平行線






 世の中には、“立ち位置”というものがある。これは結構重要で、それが少しずれただけで歯車が大きく狂ってしまう。漫才の立ち位置とか。役者の立ち位置とか。仕事での持ち場も、“立ち位置”といえるのではないだろうか。
 例えば、漫才の立ち位置が逆になってしまえば、彼らは困惑する。例えば、役者の立ち位置が変わってしまえば、その後の展開に支障をきたす。例えば、仕事での立ち位置が違ってしまえば、たちまち仕事ははかどらなくなる。
 こんなふうに、世の中にはあらかじめ決められた、“立ち位置”がある。神的存在の意思なくして変えてはいけない、それがある。
 彼は、それを知らない。





 空はあいにくの雨模様だった。どんよりと影を落とすその雲は、泣く子のように大きな雨粒を降らす。しかし雨が降ったところで試合がなくなるわけではない。言葉の通りのきつね色の尻尾の持ち主フォックスは、その尾をふさと振った。たった今試合を終え、控え室へのドアを開ける。小走りに、先程まで戦っていた相手を追いかけるように。
 フォックスは小さく叫ぶ。

「ウルフ!」

 試合が終わるなりすぐに姿を消してしまうウルフだったが、彼はまさにドアのノブに手をかけたところでひたと動きを止めた。
 ・・・・・・今日の試合は、フォックス対ウルフのタイマン戦であった。ライバル同士という関係ゆえに、このキャスティングで戦うことにも大分慣れた頃なのだが、今日は珍しくフォックスが負けた。いつもならば、フォックスがウルフに「まだまだな」と言ってみたり、言われたウルフは「覚えておけ!」といかにも悪役らしい台詞を吐き捨てたりしていたものだが、今日はそのお約束どおりにはいかなかった。加えてフォックスの表情は、今日の空に浮かぶ暗雲を模したかのように曇っていた。それは試合に負けたからという単純な理由ではなくて、試合前からの、もっと複雑な事情からくるものであった。
 フォックスの声が控え室にしんと響く。それが消えると、外で降りしきる雨の音がその部屋を包んだ。雨粒が地面にぶつかる音、葉にぶつかる音、コンクリートにぶつかる音。心地のよい雑音は、静かな部屋によく馴染んだ。
 ウルフの低い声が、雨音の静寂を裂く。

「・・・何か用か?」

 彼はノブにかけていた手を下ろした。鋭い爪の備わった、野性的な手。しかしフォックスを振り返ることはしなかった。まるでフォックスの返答を急かすかのような彼の背中に、ぴりと空気が張り詰めて緊張感を持ち始める。フォックスは焦って、慌てて声を上げた。

「ウルフ・・・あの、さ」
「・・・・・・なんだよ、気持ち悪ぃな」

 彼の弱々しい声に、ウルフの灰色の耳がぴくりとそよぐ。
 ウルフは威勢のないフォックスに嫌味を言うことでいつもどおりの彼に戻そうと試みるが、それは見事に失敗した。フォックスはウルフの言葉になんの反応も示さず、黙ったままうつむいている。いつもと違う彼に、違和感に似て非なるなにかを感じて、ウルフはそっと息を呑む。

「・・・俺たちって、ずっとこのままなのか?」
「・・・は?」
「ずっと交わらないままなのかな・・・」

 フォックスの口からこぼれる弱々しい言葉。語尾は、絶えず響く雨の音に消え入るように溶け、混ざった。
 ウルフはやっとフォックスを振り返る。肩を落とし、だらしなくうつむいた彼の体は、小さく震えていた。普段はぴんとしている耳も尾も、今はくたりと垂れている。そんな彼の姿は、情けないというより他はなかった。
 ウルフは静かに声を荒げる。

「だらしねぇこと言ってんじゃねぇよ」

 静かではあるが、確実に怒りを含んだウルフの声に、フォックスは弾かれたように顔を上げる。

「俺は俺で、てめぇはてめぇだ」
「・・・・・・ウルフ」
「交わる、だと? 生ぬるいこと言うんじゃねぇ、俺らは交わっちゃいけねぇ“立ち位置”にいるんだよ!」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・じゃあな、フォックス」
「ウルフ・・・!」

 ウルフのその声は、震えていた。ドアの閉まる音のあと、ただただ雨の降りしきる音だけが、控え室を包んだ。















あとがき。
友情モノか恋愛モノかはご想像にお任せします