さっきまで雲ひとつ無い青空だったのにな。
金澤は空を見上げ、溜息を吐いた。いつの間にか黒い雨雲はどんどんその勢力を拡大し、空一面を覆っている。今にも雨が降りだしそうだった。
そのためか、いつもは昼休みには賑わっているここ
――森の広場でも遠くに幾人かの生徒が見えるだけだった。もうすぐ、昼休みが終わることも関係しているのだろうが。
「ま、俺にとっては好都合だがな」
膝の上で丸まっているウメさんはそんな金澤の言葉にナァーと答えた。肯定しているの否定しているのか。何にしろ、金澤はこうして森の広場で猫と戯れながらのんびりとすることを気に入っていた。特に、今日のように午後の授業が無い日の昼休みは最高だと思っている。このことをとある生徒に言ったら、『このズボラ教師』と呆れられたが。その時の相手の顔を思い出して、金澤は笑った。面倒見が良い性格をしているためか、厄介事を背負い込む性分なのか。教師連中や、生徒に頼まれて森の広場までよく自分を探しにやって来た。疎ましく思ったこともあった。それが楽しみに変わったのはいつからだったか。
風が吹いて金澤の前髪を揺らす。
「寒いな」
暖かった午前は嘘の様に、その風は冷たかった。春はまだまだお預けらしい。
「お前さんは毛皮があるから
――って、おい!」
不意の膝の上の重みが消えた。慌てて下を見るとウメさんは既に膝から下りていた。そしてチラリと金澤を一瞥すると、近くの草むらへ駆けて行った。どうやら、金澤と一緒に雨に濡れるつもりはないらしい。先程まであった温もりが消えて余計に寒さを感じる。
「つれない、な」
もうすぐ会えなくなるんだぞ。そう言って笑おうとしたが、笑えなかった。自分自身の言葉に予想以上に打ちのめされている。可笑しいよな。自分で決めたはずなのに。
いや、だからこそこれで良い。今以上に離れ難くなる前に、取り返しがつかなくなる前に。
あいつの前から消える。
「金やんっ」
今、正に考えていた人物の声が背後から聞こえて驚いた。
「土浦」
振り返ると蒼褪めた顔をした土浦が立っていた。走ってやってきたのか、肩で呼吸している。
「どうした、お前さん? 顔色悪いぞ〜」
嫌な予感がしたが、敢えてからかうように問いかけた。
「……て」
土浦が何事かを呟く。声が小さくて聞き取れない。が、珍しい土浦の態度に嫌な予感は確信に変わる。知られた。知られてしまった。
反応を返さない金澤に焦れたのか、土浦はもう一度口を開いた。今度は先程より大きな声で。
「学校、辞めるって本当かよ!」
「大きい声出すなよ」
薄笑いを貼り付けて金澤が応える。その反応に土浦の眉間に皺が出来る。
「金やん!」
「はいはい」
金澤は面倒臭そうに返答し、ゆっくりと立ち上がる。土浦はその間も金澤から眼を離さなかった。
「で、お前さん誰からその話を聞いたんだ?」
「さっき、天羽から」
「やっぱり、あいつか」
金澤は感心した。一体、いつも何処から情報を仕入れてくるのやら。こちらとしては迷惑な限りだが、報道部員としては非常に優秀である。将来が楽しみだ。
「で、何しに来たんだ?」
「え?」
金澤の問いに土浦はぽかんとした。
「お前さんだよ。取材、なわけないな。報道部じゃないしなー」
「俺は、本当かどうか確かめようと思って……」
土浦が言い辛そうに口ごもる。
「お前さん、意外にミーハーなんだな」
土浦が傷付くだろうとわかってはいたが、わざと茶化すような口調で言い放った。
最低だ。
「違う! 俺は
――」
案の定、土浦は悲痛な声を上げた。
それ以上、聞きたくなくて金澤は土浦の言葉を遮った。
「本当だよ。これで満足か?」
できるだけ軽く、何でもないことかのように告げる。
土浦が小さく息を飲んだ。
「あ、まだ他の奴らに言うなよ。まだ一応、秘密だからな。天羽には俺から言っておくから」
土浦が何も言わないのをいいことに、金澤は一方的に捲くし立てた。
「どうしてだ」
押し殺した声で土浦が問う。
「土浦、もう予鈴鳴るぞ。教室帰れ」
「金やん、どうして」
「どうだっていいだろ。お前さんには関係ない」
嘘だ。
もう一度、歌おうと思えたのは誰のお陰か。ここから離れるのは誰のためか。
「関係ある」
土浦が真っ直ぐに金澤の瞳を見て言う。その思い詰めた表情に金澤は焦った。今まで、同じような表情をしている人間を見てきた。その口が愛を告げるのを。
――言うな。
これ以上、傷付けたくないんだ。俺にお前さんを拒絶させないでくれ。
いっそ口付けて黙らせてしまおうか。その唇が想いを紡ぐ前に、この唇で塞いで。
衝動的で甘美な誘惑。
馬鹿馬鹿しい。
金澤は下唇の端を噛んだ。微かに血の味が口内に広がる。
しかし、自らのことで精一杯の土浦はそんな金澤の様子には気付かず、口を開いた。
「俺は」
そこまで言った瞬間、鐘の音が校舎に響き渡った。予鈴だ。 土浦が耳馴染んだ平凡なその音に勢いを削がれ思わず言葉を飲み込む。その様子を見て金澤は、神様って奴は本当に存在しているのかもしれないと頭の片隅で考えた。何にしろこの好機を逃すわけにはいかない。
「あ〜予鈴鳴ったぞ」
何事もなかったかのように、いつも通り面倒臭そうに声をかける。土浦は応えない。何か考えているのか、黙ったまま俯く。
風がそんな土浦の髪を弄ぶように強く吹いた。ぽつりぽつりと降り始めた雨音が聴こえる。
「知ってる」
土浦が絞り出すような声で言う。その肩は震えていた。
「知っているなら、さっさと行けよ。面倒事は勘弁してくれ」
もし俺が同年代、いや教師でなかったらその肩を抱いてやることができたのだろうか。
同じ気持ちだと伝えてることができたのだろうか。
なあ、土浦。
「面倒で悪かったな」
そう言って、土浦は顔を上げて金澤を見た。
その頬に水滴が付着しているのが見えて、金澤はぎょっとした。泣いているのか。
「お前さん」
金澤が何か言う前に土浦は反転して走り去って行った。流石、サッカー部と言うべきか。その背は見る見るうちに遠ざかっていく。
それでいい。忘れちまえ。
金澤はその背に心の中で言葉を投げかけた。
お前さんは、頼りになるし、勉強もスポーツもできる。おまけにピアノまで弾ける。可愛い彼女なんてすぐできるさ。
そうしたら、すぐに忘れられる。いや、忘れるさ。こんなくたびれた大人のことなど。
これで良かったんだ。
そう思いながら、金澤はその場所から根が生えたように動かなかった。
やがて雨音が激しくなり、全身を濡らしても。
雨の中、立ち尽くして
土浦の頬にあったのは、涙だったのか雨粒だったのか。
そんなことばかり考えていた。
【雫】