煌めく灰燼
幾年が過ぎた。あの頃に戻れない現実を見せつけられても、最早己の何も動かなかった。たった一人の人さえも。
動いたものは成長してしまう体だけで、終わりを告げる変貌は誰にも止められなかった。
慣れた手付きで今日も世話をする。最初は方法が解らなかったが、見ている内に覚えて身に付けるまでに至った。現在、人が来る機会は洗濯物の回収と食事の運搬程度にまで減っている。
元々不眠症であり、命の危機に瀕したあの時から一切の眠りを許されなくなった彼は、今になって長い夢を見ているのか、何も無い暗闇に沈みきっているのか。どちらにせよ、この手は届かない。
「あなたの夢にわたしがいるのなら」
緑色の変質した肌に触れると、惨めさが伝わる。ただ温かいだけの塊として。
「わたしはやっぱり、泣いているのかな。ジェイスン」
またもアメジストを庇った彼は、再びの致命傷を受けた。強い衝撃は脳から伸びていた結晶を根元から折り、重い傷となって彼を停止させた。生きてはいるが、脳は殆ど活動をしていない。生死の判断を付けられない中で、ただ彼の側にいたい想いだけがあった。皇帝としての心は完全に折れてしまった。
伝承法により次期皇帝は即位した。ただしその後は呪われたように死者が続出しているというが、その報に動く心すら失っている。ただ流れゆく時を、止まった彼と共に過ごしていた。
あの瞬間から九年余り、数える事も忘れかけた。
匙を取り、彼に幾許かの液体を飲ませる。術酒に近い成分は彼の体を維持出来る唯一の飲食物である。飲ませられる面でも、身体的な面でもだ。嚥下だけはまだしてくれる。
彼も眠りの内に歳を取った。成熟しきった彼は、大人になった自分をどう見るのだろう。どう見たとしても自分の中の彼は彼の侭でいるのだろう。アメジストへの興味を失う彼は想像に難くなく、それこそが彼の抱えた苦しみであったからだ。
偶にアメジストは夢見る。彼と深くまで求め合えたらどれ程満たされる事だろうか。夢はおどろおどろしくアメジストの淋しさを撫で回した。しかし叶えようとするには、あまりに気力が無さすぎる。彼の望みを破壊する気力は何処にも無い。
あの頃、その方面までも理解を叩き込まれた頃に望みを叶えてしまえば良かったのだろうか。せめて彼の苦しみを削る程度に、彼の葛藤を弛めるように。だが、彼が拒んだ望みだったのも痛い程に解り、今や苦悩の夢はアメジストの無益な葛藤となっていた。だからこそ、終わりも無い。
無益な人物を無償で生かす事への反発は必至であり、日々増大している。元皇帝の残した功績ですら、反発の前では無意味だった。
そして限界を悟った。
放たれた炎が邸を包む。侍従の者は皆逃げただろう。呼びに来さえしなかった。
アメジストは揺らめく温度の中で、彼と共にいる。
「もう、いいよね」
温度はあの頃から凍り付いていた弱さを一気に溶かし、彼の顔に零れ落ちた。もう一度を願う希望も潰えて、喧しい死の気配に全てを委ねる。
「もう、いいよ……」
倒壊の音が聞こえる。何も怖くはなかったが、何もかもが惜しかった。惜しい思いも救われる事は無かった。
意識が朦朧とし始めた時、懐かしい赤色が視界に飛び込んできた。窓が割れる。破片は実にのろのろと散り、煌めきと現実を見せ付ける。あの頃温かかった体は、今も温かな侭だった。
先帝アメジストらの焼死体は発見されなかった。逃げ延びたのかすら不明だが、逃げられるものではなかったと誰もが考え、捜索も早々に打ち切られた。
時の流れで事件が忘れられた頃、現皇帝アキリーズは先帝達の記憶を整頓する中で尋ねた。
「貴方はどう思う?」
幼い少女は、首を捻りながらも答える。
「うーん。きっと、あたしが信じたようになってるよ。あの人はそういう人だから」
アキリーズの光を失った隻眼が静かに少女を見遣った。
「確率より何より、人となりだと。全く愚かなものだけど、それを信じてこそ僕達人間なのかもしれないね」
告げると少女は自慢げに微笑む。今も彼を信じる表れだった。
Back