いつもと違う朝


 



 春の柔らかい日差しに包まれて月森はのんびりと歩いていた。もう一年も通っている道だ。特に意識せずとも迷うことはない。今日の一限目の授業は何だっただろうか。電柱に止まるすずめを見ながら思う。
 そのまま進んで行くといつもの交差点に着いた。運の悪いことに信号は赤だ。横断歩道の前には既に自分と同じ星奏学園の制服を着た生徒たちが何人か溜まっている。月森はその集団の少し後ろで立ち止まった。信号はまだ赤い。
 ふと隣に気配を感じて横を見ると、目が合った。
 相手も同時にこちらを向いたようだ。月森だと認識した途端に眉をひそめた。それがまた、不愉快だ。と月森は思った。多分、自分も同じ表情をしているのだろうが。しかし、目が合った以上無視するわけにもいかない
「おはよう」
 素っ気無くだが一応挨拶をする。
 すると相手――土浦は目を丸くした。月森が挨拶をするなど思ってもいなかったようだ。
「あ、あぁ……」
 土浦は困惑気味に首の後ろに手を置いて応えた。その様子が何だか可笑しかった。こんな土浦の顔は初めて見た気がする。月森に見覚えがあるのは、いつもの仏頂面か皮肉気に口の端を上げている顔だ。
 後は――演奏する時のあの真剣な顔。
「お前が俺に挨拶するなんてな」
 土浦が独り言のように呟く。その声に、月森は我に返った。無意識に前回のセレクションでの土浦の演奏を思い出していた。
「俺が挨拶してはいけないとでも?」
「そうじゃない」
 土浦は盛大に溜息を吐いた。
「ひょっとして、お前そういう言い方しかできないのか?」
「どういう意味だ」
「まぁ、愛想の良い月森なんて気持ち悪いけどな」
 失礼な男だ。やはり、合わない。
 信号が青に変わった。
「くだらない」
 月森は吐き捨てるように言うと早足歩き始めた。土浦もその隣に並んで歩く。一緒に登校するつもりなのか。内心驚いたが、表情には出さずに続けた。
「そんなことを言っている暇があるのなら、
次のセレクションのことでも考えたらどうだ」
「言ってくれるな。そういうお前は曲決めたのか?」
「いや……」
 月森は言い淀んだ。
 正直なところまだ決めてはいなかった。いくつか候補の曲は挙がってはいるのだが、このコンクールでは規定の時間内に演奏を収めるというルールがあるため、編曲の仕方がとても重要になる。だから、編曲のことも含めて慎重に検討しなければいけないと考えていた。
「俺はもう決めたぜ。後は編曲用のアレンジを考えないとな」
 そういえば、この男はこの規定についてどう思っているのだろうと月森はふと思った。
「君はこのコンクールのルールについてどう考えている?」
「なんだよ、唐突に。演奏時間一分半ってのについてか」
「そうだ。俺は……あまり好ましいと思えない。
規定の時間内に収めようとすると必ず切り落とさないといけない部分がでてくる。いくら原曲の雰囲気を損なわないように気を使ったとしても、それでも限界がある。やはり原曲は原曲のまま、一曲通して聴いてもらうのが一番良いと思う。」
 月森は一息に言った。反発されるかと思ったが、意外にも土浦は興味深そうに聞いていた。
「言いたいことはわかる。確かに、音楽科の連中にはそっちの方がいいかもな。だがな、普通科の奴らに原曲そのままいちいち聞かせたらどうなると思う?」
 意味がわからない。月森は首を傾げた。音楽を聴くことに対して、音楽科も普通科もないはずだ。第一、彼こそ音楽科、普通科と区別されることを嫌っているはずではなかったか。
「何を言ってるんだ。君は」
「寝るぜ」
「は?」
 予想外の言葉に月森はぽかんとした。その反応に土浦は苦笑する。
「普段、クラシックを聴かない連中なんてそんなもんだ。いや、それが悪いってわけじゃなくてな。そういう奴らに気軽に聴いてもらうってことが大切なんじゃないか。あの羽つきも考えたもんだ」
「羽つき? リリのことか。そういう呼び方はどうかと思うが……」
 確かにあの妖精は常日頃、音楽科と普通科に隔たりがあることを嘆いている。では、コンクールの演奏時間に制限を設けたのは日常で音楽に触れない普通科の生徒のためだったのか。
――そんな考え方もあるのか。
 目からうろこが落ちる思いだった。幼少の頃から、ずっと音楽に囲まれて育ってきた自分にはとても思いつかないことである。
「なるほど。君の言うことも一理ある」
 月森は小さく頷いた。
「原曲のテイストを保ったまま編曲するのは大変だし面倒だが、コンクールが終わった後に同じクラスの奴とかにその曲に興味を持ったって言われるとすごく嬉しいんだよな。やりがいがあると言うか」
 そう言って土浦は嬉しそうに笑った。こんな風に笑われるとどうして良いかわからない。これは本当にあの土浦なのだろうか。馴染みのない笑顔に月森は戸惑った。これは夢なのだろうか。
 しかし、たとえこれが夢だろうと現実だとうと今の状況は
――悪くない。
 月森は別に土浦が嫌いなわけではない。彼のピアノは素晴らしいと思っている。だからこそ、彼の存在を無視できなかった。自分を否定されたら言い返せずにはいられない程。本当は、ずっと前からこんな風に彼と話してみたかった。
 月森は初めてそのことをはっきりと自覚した。
「月森?」
 黙り込んだ月森を、土浦が不審げに呼ぶ。
 それに月森が応えようとした瞬間。後方から声が聞こえた。


「土浦ー。おはようっ!」
 普通科の制服を着た男が駆け寄って来て軽く土浦の背中を叩いた。
「よう。佐々木」
 友人なのだろう。土浦もにこやかに応える。
「昨日の試合観た? すごかったよな〜。あのゴール」
 佐々木は土浦と平行して歩きながら、目を輝かせてなにやら語り始めた。ゴール? 何のことだろうか。月森が疑問に思っている間に土浦が頷く。
「あぁ。シュートも良かったけど、その前のパスが絶妙だったよな」
「そうそう。DFの意表を突いたあのラストパス。痺れるよな〜。俺もあんなボール蹴ってみたいよ」
 サッカーか。二人の会話を聞いてようやく合点がいった。そういえば、土浦はサッカー部だったと今更、月森は思い出した。 土浦と言えばピアノ。そんな先入観があった。
 しかし、何の話をしているかわかったものの、隣で楽しそうに話している二人に対して月森は苛立ちを覚えた。
 何だ、この感情は。理由のわからない苛立ちはやがて怒りに変わる。よくわからないが、いま隣にいる男が腹立たしい。
 八つ当たり気味に隣の土浦を睨むと、思いがけず土浦を挟んで反対側にいる佐々木と目が合った。そこで初めて月森の存在に気が付いたのか。佐々木は申し訳ないという風に弱々しく話しかけてきた。月森の眼光に怯えていたのかもしれない。
「えっと、月森君だよね?」
「そうだが」
「俺、普通科の佐々木。土浦とは同じサッカー部で」
「そうか」
「うん。コンクールいつも行ってて……あっこの前の月森君の演奏良かったよ」
「ありがとう」
「……」
「……」
 土浦〜と泣きそうな顔で助けを求めてくる佐々木に土浦が助け舟を出す。
「こいつ本当にお前の曲が気に入ってるみたいでさ。今度俺がCD貸してやることになってるんだぜ」
「う、うん。土浦からあれが編曲してあるからって教えてもらって……。全部、通して聴いてみたいと思ったんだ。良い曲だなって思ったから」
 佐々木の言葉に思わず月森は土浦の顔を見た。あまりにタイミングが良い。 土浦は可笑しそうに笑っていた。
「な、俺の言った通りだろ? で、感想は?」
「確かに、嬉しいものだな」
 月森も微かに笑う。
音楽科だったら、まず月森の技術を褒めただろう。もしくは表現、編曲などを評価しただろう。彼らには知識がある。だが、佐々木のような感想も悪くはない。これが編曲のルールの真意なのだろうか。
「え?なになに」
 話に付いていけない佐々木が戸惑った声をあげる。佐々木の問いに土浦と月森は一瞬、目を合わせて。また笑った。
 秘密の共有。その時、確かに月森は佐々木に対して優越感を感じていた。
「な、何だよ。二人とも」
「悪い悪い。佐々木は良い奴だってことだ」
「それじゃわかんねーよ、土浦」
 佐々木が納得いかないという風に頭を掻いた。その様子を微笑ましく見ていた月森だったが、ふとあることを思い出した。
「そういえば、その前回俺が演奏した曲なのだが、週末に近くのコンサートホールで行われる演奏会で演目の一つに入っているらしい。」
「演奏会?」
 月森の発言に佐々木は目を瞬せた。
「あぁ。ヴァイオリンの独奏とオーケストラでは聴いた時に受ける印象はまた違っていると思う。興味があるのなら行ってみてはどうだろうか」
「それはいいな」
 土浦も月森の提案に同意する。しかし、肝心の佐々木は浮かない顔で「……うん」と曖昧な返事をしただけだった。
「すまない。余計なことだっただろうか」
「ごめん。そうじゃなくて、違うんだ」
 佐々木は慌てた様子で首を激しく振った。そして、俯いた。
「おい。どうしたんだよ」
 土浦が心配そうに覗き込む。佐々木はちらりと土浦の顔を見ると呟いた。
「俺、そういうの行ったことがないんだ。学内コンクールを除いてね」
「音楽に関心ないとそうだよな」
 土浦が頷く。
「うん。それで」
 佐々木はそこまで言って、言い辛そうに口ごもった。再び視線を地面に彷徨わせる。
「佐々木?」
 土浦が促すように名を言う。佐々木は、足元の石を軽く蹴飛ばすと顔を上げて再び土浦の顔を見た。
「だからさ、土浦も一緒に行かない?」
「「は?」」
 佐々木の予想外の言葉に月森と土浦は同時に驚きの声を出した。
「別に独りじゃ寂しいとか格好悪い理由じゃないからな。ほら、こういうのはやっぱり詳しい人と行くのがいいかなーと思って。その点、土浦は適任だろ」
二人の反応に佐々木は慌てて弁解する。
「いや、だからって」
 土浦が困惑したように髪を掻き上げる。それもそうだ、と月森は思った。急に言われても困るだろう。第一、今はコンクール中だ。自分だった絶対に断る。
 そんな月森の思考も知らず、佐々木はこぶしを握り締めて土浦に食い下がっている。
「頼む。一生のお願いだ」
「お前、それ何回目だ。この前、英和辞書を借りに来た時も言ってたよな」
「……。土浦〜一緒に行こうぜ。俺、一人だと確実に寝る自信があるんだ」
「そんな自信は捨てろ!」
 月森は隣で二人の会話を傍観していたのだが、ぽんぽんと言葉のキャッチボールを続ける様子に感心した。
――仲が良いんだな。
 月森と土浦だったら、こうはいかない。二言、三言話しただけでお互いが不愉快になり、結果として会話が終わる。今は例外中の例外なのだ。そう思うと悔しかった。もっと土浦と音楽について話してみたい。彼が考えていることを知りたい。だが、どうすればいい。月森は漠然とした不安を覚える。土浦の隣を歩いているこの時は、まるで幻だ。正門を通り抜けたら、自分たちの関係は何事もなかったかのように元に戻る。そんな気がした。月森は途方に暮れる。
 隣では未だに土浦と佐々木が言い合っていた。内容は月森にはよくわからないが、いつの間にかサッカー部の話になっているようだ。大会がどうだとかスタメンがどうとか言っている。
「演奏会の話はどうなったんだ……」
 月森の発言に佐々木が手を打つ。
「そうだったよ。その話をしてたんだった」
「忘れていたのか?」
月森が呆れると佐々木は笑った。
「ううん。土浦と久しぶりに話せて嬉しかったからつい脱線した。クラスが違うと部活がなきゃ、中々会えないから」
 佐々木はそう明るく言ったが、月森にはその言葉が重く圧しかかった。自分はクラスどころか科も違う。会う機会がないどころではない。今朝だって偶然に会っただけだ。偶然を偶然で終わらせて良いのか。月森は意を決して口を開いた。どうすればいいのか。答えはとっくに見えていた。
「土浦」
「何だよ」
「君は行くべきだ」
「は?」
「月森君!」
佐々木が目を輝かせる。
「おい、勝手に決めるなよ」
 土浦は立ち止まって月森を睨みつけた。月森も歩みを止めて真っ向から土浦を見返す。コンクールが始まってから何度も繰り返されてきた光景。だが、いつもは違う。月森はざわめく内心を隠して、何気無く告げる。
「大丈夫だ。俺も行く」
「……すまん。もう一度言ってくれないか? 聞き間違えたみたいでな」
 土浦が額に手を当てて、ゆっくり言った。月森は分かりづらかっただろうかと呟くと、はっきりと宣言した。
「俺も君たちに同行すると言ったんだ」
「何でそうなるんだよ」
 土浦は頭を抱えた。佐々木は純粋に驚いているようだ。口が開けっ放しになっている。
「元々、演奏会のことを言い出したのは俺だ。責任は取る」
「いや、関係ないだろ」
「ほら、土浦。行くの? 行かないの?」
 煮え切らない土浦の態度に焦れたのか、驚きから立ち直った佐々木が問う。 土浦はあーだがうーだが言いながら自身の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。そして、月森の方を一瞬見た後、佐々木に向き直り答えた。
「そこまで言われて断れるかよ」
「ありがとう、土浦」
 その返答に佐々木は微笑んだ。そして、月森の方を見ると軽く頭を下げた。
「月森君もありがとう」
「いや……」
 礼を言うのはこちらの方だ。と月森は思う。佐々木がいなかったら、自分は踏ん切りをつけられなかった。おそらく。
 そう思って隣に居る土浦を見ると目が合って。心臓が跳ねた。
「どういう風の吹き回しだ? お前が俺と一緒に演奏会に行きたいなんてさ」
――君ともっと話してみたいから
などと言えるはずもない。
「勘違いしないで欲しい。別に君のためじゃない。君の友人のためだ。
それに、他人の演奏を聴くことは勉強になる」
「そうか」
 土浦はそれ以上追求してこなかった。ただ穏やかな瞳で月森を見ていた。その深い色をした瞳を見ていると、全て見透かされそうで月森は視線を外した。土浦は特に気にした様子もなく、腕時計を見ると佐々木に声をかけた。
「じゃ、そろそろ行こうぜ。遅刻しちまう」
「マジ?」
「大丈夫だろう、多分」
軽く笑って土浦は歩き出す。
 その背を見ながら月森はまだ来ぬ週末に心を躍らせた。



【いつもと違う朝】

2014/08/23