「取材〜取材〜♪]
鼻歌を歌いながら、天羽は上機嫌で廊下を歩いていた。鞄を提げた普通科の生徒何人かにチラチラ見られてたが、気にしない。授業が終わった、この放課後こそ天羽にとっては今現在、最も大事な時間なのだ。クリスマスコンサートを成功させるため、学院の危機を救うため、やるべきことは沢山あった。日野たちのように楽器を演奏することはできないが、逆に自分にしかできないこともある。天羽は鞄を持つ手に力を込めた。
とりあえず、今日は記事を書いてそれから会場を見に行って……。
天羽が頭の中で予定を組んでいると、見知った顔が向かい側からやって来た。どこか複雑な表情で手に持った楽譜を見つめている。
「土浦君、これから練習?」
天羽が声をかけると、土浦は驚いたように顔を上げた。
「何だ天羽か」
「ちょっと、それどういう意味よ?」
「別に」
土浦は軽く笑うと、再び目線を楽譜に戻した。天羽も視線を楽譜に向ける。
「それ、今度のコンサートで演奏する楽譜?」
「あ、あぁ」
彼にしては歯切れの悪い返答。天羽は内心首を傾げた。
「でも、これ俺の楽譜じゃないんだ。ほら、ここ」
土浦が指し示した部分を見ると、そこにはVnの文字が。
これってヴァイオリンの楽譜ってことよね。
天羽は春のコンクールで得た知識を思い起こした。土浦はピアニストであるから、確かに彼の楽譜ではないようだ。
「じゃ、これ日野ちゃんの楽譜?」
「日野じゃない」
「違うの? それじゃこの楽譜って」
コンサートに参加している日野以外のヴァイオリニストなど一人しかいない。
「月森君の? 何で土浦君が持ってるのよ」
意外だった。このふたりは春のコンクールの頃から、犬猿の仲として有名なのだ。最近は以前のように出会う度にケンカということはなくなったが、だからといって特に親しくしているわけではない。
「俺だって好きで持っているわけじゃないぞ。忘れ物だ」
「忘れ物? 月森君が?」
「あぁ。音楽室にあったのを偶然見つけちまったな」
放って置くわけにもいかないだろう、とぼやきながら土浦は楽譜を裏返した。そこには『L.T』と書かれてあった。
「へー。何か珍しいね、月森君が楽譜忘れるなんてさ」
何かが引っ掛かる。
「明日は槍が降るかもな。」
土浦は肩をすくめた。
「ねぇ、どうして月森君が楽譜を忘れたと思う?」
天羽の問いに土浦は呆れたように答えた。
「別にあいつだって忘れ物のひとつやふたつくらいしたっておかしくないだろ」
「うん、そうなんだけどさ」
「
――恋してるのかなって思って」
「は? 誰が?」
唐突な天羽の言葉に土浦は目を瞬せた。
「月森君が」
一瞬の沈黙の後、土浦は大笑いした。
「ちょっと、そんなに笑うことないじゃない」
「だって……お前、あの月森が……」
よほどおかしかったのか、土浦は腹を押さえて笑っている。
「でも、ありえないことじゃないでしょ」
先入観は記者として、絶対に持ってはいけないものだ。それに天羽は月森に関して思い当たる節があった。勘に近いものだが。
「最近の月森君って、変わったと思わない?」
「そうか?」
「うん。何ていうか雰囲気が柔らかくなったよね」
「あいつはあいつだぜ。相変わらずトゲトゲしてる……まぁ、知り合った頃よりはマシになったがな」
やっぱり。天羽は両手を握り締めた。
「おいおい。お前、馬鹿なこと考えているだろ」
「馬鹿なことはないんじゃないかなー。これも記者の性よ」
「ありもしないことコソコソ調べるのが、記者の仕事か? 今は他に大事なことがあるだろ」
「うるさいなー。……別に記事にするつもりはないよ。だって」
そこで天羽は小さく手招きした。
「何だよ」
「ちょっと耳貸してよ」
辺りを確認する天羽。しぶしぶ土浦は耳を寄せた。
「月森君の好きな人って、春のコンクールメンバーの誰かだと思うの」
「は?」
「そうなると、日野ちゃんか冬海ちゃんよねー。もし上手くいったら現代のヴァイオリン・ロマンスとして、記事したいけどね。そこんとこ私もわかっているって」
勢い良く右目をつむってアピールしたが、土浦は半眼で天羽を見ていた。高身長のため妙に迫力がある。
「ますます信じられねえよ。根拠はあるのか?」
「あるわよ。私、この前に見ちゃったのよ」
怪訝な顔をしている目の前の男を驚かせるために、天羽は鋭く言葉を放った。
「月森君が森の広場で春のコンクールの集合写真を見てるところを!」
ふぅと息を吐き、天羽は腕を組んで、土浦を見上げた。
「
――って土浦君!」
天羽の目に映ったのは、土浦の後姿だった。
まだ話すことがあるのに。焦る天羽を尻目に土浦は
「お前の話を聞いた俺が馬鹿だった」
そう言うと片手を上げ、ひらひらと振りながら歩いていく。こちらをちらりとも振り返らないのが、また腹立たしい。
「あーもう!……そうだと思うんだけどな〜」
人目につかない場所で写真を見てた月森君の、あの眼差し。愛おしげで憂いげな。あれほど写真を熱烈に見つめている理由が恋ではないのならば、なんなのだろうか。
――土浦君も目撃したら、絶対にそう思はずよ。
天羽は遠ざかるピアニストの背中をもう一度睨みつけ、溜息を吐いた。
◇◆◇◆◇
ここだな。
土浦は練習室の前で立ち止まった。右手には件の楽譜がある。
厄介事はさっさと済ますに限る。
深呼吸をしてドアを叩く。わざわざ中を覗き込んで確認する必要もない。
ドアの隙間から漏れ聴こえるヴァイオリンの音が何よりも雄弁に部屋の中に居る人物を物語っていた。そういえば。と土浦はふと思った。先程、天羽が月森の雰囲気が変わったと言っていたが、最も変わったのは音だろう。
出会った頃の月森のヴァイオリンの音は、堅物な、技巧はあっても土浦にとっては嫌いな部類の演奏だった。それがいつからだろうか。月森が、ヴァイオリンを歌わせるようになったのは。嫌いだった月森の演奏に、音に、たまに聴きいるようになったのは。時に甘く、時に苦く奏でられるその旋律はまるで
――恋してるのかなって思って。
不意に天羽の言葉が甦る。
まさか、な。
「君か」
土浦の思考は、無愛想な声で遮られた。
いつの間にかドアが開いていて、目の前には月森が立っていた。
「とりあえず、入ってくれ」
「おい」
楽譜を渡しに来ただけで、すぐに帰るんだよ。と土浦が言う前に、月森は部屋の中へ戻っていった。取り付く島もない。
土浦は仕方なしに月森の後を追った。
「で、なんの用だ」
土浦がドアを閉めると同時に月森は尋ねた。俺は練習で忙しいとでも言いたいのか、ケースに置いてあったヴァイオリンに手を伸ばしている。
――こっちだって早く用件済ませて練習したいぜ。
土浦はそう心の中で呟くと手に持っていた楽譜を掲げた。
「これに見覚えがないか、月森」
ヴァイオリンを手にした月森がこちら見る。その瞳が僅かに見開かれた。
「それは」
「お前のだろう?」
月森は静かに頷き、楽譜を受け取った。
「すまない、探していたんだ。……これを渡しに来たのか」
幾分か声のトーンが下がっている。
「そうだ。それ以外に俺が来る理由があるのか?」
月森の様子にに戸惑いながら答える。楽譜を忘れたことがショックなのか、それを俺に知られあまつさえ届けられたことがショックなのか。
「いや、その、君が俺と合わせに……すまない。そんなわけはないな」
「合わせるって、俺のピアノと月森のヴァイオリンを? 何で
――」
「昨日、火原先輩としていただろう」
俺の声を月森が強い口調で遮った。プラスこちらを睨みつけている。
確かに昨日、火原先輩と音楽室で合奏していた。と言うのも、トランペットが主旋律を担当する部分で先輩がどういう風に演奏するのか、そしてそれにどう合わせればいいのか確認したかったからだ。それと何の関係が?
訝る土浦の表情を月森は一瞥すると、ますます険しい顔つきになった。
「ただの勘違いだ。用は済んだのだろう? 練習の邪魔だ、出てってくれないか」
「音楽科のエリート様はそんなにお忙しいのかね。言われなくても出て行くぜ」
月森の態度に腑に落ちない点があった土浦だったが、売り言葉に買い言葉。さっさと月森に背を向けた。
「やっぱり、天羽の言うことはあてにならないな」
「お前みたいな朴念仁が恋をしているなんて」
「天羽さんが?」
絶対零度の言葉を浴びせられるのかと思っていたが、意外にも月森の声には戸惑いが滲んでいた。身構えていた土浦はその様子に拍子抜けし、後ろを振り返った。
「騒いでたぜ。さっき」
「なんだって」
ヴァイオリンを手にしたまま固まる月森に、土浦は苦笑した。
「天羽のいつもの勘違いってやつだろ。迷惑な話だぜ」
やれやれと肩を竦める土浦に、ようやく衝撃から立ち直ったのか月森が言葉を発した。
「……何故、天羽さんはそんな勘違いを?」
「根拠なんてないぜ。月森にしてはらしくない忘れ物とか、雰囲気が変わったとか」
「変わった? 俺が?」
「さあな」
土浦は肩を竦めた。言えば言うほど、馬鹿らしい根拠だ。
「あとは森の広場で学内コンクールの時の写真見ていたとかなんとか」
「!」
月森は目を見開いた。心なしか顔が赤くなっている。
「どうかしたか?」
「まさか、見られていたとは……」
口ごもる月森を見て、土浦は呆れた。
「別に気にすることじゃないだろう。写真を眺めていたのを見られたくらいで」
言った瞬間、土浦は後悔した。 月森が目を吊り上げてこちらを睨んでいた。
「君はそうかもしれない。だが、俺は」
そこまで言い、月森が視線を床に向けた。
「すまない。君には関係のない話だったな」
「いやにムキになるんだな。まさか本当に」
「そんなわけはない」
その態度が余計に怪しいんだよ。
心の中で土浦は突っ込む。信じられないことだが、天羽の予想はあながち的外れではないようだ。明日は、槍どころかグランドピアノが降りそうだ。
「別に恋愛しても良いと思うぜ、高校生なんだし」
「だから、俺には関係がないと言っている」
頑なに否定する月森がなんだか微笑ましかった。
もし、本当に好きな人がいるのなら応援してやりたいと思う。月森のことはいけ好かない奴だと認識しているが、それだけではないことも土浦は知っていた。
要は不器用なんだよな。
対人スキルが低いとも言うが。
だが、無愛想なこいつに恋人ができたらどう変わるのだろうか。どんな風に、ヴァイオリンを歌わせるのだろうか。最近、月森の演奏が変わってきたのが恋によるものだとしたのならば、成就した暁には
――
ゾクリと鳥肌が立つ。
と、同時に月森の演奏にばかり気がいっている自分に苦笑した。
月森のことを笑えない。音楽馬鹿だ。
しかし、土浦はそれをきっかけに自分の中にあった音楽に対する情熱が燃え上がっていくのを感じた。やはり、コンクールが終わっても、こいつが、こいつの存在が。俺を駆り立てる。
土浦は無性にピアノが弾きたくなった。
「何を黙っている」
「いや、あのさ」
鋭い視線を投げかける月森を窺いながら、土浦は口を開いた。
「少し、ピアノ弾いていって良いか?」
「なっ」
二の句を継げない月森を無視して、土浦はピアノへと歩み寄った。そのまま椅子を引き、振り返る。
「今すぐ弾きたい気分なんだ。一曲だけだ」
「……どうせならコンサートの曲を合わせよう。その方が効率的だ」
楽譜はもう頭に入っているんだろう? と言外に問う月森に土浦は口の端を上げた。上等だ。
「やっぱり、お前、変わったよ」
以前の月森だったら、誰かと合奏しようなんて自分から言い出さなかっただろう。ましてや土浦など。
土浦はピアノへと視線を戻し椅子に座った。ゆっくりと蓋を開ける。意識する必要もないほど、習慣とかした動作だ。そして、鍵盤に指を置く。その刹那
――
「君のせいだ」
微かだが、月森の声が聞こえた。
……気がした。
「
――え」
思わず振り返る。しかし、
「なんだ」
何事もなかったかのように、月森はヴァイオリンを構えていた。
「いや、お前いま」
どことなく厳しい表情でこちらを見る月森に、土浦は言葉に詰まった。
「……悪い。なんでもない」
改めて、ピアノに向き直る。
月森と合わせるのに、余計なことを考えている余裕はない。
気合を入れるため一息吐いた後、土浦の指は鍵盤を叩き始めた。
◇◆◇◆◇
「朴念仁はどっちだ」
土浦が去った練習室で、小さな呟きは誰に聞かれることもなく夕闇に溶けていった。
【朴念仁の恋】