立ち上がり、一歩前に出て胸を張る。

魔理沙はちっと舌打つ。この状況でそんな式を呼び戻すということは、つまり――

「さぁ行け橙。あの黒白を倒すんだ」

その藍の言葉は、冷たい響きを伴っていた。

橙は驚き、振り向いて藍の顔を見る。

そこにはいたのは普段の心優しい主ではなく、火傷する程に冷たい表情をした使役者であった。

思わず体をびくつかせたじろぐ橙。しかし藍は更に言葉を重ねる。

「大丈夫だよ、橙。私もこんなことはしたくないんだ。でも魔理沙が自ら死にに行くと言って聞かない。だから力尽くで止めるしかないんだよ。傷つけろと言っているわけじゃあない。そう、気絶でもしてくれればそれが最善なんだ。

だから、そのために力を貸してくれないか?」

藍は優しく語り掛ける。

初めはあまりにも突飛な言葉だったので戸惑っていた橙だったが、その理由を聞いて少々迷っていたものの、最終的には首を縦に振った。彼女にとって納得に足る理由だったのだろう。

式である以上命令されれば実行するしかないのだが、それをしなかったのは藍の良心か、はたまた味方を欺くための演技か。どちらなのかは魔理沙には分からない。

いずれにしても、そんな綺麗ごとを並べたところで魔理沙にとってはただ行く手を阻む邪魔ものが増えただけである。この苦境をどう突破するかが肝要だ。

この間に逃げ出すことも魔理沙にはできたのだが、あの速度では逃げたとしてもすぐに捕まってしまうだろう。そうなれば向こう側の思惑通りになってしまう。むざむざやられるくらいなら、こうして待ち構えて寸前でカウンターを食らわせる方が良いと考え魔理沙はここに留まったのだ。

無論、上手く対処できなかった場合は同じ結末を迎えるが。

対処法を練り、思索を巡らす。

最終的な決定が出るのと、橙が動き出すのはほぼ同時だった。

宙を蹴り、魔理沙に向かって恐ろしい程の速さの弾丸となった橙が飛び出す。

直線的な動きなら知り尽くしている。魔理沙は事も無げにひょいと身を翻し、朱色の一閃を避けた。

だけどそれは準備段階。橙の本当の狙いは――通過後に残された、中玉。

さらりとかわしたのも束の間、その中玉はまるでくす玉のように弾け一般的な米粒状の玉よりもずっと小さい玉になる。

巻き起こした風に乗り、しかしその軌道はバラバラで、魔理沙の方へと向かってきてはいるがどこを狙っているのかは全く分からない。俗に言うランダム弾だった。

弾幕勝負であれば少しは魔理沙に有利に働く。だがこの種類の弾幕には、魔理沙は滅法弱かった。

魔理沙は足が速い。故にその機動力を活かして縦横無尽に動き回ることができるのが魔理沙の強みだ。しかしこのような、ランダムに動く極小弾を避けるためには精密な動きが要求される。魔理沙の速さは、このような状況ではかえって不利に働いてしまうのだ。

それでも意地で魔理沙は避ける。当たる寸前でギリギリ留まり難を逃れたこともあった。まさに紙一重の領域だ。

既に服は穴だらけ。たまに肌を擦っては、赤い線を残して行く。見た目こそ小さいが、その威力は気絶させるには十分だ。故に魔理沙には一度も被弾することを許されていなかった。

また、藍を助けるために使用したブレイジングスターのせいで魔力は殆ど残されていない。こうして空を飛ぶのもやっとなくらいなのだ。喰らいボムなど、とてもではないができる筈もない。

まさに気合い避けなのである。

さて、精密な動きを要求されるということは、行動を制限されているも同然である。それも戦略の内であることは想像に難くない。

その通り、そここそが橙の狙い処であった。

「――――っ!」

極小の弾幕を抜け切り、ほっとするのも束の間横薙ぎに橙が飛んで来る。

かと言って大きく後ろに避ければ未だ残留している弾に被弾してしまうだろう。それこそ間抜けの極致だ。

魔理沙はその一瞬で、どう動くかを選ばざるを得ない状況に追いやられてしまった。

さぁどうする。悩んでいる暇などない。さっさと動かねば轢かれてお終いだ。決めろ。今すぐ。

自分を追い立てる言葉がポンポンと脳裏に浮かぶ。しかしどうして悩まずにいられようか。冷静に考えれば道は見つかるのだ。だが考える時間など残されていない。すぐに決めるしかなかった。

――ええい、ままよ。

魔理沙は全ての思考を投げ出し、すっと後ろに下がった。

考える時間などない。なら、何も考えずに動くしかない。

単純なことだ。しかし、思考停止してそのまま立ち尽くすよりはずっとマシである。

運を天に任せる。これで当たれば、どっちにしろ私は負ける――!

――その覚悟は、正しかった。

少し背中が熱くなり、ちりちりと肌を焼き焦がす痛みに襲われた時はすわマズったかと冷や汗が出たが、何とか当たらずに済んだようだ。

直後、橙が目前を横切る。

ちっと前髪が擦れ、遅れて吹く風に帽子が飛ばされる。しかし当たってはいない。当たりはしなかったのだ。

天は魔理沙の味方についた。人一人分の安全地帯、そこにすっぽりと魔理沙は収まることができたのだ。あの一瞬で、何も考えることなく。

運が良いなどというものではない。神の加護を受けている、としか形容できない奇跡だった。

避けられた、と自覚した瞬間、魔理沙は全身から力が抜けて行くのを感じた。筋肉が弛緩し、膝がガクリと崩れ落ちそうになる。

しかしまだ戦闘は続いている。安心するのはまだ早い。魔理沙はそう自分に言い聞かせて、気合いを入れ直し次から反撃を仕掛けようと考えた。

その時だった。

「気を――抜いたな?」

ぞっとするような声が、魔理沙の背中から聞こえた。

全身の毛が逆立つような感覚。

心臓の鼓動が速くなり、背中からぶわっと汗が噴き出る。

魔理沙はすぐさま振り向き、自衛のための行動を起こそうとする。

でも、もう遅い。

右手を大きく振り上げ、後は力任せに振り下ろすだけ。牙を剥き瞳をギラギラと光らせている藍は、確実に魔理沙を仕留められる間合いに詰めていた。

つまり、橙は完全にブラフだったのだ。注意を逸らすための囮。橙の猛攻を避けるうちに、魔理沙は完全に藍の存在を忘れていたのだった。

そうなれば背後に回ることなど容易い。これ以上ないくらいの的。藍の思惑に、魔理沙は見事にまんまと引っ掛かってしまった。

「――――っ!」

魔理沙は息を呑み、思わず目を瞑ってしまう。

もう逃げることなどできない。歯を食い縛り、来るべき痛みに備えることしか魔理沙にはできなかった。

その数瞬後。

――ガキンッ!!

硬質の金属音が頭上で響く。

頭をやられた時はこんな音がするのか、と魔理沙は少し意外に思う。頭を叩かれることくらいなら日常的にあったが、全力で殴られる経験など一度もなかったからだ。

しかしそれにしては痛みがない。いや、それそころか衝撃すらない。風のそよぐ音なら聞こえるが、頭を揺さ振られるほどの打撃など微塵も感じなかった。

これはおかしい。そう思った魔理沙は、恐る恐る瞼を開く。

開けた、その視界には。

「――危ない危ない。無茶し過ぎだよ、お姉さん」

凛と透き通るような心地良い声。

「全く、二人も相手にして……少しは考えたらどうなんだい」

揺れる二本の赤いお下げ。

「ま、私がいて良かったねぇ。ギリギリだったよホント」

「――燐!」

地獄の火車火焔猫燐。魔理沙の懐にいた筈の彼女が、いつの間にか人の形を取って魔理沙の前に出ていたのだ。

「真打ちは遅れて登場する、ってね。格好良いだろう?」

「遅すぎるんだよ、馬鹿」

魔理沙は口元を僅かに緩ませる。

両手に構えた燐ご自慢の猫車は、振り下ろされた藍の右手をしっかりと防いでいた。しかし防ぎ切るには些か脆弱過ぎたらしく、少しべこりとへこんでいるのが分かる。

先程の金属音は、この猫車と右手がぶつかった結果生じた音なのだろう。魔理沙は目を瞑っていて分からなかったが、きっとそうに違いない。

そしてその結果を見て魔理沙は絶句する。仮にもこの猫車は鉄で出来ているのだ。もし燐がいなかったら、即死はせずとも大怪我を負っていたことが容易に推測できる。かなり危険な一撃だったというわけだ。

魔理沙は体をぶるりと震わせた。

そんな風にして暢気にいつまでも突っ立っている魔理沙に、燐は声を張り上げて叱咤する。

「なーにぼーっとしてんだいお姉さん! さっさとお逃げよ!」

「え? だってそうするとお前が……」

「二対一じゃ敵いっこないって! 片っぽは足止めしとくから、さぁ!」

最後の一息で燐は乱暴に猫車を横に薙ぎ払う。

それと同時に藍を右手を引っ込め、大きく後ろに引き下がった。

「無駄だよ。どちらにしろ、この有様じゃ神には勝てん。異変の規模が大き過ぎるんだ。

犠牲は……一人だけで、良いと思わないか?」

「お姉さん! 早く!」

藍が淡々と喋るのに、被せるように燐が叫ぶ。

そのあまりの剣幕に、魔理沙は少し気圧されながら返した。

「あ、ああ……分かった。悪いな、頼んだぜ!」

「あいよ! しっかりやっとくれ!」

燐の返事を待つことなく、魔理沙は箒を駆り飛び出す。

「行かせない!」

藍も次いで空を駆け出す。そして振り向かないままに叫んだ。

「橙! そんな奴に構ってないでついてこい! 魔理沙を犠牲にしてたまるものか! 絶対に止めるぞ!!」

その言葉に橙はこくりと頷き、一歩前に踏み出そうとする。

が、その前に燐が動き橙の前に立ち塞がった。

「おっと邪魔はさせないよ。勝負は飽くまで対等だ。あんたの相手は私さね」

へこんだ猫車を右手に構え、準備は万端とばかりに真っ直ぐ橙を見据える。

それに応えるように橙も少々前屈みになり、戦闘態勢に入ろうとした瞬間何かに気付いたように目を見開いた。

「も……もしかして、貴女……」

「ん? ……あぁ、今更気付いたの。そうだよ、思ってる通りさ。

地獄の輪禍、火焔猫燐――あんたには、お燐って名乗ったっけ? ま、何でも良いけど」

その言葉に、橙は愕然とする。

「気付かなかったのかい? 同じだよ、同じ化け猫。だからこうして人間の形も取れるってわけさ。化け猫と言っても、私の種族は火車だけどね」

「ど……どうして? 私、お燐ちゃんと戦うことなんかできないよ……せっかく、お友達になれたと思ったのに」

「おお、そりゃ光栄だ。私も友達と戦うのは心苦しいよ。できることなら戦いたくはないね」

「そ、それなら……」

橙の縋り付くような視線を跳ね退け、燐は鋭い目付きで橙を睨んだ。

「――でも、お姉さんたちと離れるのはもっと嫌だ。ずっと待ち続けたんだ、こんな形で別れたくなんかない! だから――

この先には、絶対に行かせない」

この争いで魔理沙が敗北するようなことがあれば、紫が神社からも魔理沙を追い出すだろうことは誰もが頭に思い浮かべていた。

神社とは境界である。人と神との世界の境目なのだ。そしてそこに住まうことができるのは、中立者である神主と巫女の他にいない。

紫は魔理沙に巫女の勤めが果たせるとは微塵も思っていない。その資格すらないとまで断じているのだ。それを自覚させるために、わざわざこうして勝負形式にして持ち掛けた。

つまり魔理沙には、最初から勝ち目はなかったということ。

それでも、ほんの僅かの可能性に賭けて燐は手助けするのだ。少しでも魔理沙が勝てるように、万が一の確率でもあるのならば。

結局燐も、魔理沙と同じように誰とも離れたくないだけなのだった。

「そりゃあ争わないで済むのならそれが一番だよ。でも、そういうわけにはいかないみたいだからね。

私は皆と一緒にいられるのなら何だってする。そう、例えあんたが相手でもね。お嬢ちゃん!」

たった一つの、ささやかな願い。

それを叶えるために、燐は友人の前にも立ちはだかる。

それと同じように、橙も自らの主のために、新しい友人と戦わなければいけない。

望みはしないが、やらねばならない。なんと冷たい現実だろう。

そんな冷たい現実と直面して、橙は泣きそうな表情のまま燐に向かって駆け出した。

 

 

ちっ、と藍は舌を打つ。

「足止めを食らったか……仕方ないな。撹乱にはうってつけだったんだが」

独語するが、誰も答えるものはない。いつもであれば魔理沙辺りが軽口を返していただろうが、現在の彼女はそれどころではない状況だからだ。

こんな状況でも暢気なことを考えている自分に気付き、藍は一人苦笑する。

――まぁ、式神の数に制限があるなんて誰も言っていないからな。

藍は袖から今度は人型を模した白い紙を二枚取り出した。

そして十字に印を切り、風の吹く音にも掻き消されてしまうくらいの小さな声でブツブツと何かを呟く。

すると二枚の紙は藍の手の中から飛び出し、ぶるぶると震えて眩い程の光を発し、その光が消える頃に鳥の形を取った。

鋭い眼光。凶悪な鋭利さを持つ嘴。光沢のある黒い羽根。悪魔を思わせるしわがれた声。

紛れもなく、烏であった。

「行け、前鬼、後鬼。適当にあいつの箒を啄んでこい」

藍がそう命じると、二羽の鳥は音もなく飛び立った。

肉体を持たない式。橙や藍と同様に動物に憑依させれば、手っ取り早く戦力になるのだが。

しかし今は動物を探している暇もない。所詮使い捨てだ、そこまで気に掛けることもない。故に藍は割り切って式単体で使用した。

烏は羽をばたつかせ、魔理沙のところへと向かって行く。しかし質量は見掛けと違ってそれ程ないため、羽ばたく音など聞こえない。魔理沙が気付かないのも道理であった。

ふわりと箒の柄に飛び乗り、きょろきょろ首と目を動かす。けれども魔理沙はまだ気付かない。

これ幸いとばかりに、烏は束ねられた竹を啄み始めた。

つんつん。

ばりっ。

むしゃむしゃ。 

ぺっ。

「かー」

不意に聞こえた間抜けな声に、間抜けな魔法使いは振り向き叫んだ。

「っておわぁぁぁっ!? 何やってんだこいつら?! くそっ、どっか行け!」

魔理沙が運転を乱暴なものに切り替えると、大きく揺れ始めた箒から烏が二羽とも飛び立つ。

おかしいとは思ったのだ。運転は何も変えていないのに、速度はどんどん落ちて行き高度もみるみる下がって行く。首を捻るばかりの謎の現象。よもや、このような惨状が背後に広がっていようとは。思いもよらぬ出来事だった。

何だか竹が少し減っているようにも見える。食い荒らされていたのだろう。不審に思った時点で振り向いていれば、と思うと泣くに泣けない。

しかしそんなことに嘆いて気を取られている場合でもなかった。一度逃げた烏たちは、今度は魔理沙自身を狙うように周囲をぐるぐると回り、隙を見つけようとしていたからだ。

上等だ。やってやろうじゃないか。自慢の箒を貧弱な姿にされた魔理沙は怒り心頭である。怯むどころか逆に挑発するように中指を立て、烏に見せつけた。

「来いよ鳥頭。畜生如きじゃ私にゃ勝てないってこと、証明してやるぜ」

そして不敵に笑う。明らかに見下された烏も頭が沸騰し、ぎゃあぎゃあと喚きながら魔理沙に向かって弾丸のように飛び出して行った。

「待てお前たち! 軽々しくあんな安い挑発に乗るんじゃない! 一旦退いて、頭を冷やせ!」

藍が焦ったような声を上げる。しかしそれ程複雑な思考ルーチンが組み込まれていなかった式には、藍の命令が分からない。藍の制止も空しく、烏たちはそのまま魔理沙への攻撃を続行する。

しかし直線的に進んできた弾丸など、魔理沙に掛かれば攻撃にもならない。ひょいと身を翻し、その反動を利用してボールを打つように魔理沙は箒で烏を打ち落とす。

何とか墜落をせずにその場に留まっていた烏だったが、頭をしこたま揺さぶられたようで前後不覚に陥っているようであった。勿論その隙は見逃さない。手を突き出し、首を掴んで二匹とも捕らえる。藍の放った式たちは、敢え無く魔理沙に捕まってしまった。

「ふん。他愛もないな。妙な小細工ばっかり使ってたって、私にゃ何の効果もないぜ」

そう言ってぐぐぐっ、と更に握り締める手の力を強める。烏は息ができなくなり、苦しみに身を捩じらせたかと思うと、最後にがぁとか細く鳴いてぽんと音を立て、元通り人型を模した二枚のぺらぺらな紙に戻った。

「おりょ? なんだ、こいつらただの紙だったのか。そりゃ弱くて当然だな」

握り締めた拳を広げると、くしゃくしゃになった二枚の紙がひらひらと重力に引っ張られて落ちて行く。式を失った式神は、ただの紙以外の何物でもない。使い捨てなだけあって貧弱な姿だが、前もって準備しなければならない工程が多い割にはあまりにも弱過ぎるように思える。しかしそれがこの具現化型式神の利点であり欠点なのだから仕方がない面でもあった。

魔理沙はぱんぱんと音を鳴らして手を払うと、箒に跨り直して藍に背を向ける。

「それで私を足止めできると思うな。もっと別の方法を考えた方が良いぜ、狐さんよ。……さぁ、追いかけっこの再スタートだぜ!」

言うが早いが魔理沙は飛び出す。式神と戯れている間に体力を回復したのか、心持ち速度がやや速くなったようにも見えた。

少しずつ離れて行く魔理沙を、しかし藍は追い掛けようともせずそこにただ立っていた。やや俯きがちに、遠い向こうを見据えるように上目遣いで魔理沙の逃げた先を見詰めている。

「……別の、方法……足止め……成程、足、か……」

ぶつぶつと呟く。無意識の内に口にしているのだろうか、ところどころ文章に穴が抜けているように彼女の口からは単語しか発せられない。

そして分かった、と消え入りそうな音量で口にしたかと思うと、突然藍は高らかに笑いだした。

「成程! 足、“足”か! ははっ、確かにそれなら傷つけることなく、あいつの足止めができる! なんだ、簡単なことじゃないか。何故今までそんなことに気付かなかったんだろうな、私は!」

髪をかき上げ、空を仰ぎ、自嘲混じりに笑い飛ばす。それはどこか壊れたラジオのようにおぞましく、また舞台の上に立つ役者のようにどこか演技臭くもあった。

そしてぴたりと笑いを止めると、藍はぎろりと魔理沙の逃げた先を見据え、体を回転させながら追い掛けて行った。

 

 

「さぁおいで、私のゾンビフェアリーたち! あの子の動きを止めるんだ!」

燐がそう叫ぶと、どこからともなく沸いて出てきた半分腐った状態の妖精たちが彼女の周囲に群がった。そして皆一様に橙の方にキッと顔を向けると、ゆっくりとではあるがじわじわと追い詰めるように橙の回りを取り囲んだ。

橙はそのあまりにおぞましい使い魔に嫌悪感を隠せないでいた。何しろゾンビである。どろどろなのだ。ぐちょぐちょのねちょねちょのぎとぎとなのだ。気持ち悪いことこの上ない。

だがそれから逃げようとしても、あまりにも数が多過ぎてその先の道を塞がれてしまう。結局倒す以外の方法はないようだ。橙は意を決して、腐臭を漂わせている妖精たちに音速の蹴りを食らわせた。

ぐちゃり、という妙に粘液質な音と共に、妖精は身を崩れさせて落下して行く。しかし蹴り上げた橙の脚にも当然その腐肉の一部はついているわけで、その事実に彼女は生理的嫌悪感を催さずにいられなかった。

嫌な顔をしつつも一体ずつ確実に倒して行く橙の姿を、燐は満足そうに微笑みながら見詰める。

「良いねぇ良いねぇ、活きのいい死体になりそうだよお嬢ちゃん。さぁ、もっと元気に活力を満ち溢れさせて! ゾンビたちにやられたら、あんたもゾンビになっちゃうかもよ!」

まるで敵とは思えない、遊び心に溢れた言葉。遊び感覚で橙と戦っているのが容易に感じ取れる。そしてその余裕たっぷりの燐の態度は、橙の心を苛立たせるのに十分であった。

眉を顰め、手当たり次第に纏わり付くゾンビフェアリーを薙ぎ倒す橙。だがゾンビの数は続々と増えて行く。橙が一体倒せば二匹増え、二体倒せば四匹、四体倒せば八匹になるというような感じだ。まるでポケットの中のビスケットである。

燐はその種族の特性上、死体をある程度操ることができる。妖精はイコール自然であり、消して死ぬことはないが、その体には肉体としては生死の概念が存在する。

地上にはそんな魂の抜け落ちた死体がごろごろと転がっているのだ。数で言えば地底などとは比べ物にならない程。そんな地上の事情は、燐の能力を最大限に発揮できる最高の土壌を作り上げていた。

無論死体なので、倒しても倒しても復活する。橙が幾ら必死に倒そうとも、またすぐに動き出して橙の動きを止めようと襲い掛かるのだ。 どんなに倒そうともきりがないことに気付いた橙は動きをぴたりと止め、乱れた息を整えた。

「くっ……ひ、卑怯者! こんなの、私に勝ち目なんてないじゃない! 馬鹿にしないでよ!」

「馬鹿になんかしてないさ。本当に強いと思ってるからこそ、こうして我がゾンビたちの全てを戦力に費やしているんじゃないか。こっちだって必死なんだ。

見掛けこそ遊んでるように見えるけど……この勝負、遊びなんかじゃないんだよ! 馬鹿にしてるのはそっちの方だ!」

突然語気を荒げ、恫喝するように怒鳴り付ける燐。その余りの豹変ぶりに、橙は思わず肩を竦ませてしまう。

しかしそうやって言葉を交わしている内にもゾンビたちはじりじりとにじり寄ってくる。幾ら倒し切れないと言っても、放っておけば窮地に陥ってしまうだろうことは明白だ。必要に迫られ仕方なく、橙はまた応戦を開始した。

藍様に式を憑け直して貰えば、こんなゾンビなんか一気に倒せるのに! あぁ、こんなところで戦っている場合じゃない! 早く藍様を追い掛けないと!

苛立つ程に動きは精彩を欠く。迫りくるゾンビフェアリーの猛攻を最初こそは何なくいなしていたが、今では自分の動ける範囲を狭められないようにするのに必死の様相であった。

いや、それとも燐の攻撃がより激しくなっただけなのか。橙を中心に隊列を組み円を描く環状の陣形は、今や幾重にも連なっているのだ。無限の命を持つ兵と言うだけでも厄介なのに、それが隊を作り軍となれば尚更手こずってしまう。どうやらその影響も大きそうではあった。

しかし決して劣っているわけではない。橙の真の実力さえ発揮できればこんな状況など幾らでも脱することができるのだ。式は時が立てば力を失う。その度にまた憑け直さなければならないが、新鮮な状態を保ってさえいれば実力はその数倍にも跳ね上がる。

橙の潜在能力は、全盛期の藍すらも凌駕するやもしれない。まさに無双と成り得る可能性を秘めているのだが、しかし今の橙は一週間程前に式を憑けて貰ったのみ。そんなに時間が経過していては、幾ら本気を出し尽くそうとも精々四面ボス程度が関の山だ。四面ボスと五面ボスには歴然とした差が存在するのは、最早常識の範疇であろう。

尚、永夜抄は除外する。

燐は泰然と構え、ゾンビたちに命令を下す以外は何もせず橙の動き回る様をじっと見詰めている。まさに高みの見物である。

先程は本気だと言っていたが、やはり橙にはどうしても自分が適当にあしらわれている気がしてならない。追い掛けるばかりで大した攻撃力もないゾンビを操るだけで、自身が攻撃を仕掛けないことが何よりの証拠ではないか。

橙は憤るが、しかしすぐに熱を冷まそうと呼吸を整える。自分を見失っては余計窮地に陥ってしまう。この状況下においては、何よりも冷静さが必要なのだ。

だが冷静に対処したところで、事態が好転しないのもまた事実。何とかして主導権を奪いたい、でもどうすれば?

自問自答する。答えは出ない。

橙は不意に動きを止め、全身から力を抜いてその場に立ち尽くした。

突然の橙の行動を、燐は不審に思い声を掛ける。

「おや? どうしたんだいお嬢ちゃん? もし私の言うことを分かってくれたんなら、こっちも楽なんだけどねぇ」

しかし橙は動じない。そんな軽口には挑発されない。そんなことに気を取られない。

ただ、じっくりとゾンビフェアリーの動きを見ていた。

いや、正確にはどのような法則があるのかを見極めるべく観察していた、といったところか。結局燐のやっていることは式神を使役するのと同じなのである。ただそこには藍や橙とは違って、個々の意思というものはない。

故に扱い易く、感情に振り回されることもない、のだが――代わりに機械的に動くことしかできない。それこそが目立った欠点らしい欠点だろうか。

無論そこまで考えて橙は動きを見ているわけではない。しかし法則を見つけ出そうとしているのだから、突き詰めれば同じことである。そして余計な考えに囚われていない分、橙の方が理解は容易く実行に直結する。考えることは時に足枷となるのだ。

橙がその法則を見つけるのに、然程時間は掛からなかった。

標的のいる方へと緩やかに向かってくる、低精度の追尾能力。極端にのろのろとして当たることも少ないホーミング弾と言えば分かりやすいか。

しかしその数が多ければ、その程度の欠点は簡単にカバーできる。まさに質より量である。

それから逃れるにはどうすれば良いか。橙は必死に考えた。残された時間はもう少ない。敵はそこまで迫っている。

考えろ、考えろ、考えろ考えろ考えろ考えろ!

まだ余裕がある状況と、もう手遅れになる状況の、その境。

その時橙は閃いた。

そしてすぐに実行に移す。

「童符! 『護法天童乱舞』!」

唐突なスペルカード宣言。予想していなかった相手の一手に、燐は驚き目を丸くする。

何のつもりだろう、と訝しみ睨むが、その疑問の答えは出ない。右往左往しても仕方がない、と燐は手出しせずゆっくり見物することに決めた。

極限まで狭められたテリトリーを、橙は縦横無尽に駆け巡る。動ける範囲が狭いせいで、同じ場所を数瞬の間に何度も過ぎ去るため残像が重なりまるで分身でもしているかのように見えてしまう。

しかしゾンビフェアリーは明確に橙の居場所を捉え、その目標へと向かって行く。右へ左へ、上へ下へと高速で動き回る橙の元へ。

それがいけなかった。

梗塞に俊敏に動く橙を、ゾンビフェアリーたちは鈍重に追い掛ける。だが右に行ったと思ったら左に、左に向かおうとすれば右にいる彼女を追うことなど到底できる筈もなかった。

上から下へ向かおうとし、しかしまだ気付いていない後続隊は上へ向かおうとする。となれば両者が衝突するのは当然のことであり、ぶつかった両者がその衝撃に立ち止まれば後続の者全てがぶつかり進行の輪を崩れさせてしまう。所謂玉突きである。

統率された軍隊は、一度崩れると全てが連鎖反応を起こし和を乱しやすくなる。有能な隊なら崩れても影響を最小限に留めることができるだろうが、残念ながらゾンビには能がなかった。そして文字通り脳も。

そうした混乱を引き起こすことこそが、橙の狙いだったのだ。

燐がその意図に気付き、急いで命令系統を変えようとするももう遅い。ゾンビたちの混乱に乗じ、橙は難なく鉄壁の包囲網から抜け出すことに成功してしまった。

「……やるね。ぎっしりと詰まった密度を逆に利用するなんて……あんた、可愛い顔してなかなかの策士じゃないか」

「私だって式神だもん。見た目が子供だからって、考えることまでは幼くはないよ。

……お願い。そこを退いて。私は、友達とは、戦いたくなんて……っ!」

「ふん。そこまで甘くはないよ」

燐が手を振り上げると、橙の背後で未だもつれ進退窮まったままのゾンビフェアリーたちが、かくんと力を失い全て一様に地面へと落ちた。

その最中で腐っていた肉は土くれとなる。骨も残さずに全て赤みがかった焦げ茶色の水分のないパサパサとした土だ。

見る方は不思議であったが、腐った死体が地面に無数に転がっているのを想像するとおぞましいことこの上なく、吐き気すら催したので別に良いかと結論付ける。

「まさかあれから抜けるとはねー。手抜いてたわけじゃないけど、あんまり怪我とかさせたくなかったんだよ。でも、ゾンビじゃ相手にならないみたいだし……ま、仕方ないよね」

自分に言い聞かせるように燐は呟く。そして再度右腕を上げると、今度は地面からぷかりぷかりと半透明の丸くて白い何がゆっくり浮遊してきた。

紛れもなく霊魂である。

「こいつらは地獄の怨霊でね。私の生来の仕事のせいか、自然と寄って来ちまうんだよ。ま、使い勝手は悪かないけどね。

霊魂だから体を持たない。物理的なダメージは与えられないってわけさ。勿論弾幕だって当たらない。逃げることしか相手はできない。

さっきよりは手強いよ。軽く見てたら火傷するよ、橙!」

妙に説明臭いのは、燐の最大限の心遣いなのか。事実はどうであれ、橙の窮地はまだ続くようであった。

 

 

藍は大きく回り込み、魔理沙の前に立ちはだかる。

わざわざ自分から胸に飛び込んで行くわけもなく、魔理沙もそこで立ち止まった。

「まーたお前か。しつこいな」

「私自身はやられていないからね。第一この程度で諦めはしないよ」

「嫌なストーカーだな。そもそも私を足止めしたいだけなら、もっと簡単な方法があるんじゃないか? お前ぐらいの頭だったら幾らでも浮かぶだろ。

それをしないってことは……他に、何か目的があるんじゃないのか?」

「ないよ。ただお前をあまり傷つけたくはないんだ。その場合の手段の数は、片手で数えられるくらいしかない。私がどれだけ手加減したとしてもそれだ。神様を相手にしたらどうなることか……余計、分かったものじゃない」

「押し付けがましいな。大体お前に守られる理由もないだろ? 理由もないのに助けるとか何とか言って、その上解決策が暴力か。ちょっと屈折し過ぎだぜ」

「分かって貰えなくても良いよ。だが……何につけても、お前のためを考えてやっているってことだけは頭に留めて置いてほしいな。少なくとも、私が今やっていることは私の利には繋がらないのだから」

「はん。どこまで信じられることやら、だ」

魔理沙はばさりと切り捨てる。しかし藍は無表情のままに魔理沙を睨み続けていた。

その気迫に、魔理沙は少し気圧される。

「……何だよ。見詰めたって気は変わらないぜ。私は私の道を行く。お前はお前の道を行けば良いじゃないか」

「あぁそうだ。お前の言っていることは間違っちゃいないよ。だから……私は、私の好きなようにさせて貰う」

言うと同時に藍は駆け出す。そして一瞬にして魔理沙の目前にまで詰め寄り、その牙を剥いた顔をにっと覗かせた。

突然の藍の行動に魔理沙は驚き体を仰け反らせる。しかし藍はそのまま躊躇わずに、魔理沙に体当たりを食らわせた。

どん、と胸を突く衝撃。胃の内容物が逆流してくる。口の中に酸味が広がり、頬がぷくっと膨らんだ。しかし嘔吐感が込み上げただけで、実際には喉から上へとせり上がってくることはなかった。

だが頭の中はそれ以上にぐちゃぐちゃに撹拌されていた。完全に気を抜いていたのだ。まさか突然藍がそんな暴挙に出るなど、魔理沙は全く思いもしていなかったのである。

前後不覚に陥り、正常な判断ができなくなる。魔理沙の視界では、既に世界が融け始めていた。何だかんだ言ったところで、やはり体はか弱い少女のそれである。たった一撃の軽い衝撃にも、肉体は乱暴に振り回された。

そこへ更に藍は追撃する。一つ二つ、三つ四つと打ち込まれていく拳や蹴りが、魔理沙の体に痕を付けて行く。時間が経てば痛々しい程に大きな青痣となることだろう。

一方魔理沙は消えそうな意識を何とか保つ。ここで気絶してしまったら、そのまま地上に落ちてしまう。そうなれば大怪我は免れないだろう。骨などが折れてしまったら、標的にさえ相手にされないことは必至。不戦敗だけは避けたい。

殴られ蹴られ、魔理沙は耐える。なるべく身を守ろうと魔理沙は体をかばうように両腕で自分の体を包み込んだ。だが藍の猛攻は思いの外一撃一撃が重いようで、その少しの動作ですら動かした関節に鋭い痛みが走る。

こうして痛みを与えることによって、戦意を喪失させようということなのか。藍の冷徹な瞳からは意思を汲み取ることは難しい。何れにしろ、このままでは痛みに耐え切れず意識を手放してあろうことは明々白々であった。

いざとなれば、上手に受け身を取ればそれ程のダメージは受けない筈。そこから攻撃に転身することだってできるのだ。それはもう最終手段に近いものであったが、この状況では形振り構っていられない。覚悟を決めて、さっと身構える。

と同時に、藍はふと攻撃の手を止めた。

緩めたのではない。止めたのだ。完全にぴたりと止め、確実に魔理沙の体力を奪いつつあったその攻勢を、どういうわけか藍は止めた。

予想外の出来事に魔理沙は目を見開く。思わず唖然としてしまう程。その時の彼女は、まさに隙だらけであった。

藍はすかさず蹴りを繰り出す。向かう先は魔理沙の腹部、ではない。

魔理沙の乗っている箒だった。

「しまっ――」

た、と言い切る前に彼女の箒はかーんと小気味良い音を立てて宙を舞う。同時に藍は魔理沙の首根っこを持ち上げて、くるくると回転する箒を更に蹴り飛ばした。

どうやらその一撃は本気だったようで、見事に真中で真っ二つにぱきんと竹箒は割れる。そしてそのまま持ち主を失った道具は、眼下に広がる大地へと落ちて行った。

「お前の“足”、――移動手段はこれで潰した。私がこのままお前を掴んでいる手を放せば、為す術もなく地上へと真っ逆様に落ちて行くことだろう」

藍は冷たく言い放つ。もし従わなければ、本当にそうするという意思をその内に秘めた響きだった。

魔理沙は身を強張らせ、藍の瞳を悪意を込めて睨んだ。

「……冗談だ。助けると言っているのに、何故わざわざ私が殺さなければいけないんだ。冗談に決まっているじゃないか。

まぁ、二度と神に挑むなどとそんな馬鹿な考えを起こさないよう、死なない程度に痛めつけてやっても良いんだけどな」

そう言う藍の口振りには、まるで温かみが感じられない。ロボットと形容すればぴたりと当てはまりそうな冷たさ。今の彼女なら、本当に躊躇わずに実行しそうであった。いや、実行するに違いない。それ程冷たくも強い意志を伴っていた。

だが魔理沙はそんな脅しには屈しないとばかりに首を横に振り、自分の首根っこを掴んでいる藍の手に自分の手をそっと重ねた。

「……だめだだめだ。いけないぜ、そんなんじゃ。なーんにも分かっちゃいねえ」

「何がだ。お前は今、私に捕らえられているんだぞ? それ以上余計な口を利くと、思わず私の手が滑ってしまうかもしれない」

「そうか。それには及ばないな」

ぱしん、と。

魔理沙は藍の手を払う。

同時に、藍は思わず魔理沙の襟を握り締めていた筈の手を広げてしまった。

はっと藍は目を見開く。本当に手を放す気などなかったのだ。そんなことをしてしまえば、ここまでの努力も全て水の泡である。他の誰かに殺されるくらいならいっそこの手で、などという屈折した感情も持ち合わせてはいない。これは本当に藍の計算外の出来事であった。

慌てて手を伸ばし、魔理沙の服を掴もうとする。しかし重力には勝てなかったようで、ぎりぎりのところで魔理沙は藍の手からすり抜けて行ってしまった。

青ざめパニックに陥る。そんな顛末、誰も期待していないのだ。人が死んで喜ぶような神経は、生憎藍は持ち合わせていない。でも、今のこの状況から魔理沙が死から逃れ得る確率は――藍の計算では、天文学的な数値分の一であった。

そんな結果を招いたのは誰か。紛れもなく自分である。自分があそこで挑発しなければ、いや最初から有無を言わさず無理やりにでも止めていれば、少なくともこんな最悪の結末からは逃れ得た筈だ。この事態の責任は紛れもなく自分にある。あぁ、何が助けるだ馬鹿めが。お前自身が殺してどうする――!

藍は苦悩し頭を抱え顔を伏せた。今から追っても間に合わない。そんなことは計算ですぐに分かる。だから、その直後に起きる惨劇も、藍の頭の中には既に光景として広がっていた。

が。

それ以上、魔理沙は重力に引きこまれることはなかった。

「あー……一つ言っておくぜ。

お前は私が箒がないと飛べないと思っているようだが、別になくても飛べる」

本当に、事も無げに。

藍は頭を抱えたまま、あんぐりと口を開けてその衝撃的な事実に打ちのめされていた。

「何……だと……?」

「なんだ聞こえなかったのか? 仕方がないもう一度言ってやろう。

お前は私が――」

「あーいい言うな言うな。少し黙れ」

なんだこれは。

藍の頭の中がクエスチョンマークで満たされて行く。

想定されていた事態の全てが覆された。確定要素が不確定要素へと代わり、一度代入した数は新しい事実に変質して行く。それまで成立していた等式は全く意味をなさないものになり、証明など到底不可能な未知の数式がそこにできていた。

藍は必死で解こうとする。しかし前提から間違っていた問題を、一体どうして証明することができるだろうか。藍は数字に絡め取られ、周りが見えない程に混乱していた。

「だから――」

そう、いつの間にか近寄っていた魔理沙の気配にも気付かない程に。

「これでチェックメイト、だ」

 

その声に顔を上げると、魔理沙がにかっと笑いながら八卦炉の射出口を私に向けていた。

魔力は伴っておらず、ポーズだけというのが丸分かりである。しかし、この状況下においてポーズだなんだということに一体何の意味があろうか。

魔理沙は見事自分を欺き、ここぞという時に真実を明かし、私が驚愕し完全に無力化したところで切り札を出した。

もし八卦炉に魔力が籠っていれば、今頃自分はどうなっていたか。想像するに肌寒い。

いや、あの仕掛けだってあいつならもっと効果的に使えた筈だ。なのにあいつは、この争いをまるで笑いの種にするかの如くオチを付けてみせた。それは本当に効果的に利用するより、ずっと難しいことなんじゃないだろうか。

少なくとも、私は魔理沙に出し抜かれた。肉体的要素で何一つ勝っていなくとも、奴は私に勝ったのだ。そう、私の得意とする戦略で、だ。残念だが……それは、認めざるを得ない。

私は、霧雨魔理沙に、この上なく完膚なきまでに敗北した。

逆に、清々しいくらいだ。

 

「――私の負けだよ、魔理沙」

ぽつりと、力なく藍は呟いた。

しかしその声の響きは、どこか嬉しそうにも聞こえた。

 

 

やれやれ、と燐は溜め息を吐く。

彼女は今、自分勝手に動くことを許されていなかった。

理由は彼女の足元――いや、膝の上を見れば明白である。

そこには頬に幾筋もの線を残した橙が、すやすやと寝息を立てていたのだ。

怨霊を召還した燐が、ゾンビフェアリーと同じように橙を取り囲ませるとすぐに橙は泣き出してしまった。

さしもの燐もこれには大慌て。鬼も泣く子にゃ敵わない。すぐに地霊たちを地底へと追い返すと、橙は泣きながら燐の元へと駆け寄ってきた。

聞けば幽霊が怖いのだそうだ。彼女の主の主の友人に亡霊がいた気がしないでもないが、それ程関係も持っていないのだろう。免疫がついていなくてもそう不思議なことでもあるまい。ましてやまだ数十年程しか生きていない、妖怪にすれば小娘もいいとこなのだ。幽霊を怖がっても仕方のない年頃だろう。

橙はそのまま燐に飛び付き、形の良い柔らかな胸の中でわんわんと泣く。その様子を見ながら、燐はよしよしと嗚咽を漏らす頭を撫でてやっていた。

勿論戦闘は強制終了。ずっと燐に頭を撫でられていた橙は、泣き疲れてしまったのかいつの間にかそのまま眠っていたのであった。

その結果がこれである。あまり激しく動くと橙を起こしてしまうだろう。できればそのまま寝かせておいてやりたいと思うのが人情である。人じゃないが。

瞬間、ふと、燐の頭に一閃が走る。

それで何故だか燐は、ああ、決着がついたのだな、と分かった。理由はない。何となくである。強いて言うならば女の勘、だろうか。

ただどちらが勝ったのかは分からない。少なくともこれで足止めする理由はなくなったので結果を知りに見に行きたかったのだが、しかし自分の膝の上には橙がいた。

ま、いっか。

結果など後で判明する。然るべき時に知ればそれで良いではないか。それよりも今は、このままで時を過ごしていたいのだ。

まぁ、できれば、お姉さんが勝っててほしいけどな。

橙の光沢のあるツヤツヤとしたさらさらな髪の毛を優しく撫でながら、燐はそう思うのであった。

 

 

藍の肩を借りながら、魔理沙は力なく笑う。

「ははは……悪いな、気が抜けたら力も抜けちまってさ」

「よくあることだ。気にするな」

負けを認めた藍は地上に下り、そのままそこに呆然と立ち尽くした。次いで魔理沙も地上に下りると、緊張が続いていたせいかすっかり脱力してしまったのだ。

その後藍はもう止めないと宣言し、きっとお前なら奇跡も起こすことができるだろうとにこやかに言って魔理沙をさぁ行けと送り出そうとした。しかし体に全く力が入らない状態であった彼女は、立つことさえままならなかった。

結局、藍に助けを求める運びとなったのである。

しかし、この私を出し抜いておいて、何という様だと藍は思う。確かに何かしらの二面性は誰しも持っているものだろうが、この落差はなんなのだ。あまりにギャップに笑みすら零れてしまう。

魔理沙の方を見遣ると、まだ足がガクガクするなどと惚けたことを言っている。あれ程の啖呵を切った者と同一人物とはとても思えない。いや、このひょうきんな人柄に覆われているからこそ真実を見ることができなかったのかもしれない。思い込みというものは恐ろしいものだ。

そうしてから、二人はゆっくりと歩き出した。魔理沙としてはさっさと先に進みたかったのだが、未だ力が入らず藍に支えられている状態なのだから仕方がない。それに例え藍に目的の場所まで連れて行って貰ったとしても、まともに立つこともできないのだから戦える筈もない。選択肢など存在しなかったのである。

暫く無言で歩いていると、藍は思い付いたかのように突然口を開いた。

「……済まない。あの箒は弁償するよ。……もしかして、大事な物だったか?」

「いや。家の倉庫にあったのを、適当にかっぱらってきただけさ。寧ろ古い物だったから、そろそろ買い換えようと思ってたところだ」

魔理沙の実家は道具屋である。家から飛び出す際に一緒に持って来たのだろう。もしかしたら家にいた時にも、魔女の真似事をする際に用いたかもしれない。そう考えると、思い出の品と言えなくもなかった。

しかし藍はそんな事情は知らなかったし、そもそもそんな事実があったかどうかも定かではない。魔理沙の言葉が本心なのか強がりなのか、藍は見極めないままにそうか、と返し口を噤んだ。

二人の間に静寂が訪れる。先程まで激戦を交えていたとは思えないくらいだ。穏やかな空気さえ流れていた。

そこで魔理沙は、自分がしこたま暴行を加えられていたことを思い出し体中が痛むのに気付いた。不思議なもので、気付かない内は平気なのに気付いてしまった時からその部分が痛み出したり痒くなり始めたり、無性に気になってしまうことはよくある。人間の七不思議の一つに数えても良いくらいだろう。

しかし我慢できない痛みでもない。それに藍との決着がついた今、悠長に休んでもいられないのだ。異変は時が進めば、取り返しのつかない事態に進んでしまうこともしばしばである。出来る限り迅速に、簡潔に解決しなければならないのだ。

そう考えた時、半ばお遊び感覚で異変解決に臨んでいたが、それを義務とされる博麗の巫女が如何に大変な仕事かを魔理沙は理解した。あれだけ散々大立ち回りを繰り広げた後になって、漸く藍の言葉の意味が理解できたのである。

だがその程度で魔理沙の決意は揺るがない。共に日常を過ごした友人とまた引き離されるなど魔理沙には我慢ならないのである。例え想像出来ない程の困難が待ち受けていたとしても、それを受け止める覚悟が彼女にはあった。

「……そろそろ良いか。悪かったな、こんなことまで頼んで」

「私のせいでもあるからね。これでもまだ足りないくらいだ。それより……一つ、相談があるんだが」

「んあ?」

藍の肩に回した腕を解き、魔理沙は壊れ物を扱うかのようにそっと地面を踏み、しっかりと立てることを確認してから先を促した。

少し言葉に詰まるような表情を見せて、藍は言葉を続ける。

「その……私も、手伝わせては貰えないだろうか」

「……? どういう意味だ?」

「異変解決を私も手伝いたいんだ。重ね重ね言うが、祟り神が相手では私ですら太刀打ちできない。負けた私が言うのもなんだが、お前なら尚更無理だと思う。それぐらい、規格外の相手なんだよ。

でも……二人なら、もしかしたらできるかもしれない。戦略の幅も広がる。更に言うなら、別に倒さなくても良いんだよ。身動きを取れなくさせて山の新しき神々に引き渡すだけでも、解決は解決なんだ。寧ろそっちの方が現実味がある。

一人でやりたいお前としては不服だろうが……これが、最善の方法なんだよ」

魔理沙は首を横に振る。

「仲間はいればいる程良いさ。足手纏いにならないんならな。だから、どっちかって言うとお前の提案は私にとって都合が良い。

でもな……それで解決したとして、あの紫が納得すると思うか?」

二人の脳裏に、あの薄気味悪い笑顔が過る。

何せあの紫である。何か弱みを見せれば、ここぞとばかりにそこを狙ってくるに違いない。しかし正攻法で攻めるには、その紫を納得させる以外に方法はないのである。ここが魔理沙の悩みどころであった。

藍は魔理沙の言葉に少し渋い顔を作り、やや言葉に詰まるような表情を見せてから、意を決したように口を開いた。

「……分かった。私がなんとかしよう。紫様に直談判することだってできる。すんなりとは聞き入れては貰えないだろうが……まぁ、何もしないよりはずっとマシだろう。

それに少なくとも魔理沙、お前が負けということは決してないんだ。私に勝ったことは事実であり、また私が協力して異変を解決したとしてもお前が負けたことにはならないんだからな」

最悪引き分けに持ち込もう、と藍は提案しているのだ。それなら先に繋げられる。出来ることならここで決着を着けたい魔理沙であったが、死んでしまっては元も子もない。確実性のある方を選ぶのであれば、悪い話ではなかった。

「ふむ。……その言葉、本当だな?」

「保証するわ。この件に関して、絶対に紫様の我が儘は通させない。八雲藍の名に誓って、よ。

ただ、もし再戦が許されると言うのであれば――その時は、全力を尽くさせて貰う。博麗の巫女云々を抜きにして、お前と純粋に戦ってみたいからな」

「りょーかい。私も楽しみにしてるぜ。……さてと。そんじゃ、いっちょ始めますか」

二人は同時に顔を上げる。

そこに広がるは山。しかしいつものように生い茂る木々はややその数を減らし、ところどころ地肌を晒している。

理由は季節、というだけではなかった。

目に痛い程に、神々しいまでの白い体を地に横たわらせているかの大蛇。

散々山を荒らし回った祟神が、二人の視線の先にいた。

 

見るも無残に踏み倒された、寂しく痩せ細った木々。

例えその身にたった一枚の枯葉すら着けていなくとも、やはりこうしてすべて倒されていると何とも寂しい。荒涼たる風景である。

なぜそうなってしまったのかをわざわざ語ることもないだろう。理由は一目瞭然だ。

にしても、どうしてわざわざ暴れるのだろうか。じっとしていれば被害も少ないだろうに、余計な事をしてくれる、と魔理沙は嘆息した。

「これでは……林業辺りはかなりの被害を被っているだろうな。人間やらがいなければ良いが」

「収穫時期でもないし、そう頻繁には来ないと思うが……ん、人間といや里の方はどうだろうな。見失っていた間が怖いぜ」

「分からない。しかし、見つけたからには目が離せないしな。襲われていないことを祈ろう」

何の変哲もない会話のように思えるが、内容はかなり物騒である。藍はともかく魔理沙まで平然としている辺り、彼女も少しずつ妖怪的思考に近付いて行っているのかもしれない。異常に楽観的だということだ。

日頃から妖怪と間近に接していれば、そうなるのも仕方のないことなのかもしれないが。

ミシャグジ様は体を僅かに上下させながらコヒューコヒューと呼吸のみを繰り返している。やや疲れているようにも見えた。もしかすると、暴れ過ぎて体力を使い果たしてしまったのだろうか。

そうだとすれば二人にとって都合は良い。不安要素はまだまだあるが、この現状においてはほんの少しでも有利に働く要素が喉から手が出るほど欲しいのだ。つまり、この幸運を逃すわけにはいかないのであった。

二人は顔を見合わせ頷き合う。

「……今がチャンス、か?」

「あぁ、だが、だからと言って気を抜いてはいけない。どれだけハンディキャップを付けたとしても、あれはきっと私たちの上を軽々と飛び越えて行くだろう。侮れば……死ぬよ」

「へん。一瞬の隙が命取り、って奴か。上等だ」

にやりと笑みを浮かべる。

藍は呆れたように息を吐き、二人は並んで歩きだした。

 

懐から、虹色に輝く細い一本の糸を魔理沙は取り出した。

魔理沙の魔力と藍の妖力を込めた特別製のワイヤーである。強度もかなりのものだ。並みの結界とでは比べ物にすらならない。

これを魔理沙が気取られない内に、相手に巻きつけて動きを封じ捉える、といった寸法であった。何度も巻きつければ強度はそれだけ増して行く。もし完走することができれば、もう逃げられはしないだろうと藍は語った。

加えて念のために、山全体を包み込む程に大きな結界を張る。万一気付かれて暴れ出した場合の予防策だ。この山は距離的に里に近い。不用意に逃がせば、被害が広がる可能性が十分にあった。

しかしあまりにも大きい。一つの山を丸ごと覆う結界などとは、一体どれだけの妖力を消費するのであろうか。しかもより強い壁とするために何度も重ね掛けしているのだ。体力の消費も尋常ではないだろう。

心配そうな顔をして魔理沙が尋ねる。

「おいおい……大丈夫か? あんまり無茶なことはするなよ。私が困る」

「見くびるな。……安心しろ、しくじりはしない。お前は自分のことだけ考えてろ。油断は絶対に禁物だぞ?」

「そりゃこっちの台詞だな」

軽口を叩いているが、藍の額には薄らと汗がにじんでいる。大概の事には動ぜずいつも冷静に対応する彼女にしては、かなり珍しいことだと言えよう。それだけ必死になっているということだ。

魔理沙は様々な色彩を発する意図を手に巻き付け、依然としてじっとしたまま動かないミシャグジ様を見遣った。

うじゃうじゃと生えている脚は別にして、やはり蛇にしか見えなかった。

 

ぎゅっ、と、しっかり緩まないよう結ぶ。

未だ微塵も動く気配を見せないミシャグジ様は、今や魔理沙の手によって身動き出来ないよう体中至るところに七色の光を発する糸が絡まっていた。

隣り合う足首と足首とが結び付けられている様は、一見二人三脚のようである。しかしそれがぞろぞろと続いていると、やはり気味の悪い光景でしかない。

基本的に引っ掛かるような箇所が少ないので、ただ縛るにも工夫がいる。それこそ動こうとすれば雁字搦めになるような引っ掛け方でなくてはいけないのだ。なかなかの難題であった。

加えて途中で見つかってはいけない。これまでの行動からも分かるように、ミシャグジ様は自分に危害を加える者には容赦なく反撃する。例え単なる尻尾の一薙ぎであったとしても、魔理沙のようなただの少女の肉体では致命的な一撃になりかねない。それだけは絶対に避けたかった。

そんなわけでそろそろと慎重にやっていたのだが、とりあえずここまでは気取られてはいないらしい。一先ずここで気合いを入れ直そうと、魔理沙は大きく息を吐いた。

「やれやれ……ただぐるぐる巻きにするだけでこんなに疲れるのか。もっと簡単な仕事だと思ってたぜ……あっちの方はどうなんだ?」

額から流れ落ちる汗を袖で拭い、脇で印を組み術を掛け続けている藍の方へと視線を向ける。

するとそれに気付いたのか、藍も同じようにふと作業を中断し魔理沙のいる方に顔を向けた。

それに応じるように、魔理沙は無邪気に笑い大きく手を振る。

次の瞬間、藍の焦った声が魔理沙の耳に届いた。

――そこから離れろ!

「え?」

魔理沙が間抜けな声を上げると同時に、体全体に揺さ振られるような衝撃が走る。

脳が震え、骨が軋み、内臓は引っ繰り返り、視界は白と黒のマーブル模様に満たされた。

その衝撃に耐えられず、体は宙に舞った。

地面に叩きつけられる直前、咄嗟に受け身を取り反動を和らげすぐに身を翻し反撃の態勢へと移る。

その時魔理沙の目に映ったのは、とぐろを巻いて唸るミシャグジ様の姿であった。

どうやら魔理沙が余計なことをしている内に気配を察知してしまったらしい。

折角巻いた虹の糸も、巻き数が足りなかったようで肝心な部分は全て切れてしまっている。手元に残った半端な長さの糸が、惨めな姿を光に晒していた。

計画は完全に失敗。魔理沙は舌打ち、どう巻き返すかを頭の中で思い巡らす。

そうしている間にもミシャグジ様は次の行動に移る。頭をもたげ、口から息を漏らしながら魔理沙にじっくりと狙いを定めた。

先程の一撃は何とか耐えたが、これ以上は流石にまずい。そう思った魔理沙はその照準から逃れようとする。

が、藍との戦いが響いたのか。体中の筋肉が悲鳴を上げ、その急な動作に対応できずに緊張したまま動かない。鋭い痛みが全身に走り、思ったように動けず痛みに顔をしかめてそのままそこにうずくまることしかできなかった。

勿論その隙は逃さない。ミシャグジ様は口角を上げ牙を剥き、しっかりとその姿を捉えると大きく口を開けて魔理沙に迫った。

藍は息を呑んだ。しかし助けに行くことさえできない。二人の間には距離があり過ぎた。今から最高速で向かったとしても、自分が着く前に全てが終わってしまっているだろう。そのことをすぐに計算できる頭が、今だけは恨めしかった。

迫り来る黒々とした禍々しき大穴。その中で光る無数の白い牙は、貫かれれば間違いなく致命傷を負うだろうことが容易に推測できた。

呑み込まれる直前に、魔理沙は眉を顰め、体を捻じりながら喉から絞り出すように声を出す。

「畜生、やられて、た、ま、る、か――よっ!」

ぱくり。

魔理沙の体はすっぽりと、ミシャグジ様の口の中へと消えた。

 

かのように見えた。

「……ふははははっ。あっぶねー。マジで死ぬとこだったぜ」

魔理沙の乾いた笑い声が、辺りに響く。

ミシャグジ様の口は、しかし、完全に閉じられてはいなかった。

本当に僅か数十センチ。魔理沙の突き出した両手に握られた、折れて二本にわかれた箒が、その隙間を作り出していたのだ。

その僅かな隙間に魔理沙は潜り込み、紙一重で難を逃れることができた。半ば奇跡の産物なのだが、これを魔理沙は狙っていたのだというから呆れてしまう。

箒の柄に込められた、かなりの量の魔力と妖力。先述の糸と同質のものである。故にミシャグジ様の顎力にも耐え、こうしてスペースを確保することができたのだ。

しかしこんな芸当が確実にできるという確証は藍も魔理沙も持っていなかった。にも関わらず、魔理沙は藍に頼んで妖力を練り込んで貰ったのだ。勿論万が一の時の最終手段。成功するかどうかは本番一発勝負であった。

何とか上手く行ったのが分かり、藍はほっと胸を撫で下ろす。しかし油断はできない。何故魔理沙を仕留めることができなかったかとミシャグジ様が混乱している内に次の手を打たねば、また同じことになるのは目に見えているからだ。

当然魔理沙もそんなことは承知だ。魔理沙はがばっと身を起こし、不敵な笑みを浮かべて呟いた。

「やれやれ、手を掛けさせやがって。これでも食ってさっさと帰れ」

そして懐からミニ八卦炉を取り出し、射出口をミシャグジ様の大きく開いたその口に向けた。

「――甘いあまーいお菓子だぜ。一つも零さず行儀良く、しっかり残さず食らいやがれ」

左手は右手首を固定するように握り、右手の中では今にも暴れ出しそうな程凶悪な魔力が凝縮されている。

最初は弱く、しかし徐々に強く明るく眩しい程に。

全てが白く塗り潰される頃に、魔理沙は大きく口を開いて叫んだ。

「恋符っ! 『マスタースパーク』ッッ!!」

手には札すら持っておらず。

それでも魔理沙は、一言一句漏らさず宣言する。

ただの人間が、唯一妖怪と渡り合える札、その最高峰の威力を持つスペルカードの名を。

同時に鼓膜など吹き飛んでしまうかと思う程の轟音と共に、極太の眩いレーザービームが八卦炉から射出された。

その光は太く大きく、弱点を完全に晒したミシャグジ様毎呑み込んで行く。

決して逃げ果せやしない。直線的な恋の魔法は、あらゆる物を薙ぎ倒し、凶悪なまでの威力で焼き払う。

直線に進む緩慢な光の渦。それはまるで、魔理沙の真っ直ぐな心を映し出しているかのようであった。

 

とんでもないくらい大きな爆音と共に、火と煙がミシャグジ様の体を包み込む。

魔理沙は大きく後ろに引き下がり、腕で爆発から顔を庇いながらその様子をじっと見る。

やがて吹き荒れる風も収まり、徐々に薄れ行く黒煙の中心を見詰めながら魔理沙は言った。

「……やったか?」

その言葉に応じるように、風が突然強く吹いた。

煙が段々晴れて行く。

中心には、黒焦げになりながらも、倒れることもなくミシャグジ様が鎮座していた。

然程ダメージを受けた様子もない。それどころかどこか苛立っているようにすら見える。恐らく下手に手を出したせいだろう。

零距離マスタースパーク。魔理沙の実質最終手段であった。これでだめなら、もう真正面からぶつかり合ってももう手はない。

呆然と立ち尽くしているその隙を、やはりミシャグジ様は見逃さなかった。

頭部を大きく後ろに引き、そのまま勢いに任せ頭から魔理沙に突っ込む。

当然もう他に術などなく、ましてやほぼ全ての魔力を放出した後の魔理沙にそれを避けることなどできなかった。

防御すらできずに直撃を食らい、そのまま地面に叩きつけられる。

「魔理沙っ――!?」

それに気を取られミシャグジ様から注意を逸らした瞬間に、藍もミシャグジ様の尻尾を打ちつけられてしまった。

地面を抉り土の上を滑る。途中石にぶつかり、何度か転がってから漸くその前進を止めた。

二人とも動くのもやっとの状態で、よろよろとよろめきながら上体を必死に起こす。だがミシャグジ様の攻撃の手は緩むことなく、更なる追撃が幾度も傷ついた体に振り下ろされた。

しかしどれも致命的な一撃ではなく、ただ弱らせることだけを目的とした攻撃であった。どうやら魔理沙のあのマスタースパークは相当頭に来たらしい。ゆっくりいたぶってから止めを刺すつもりのようだ。

最早止めることはできない。ただの一方的な、いじめですらない拷問であった。

それでも魔理沙は歯を食い縛り、土を握り締め必死に身を起こそうとする。

「――こんなとこで、倒れてられるかよっ……!」

そう言う間にもごろごろと転がる巨体に押し潰され、苦悶の声を上げる。けれど立ち上がることは止めない。立ったところで何ができるわけでもないのに、魔理沙は諦めずに立とうとするのだ。

「霊夢が死んだ後、何もできなかった自分が悔しかった……! だからもう、私は後悔したくない! 何もしないで、寝てるだけなんて私はごめんなんだよっ!」

震える足を押さえつけ、今にも倒れそうになりながらも魔理沙は立つ。もうそんな体力は残っていない筈なのに、彼女はその信念だけで意識を保っているのだ。

そんな彼女の姿を見て、藍ははっとする。

今の魔理沙の原動力は、自分と戦った時の彼女の原動力は、その言葉に全て集約されていたのだ。

友人と一緒にいたい、という気持ちは誰にでもある。魔理沙はその気持ちが人一倍強かっただけのこと。それを邪魔する障害があれば、彼女は全力でそれを取り除くのだろう。

だからこそ自分すらも打ち破った。妖怪と人間というこれ以上ないくらいのハンディキャップを押し退けて、藍に納得させられるだけの勝利を勝ち得たのだ。生半可な覚悟でできることではない。

でも、その信念も、神様相手では少々荷が重過ぎたようだ。

それを魔理沙も理解している。今なら藍の言った意味が分かる。

怖い、ということが。

無様にも足が震え、あの不細工な蛇に恐怖しているのだ。怒り狂った祟神の、その怒りが収まる気配は見えない。それが何より怖かった。自分自身に、一体如何なる災厄が降り掛かるのか、これ以上の苦痛が与えられるのか、それすらも分からないことそれ自体が怖かった。

純粋な恐怖。その結晶が、今目の前にいるのだ。

畜生、と魔理沙は小さく呟く。

「こんなところで死んでたまるか……畜生畜生畜生! 掛かってこいよこの蛇野郎! 手前みたいなゲテモノなんざ、怖くも何ともないんだよっ!」

まるで言葉が空回りしている。声は上ずり震え、足はもうまともに立っていられない程激しく笑い、顔はこれ以上ないくらい引きつっている。強がりだということは、誰の目にも明らかであった。

だが挑発自体は効果があったようで、ミシャグジ様は暴れる動きをぴたりと止め、体を起こしじろりと魔理沙の方を睨んだ。

心臓を射抜かれたような錯覚に陥り、怯えながらも懐から八卦炉を取り出しミシャグジ様に向ける。

無論もう魔力は残っていない。まともな魔砲すら放つことはできないだろう。それでも、それが魔理沙の精一杯の戦意の表し方であった。

「……私は、ただ、霊夢と一緒にいたいだけなんだっ!!」

叫ぶと同時にミシャグジ様は咆哮し、魔理沙の方に突進してくる。

魔理沙はキッとその姿を睨み身構え、来るべき衝撃に備えぐっと丹田に力を込めた。

 

 

が。

突然ミシャグジ様は前進をピタリと止め、それ以上進もうとはしなかった。

……いや、進もうとしないんじゃない。進めないのだ。

不審に思い、魔理沙は首を傾げて何が起きているのかを見極めようとする。

すると、薄らと、本当に僅かにしか見えないのだが、ミシャグジ様の体中を虹色の輪っかが幾つも鎖のように連なっているのが見えた。

そう、まるで、動きを封じるかのように。

そしてその直後、

 

「――はぁ。よくそんな言葉人前で吐けるわね。聞いてるこっちが恥ずかしいわよ」

 

聞き覚えのある声が、頭の上から聞こえてきた。

魔理沙も藍も全く同じ動きで、その声のした方角に顔を向ける。

そこには、頬をほんのりと赤く染めた、先代博麗の巫女がいた。

「――霊夢!? ど、どうしてここに?」

「やっぱ自分でやらないと腹が立って仕方なくてね。どこに行ったのかも分からないから探すのにも結構骨が折れたわ。

それでやっと見つけて来てみたら、どっかの魔女は恥ずかしいこと叫んでるし……なによあんたたち、ボロボロじゃない。みっともない」

「……面目ない」

「うるさいな。ちょっと遊んでやってるだけだ」

魔理沙が苦し紛れの見え透いた言い訳をする。が、それを追及するのはあまりにも忍びないので、敢えて霊夢は聞かなかったことにした。

「ま、良いわ。面倒事はさっさと済ませて帰りましょう。あの蛙に神社直させないといけないんだから」

霊夢がそう言うと同時に、ミシャグジ様を縛っていた鎖が外れた。

どうやら自力で壊したようである。霊夢の術なのだからかなりの強度を誇っている筈なのだが、この短時間でそれを壊すということは見てくれは悪くともやはり神は神だということか。

「あら……一応鬼を縛り龍をも殺す、って謳ってたんだけど……案外弱いのね。名前考え直さないと」

そんなことを言っている間に、ミシャグジ様は霊夢に照準を絞る。無論自分に危害を加えた相手、だからだ。

それを見て二人ともまずいと思うが、しかし助けになど行けない。しこたまミシャグジ様にやられた後なのだ。動くことすらできなかった。

しかも魔理沙は霊夢の顔を見てから、すっかり筋肉が弛緩してしまっている。へなへなと座り込んでそのままだ。もう立ち上がる気など起きない。

だからせめて彼女に注意を促そうとしたのだが、それよりミシャグジ様の行動はずっと早かった。

空中にいる霊夢に向かって跳躍し、大口を開けて呑み込もうとする。魔理沙に対して取った攻撃と全く同じだ。

しかし霊夢は全く動じない。はぁ、と一息溜め息のようなものを吐いて、ちらりと横目でその姿を見るだけ。

そしてまさに自分を捉えようとした瞬間に、霊夢はその横っ面を思い切り殴り飛ばした。

渾身の右フックである。

直撃を食らったミシャグジ様はそのまま力を失い墜落し、地面に激突するとともに砂埃を辺りに巻き起こす。

その砂埃が全て止んだ後でも、ミシャグジ様はそのまま動くことはなかった。

気絶していたのだ。

あまりにもあっさりとした解決。ぱんぱんと手を払いふんと鼻を鳴らす霊夢を、二人はただ唖然と見ていることしかできなかった。

 

 

「ん? 何神奈子、説明してなかったの?」

上部両端に目玉のついた麦藁帽子を被った少女が、意外そうに隣の女性に尋ねる。

神奈子と呼ばれた軍神――つまり八坂神奈子のことなのだが――は、これまた意外そうに更に問い返した。

「え? だってその辺のことはあんたに任せてなかったっけ? 私のせいなの?」

「……そだっけ。まぁいいや」

「良くない。一体どういうことなのかちゃんと説明しなさい」

霊夢が眉を吊り上げ言う。言葉には怒気が孕んでいた。

すると弁解するように、麦藁帽子の少女――土着神洩矢諏訪子はこめかみの辺りをぽりぽり掻きながらおずおずと喋り始めた。

「うーん……ちゃんと、って言われてもそのまんまなんだよ。神様試験って名前の通り、神様が受ける試験のことなのさ」

「神様にも力の優劣はあって、修行を怠っていなければ自然と位も上がって行くものなのよ。勿論サボってばっかりいれば、力はどんどん弱まり信仰も得られなくなる。それが続けばいずれは消えてしまうでしょうね。

神が神たらんとするには、やっぱりそれ相応の努力が必要なのよ。その資格を問うためのテスト、って言い換えれば分かりやすいかしら?」

「……分かったような、分からないような」

神奈子の説明で漸く全体図がおぼろげながらも見えてきた霊夢。しかしその表情は暗く、どうにも釈然としていない様子であった。

 

霊夢がミシャグジ様を打ち倒し、一応は異変が解決した後。

三人揃って博麗神社跡地に戻ると、紫の他にもう二人、霊夢たちの予想外の人物がいた。

いや、人物というのは間違いか。仮にも彼女たちは神様なのだ。外の世界からやってきた、霊夢のような紛い物染みた神様ではなく、正真正銘伝承に語られる神様。

無論八坂神奈子と洩矢諏訪子のことである。

未だ苛立った表情のままの霊夢と疲弊しきった魔理沙と藍とは対照的に、彼女らの表情は至って涼しく陽気に手を振ってさえ見せた。

そしてかんらかんらと笑いながら、三人を騒がしく出迎えたのだ。

「――合格!」

と。

全く意味の分からないことを叫ばれた霊夢は当然どういう意味なのかを問い質す。そうして返ってきた答えは“神様試験”。更に意味が分からず一同は混乱するばかり。

ただ一人、紫だけは横でくすくすと笑い続けていた。

 

そうして冒頭に戻る。

しかしそんな説明をされても納得できないのは魔理沙と藍。つまりミシャグジ様の異変は山の上の神二柱が企てた“テスト”だったわけなのだが、そんな話は全く聞かされていない。どころか死にかけているのだ。ただのテストなら最初から霊夢一人にやらせれば良いだけの話。不満たらたらになるのも仕方ないには仕方ない。

そんな不満を魔理沙がぶつけると、いつの間にここに来ていたのか二柱の横に縮こまりながら立っていた早苗が申し訳なさそうに更に委縮しながら頭を下げた。

「本っ当にすいませんでした! 私も本当のことを知らなくて……もし知っていれば、お二人に危険なお仕事をさせることもなかったのですが」

「ん? いや、お前は別にいいさ。知らなかったんなら仕方ないからな。だが蛙に蛇、お前らはだめだ」

ぺこぺこ頭を下げる早苗を魔理沙は仕方ないと断じ、そしてその上司二柱の責任を追及する。言葉にはやや凄みをきかせ圧力まで掛けた。しかし脅すような真似をしても、諏訪子は至って飄々と言葉を返すばかりである。

「私たちのせい、って言いたいわけ? そらあんたら、責任転嫁ってもんだよ。私はちゃんと“博麗霊夢に”仕事を依頼した。それがしっかり伝わっていれば下手に怪我することもなかっただろうね。早苗もちゃんとそのことは言ったろう?」

諏訪子の言葉に早苗はこくこくと頷く。魔理沙たちも記憶の糸を辿ってみたが、確かに彼女は霊夢に相談しに来たのだ。魔理沙や藍が出張ってくる必要はなかった。なかった、筈だった。

ではそうなってしまった元凶とはいったい何なのか。いったい誰のせいでそんな事態になってしまったのか。その張本人へと、視線を向ける。

勿論紫のことである。

しかし全員に睨まれても、紫は泰然自若としたままであった。

「あら……私のせいだと言うの? 博麗の巫女は如何なる異変にも対応できなければいけないのよ。自らの修行不足を認めず私にその責を求めるなんて……やっぱり、貴女たちには巫女の資格はないのかもしれないわね」

「な……んだとぉっ!?」

激昂した魔理沙が紫に飛び掛かろうとする。が、霊夢に押さえられてそれはできなかった。

紫はそんな魔理沙をふんと鼻であしらうと、神奈子の方をじっと睨む。

「して、その試験とやら……これからも行うご予定は?」

「あるわ。でも、今回のような大々的なものではない。今回は霊夢が神様としての修行を怠っていないかという検査に加えて、もう一つ理由があったからね。それがなければ、精々内輪だけで済ませられるようなもんで済ませてたよ」

「ふぅん……なら良いですわ。流石にこうも異変染みたものを試験として行われては、私も動かなくてはなりませんもの。幻想郷に危害を加えるようなことだけはくれぐれもお止め下さいな。神様と戦いたくなどありませんし」

「ほう。よく言うわ」

紫の挑発的な言葉に、神奈子がからからと笑う。言葉遣い自体は丁寧だが、言っている内容は霊夢たちと然程変わっていない。幻想郷を愛するが故の紫の発言なのだが、それが無性に神奈子には面白く思えた。

その時である。

突然、それまで黙りこくっていた藍が口を開いた。

「それより、だ。この事件、一歩間違えば大惨事になりかねない危ういものだった。幾ら試験だと言っても、他の人間たちの生命を脅かしても良いものなのか? そのような傲慢、私は認めないぞ」

藍の指摘は尤もである。里へ迷い込めば壊滅状態になることは間違いない。里の守護者たる上白沢慧音でも太刀打ちすることはできないのが目に見えている。そんな惨事と隣り合わせであったこと自体が、藍には許せなかったのだ。

その問いに諏訪子が答える。

「大丈夫。幾らなんでも、そこまで危険なことにはならないようちゃんと見張っていたさ。だからこうして麓まで下りて来たんじゃないか。早苗の言ったミシャグジ様が制御しきれないっていうの、あれは嘘だよ。そうでも言わないと霊夢は動かないと思ってね。本当に危険な時は、如何なる手を使ってでも私が止めるつもりだった」

少しおどけた口調だが、諏訪子の瞳には真剣さが宿っていた。本当にそのつもりだったのだろう。確かに必要に迫られるか私怨でもない限り、霊夢は動きそうにない。そういった方便を用いるのは褒められる所業ではないが、正しくはあった。

早苗も驚いている辺り、そのこと自体は伝えていなかったようだが。しかし簡単に騙される早苗も早苗である。自分が制御しきれない者を配下においてどうするのだ。自分の奉っている神の実力すら分からないようでは、まだまだ修行不足だと言えよう。

続けて、でも、と諏訪子は付け加えた。

「ある程度の被害は、覚悟の上だった。というより、寧ろ期待していた、と言うべきかな」

場が騒然となる。

諏訪子の言ったことは、つまり、被害が出ることが目的だった、とも言い換えられるのだ。そんなことは許されるものではない。

藍がやや不機嫌そうな表情で更に諏訪子に問い掛ける。

「期待していた、とは一体どういう意味だ……? 返答によっては、私はお前に殴り掛からざるを得なくなりそうだ」

「藍」

藍の不穏当な発言を、紫が軽く窘める。しかし藍は全く気に留めずに更に続けた。

「さぁ答えろ。今の言葉の真意、一体どういうことか……納得できる理由を教えて貰おうか!」

しん、と場が静まる。

そうして向けられるは諏訪子への敵意の視線。霊夢、魔理沙、藍は当然として、早苗までもが疑いの目をそこに向けていた。

対して何をするでもなく落ち着き払っている様子なのは諏訪子、神奈子、紫の三人。二柱まではまだいいとして、紫も同じように悠然と構えているのは何か知っているからなのだろうか。

諏訪子はやや俯きがちになり、やがて意を決したように喋り出した。

「――ミシャグジ様はね、祟り神なんだ。一度恐怖を与えなければ、人民から信仰を得ることはできない。

こっちに来てから、この子らはずっと私たちが力を分け与えて漸く存在することができていたんだよ。でもそれももう限界。私たちだって、信仰が無限に得られるわけじゃないからね。だから自分で信仰を得て貰う必要があった。

だから、仕方がなかったんだよ。山を滅茶苦茶にしたことは謝る。下手をすれば幻想郷の人間たちが皆死んでしまうような、そんな惨劇と紙一重の状況にしてしまったことも謝る。これは私たちが作為的に仕組んだことだからね。本当に申し訳ないと思うよ。

でも、それを悪いとは思っていない」

最後の一言を言い終わるか終らないかの内に、藍は飛び出し諏訪子の胸倉を掴んでいた。

牙を剥き血走った瞳で諏訪子を睨み、鼻と鼻が接するぐらいの距離にまで顔を近付ける。

「悪いとは思っていない、だと……? もう一回言ってみろ。人間を何だと思ってるんだ。お前を信じ崇め奉り、力を与えてくれた人間を……まるで餌のような扱いをするなっ!」

「藍、お止めなさい。貴女のそれは出過ぎた真似よ。一介の妖獣如きが神に口答えをするな」

「しかし紫様っ! こいつは今――」

「勿論私にも口答えは禁物。これ以上続けるのなら……私は貴女を甚振らなければならないわ」

紫の語調に冷たい響きが混じる。

それで我を取り戻したのか、藍は首を横に振ってから胸倉を掴んでいた手を放し、すっと後ろに下がった。

「……すいません、ご迷惑をお掛けしました」

「ううん。あの反応は当然だと思うよ。あの子も人間の友人が何人かいるんだよね? 友人が傷付けられると思えば、そりゃ怒るよね」

諏訪子は肩を落とし、藍の心情を分析する。実際諏訪子の言った通りなのだが、藍の怒った理由はそれだけではない。もっと他の諸々の、個人的な感情から人道的な理由に至るまで様々な感情が藍の内には渦巻いているのだ。そこまで含めて全て理解しているのかどうか、藍には分からなかった。

更に諏訪子は続ける。

「私も、ミシャグジ様がかわいいんだよ。どうにかして助けたかった。そのために手っ取り早く信仰を集めるには、一度大きなインパクトを人間たちに与えるしかない。短絡的ではあるけど……もう、時間がなかったんだ。

許してくれとは言わないけれど、せめて理解してくれないかな」

諏訪子の弁解に神奈子は何度も頷く。恐らくではあるが、二人で何度も話し合い、悩んで悩んで悩み抜いた末の結果だったのだろう。苦渋の決断というやつだ。

しかし、分からない、と魔理沙は呟く。

「あぁ、分からない。なんだって犠牲がなければいけないんだ? 普通に信仰を集めるだけじゃダメなのか? お前らだってそうやって今まで生きてきたんだろ? なら同じように……」

「それは違うわ。祟り神の信仰とは即ち畏れ。畏怖の念こそが生きる糧となるの。ただ信じたり崇めるだけではいけないのよ。その質が重要なのだから。

讃え崇め奉ること自体は変わらない。でも、そこには畏れがなければいけない。ミシャグジ様を恐れ、怖れ、畏れ、鎮めるために奉らなければ信仰足り得ないのよ。それが祟り神の特質性なの」

紫が被せてその疑問に答える。

祟り神とは、災いをもたらす神。祀らなければこういう災いが起きるぞと、脅しを掛けた上で信仰を得るのだ。それ故に人からの信仰が集めやすく、また莫大な力を得ることになる。

逆に言えば、その祟り自体に畏れを抱かれなければ祟り神足り得ないのだ。ここが普通の神様と違う、つまりはミシャグジ様固有の理だった。

そうとなれば、流石の魔理沙も黙るしかない。何とも後味の悪い結果になってしまったが、全て「仕方のないこと」だったのだ。

一体誰が悪いのか。いや、誰も悪くない。誰も悪くはないのだが、どこかに責任を求めようとするならば誰かを悪者にせざるを得なくなる。

かと言って、誰が悪者なのか。それすらもはっきりとは決められない。

やはり、釈然としなかった。

誰もが後味の悪い結末に俯いていると、紫が徐に口を開く。

「……藍。やはり貴女は修行不足だったようね。この程度の異変すら解決できないようでは、私の式として認めることはできない。

明日から……修行し直し、ね」

「…………はい」

何気ない会話。しかしその内容は魔理沙には聞き捨てならないものだった。

「ちょ……ちょっと待てよ! 確かに、確かにこいつはお前の言う通り異変を解決できなかった! でも、それは他の余計なことに気を取られ過ぎて……そう、私が足を引っ張ったことだって関係している!

だから、その……もうちょっと、温情ある結論をだな……」

語尾がところどころ消えかかりやや聞き取り辛い。顔は真っ赤で頭から煙が出そうである。

つまりはできれば許してやってほしい、ということなのだが、如何せん魔理沙には少々恥ずかし過ぎて明言できなかったのだ。

しかし、そんなことは紫には関係なかった。

「霧雨魔理沙」

「!」

名を呼ばれ、思わず背筋を伸ばしてしまう。

視線の先には、いつものような気味の悪い笑みを浮かべた妖怪ではなく、厳しく躾をする主人の顔があった。

「私は貴女を認めていない。結局解決したのは霊夢だしね。私の提示した条件は満たされていない。よって貴女も同様に巫女としては不適格なのよ。

藍はそうじゃないと思ってたわ。私が直接手間暇を掛けて育てた式神なの。だからこの程度のことは、簡単にやってみせると思っていた。……でも、それも見込み違いだったようね。

霊夢の手際を見たでしょう? 真に博麗の巫女足り得る者ならば、幾ら足手纏いがいたところで関係なく異変を解決して見せるのよ。それができなかった藍も、貴女も、どちらも失格。残念でした。

悪いけど、藍にはもう一度お勉強をさせ直すわ。これはもう決定。幾ら貴女が頭を下げたところで、この決定は覆されない。

ま、貴女も精々頑張りなさいな。藍が然るべき実力を身につけるまでは見逃しておいてあげる。でも……近い内に、必ず藍はここの管理者代理人として立たせるつもりよ。それまで、精々、楽しんでおきなさい」

最後は忌々しそうに、喉の奥から絞り出すような声で紫は言った。

そして魔理沙に背を向け、紫は藍の方をちらりと見た。

「さて、と。帰るわよ、藍。貴女にはたっぷりと修行を積んで貰わないとね」

「はい」

そうしてすたすたと階段に向かって歩き出す紫。慌ててそれについて行こうとした藍はふと立ち止まると、くるりと振り返った。

「……ありがとう魔理沙。でも、紫様の期待に応えられなかったのは私の努力が足りなかったからだ。これについて、私は擁護して貰うことは望まない。

――また会おう」

それだけ言うと、藍は一礼してまた踵を返し返事も聞かずに紫の後を追い掛けた。

騒ぎの一角である八雲たちが去ると、境内が妙に静かになったような気がした。

 

「さて、と」

霊夢がぱんぱんと手を叩くと、その場にいた全員が夢見心地から覚めるように意識を現実に引き戻された。

それまで漂っていたシリアスなムードもどこへやら。一瞬にしてそんな雰囲気は霧散してしまった。

そして霊夢は腰に手を当て、諏訪子と神奈子のいる方に向き直る。

「そんじゃこれ、直して貰うわよ。あんたたちのせいで潰れたんだからね」

これ、と指を差したのは当然博麗神社の残骸。ミシャグジ様の巨体に潰された、見るも無残な霊夢たちの家である。

「えー」

「面倒くさいわね」

「えーじゃない! ほら、さっさと働け働け!」

霊夢が檄を飛ばし、二柱はのろのろと遅いスピードで残骸のある方へ歩き出す。

こうも無責任な少女たちが神様だとは、到底想像出来ないだろう。

まるでコントの一部分を見ているかのようで、魔理沙と早苗は思わず吹き出してしまった。

 

 

 

 

次の日。

霊夢がせっせかせっせかと追い立てたお陰で、粉々だった博麗神社は朝を待たずに完全に修復された。

最初は神通力を小出しにしていたせいで作業の速度もかなり遅かったが、霊夢が終わるまで家には帰さないと脅した結果その後はマックススピードである。最初からやれ、とは霊夢の談。

終わったのはまだ辺りが真っ暗な頃。早苗は大人しく山に帰ったが、魔理沙は今やこの神社が自宅なのだ。魔法の森にある自宅に帰ることもできたが、霊夢と離れたくないのもまた事実。仕方なく補修が終わるまで待つ羽目となった。

疲れ切った体では、ただ待つだけでもかなりの苦行。いつの間にか眠ってしまい、霊夢に起こされた時には他に誰もいなかった。

いや、実際には燐もいたのだが、生憎辺りが暗いせいで魔理沙には分からなかったのである。

そして神社が修繕されたことを聞くと、形振り構わず誰よりも早くその中へと飛び込み布団を敷き、一人で勝手に眠ってしまった。

その余りの速さに、霊夢と燐は呆れ顔で溜め息を吐いたのであった。

それから幻想郷は朝を迎え、疲れの残る体に鞭打ち朝のお勤めを始めようとする魔理沙は、ある異変に気付いた。

いつもは自分が朝ご飯を作っているのだが、台所からとんとんと包丁の音がするのである。

珍しく霊夢が早起きでもしたのかな、と思いながらそこを覗くと、魔理沙の視界に予想だにしない人物が飛び込んできた。

「……うぇっ!?」

「ん? ああ魔理沙か。お早う」

「あぁお早う……じゃなくって! ちょ、ちょ、ちょっと待てよ、ななな何でお前がここに!?」

明らかに狼狽する魔理沙。驚愕し目は見開かれ、口はぽかんと間抜けに開いている。

そうなるのも仕方がないかもしれない。何故ならそこにいたのは、

「まぁ……修行の一環、かな。これから暫く、ここで過ごすことになったよ。宜しく」

「――だからってなんでここなんだよ、藍っ!」

九尾の狐、八雲藍だったのだから。

 

魔理沙は足をもつれさせながら、どたどたと走り居間に続く障子を開く。

そこに広がっていた光景は――

「はい霊夢、あーん」

「しないわよ……馬鹿言ってないでちゃんと座りなさい」

「やーん、いけずぅ」

霊夢が顔をしかめ、紫が背筋がぞっとするような猫撫で声で甘え。

「ほーら橙、次行くよー」

「えー? 次はお燐ちゃんの番でしょ?」

「橙の方が上手いじゃん。さぁ行くよ……それっ!」

燐が卵焼きを放り投げ、それを橙が口でキャッチし。

「さぁご飯にしましょう……って何勝手に先に食べてるんですか紫様!

って橙も! 食べ物を遊び道具に使うんじゃありません!」

魔理沙の横から部屋に入った藍が、それぞれを叱りつける。

まさに大所帯の朝ご飯の風景そのものであった。

「ほら魔理沙も、そこに座りなさい。ご飯よそってあげるから」

「あら、いつの間に起きてきたの。お早う」

「どうもお邪魔してるわ。私たちも一緒に住むことにしたから宜しく。どうせだから橙もね」

「はい! これから宜しくお願いします!」

「というわけだよお姉さん。なんだか楽しくなりそうだねぇ!」

てんやわんやの大騒ぎ。各々が喋りたいことを勝手に喋っているので、最早何を言っているのか判別がつかない。

朝っぱらから頭が割れそうな喧騒に、魔理沙はこめかみを押さえ項垂れる。

「……あー、頭痛くなってきた」

そんな魔理沙を尻目に、どんちゃん騒ぎはより大きくなる。

普通の巫女見習い霧雨魔理沙の受難は、まだまだ続きそうであった。

あとがき

徹頭徹尾蛇足のお話。

でも、神様は無駄があるからこそ生きていられるのかもしれませんね。