閉鎖空間:ココロ 窓の外の、真っ黒なキャンパスの上に、無数の星と白い月が煌々と輝いている。その時刻は10時をすでに回り、子供たちは各々床についている頃だった。 浴槽の暖かい湯に肩まで浸かる。 この時間帯、浴場はほぼ貸し切りの状態となる。ほとんどのメンバーは食後の8時から9時の間に入浴するからだ。その時間帯がいわばピークで、以前その時間に入浴したときの光景といったらすさまじかった。 人も人外も入り交じり、子供たちがお湯をかけあい、湯船を泳ぎ。子供とも大人ともつかぬ者までがそれに加わり、騒々しい限りであった。それはそれで微笑ましいことではあったが。 そして入浴後の浴槽には、髪の毛はもちろん、毛やら羽やらいろいろと浮いていて。 別に人に見られたくないわけではない。が、やはり風呂は落ち着いて入りたい。極力そのピークを避けるようにしてきた。 しかし今日は例外で、故意に人のいないこの時間帯を選んだのだ。 思惑通り浴場には誰もいない。この広い浴場を独り占めしている状態だ。誰かが手入れしているのだろうか、浴槽にはなにひとつ浮いてはおらず、結構に綺麗だ。お湯がぬるいということもなく、文句はない。 アイクはふうとため息をつく。 今日も、いろいろと疲れた。明日は久々に一本も試合がない日だ。やっとゆっくり寝られる。アイクは湯船にもたれかかり、目を閉じた。うっかりすると眠ってしまいそうなほど、心地がよい。 しかしそれもつかの間、浴場の外、脱衣所で物音が聞こえ、警戒心に背筋を伸ばす。 かすかな音に耳をそばだてるうち、浴場の引き戸ががらりと開けられた。 「やっぱりここにいたか」 低く落ち着いた声が広い浴場によく響いた。その声の主はスネークだった。 「・・・探してたのか?」 「夜這いに行ったら肝心のおまえがいなくてな」 「よば・・・!俺は今そんな気分じゃ・・・」 「心配するな、取って喰うつもりはない」 腰にタオルを巻いたスネークが、浴室に足を踏み入れる。水浸しの床を一歩踏むたび、ぴちゃりと足の裏にまとわりついた水が跳ねた。 アイクは怪訝な目つきでじととスネークを見る。しかし対するスネークといえば、そんなこと気にも留めていないかのような涼しい顔をしていた。 「そんなに信じられないか?」 「そりゃ・・・」 「まぁ、無理もないか」 浴槽に張られた湯の中へ、片足を入れる。続いて、もう片方も。それからアイクの隣に腰を下ろし、ふうと大きなため息をついて、同じようにもたれかかった。 スネークは口の端を吊り上げてにやりと笑った。 「ここで何回もヤったしな?」 「・・・・・・っ、先に上がる!」 「まぁまぁ、そういうな」 ばしゃ、と水をのけて立ち上がったアイクの手を掴み、自分の方へ引っ張る。アイクはバランスを崩して、危うくスネークの方へ倒れこみかけて、すんでのところでなんとかそれだけは避けられた。 今、彼と密着すればなにをされるかわかったものではない。 スネークの手を振りほどくと、また湯に浸かりなおした。・・・少し彼と距離を置いて。 「拗ねるなって。事実を言ったまでだ」 そう、事実である。 もっとももう少し遅い時刻ではあったが、ふたりは以前、ここで体を交えた。それからというもの、ここでふたりきりになれば毎回。もう両の手に余るほどだろうか。 そんな“過去”を否応なしに思い出させられて、アイクの顔は次第に真っ赤に染まっていった。 彼はスネークに背を向けた。 「で、何か用か」 心なしか、そう言う声音に少しばかり棘が見える。 「男同士、たまには語らおうと思ってな」 「・・・そっち系ならことわ・・・っ?!」 がば、と後ろからアイクに覆いかぶさる。またなにかいかがわしいことをされては敵わない。アイクはなんとかその腕から抜け出そうとばたばたもがく。もがくたび、水がやかましく跳ねた。 しかしなかなか抜け出せない。しっかりとアイクを抱くスネークの腕はアイクの胸の前で堅く組まれ、微動だにしない。どうやらいたずらをするつもりはないようだ。アイクははたと抵抗をやめる。 スネークは大人しくなったアイクを抱きなおすと、壁へもたれかかった。図らずとも、アイクがスネークに寄りかかるようなかたちになる。 「アイク、」 そっと肩口に顔を埋め、呟くようにその名を呼んだ。くすぐったさに震えるアイク。 スネークの呼びかけにアイクは答えない。彼の声だけが響く。 「最近何か悩み事でもあるんじゃないのか?」 「・・・!」 アイクは極力、気取られないように努める。しかしそんな彼の努力もむなしく、スネークは彼が小さく反応したのを見逃さなかった。 「本当に分かりやすい奴だなおまえは」 「べ、べつに何も・・・」 「隠しごとはよくないんじゃないか?ん?」 胸の前で組まれていたスネークの手が、そろりと体を下っていく。腹筋を撫で、太股を撫で、腰に巻かれたタオルの中にするりと滑り込んだ。その手が体に触れるたび、ぴくりぴくりと小さく跳ね、湯が揺れる。 アイクはその魔の手から逃れるべく声を荒げ、ばしゃばしゃと暴れだす。 やはりあのとき先に上がるべきだったと後悔し、しかし今そんな後悔は役に立たない。 「っ、この変態!」 結構に暴れるのだが、なかなかスネークの腕の拘束から逃れられない。背後からの拘束は彼の専売特許だ。さすがは(アイク談)“背後に潜む悪魔”と呼ばれる由縁である。 なおも暴れるアイクの体の際どいところを撫でながら、スネークは言った。 「ほら、話せば楽になるぞ?精神的にも身体的にも」 「放せっ!あんたには関係ない!」 アイクの声が、広い浴場に響き渡る。 スネークは目を伏せ、アイクを捕まえていた腕を退ける。急に支えがなくなり、アイクの体は前へつんのめった。多量の水を跳ね上げ、浴槽のふちをつかむ。 急に解放され、アイクは逆に警戒する。これからまた何かをされるのではないかと。警戒して、彼はスネークに向き直った。しかし当のスネークはうつむいただけで、いつまで待っても動き出そうとしない。 先程まであたりまえのように感じていた彼の体温が、あたりまえのようにまったく感じられない。 少しの開放感と、しかしそれより多い空虚感。 水の音がはたと止み、しん、と静寂が浴場に響く。 重く長い沈黙だったが、それはスネークの声に引き裂かれた。 「・・・それを言われちゃおしまいだな」 彼のその声は、諦めと、疲労と、無力感と、そして自嘲を含んでいた。 そのすべてを本能で感じ取って、アイクはなだめるように呟く。 「あんたには関係ない、俺だけの問題だ。・・・心配させたようなら、謝るよ」 「・・・・・・・・・」 「気遣いは嬉しいが、気にしないでくれ」 まるで静かな水面に石を落としたかのように、声が波紋のように広がって、浴場のあたたかい空気のなかへそっととけて消えた。 スネークは顔を上げる。綺麗な青い瞳と目線がぶつかる。しかし目が合っていたのはほんの一瞬で、その青がゆらと揺れたかと思うと、アイクは顔を背けた。 スネークもそれに倣い、アイクから目をそらし、天井を仰ぐ。 「気にするな、か」 「・・・あぁ」 「そういうかっこいい台詞はもう少し大人になってから言ったらどうだ、アイク」 「・・・どういう意味だ?」 「どうって、おまえはまだ子供なんだから無理に大人ぶるなってことだ」 「・・・・・・・・・」 スネークの言葉が、棘となってちくりちくりと胸に刺さる。 限りなく大人に近くはあるが、確かに年齢としてはまだ大人ではない。しかし子供でもない。精神面では、あの頃よりひとまわりもふたまわりも、ずっと成長した、と思っていた。まだ足りないというのだろうか。 それを肯定するかのように、スネークは続けた。 「確かに歳相応って感じはするが、俺から見ればまだ子供だよ」 ずし、と重く心にのしかかる。 「ここ最近のおまえの不調ぶりは一目瞭然だ。俺じゃなくても気付くだろう」 「・・・・・・・・・」 「それにぼーっとしてることも多いしな」 言われてみれば確かに、そうかもしれない。 このごろ戦績が落ち始めてきたのは自覚していた。人の話をちゃんと聞いていないことも多々あった。一人でいるときも、気付けば思っていたよりかなりの時間が経っていたり。最近、どこかおかしいのかもしれない。 「悩みごとのひとつも隠せないで大人っていうのも早すぎるんじゃないか?」 「・・・・・・そう、かもな」 「大体な、あれだけわかりやすくしておいて気にするな、なんてのは無理な話だ」 「・・・・・・・・・」 まったくそのとおりだ。返す言葉がない。アイクは押し黙って、うつむいた。 スネークは、湯気でくたりとした、まるで今の彼自身の心を写したかのようなその髪を、そっと撫でた。 「なぁ、俺はおまえの力になりたい」 「スネーク・・・」 「その、なんだ。要するに、頼られたいって言うか、な」 だんだん何を言っているのかわからなくなってきて、あてつけのように彼の頭をぐりぐりとかき回す。アイクは黙ってされるがままになっていた。 「・・・だから、少し甘えろ、俺にくらい」 「・・・・・・っ」 「うおっ」 溢れないようにとせき止めていたものがぴきりと壊れ、流れ出した。 アイクはスネークに抱きついた。顔を胸に押し付け、腕を彼の肩へ回す。彼はしっかりアイクの体を受け止め、きゅっと抱いて背中をぽんぽん叩いてやった。 大きな子供のようだ。 スネークは人知れず、口元を綻ばせた。 「まったく・・・」 かわいいな、おまえは。これだから目が離せない。 「どうだ、話す気になったか」 「・・・あとで、話す。今はこのままがいい」 「そうかそうか、よしよし」 「やっぱり、何だかんだ言ってあんたが好きだ」 「〜〜っ、もう少し恥じらいをもって言え、こっちが恥ずかしくなる・・・」 かくして信頼関係は築かれたのだが、ふたりとものぼせて倒れ、脱衣所で朝を迎えたのは、また後の話。 あとがき。 |