夕暮れの祝福






 灰色の空の下、彼は目を覚ました。
 目の周りの、落ちない赤い化粧を施された目がかすかに動く。その赤とは対照的な、綺麗な青色の髪。一切寝癖のつかないそれは、寝起きにもかかわらずさらりと流れるようであった。 そしてその赤と青を一層際立たせる、あまり日焼けのしていない白い肌。顔だけで見れば中性的なものの、彼は女であった。それを示すのは、細い肩、細い脚、そしてなめらかな曲線を描く体のラインである。
 そんな人物は、この大乱闘大会には存在しない。最もであるが、その彼は他ならぬファルコであった。人魚姫よろしく、彼は薬によって人の姿をとっていた。・・・・・・事故によって、女性の体になってしまったのだが。
 そんなファルコはまだはっきりと意識が覚醒しておらず、うっすらと目を開くのだが、起き上がろうとはしなかった。
 しんと静まり返った室内。数瞬遅れて聴覚が音を拾う、かちかちと進む時計の秒針の音が聞こえた。そして自分がみじろぐ、衣擦れの音。
 重い体を持ち上げ、時計を見遣る。見遣れば、その2本の針は午後の2時をとうに回っていた。はっとして起きようとしたのだが、重力に押し戻されてまたベッドにくたりと力なく倒れた。今日は試合もないし、これといってやることもない。今すぐ起きねばならない理由なんてひとつもなかった。
 しかしどうやら、昨晩の疲れがいまいち抜け切っていないようだ。
 すでにカーテンの開けられた窓からは、一条の光も差さない。どんよりと厚い雲が空を覆い隠し、少しの光も漏らさんとしている。その薄暗い曇天に、さらに気力を削がれた。
 ごろりと寝返りを打って、うつぶせになる。枕に染み込んだ“彼”のにおいが、虚しさを増長させる。
 彼、アイクは、今日は昼過ぎから試合の予定である。昼前には起き、数時間前に部屋を後にしたのであろう。
 本当は、起きて見送るつもりだったのに。どうやら相当に疲れていて眠りが深かったようだ。普段あまり深く眠ることはないものだから、きっと物音で起きるだろうと思っていた。が、甘かったようだ、見事に寝過ごした。
 窓の外に目線をやれば、そこではしとしとと雨が降っていた。絶えずアスファルトの地面を叩く雨音が聞こえ、絶えず草木を濡らしている。
 ひどく寒い。暖房を入れようとも思ったのだが、どうしても体が動かなかった。肩口まで深々と布団をかけ、体を縮こめて目を閉じた。だんだんと布団の内に熱がこもり、うとうとと眠くなるほどにぬくもった。
 何をするでもなく何を考えるわけでもなく、ぼうっとしていた。否、無意識のうちに何かを考えていたのだが。うたた寝に幾度も思考を途切られながらも、眠るまいと睡魔に抗っていた。










 気が付けばもう昼を過ぎ、そろそろ夕方になりかけていた。厚い雲のせいで、時計を見なければ正確な時刻がわからない。急いた空は早くも夜のように暗くなっていく。
 いつの間に。ファルコはぼんやりと考えた。何もしたくはないのだが、そろそろ空腹には耐えかねた。布団を横へよけると、ベッドを降りる。
 ほっそりとした足が床につく。それから数瞬遅れてもう片足も。昨晩あのままで寝てしまったから身にまとうものもなく、やはりベッドの外は寒かった。床に脱ぎ捨てられた服の中からジャケットを拾い上げると、至極面倒くさそうに袖を通す。
 テーブルには彼が残してくれたのであろうロールパンが数個皿に載っていてる。ふと、そのテーブルの椅子に脱ぎっぱなしの、彼の寝間着が目についた。脱いだものくらいたためばいいのに。彼らしさに口元が綻ぶ。
 立ったついでに暖房を入れ、ベッドから毛布を引きずってきて、ソファに深く腰掛けてそれに包まる。窓の外をそれとなく眺めながら、パンをかじった。
 気だるさに口が思うように動かず、小さく開けた口で少しずつ少しずつ口に含んでいく。雨音に時折体を震わせながら、ゆっくりと咀嚼する。さほど大きなパンではないのに、それをひとつ食べるのにかなりの時間を要した。
 ようやく暖房が効きはじめた頃、ふたつめを手に取る。手に取った瞬間、ファルコは眩暈に襲われた。睡眠不足による眩暈だろうか、それとも疲労によるそれだろうか。空腹は満たされないのだが食欲が失せ、パンを皿に戻す。
 揺れる視界。その中では相変わらず大粒の雨が降り続いている。地面を叩き、葉を叩き、窓を叩く。くたりとソファに寄りかかって体を縮こめ、目を閉じた。目を閉じてもなお眩暈がおさまる気配はない。それに加え、ぞわぞわと背筋に悪寒が走る。風邪でも引いたのだろうか、暖房は結構に効いてきているにもかかわらず体は寒さを訴える。





 かち、かち、と規則正しく時を刻む、その秒針の音を聞きながら、どれほどそうしてうずくまっていただろう。ふいにがちゃりと鍵が鳴る。遅れて、開錠の音。ファルコは彼を出迎えるべく立ち上がり、ドアの方へ歩いていった。
 ドアが開けば、試合を終えたこの部屋の主が入ってくる。

「起きてたか」
「・・・・・・お疲れさん」

 一歩部屋に踏み入れ、部屋の異常な暑さにアイクは眉をしかめた。確かに、今日は雨が降っていて寒い。暖房を入れるのもわからなくないし、ファルコが少々寒がりであるのは知っている。知っているのだが、それにしてもこれは暑すぎないだろうか。
 出迎えたファルコの表情は、その空と同じように曇っていて、体調が優れないであろうことは一目瞭然だった。

「・・・どうした?顔色が悪いぞ」
「そんなこと・・・」

 ねぇよ、と言おうとしたのだが、それは立ちくらみに遮られた。ぐらりと体が揺れ、倒れかかる。寸でのところでアイクがそれを受け止めた。
 触れた肌が異様に熱をもっている。昨晩裸のまま寝てしまったから、単なる風邪か。もしかすると薬の副作用かもしれない。

「医務室行くぞ」

 アイクは自らのマントを外すと、いささか乱暴にそれをファルコに押し付けた。何が何やらわからずファルコはそれを受け取り、それを確認したアイクはファルコを抱き上げた。ファルコの腕を自らの肩へかけ、背中と膝の裏へ手を添え、いわゆる姫抱っこというそれである。
 急なことにファルコは暴れた。

「降ろせ・・・!」

 覇気のない声ではあまり迫力も説得力もない。
 じたばたともがいてみるのだが、どうにもその腕からは抜け出せなかった。
 アイクはよいしょとファルコの体を抱きなおすと、彼の抵抗などないもののように医務室へ向かって足早に歩き始めた。

「どこか痛いところは?」
「ねぇよ・・・っ いいから降ろせ、そんな大したことじゃ・・・」
「大したことになったら困るだろ」
「・・・っ、でも、自分で歩ける・・・!」
「それより体を隠したらどうだ?」
「・・・・・・!」

 はっとして、ファルコは先程受け取ったマントを広げた。そういえばジャケット以外は何も着ていなかった。マントはこのためだったのか。邪魔だから押し付けられたのだとばかり思っていた。
 ぴたりとファルコの抵抗がやむ。それと同時にくたりと体の力が抜けた。少し、腕にかかる負担が大きくなった。
 アイクはもう一度問う。

「で、どこか痛い?」
「・・・・・・・・・頭、が・・・」

 やっと搾り出したような、そんな弱々しい声でファルコは痛みを訴えた。いよいよなりふり構っていられないといったところだろうか。
 目を閉じてぐったりとするファルコに、アイクは医務室へ急ぐ。ファルコを気遣えば走ることなどもっての外なのだが、しかし歩いていては、焦りからか医務室がひどく遠く感じた。
 幸いまだ時間が早い。大半の選手たちはまだ試合中で、廊下にはほどんど誰も通らない。通ると言えば、それは非番で休みの者だけである。その休みの者だって、食事以外ではあまり部屋を出ることもないだろう。もう少し時間が遅ければ、言わば帰省ラッシュの時間帯で、その日の最終試合が終わって選手たちが続々と寮へ帰る時間だ。その時間に当たらなかったのはまさに幸運と言うより他になかった。
 腕の中のファルコが、そっと口を開く。

「・・・・・・悪い・・・」
「謝るな。ほら、もう着くぞ」

 その白く細い手が、アイクの頬に添えられる。その手は驚くほど冷たかった。体は、温かいを通り越して熱いというのに。それが余計に危機感を募らせ、気が気でなかった。
 ファルコはやっと体を起こすと、彼の唇に噛み付くように口づける。慌ててその体を支えると、アイクからもキスを落とした。なぜだろう、本能がそうせずにはいられなかった。

 ぱたりとまたアイクに体を預けたファルコのその口元は、満足げに弧を描いていた。

 医務室まであと数歩のところまで来て、アイクの足は、思考は躊躇った。考えずとも、それが私欲だとわかって頭を振る。頭を振って雑念を追い払うと、歩を進める。
 その銀色のノブに手をかけて、ドアを開けた。















 どうやら気を失っていたようだ。ファルコは目を開いた。
 見覚えのある天井。見覚えのある室内。真っ白なそれは、数日前に見たそれと何ら変わりはなく真っ白であった。そして相も変わらず、消毒液のにおいが鼻腔を刺激する。
 重い体を、ぐっと起こす。傍にはアイクが椅子にそこに座っていた。

「起きたか」
「ん・・・」

 それに気付いたドクターがついたての奥から姿を現す。変わらない彼の白衣が目に眩しい。その表情は、なんだか嬉しそうに見えるのは気のせいか。大方、薬の試験がうまくいったからだろうことは容易に見て取れた。
 すでにファルコに見抜かれているのだがそれを隠すように顔の筋肉を引き締めて、ドクターが口を開く。

「ファルコ、気分はどうだい?」
「・・・だるい」
「頭痛とか眩暈とかは?」
「特にねぇな・・・」

 アイクの手が、ぴたりとその額に宛てられる。そして自らの額にも。あの異常な熱もすっかり引いたようだ、そのままファルコの頭をぐりぐりと撫で回す。
 やめろ、とうっとうしげにするが、その手を払えないのは彼の性だ。

「熱もないみたいだ」
「それはよかった」

 いろいろ聞きたいことがあるらしく、ドクターはいやにそわそわしている。アイクが目配せでそれを制すと、いたたまれなくなったドクターは再びついたての向こうへ消えた。
 時刻は夕方の5時を回ったところだ。先程まで降り続いていた雨が嘘のように上がっている。厚い雲はいつの間にかどこかへ消え退き、西の空では太陽が燃えている。葉についた水滴は陽をきらきらと反射する。窓から差し込んでくる夕陽が、白いカーテンをオレンジ色に染めていた。
 あのときと同じ、綺麗な夕陽だ。



「おかえり、ファルコ」
「・・・ただいま」

 アイクはまた、いつものようにその額に口づけた。
 赤々とした夕暮れの光は、彼の帰還とふたりの再会を祝福するかのように振り注いでいた。















ファルコ擬人女体化終了。
このあとファルコはドクターにしつこいほど念入りな事情聴取をされ、
哀れに思ったアイクが元に戻れた記念を兼ねてそうめんを食べに連れて行きます。(大真面目