凍らぬ時
赤くなった手があまり言う事を聞かなくなり、息を吐いて指先を温めるがその息は白い。取り落としそうだった尖筆を置き、ふと掃き出し窓の外を見遣ると原因が見えた。作業を始めた頃には無かった白い粒が降り、遠くに見える林もそろそろ白く染まりつつある。
この雪の中を出かけている彼女を思うと申し訳無い心地になり、温かなものの一つも出せない己が惨めになる。出来る事を尽くすしかない身である以上は高望みだろうが、望まずにはいられなかった。
もう一度息をつく。白い息が霧散するさまを見ていると、雪のもたらす静寂へ思考が溶け込んだ。何の気配も無く孤独な場所で、愚かな願いだけが熱を持つ。
白い雪は、果たしてこのどす黒さも隠してくれるのだろうか。
瞬く間に寒さは増し、堪らず寝台へ倒れて毛布に潜り込む。しかしアローネ自身の熱も大幅に失われ、全身が震えていた。
このような日には暖炉へ火を入れるのだろうが、未だ火気は恐ろしくて近付けない。それはユーズトーリュへも寒さを強いてしまう事実でもあり、その上で彼女の温もりを欲してしまうのは身勝手が過ぎた。彼女の体こそ寒さにも耐え得るものだが、それを理由には出来ず、したくないとアローネ自身が強く拒否する事だ。
しかし寒さは孤独の感覚を呼び寄せ、存在を欲する。アローネはその為すが侭にユーズトーリュを求めてしまい、気付いた頃には自己嫌悪の谷底へと叩き落とした。
凍えゆく心身をどうする事も出来ず、ある時から眠気を覚える。日頃の疲れからか、それとも極限状態で力尽きるさまに似ているのか、判断は付かない。
そうして意識が落ちる寸前で、温かなものを感じた。その温もりで意識が現へと引き上げられ、漸く己の失態を知る。身を抱き締める人物など、たった一人しかいない。
「ユーズトーリュ……」
まだ眠気の残る声で呼ぶと、彼女は穏やかに告げた。
「だいじょうぶ です よ」
囁きさえ温かく感じるのは果たして気の所為なのか。温かな手が頭を撫でる。
「あたたかい もの を おもち しましょう。からだ も こころ も こごえて しまう まえ に」
添えられた手に促される侭身を起こしたが、迷いから言葉が出なかった。彼女越しに見た窓の外は暗く何も見えないが、刺すような冷気と深い静寂からして雪は降り続いているらしい。少しずつ鬱積する様々な感情を代弁するようだと思うのは、雪に失礼なのだろう。
黙りこくるしか出来ないでいるが、ユーズトーリュはまだ離れずにいる。感覚が遠くなっている赤い指先を動かすのも酷く重く、大いに迷いを引き摺りながらアローネは彼女の片手を取った。
「ごめん……」
絞り出した声はやはり震えていたが、原因が寒さだけなのかは最早解らない。
「君にこんな、寒い思いは、させたくないん、だけど……」
己の無力を解りながら容易く屈してしまう無念に言葉が淀む。凍える苦しさをユーズトーリュにまで強いる必要があってほしくないと願う端から、自らを裏切り続けていくのは愚かとしか思えなかった。
ふとユーズトーリュの手が動き、アローネの冷えきった指先を包むように握る。
「アローネさま。ユーズトーリュ は いま、とても あたたかい の です。この ぬくもり を はなし たく あり ません」
温かさの奥には灼熱があると彼女の心が語り、同時にそれすら凍えさせる淋しさが顔を出した。たとえ凍り付く苦しみがあったとしても、互いが其処にいる事実は何にも代え難い幸福でしかない。
静寂は全ての気配を取り除いて、此処にはアローネとユーズトーリュしかいないと教える。密やかに、今だけであっても、その時だけがあった。
夕餉の時間も近く、本格的に食事を取る。スープを飲むと体の芯から温められ、気力も戻ってきた。
向かいの席では、少量ではあるがユーズトーリュも同じものを食べ進めている。主と使用人が同じ場で同じ食事を取るとは本来ならばあり得ない光景だが、アローネの頼みによるものだ。共に食事を取るようになってからは食事の時間がより楽しいものとなっていた。料理の味さえよく解らず、楽しいものとは到底感じられなかった頃は、今では遥か遠くに思える。
スープに硬いパンを浸し、軟らかくなったところで口に入れると広がる味に思わず顔が綻ぶ。パンは領民の食べているものと同じであり、質を見て領地における食全体の指標にしていた。昨今ではかなり美味いものが出来上がっている。
「……ふっふふ」
不意に聞こえたユーズトーリュの笑いには穏やかさがあった。
「どうしたの?」
「たのしく たべる と、とても おいしい です ね」
彼女の言葉で感覚を共有しているのだと知ると、胸の内が喜びに騒がしくなる。
「うん。本当に美味しいね」
知らぬ間にパンの欠片がスープに蕩けていた。
体が芯まで冷えない内に執務を切り上げ、早々に就寝する。そうしてアローネの求めてしまう侭に、ユーズトーリュの望む侭に、アローネはユーズトーリュの腕の中にいた。寒暑にも平然と耐える彼女の体はいつ触れても心地良さを寄越してくる。その事実を知った理由を思い出した途端に恥じらいへ火が点るが、安らかな感覚は襲い来る激しい寒さを忘れさせ、いよいよ燃え盛ろうとする恥じらいも彼女の撫でる手によって大人しくなった。
温かい感覚は長く焦がれていた安心を与え、安心がひと時でしかない事への不安ですら容易く掻き消していく。それこそが穏やかな時間なのだと知ったのも最近でしかない。届かなかった様々なものを彼女と共に知る度に、未知である幸福の形を確かめている心地だった。
ユーズトーリュと共にいる今夜、悪夢は見ないだろう。しかし自身の眠りは、眠りを知らない体である彼女を一人きり夜へと残してしまうものでもあった。過去には恐怖でしかなかった眠りは、今や淋しさを連れてくるものに変化している。
「ユーズトーリュ、君は夜の間、どうやって過ごしているの?」
眠気で声が若干歪んでいたが、まだ確かな意識はあった。
「よる が つれて きた もの と とも に、あさ を まって います」
「夜はどんなものを、君に……?」
ユーズトーリュの細指が白い髪を梳く。眠気が編み上がっていく。
「こごえる さみしさ、はい よる ふあん、あさ へ の のぞみ。それら は とても あざやか です」
ユーズトーリュは苦しみながら、苦しみの根源を抱き締めるしか出来ないでいる。アローネと出逢う以前、無機質な日々があるからこそ、現在を満たす生々しい温度があった。アローネとて彼女と出逢う前の凍り付いた生を思うと、その極寒を温める手を求めてしまう。
「だから こそ、ユーズトーリュ が あらた な いちにち を はじめる とき、こどく では あり ません」
一日が必ず始まるとは限らない。まして望んだ一日が続くなどごく稀なのだろう。朝の訪れ、アローネの目覚めが一日の始まりを告げるまで己の感情に襲われるのも、アローネが其処にいるからこそ起こる事象だ。
「アローネさま。ユーズトーリュ は、この せまい せかい に いたい の です」
アローネのもたらすものがユーズトーリュの世界を彩り、輝かせる。狭すぎるその世界を渇望出来るのも今だけだ。
「ユーズトーリュ……」
悲しさと、それを上回るもどかしさが言葉を紡がせる。伝えたいものの全ては込められないが、今は充分だった。
「ありがとう……」
二人で選んだ日々は険しく、悲しみが付きまとう。それでも良いと覚悟出来るのも、二人であるからだ。
ユーズトーリュは小さく笑い、遂に眠りへ落ちたアローネの頬を撫でる。未だ苦悩を抱えてはいるが、確かな成長も遂げる姿を、思えば誰よりも見てきた。そうした成長をいつしか嬉しいと感じるようになり、同時にユーズトーリュ自身だけが持つ感覚を知る。身に宿る子供達と混ざり合った意識とはまた違う、彼女たるものが強くアローネを求めていた。
未だ凍てつく中で、時だけが流れていく。凍り付いていた時は流れ続け、止めようが無かった。
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