残るひとりと夢のあと


 エトリアの街並みの一角にある喫茶店は今日も憩いの場となっている。その隅の席に、小柄な青年とローブに身を包んだ人物が座っていた。
「お久し振りです、お元気でしたか?」
「ああ。そちらも変わりないようだな」
「ええ。あれからもう、十年が経ちましたね」
「そうだな。もう十年だ」
 感慨深い言葉を聞くフレイアルトは、十年前と何も変わらない姿だ。
 世界樹が活動を停止して、十年が過ぎている。
 ヴィズルはまだ生きていた。己の体に世界樹を組み込んだ際、ヴィズル自身の寿命は停止した。世界樹の要素が消えた今、ヴィズルは本来の命で今日を生きている。
 世界樹を停止させたあの時に命を落とす筈だったが、壊死した世界樹は取り除かれた。それはまさしく、フレイアルトの思い込みが起こした超常現象に他ならない。
 店員が二人分の温かいコーヒーを運ぶ。フレイアルトは砂糖とミルクを入れ、スプーンで軽く掻き混ぜながら口を開いた。
「歩いてみましたか?」
「ああ、じっくりと」



 何故生かしたのかと憤慨するヴィズルへ、フレイアルトは告げた。
「貴方一人が淋しい思いをするのは、もうこれきりでいいんです。まだ、貴方は立てます。だから、これからを歩いてみてください。そんな生き方もありますから」
 悲しく、それでいて穏やかな眼差しに全てを見通される気分だった。
「もうこの世界は充分やっていけると思うんです。悲しい事は幾ら時間が経ったって無くならないし、もしかしたら滅びを繰り返すかもしれません。けれど、それでも人が学ぶ事を信じなきゃいけないんだと思うんです。だからこの世界を救ったんでしょう、みんなが笑ってたこの世界を」
 そう告げられた当時の記憶を呼び起こしながら、ヴィズルはコーヒーにミルクだけ入れて、混ぜずにその侭口へ運んだ。
「この世界は、やはり美しかったな」
「そうでしょう?」
 自慢する子供のようにフレイアルトが笑う。
「エトリアは今でも活気がありますよ。新宿の下にあった迷宮を踏破しても」
「なんと、其処まで辿り着いたのか」
「ええ、真朱ノ窟という名前が付けられました。フォレスト・セルも何度か撃破されています。けれどフォレスト・セルの再生力が強くて消滅には至っていません」
「ほお……」
 フレイアルトがコーヒーを小さく音を立てて啜る。苦さと甘さの手を取り合った味は近年好きになれた。
「世界樹は停止しましたけれど、生き物達はこれからも進化していくでしょう。あの迷宮は今も成長しているんですよ」
「そうか……。ところで」
「はい?」
 フレイアルトが小首を傾げるさまに愛嬌を感じつつ、ヴィズルは続けた。
「貴君は一体何者なのか、それを訊きたかった」
 フレイアルトは肩を竦めて俯き、内緒話をするように囁く。
「俺は幽霊なんですよ」
「それはまた……」
「非科学的な?」
 見上げる目線が悪戯めいて、ヴィズルは笑った。それにフレイアルトも笑う。
「この体は俺の思い込みで出来てまして。普通の人は脾臓とか膵臓とかあんまり思い浮かびませんでしょう? だから施薬院の先生に、内臓が足りないとか構造がおかしいとかでばれちゃいました」
「ははあ、専門の目は誤魔化せぬといったところか。貴君は研究を見ていたようだが、その辺りに生まれたのかね」
「いいえ、貴方が生まれるよりずっと前の人間です」
「それでは、古代文明の民か」
「いえいえ、俺は結構現代っ子ですよ。スマホの普及し始めくらいですけれど」
 懐かしい響きの単語にヴィズルは感慨深げに頷く。
「研究は、気持ち悪くて済みませんけれど、隣に立ったり覗き込んだりしてずっと見ていました。こっそりエトリアのフォレスト・セルと遊んだ事もありました。フォレスト・セルは、今でも俺の事を覚えていてくれました」
「あの薬は上手く出来ていたかね」
「ええ。フォレスト・セルはとてもいい子です。世界が好きで、何にでも真剣に取り組む真面目な子ですよ」
 フォレスト・セルを人のように扱うフレイアルトの優しさを感じながら、ヴィズルは少しだけ表情を暗くした。
「しかし、そのような若さで亡くなったのか」
「ええとですね……、ちょっと気分の悪くなる話ですけど、親が、保険金詐欺で、駅で俺を突き飛ばして、電車にどーんと」
「そうか……」
 ヴィズルの暗さが増したのを見て、フレイアルトは手を振って言葉を遮る。
「気にしないでください、自分であっさりした感じに思っていますから。貴方よりおじいちゃんなんですよ、人生経験の一つなだけです……あれ、死んでるから人生じゃないんですかね?」
 小さな疑問のように言う姿を見て、ヴィズルの顔から暗さが消えた。しかし代わりに出てきたのは別の疑問だ。
「なろうと思えば、世界の神になれたのではないのか?」
「そんな大役、一般市民がおいそれとなれませんよ。何したらいいか解らないですし。その分貴方は凄いですよ、神様役をやってたんですから」
「うむ……」
 コーヒーを一口飲んで、ヴィズルは口を開く。
「私達のした事は正しかったのだろうか」
 それは疑問ではあったが、自信を失くしたようには見えなかった。
 フレイアルトは両手でカップを包んで、温もりを確かめながら言葉を紡ぐ。
「貴方達は間違ってなかったと思います。ああしてくれなかったら、この世界は滅んでいました。貴方も、何も悪くないんですよ。貴方はこの世界が好きだったから、守ろうとしてくれた。大切な人達を亡くしても、挫けなかった。ただ……」
 フレイアルトの顔へ僅かに寂しさが差した。
「独りぼっちになりすぎたんです。一人で何もかもやろうとしてました。研究員の人達、世界中の人達の願いを背負って、一人きり頑張って、手伝ってくれる人のいるこの時代になっても、貴方は一人で抱え込んでました。誰かに頼ろうっていう考えが麻痺していたんです」
 世界樹という強大な命故に、人間の許容範囲を超えた事へ気付かなかったのだろう。フレイアルトの言葉は単純であり的確だった。
 ヴィズルは苦笑してフレイアルトを見る。
「貴君はまるで親のようだな」
「それはそうですよ、ギルドの永遠の『おとーさん』ですから」
 冗談めかして踏ん反り返ったフレイアルトが幼く見えて、ヴィズルは笑顔を零す。
「ははは。イランイランのメンバー達は元気かね」
「ええ。みんな、まだまだ引退してやるもんかーって。けれど一人だけ、枯れたモリビトのキルキルという子が、迷宮踏破後暫くして亡くなりました」
「枯れたモリビト……」
「モリビト達が『咲く』為に、生け贄としたモリビトです。あの子にはつらい思いをさせました」
 フレイアルトの表情が確かに陰った。
 復讐の果ての絶望、得たものはその事実だけだ。それを得ると解って止めなかったのもまた事実である。
 ヴィズルは沈んだフレイアルトを見て、穏やかに告げた。
「亡くなった彼は、貴君を恨んでいたのかね」
 言葉にフレイアルトは記憶を呼び起こしながらカップを見詰める。
「いいえ」
 ヴィズルが微笑んで頷き、フレイアルトも僅かな苦さに微笑んでから倣ったように頷いた。
「おっと、ちょっと失礼します」
 手で探ったポケットから懐中時計を取り出し、時間を見てフレイアルトは短く声を上げる。
「済みません、ギルドのみんなが待ってるんで、もう行かないといけません」
「そうか、残念だな」
 コーヒー代を取り出しテーブルに置くと、フレイアルトは残っていた自身のコーヒーを呷る。その途中でヴィズルが告げた。
「貴君は、どうして今も此処に留まっているのかね」
 コーヒーを飲み干して、唇を少し舐めてからフレイアルトは満面の笑みを浮かべる。
「多分、貴方とおんなじ気持ちですよ」
 最後に挨拶を残し、フレイアルトが小走りに店を出て行く。残されたヴィズルは、挙げた手を下ろしてからそろそろ湯気の無くなるコーヒーを飲む。
 取り残されていた自身と同じならば、淋しいのだろう。しかし自身と違い、あの青年は笑っている。
 そろそろ、また歩かなければならない。
 目標は、楽しみを探し当てる事だ。



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