幾重に連なる絶望の闇の中で







 真っ暗な世界。ただひたすらの闇。
 この闇は、どこまで続いているのだろう。すべての感覚が鈍る。ただ例外的に、痛覚のみを除いて。
 痛覚だけは健在のようで、手が、非常に痛い。なにもしなくても痛い。すこしでも動かそうものなら容赦なく痛みが刺し、動くことを許さない。
 痺れてかすむ思考の片隅で脳はまだ働いているらしい、なにかを感じ取った。かすかな、声が聞こえる。呼ばれている気がする。
 そんな気がするのだけれど、体が動かない。暗闇のなかではどうすればなにが動くのかまったくわからない。自分が今、なにをしているのかすらここではわからなかった。
 きっと、あの声は気のせいだ・・・
 そう思った途端、なにかがこつこつと近付いてくる気配がする。

 ばさ、と布がはためく音。それから、激しい衣擦れの音。
 弱りかけた嗅覚が感じ取ったのは、以前嫌というほど嗅いだ血のにおいにそっくりだ。

「ただいま」

 それは、今まで聞いた“ただいま”のなかでいちばん嬉しそうな声色だった。

「セ・・・ネ、リオ・・・、はず、せ・・・」
「・・・おかえり、って言ってくれないんですね」

 諦めたようにため息をついた。
 重い重い錠前に鍵を突き刺し、かちゃと回す。

「早く・・・!」

 扉を開け、彼の目を覆っていた目隠しを解く。するりとその布が滑り落ちると、急に視界が開けた。暗闇だった目の前には、見慣れた自分の部屋の風景。綺麗な金色の忌々しい鉄格子。
 そして、真っ赤ななにか。

「・・・セネリオ・・・?」

 セネリオの暗い色の服はところどころ赤で染め上げられていた。頭が痛くなるほど血生臭い、それが鮮血だというのはすぐにわかった。セネリオに怪我をした様子はない、誰か他人の血であろうことを本能的に悟る。
 その血が誰のものか。無意識下で考える、うまく働かない脳みそでもすぐにわかった。そしてそれを肯定するかのように、セネリオはまた、あの嬉しそうな声でやさしく言う。

「アイク、もう僕らを邪魔する人はいませんよ」
「なにをいって・・・」
「アイクは僕のものなのに・・・僕からアイクを奪おうとした、罰です」

 なにを言っているかわからない。ただ、のんびりとここでセネリオの話を聞いてやっている場合ではなさそうだ。
 開け放たれた檻から飛び出そうとした突然手に激しい痛みが走り、思わず顔を顰める。
 後ろ手に手枷をはめられ、何重にも鎖を巻いた手首はそれは痛々しげに鬱血し、今にも手が落ちそうなほどだった。肩も、少し動かせば取れてしまいそうなくらい痛い。
 どうして、こんなことに。
 アイクは弱々しく呻いた。

「これを・・・外せ・・・」
「それは無理です」

 セネリオが檻の中へ入ってくる。思わず身構えるが、狭い檻の中に逃げ場はない。
 血に濡れた白い頬、返り血で染まる体、狂気に彩られた赤い瞳。一種の恐怖で顔が引きつる。これほどセネリオを怖いと思ったことはなかった。今は、自分が殺されない自信がない。

「ほ、本当に、痛いんだ・・・頼むから・・・」

 セネリオの手が、頬に添えられる。びくりと肩が跳ねる。その手は悲しいほど冷たかった。氷のように、鉄のように、まるで血が通っていないかのような。
 どうしようもなくぼろぼろと涙がこぼれる。それがどうして流れたのかはわからない。セネリオに対する恐怖かもしれない。自分が殺される不安かもしれない。もう以前のような生活に戻れない、絶望かもしれない。
 生暖かいセネリオの舌が、べろりと涙をぬぐう。目尻からくちゅりと舌先が入り込む。

「っ、セネリオ・・・」

 ちゅ、と唇が触れるだけのやさしいキスの後、強引に唇を割って舌が侵入した。舌が絡むたび、くちゅくちゅといやらしい水音が響く。
 同時に背後で鎖が煩わしい音を立てる。鎖にかけられた南京錠がかちと外れ、器用に口内を犯しながら鎖を外していく。腕の重みがとれ、じゃらとそれは床へ落ちた。やがて手枷の鍵も外れ、鎖の上に重なるように落ちた。
 だが、まだ口内を犯す舌は満足しないようで。しつこく舌をぶつけ、まるで自分からも絡めろ、と言っているかのようだ。急かされ、アイクは恐る恐るセネリオのそれに触れて、絡める。
 解かれた手が、自然とセネリオの肩を掴んで押し返す。長い長いキスがようやく終わった。

「どうしました、アイク?」
「・・・みんなは・・・?」
「・・・・・・せっかく、」

 セネリオはうつむいて、ふるふると肩を震わせた。悲しみと怒り、相反するふたつが入りまじって、心を混沌の色に染め上げていく。狂気に彩られていく。
 その頬をそっと涙が濡らしたのを、アイクは知らない。

「・・・せっかく、ふたりだけになれたのに・・・アイクは僕のものなのに・・・、どうして僕以外の人を気にするんですか・・・?」
「せ、セネリオ、おちつけ・・・」
「・・・・・・っ、ぅ・・・」

 悲しみに呼応して、風が荒れた。風がごうと渦を巻く。切れそうなほど剣呑な風がうなる。窓枠ががたがた揺れる。本棚から本がぼとぼととこぼれる。机が倒れ、椅子が壊れ、棚が崩れる。
 ちょうど、涙に濡れた赤い瞳と目がかち合ったときだ。
 アイクの体が、風に引き裂かれたのは。

「・・・・・・っ!」
「アイク、僕のこと、嫌いですか・・・?」
「嫌いじゃない、だから、セネリオ・・・」

 傷口が燃えるように熱い。血が噴き出し、ぱたぱたと床を染めていく。
 切り刻まれ、血の滲んだ腕を懸命に伸ばして、セネリオの細い体を引き寄せて抱き締めた。それと同時に、すうと風の渦が小さくなって消えていく。
 ふたりの両極端な体温がとけあって、ほどよくなった。

「よかった・・・」
「もう、こんな檻も必要ない、だろ・・・?目隠しだって、拘束具だって・・・」
「それはまた別の話ですよ」

 急に声色が鋭く尖って、びくりと体が震える。
 そう言い放った目は、背筋が凍るような、まるで薄氷のような、そんな冷徹な目だった。さっきまで泣いたとは思えないほど、冷たい目だった。
 セネリオが喉仏に噛みつく。ちくりとした痛みにアイクは顔を顰めた。
 やがて歯を引っ込め、唇を押し当てて思い切り吸う。喉が潰れる感覚に小さな呻き声が上がる。まるで血を飲む吸血鬼のように執拗に吸い上げられ、しかしその痛みを訴える声は出なかった。
 ようやく開放されたそこには、痛々しい紫色の“所有の証”がしっかりと色づいていた。
 それを満足そうに眺め、舐める。

「さぁ、アイク。僕は少しやることがありますから」

 喉につけたキスマークと同じ色に変色した手首を掴み、捻り上げる。

「ぐっ・・・!」
「あぁ、こんな色になってしまって・・・かわいそうに」

 倒れた棚の引き出しの中を漁って、セネリオは黒い首輪を取ってきた。
 もうこれ以上アイクの腕を拘束し続けたら、いつか本当に手首から先がもげてしまう。それでも拘束しないわけにはいかないから、その首輪をアイクの首につける。すこし長めの鎖の両端を、首輪の金具と、檻の鉄格子にそれぞれ繋ぎとめる。

「これなら痛くないでしょう?」

 返事は、なかった。
 それを肯定と捉え、また元通り彼を金の鳥かごへ押し込め、黒い目隠しをした。きつく、自分がいない間に自分以外のものを見ないように。
 がしゃん、と無情にも檻の扉は閉められた。鎖を幾重にも巻き、南京錠をいくつもつけ鍵をかける。

「すぐに戻ってきます。」

 格子ごしにちゅ、とやさしいキスをして、檻に血の色をしたベルベットの布をかぶせた。
 誰も、彼を奪えないように。
 足音が、どんどん遠退いていく。

「・・・・・・セネリオ・・・、・・・どうして」

 かすれて届かなかった、アイクの声。
 どうしてこんなことになったのか、わからない。なにがセネリオをここまで駆り立てるのか、わからない。
 目隠しとベルベットの二重の闇に遮られ。首輪と鎖に繋がれ。窮屈な鳥かごが邪魔をして、抱き締めてやることもかなわず、傍にいてやることすらできない。
 その負の連鎖に気付きながらも、それをどうすることもできず、ただ唇を噛んで、目隠しの下で涙を流した。




















「さて・・・これはどうしましょうか」

 いまだに残る鉄のにおい。壁や地面は大量の血で彩られ、あちらこちらに転がる肉の塊は、少し時間が経った黒い血の水たまりを作っていた。
 風によって引き裂かれた、見るも無残な骸を蹴飛ばして、セネリオはひとり思案した。













あとがき。
檻につめて、目を隠して、檻には布を被せて誰にも盗られないように、大切に大切に飼うんです。