「一緒に食べない?」
鞄から弁当を取り出した瞬間、頭上から聞き覚えのある声が聞こえた。反射的に振り返った。俺の席は教室の後ろのドアのすぐ近くなんだが、そこから予想通りの人物が、つまり加地葵がひょっこり顔をのぞかせていた。片手には購買で手に入れたであろう戦利品を持っている。
「今日は天気が良いから、外がいいよね」
そういうと、俺の返事も聞かずに歩き始めた。
「っおい!」
「ほら、早く早く」
振り返って当然のように手招きする男を見て、俺は盛大な溜息を吐いた。
どうやら、俺に拒否権はないらしい。まぁ、別に他に約束もないが構わないが。
「行く当てはあんのか?」
自分の弁当を引っ掴み、加地の後を追う。
「とっておきの場所がね」
加地が振り返って片目をつむったが気にしないでおく。俺の背後から女の黄色い悲鳴みたいなものが聴こえたが、これも気にしないでおく。いちいち気にしていたら、こちらの精神が持たない。
「ならさっさと行くぞ」
早足で加地に追いつき、横に並ぶ。
「あれ、無反応? 僕のウインクお気に召さなかった? ちょっと悲しいな」
「お前なぁ」
「冗談だよ」
加地はいつもようにふふっと笑った。そのいかにも余裕たっぷりの笑みが癪に障る。ムッとした俺に気が付いたのか、加地は急に真顔になって唇を俺の耳に近づけた。
「おい、」
「
――相談したいことがあるんだ」
一方的にそう言うと加地は離れた。俺は思わず加地の顔を見た。だが、そこには先ほどと変わらないニヤケ顔しかなく、挙句の果てに「どうしたの? 僕の顔に見惚れた?」などと言ってくる始末だ。さっきの真剣な顔は何だったのか。幻だったのか。釈然としなかったが、加地はそのことについては触れずに話を振ってくるので、結局俺はそれ以上訊くことはできなかった。
「で、相談って何だ」
俺が再びそのことを口にしたのは、弁当を食べ終わった後だった。
加地の言う“とっておきの場所”とは、案の定というか予想通りというか普通科校舎の屋上だった。立ち入り禁止のこの場所は加地のお気に入りで、よく出入りしているらしい。日野の話では、好きな小説を持ち込んでいたりするらしい。全くよくバレないもんだ。
加地が飲んでいた紙パックの牛乳のストローから、口を離す。
「綺麗だね」
「は?」
予想外の回答だった。
「それ」
すっと加地は俺の手元を
――正確には丁度包み終わった弁当箱を指した。
「男にしてはきっちり結ぶんだね」
「悪いかよ」
こういうのが気になってしまう性分なのだから仕方がない。仕方がないとは思っているが、改めて指摘されると気恥ずかしい。大体、俺の質問は無視かよ。照れ隠しも含めて語気を強めて再度訊く。
「そんなことより。お前、俺に相談があるんじゃないのか」
「うん」
加地は頷くと、俺の目を真っ直ぐに見た。俺は思わず唾を飲み込んだ。
「最近、ストーカーされているんだ」
ストーカー? おおよそ予期していなかった言葉に俺は固まった。
「マジか……」
「マジだよ」
しみじみと加地は言った。確かにこいつは顔は整っているし、それなりに気はきくし女にモテそうだ。実際、俺のクラスの女子たちも美形の転校生っていうことで盛り上がっていたな。しかし、モテるあまりストーカー被害に遭うとは。
「具体的にどんなことされてるんだ」
一応、俺は尋ねた。加地を疑っているわけじゃないが、自意識過剰ってこともある。なんせ相手は女だし。大したことないんじゃないかと、思っちまった。
「うーん。気付いたの私物がよく無くなるようになってからかな。僕が席を外している間に、消しゴムが無くなっていたり、ね。他には下駄箱に熱烈なラブレターくれたり、大量に。あと」
「あと?」
俺は自分の顔が徐々に引きつっていくのを感じながら、先を促す。
「視線をね、感じるんだ。家に居るとき以外はほとんど。この前なんて、日野さんと休日練習している時にも見られてたんだ。ゾッとしたよ」
俺が悪かった。
心の中で加地に頭を下げた。認識が甘かったとしか言いようがない。関係ない俺でさえ血の気が引くくらいなんだから、当事者の加地はその比ではないだろう。まったく、犯人はなんだってそんなことをするんだ。好きなら好きだと堂々と伝えればいいじゃないか。こんなことをしても何の意味もないぜ。大体、いつでも見られているなんてちょっとしたホラーじゃねえか。ん?
ちょっと待てよ。
俺の頭にふと怖ろしい考えが浮かび上がった。
さっき加地は何と言っていたか。
――視線をね、感じるんだ。家に居るとき以外はほとんど。
じゃあ、今はどうなんだ。
俺は反射的に少し離れたこの屋上唯一の出入り口を見る。
ドアはほんの少し開いていた。
「
――ッ」
加地と言おうとした瞬間、俺は押し倒された。世界が引っくり返って、眼前に青空が広がる。あぁ、本当に良い天気だ。ってそんなこと考えている場合じゃない。この馬鹿は何を考えているんだ。
「おい、加地どういう」
「愛してるよ、土浦」
は?
俺の言葉を遮って、俺に覆い被さる加地は大真面目な顔で言い放った。それも大声で。頭がおかしくなったのか?
呆然とする俺を尻目に加地はそっと俺の頬に手を添えて、顔を近づけてきた。間近で見るその顔はやはり整っていて、一瞬だけ俺は見惚れた。
その隙に加地はこともあろうことにキスしやがった。
「ん……んっ……」
思いもしなかった加地の行動に更に混乱する。慌てて押し退けようとするが、体勢が悪いせいか加地は微動だにしない。それどころか、奴は舌を入れようとする。ちょっと待て、それはマジで洒落にならん。やめ ろ
俺の思いが通じたのか、加地は不意に身を離した。そのまま何も言わず、立ち上がってチラリと横を見て、そして
「上手くいったみたいだ。ありがとう、土浦」
腹が立つほど爽やかに加地はこちらを見下ろして笑った。
「どういう、意味だ」
口元を拭いながら、訊く。もちろん、睨みつけるのを忘れない。
「そんな目で見ないでよ。ほら」
加地はすっと手を上げると、屋上のドアを指した。
ドアは隙間などなかったように、完全に閉ざされていた。
「やっぱり、居たのか」
件のストーカーが。肌寒い風が背中をなでた。
「うん。だから土浦にキスしたんだけどね」
「それがわからないんだよ。なんで、……なんかしたんだよ」
後半になって声が小さくなってしまったのはしょうがない。男が男に言うセリフじゃないだろ。ちなみに加地は規格外だ。
そんな俺の気持ちも知らず加地はふふっと笑った。
「こんなことで赤くなるなんて、可愛いな」
「殴るぞ」
「どうせなら、蹴られる方が良いね。君の指が傷付かないように」
こいつは本当に口が減らない。
「お前な、前にも言ったが俺はこういう類の冗談が大嫌いなんだよ」
「ごめん、ごめん。言うよ、言う」
怒りを含んだ俺の物言いに加地は慌てて言い始めた。
「僕さ、あまりにひどいから、ストーカーにガツンと言ってやろうと思ったんだ」
それはそうだろう。あそこまで付き纏われていれば、言いたくもなる。というか本来なら警察を呼んでもいい。
「でもさ、ストーカーの奴、勘が良いというか。捕まえようとしようとすると途端にいなくなるんだよね。逃げ足も異様に速いし」
「自分から追っかけているくせに、こっちから行くと逃げるのかよ」
それが恋心ってやつなんだよ。と加地がしたり顔で言う。俺は納得できなかった。だってそうだろ。そいつはストーカーなんだぞ。恋なんて言葉で許されることじゃない。俺の不機嫌なオーラを感じたのか加地は、そういうことにしておいて、と軽く微笑んだ。悲しそうな笑みだった。
何でそんな顔するんだよ、お前は。
「それでね、どうしようか困っていたんだけど……ほら、さっき言ったよね?
日野さんと休日に練習している時にも来たって」
「あぁ」
言ってたな。
「気付いた時はどうしようかと思ったよ。そうしたら、日野さんも気が付いてくれて、土浦にも見せたかったな。彼女の走りっぷり」
加地は目を輝かせて興奮気味に話してくれたが、残念なことに俺はそれほど驚かなかった。あいつの足の速さは、春のコンクール中に十分思い知らされている。転校してきた加地が知らないのは無理もないが。
「で、捕まえたのか」
このまま放っておくと、また女神だの加地お得意の日野賛美が始まりそうなので、すかさず先を促す。
「まだ言いたいことがあるのに」
加地が不満そうにブツブツ言っている。俺の予想通りだったらしい。まったく。
「そうだよ。捕まえたよ。日野さんのお陰でね。それで、ストーカー行為を止めるように言ったんだよ」
「でも、ダメだったんだな」
上手くいっていたのなら、当然ここに来るはずないからな。
「違うよ。証拠があったら止めるって言われたんだ」
「証拠? なんだよソレ?」
怪訝な顔をした俺に加地は手を叩いた。
「ごめん。言い忘れてた。説得する時に、『僕、付き合っている人がいるから諦めて下さい』て言ったんだよ」
うん?
「お前、恋人いるのか?」
「いないよ。嘘も方便ってね」
でも、証拠を要求されたんだよな。どうすんだよ。誰かに協力でもしてもらわないと
――
その瞬間、俺の頭にパズルのピースのように先ほどの出来事と加地の話が組みあげられ、ひとつの答えが現れた。
「おい!! まさか」
俺は立ち上がって、加地に詰め寄る。
あり得ない。
あり得ないとは思うが、加地ならあり得る。
俺の早とちりであってくれ。祈るような気持ちであいつの顔を見る。
加地は悪戯が見つかった子供のようにぺろりと舌を出した。
眩暈がした。
つまり、こういうことだ。加地は恋人がいることを証明するために、ストーカーの目の前でキスしたわけだ。何故か男である俺に。最悪だ。
「お前、何考えてんだよ!」
男と付き合っているだなんて誤解された日には明日から登校拒否だ。
「だって、女の子相手にするわけにもいかないでしょ」
「それはそうだが、だからってっ……」
「大体ね、ストーカーされたのは土浦にも責任があるんだよ」
人差し指を俺に突きつける加地。微妙に間抜けな姿だ。
「はぁ?」
それにしても、俺が何をしたというんだ。品行方正とは言わないが、少なくとも現時点で加地に迷惑をかけた覚えはない。
「文化祭だよ。みんなでバンドやった時にさ。舞台の上でしたよね」
文化祭? 何で文化祭の話が出てくるんだよ?
怪訝な顔をしている俺を一瞥して、加地は見慣れたにやけ顔で言い放った。
「キス」
思い出した。
思い出したくなかったが、思い出した。
演奏が終わって、たくさん拍手もらって余韻に浸っていたら。
いつの間にか加地の顔が近くにあって。
それで。
頬になにかが触れ
――
「アレはお前が勝手にしたんだろ!」
そのせいで、加地と一緒にいると女子からキャーキャー言われるようになったり、挙句の果てに天羽にからかわれたりと、思い出しただけでも腹が立つ。
「まぁまぁ。あの時は盛り上がって良かったよね」
「俺は良くねえ!!」
「でも、そのせいでホモセクシャルだと思われて」
加地は急に声のトーンを下げた。
「男にストーカーされるはめになるとはね。僕も予想外だよ」
何だって?
加地の言葉に俺は耳を疑った。
「0%だと思っていた可能性が0じゃないと知ったら、想いが抑えられなかった。って、気持ちはわからなくもないけど」
「ちょっと待て。“男”?」
「うん」
女の子だと勘違いしてた?と加地はあっさり頷いた。なんてことないように。あまりにもあっさりし過ぎていて、俺は続けるべき言葉を見失った。加地はそんな俺を見て微笑む。俺の困惑など全てわかっているよと言いたげに。
「気持ちが悪いよね。男が男を好きになるなんて」
俺はすぐに同意できなかった。別に差別的な発言が気になったわけじゃない。ストーカーされた加地が同性愛に嫌悪を抱くのも仕方がないことだと思う。
気になったのは、表情だ。そう言った加地の顔が、笑っているのにとても傷付いているようで。肯定しないでと言っているようで。無視できなかった。
「そんなことねえよ」
絞り出すように俺は言った。結局、どうしていいのかわからなかった。ただこのまま黙っていてはいけない気がして、思いつくまま言葉を紡ぐ。
「土浦?」
「ストーカーするような奴は男だろうと女だろうと最低だろ」
「そうだね」
加地はそう応えたきり黙り込んだ。俺も何も言わなかった。
背中を秋の柔らかい日差しが照らす。暖かくて気持ちがいい。いかん、いかん、眠くなってきた。志水じゃあるまいし、こんな所で寝るわけにはいかない。確かに、今日は遅くまで小説を読んでいたせいで寝不足だ。しかし、だからと言って寝て良い状況じゃないだろう。そう自分に突っ込みを入れてみるが、頭は既に眠気でぼんやりしている。
「あれ? 眠いの?」
さっきまでのシリアス顔は何処へ行ったのか。おかしそうな顔でこちらを見ている。まずいな。腹がいっぱいになって眠くなっているなんて、ガキみたいで恥ずかしい。
「……違う」
「頭が揺れてるけど」
そうなのか? 全然気が付いてなかった。
加地はクスリと笑うと地面に座りこんだ。それも正座だ。こちらが疑問に思っていると、奴はおもむろに自分の膝を指差した。
「なんのマネだ」
「眠いんでしょ。膝貸してあげるよ。」
「遠慮する。それにストーカーの件は」
「一応、証拠は見せたし相手の出方次第かな。諦めてくれればいいけど」
「難しいだろうな」
それで諦めてくれるような奴だったら、初めからストーカーなんてしないような気がする。
「うーん。だったら、また土浦に協力してもらおう」
「いいけど、キスはやめろよ」
眠気も手伝ってか、半ば投げやりに応えた。
「えっ」
「なに驚いているんだよ」
「いいの?」
恐る恐るといった感じで加地は尋ねた。信じられないらしい。
「ストーカーなんかのために、お前が悩まされてアンサンブルに支障をきたしたら大変だからな」
「日野さんに、怒られるね」
思いっきり眉を下げて加地は言った。本当にこいつは日野に弱いな。
「それに、お前自身に何があるとヤバイしな。俺は見かけが恐いらしいから、少しは抑止力になるだろ」
本当は後者の理由が主だったが、早口で誤魔化した。俺は眠いんだ。
「土浦は恐くないと思うけど……」
加地は軽く髪をかき上げて苦笑した。明るい色の髪が光を反射してきらきらと輝く。
「でも、ありがとう」
……満面の笑みでお礼を言われるっていうのも、恥ずかしいもんだな。
俺はあぁ、とか何とか口の中で言葉を転がしてもごもごした。何でこんなに照れているんだ。きっと、眠気のせいだ。睡眠不足は怖ろしい。
そんなことを知ってか知らず、加地は微笑みながらもう一度自分の膝を指差した。
「やっぱり、寝ない? お礼ってことで」
「それは今度、志水にしてやれ。どうしても礼がしたいってんなら
――」
俺はそう言って、ふらふらと加地の隣に座った。寝不足は思考力を著しく低下させる。早急にどうにかしなければならない問題だ。多分。
「少し肩貸せ」
「えっ! ちょっ、土浦!?」
加地の肩に頭を乗せる。シャンプーの匂いだろうか。普段、嗅いだ事のない匂いが鼻腔をくすぐる。そういえば、自分からこんなに加地に近づいたことはなかった。いつも、向こうからで匂いを感じる余裕もなかった。
「悪い。五分だけだ」
「あ……うん。いいよ。おやすみ」
不思議だ。加地が言葉を発する度に触れている部分から振動が伝わる。心地の良いリズム。俺はその未知なる音楽に揺られながら穏やかに眠りの世界へと旅立った。
「もう寝たの?」
よっぽど眠たかったんだ。
すぐ近くのある体温に加地は苦笑いした。顔が熱い
「本当に鈍感」
そして、自分はそんな彼の態度に期待してしまう。滑稽だ。
「どうして人は僅かな可能性でも、縋らずにはいらねないのだろうね」
加地は土浦の寝顔にそっと呟いた。
わかっている。自分は件のストーカーと変わらない。報われない愛を相手に押し付けている。
今日のキスはその最たるものだ。やり方はほかにいくらでもあった。しかし、加地は自らの欲望を最も満たす方法を選んだのだ。土浦の気持ちは無視して。優しい土浦が最終的に許してくれることを知っていて。
キスなんてしなければ良かった。
そうしたら、自分の醜さに目を瞑っていられたのに。
【身勝手】