あー腹減った。
 荒北はいつも座るベンチに座った。袋からメロンパンを取り出す。
 封を開けると甘い香りが鼻孔をくすぐる。それだけで唾液が溢れてくる。
 荒北は大きく口を開けた。
 その時。足元から甘えるような鳴き声が聴こえた。
「アァ?」
 荒北は片手にパンを持ったまま、下を向く。するとベンチの下から白い猫が這い出てきた。
 その猫はするりと荒北の膝の上まで登ってくると、興味深そうにメロンパンを見つめた。
「何だヨ。欲しいのか?」
 人懐っこい猫だ。普段、猫に逃げられる事が多い荒北は驚いた。
 その間も猫はふんふんとメロンパンの匂いを嗅いでいる。
 行儀の良い猫だ。首輪は着けてはいないが、飼い猫なのかもしれない。
 そう思って眺めていると白猫が荒北の顔を見た。催促するように小さく小さく鳴く。
 控えめなその態度に荒北は不覚にもきゅんとした。
「ヘッ。しょうがねェな」
 荒北はメロンパンをちぎると猫の鼻先へと差し出した。
「食えよ」
 そう言うと猫は嬉しそうにパンを口に含んだ。へっと笑い荒北もようやくメロンパンを齧った。
 甘い味が口内に広がる。
「うめェか」
 荒北は白猫を見やる。ふわふわとした白い背中が目に入った。
 こっそりと気付かれないように手を忍ばせる。
 自分でも情けないと思うが仕方がない。何故か、荒北は猫に逃げられる事が多いのだ。
 今日こそ少しは触りたい。
 幸いな事に猫は食べるのに夢中なようだ。
 ゆっくり。ゆっくり。
 荒北はなんでもない風を装いながら、手を移動させる。
 そして、遂に荒北の指が背中に触れた。
 一瞬、猫が動きを止める。
 ダメか。
 荒北の指が微かに震えた。
 しかし、猫はそれ以上の反応はせず。またメロンパンを食べ始めた。
「驚かせんなよ」
 ため息ひとつ吐いて荒北は猫の背を再び撫でる。思った通りふわふわの毛が心地よい。
 荒北は上機嫌にメロンパンを齧った
 この戦法は使えるかもしれない。食べ物で気を引いて触る。
 単純だが、案外人間にも有効かもしれない。人間も動物だ。食べ物には弱い。
 とある人物が荒北の頭に浮かぶ。
「まさかねェ」
「何がまさかなんだ」
「フ、福チャン」
 唐突に聴こえた声に荒北は慌てて顔を上げた。
「どうしてここに?」
「どうしてって。ここは校内だろう」
 福富は当然のように言うと、当然のように福富の隣に腰掛けた。
 その思いがけない行動に荒北の鼓動が若干ペースアップする。
「お前を探していた。今日のコースの事で話でな」
 福富はそこまで言うと荒北の膝を上をまじまじと見た。まるで初めて気付いたというように。
「猫か?」
 何故か疑問形の福富に荒北は答える。
「猫だよ」
 そこでア、と思いつく。
「もしかして福ちゃんてあんまり猫とか見たことないのォ?こいつ、大人しいから福ちゃんも触ってみたらァ」
 荒北はわしゃわしゃと猫の背を撫でてみせる。興奮の為、少々乱暴になってしまったのは仕方がない。
 下心があった。
 猫に触れる福富。そんなもん見たいに決まっている。
 誰かが言っていた。好きなもの×好きなものは正義だと。
「そうなのか」
 首を傾げる福富に荒北は「イケる」と心の中で拳を握った。
「大丈夫だからァ。さっきから撫でてるけど全然動かないし、毛がふっわふわしててき、気持ち良いしィ……」
 荒北は福富をうかがう。その表情は硬いままだ。やはり無理があったか。荒北が諦めようとした時だった。
「かわいいな」
 ぼそっとその口が動いた。荒北は全力で頷いた。
「だろォ」
 だから、どうか触ってくれ。
 荒北は願いを込めて福富へと視線を送る。
 その想いが通じたのか。福富の腕が動いた。荒北の方へ伸ばされる手。。
 やった。荒北は歓喜し、その瞬間を待つ。
 しかし、福富の手は予想外のところに着地した。
 荒北の頭に何かが触れる。人の指のような。
「ふ、福ちゃん?」
 それは荒北の頭の上をぎこちなく撫でた。
 唖然とする荒北をよそに福富は満足そうに頷くと手を離す。そして、「またな」と言ってあっさりと去って行った。
「いや、コースの話はァ……?」
 顔を真っ赤にして荒北が力なく呟く。
 膝に乗せた猫がにーと応えるように鳴いた。
 あれは一体なんだったのか。
 その日の練習後、いつものメンツでやってきたファミレスで荒北は考えていた。
 店は比較的に空いており、ウェイトレスも暇そうにしている。こういう時は多少騒いでも大目に見てくれる事が多い。
 東堂と新開はドリンクバーに行っていて今は席には荒北と福富しかいなかった。
 荒北は気付かれないようにこっそりと隣を見る。
 アイスの乗ったアップルパイをサックリサックリ丁寧に福富が食べていた。ほんの少し、おそらく荒北にしかわからないくらい、いつもより表情が柔らかくなっている。
 堪らなくなって荒北はペプシを一気飲みする。
 かわいい。かわいい。かわいい。
 心の中で三回唱える。経験上、下手に我慢するよりも小出しにした方が良い。
 そして、叩きつけるようにコップをテーブルに置いた。結構な音がしたはずだが、福富は無反応で食べ続けている。
 夢中になっちゃって。その様子が荒北に昼間の白猫を思い出させた。食事の最中は触られても気付かない。気にしない猫。
 荒北の喉がゴクリと鳴った。
 もしかして。可能性が頭に広がる。だが、もう一人の自分が「いやいやいや」とかぶりを振る。いくらなんでも福ちゃん人間だぞ、と。
 確かにそうだ。試しに荒北の福富へ身を寄せてみた。すぐに福富は気付くはずだ。
 しかし、互いの肩があと三センチで触れるという所まで接近しても福富は気付かない。アイスを崩しにかかっている。逆に荒北の心臓は破裂しそうだった。
――嘘だろォ。
 悲鳴か歓喜の声か。荒北はわからないまま福富の反対側の肩へと腕を伸ばす。心臓が耳に移動したのではないかと思うほど、鼓動がうるさい。呼吸の仕方を忘れたのかと思うほど、息が苦しい。
 そして、遂に荒北の指先が青い制服の布地に触れた。
「すまんね。待たせたか」
 背後から聞こえた声に荒北は秒速で福富から離れた。瞬時になに食わぬ顔をして向かいの席に戻ってきた東堂を見上げる。
「待ってねェよ」
 不機嫌そうにそう言うと荒北はコップに口をつけた。まだ、鼓動が早い。
「照れるな、照れるな。ちなみに隼人はまだ時間がかかりそうだ」
 東堂はいつもの高笑いをしながら席に戻った。
 その様子に荒北は安堵する。どうやら見られてなかったようだ。
 しかし、思っていもいない方から声が上がった。
「荒北」
 福富だ。彼は手を止めて荒北を見つめている。
「カラだ」
 それだけ言って福富はまた視線をデザートへと戻した。
 身体? 頭を捻る荒北を東堂が指差す。
「おい、中身が入っていないじゃないか」
 荒北は慌ててコップから口を離す。誤魔化す事に気が行ってペプシを飲み干した事を忘れていた。
「気付いてなかったのか?」
 東堂がくすりと笑う。
「荒北も案外可愛らしいところがあるのだな」
「うるせェ」
「いや」
 またも福富が会話を割って入ってきた。今度はアップルパイを食べる手は止めないまま彼は言った。
「荒北はかわいいだろう」
 一瞬、しんと店内が静寂に包まれた気がした。
「フク」
 東堂がやれやれと首を振る。
「眼科での検診を勧めるぞ。良い病院を紹介しよう」
「東堂、てめェっ」
「それには及ばない」
 淡々と福富は続けた、
「昼間に荒北に会った。自分が食事するのも忘れて猫を撫でていた。かと思えば、今度はオレにその猫の良さを伝えようとしたんだ。懸命に」
 かわいいだろう。
 そう言って溶けたアイスを乗せたパイの切れ端を口へ運ぶ。
 「オレにはわからんな」
 東堂が苦笑する。
 オレにもわかんねェ。荒北はこっそりと同意する。
 その態度が不満だったのか。福富が再び口を開いた。
「顔はりんごみたいに赤くして」
 それは福富が隣にいたから。
「子どものように目を輝かせていた」
 それは下心でおそらく目がギラギラしていたから。
 荒北は息も絶え絶えに心の中で突っ込む。
 そんな内情を知らない福富は最後にこう言って話を締めた。
「かわいかった」
 ダメ押しだった。
 遂には荒北はテーブルの上に撃沈した。これ以上は聞いていられない。
「ワザとやっているのか天然なのか……」
 恥ずかしさで意識が薄れいく中、実に気の毒そうな東堂の声がどこか遠くで聞こえた。
 その次の日。
 部室で東堂が福富と話していると乱暴に扉が開く音がした。
 何事かと思って見てみると常にも増して凶悪な顔をした荒北が立っていた。
 荒北は据わった目で部室を見回し、やがてこちらを正確には東堂の隣にいる福富を捉えた。
「福ちゃん」
 荒北の唇が音を出さずにそう動いた。背筋に悪寒が走る。
 一歩また一歩。荒北がこちらに近づいてくる。それは映画で観た背後からゆっくりと人に忍び寄る鮫を思い出せた。
 思いつめた荒北の雰囲気に後輩たちも慌てたように道を譲る。
「それでこのメニューについてだが
――。どうした東堂」
 部室に漂う異様な空気を気に福富は気付いてもいないらしい。東堂は仕方なく福富に教えてやる。
「荒北が何か用があるようだぞ」
 その頃にはちょうど荒北も福富の目の前までやってきていた。
 細い目を更に細めて福富を睨みつけている。それだけではまだ日常の範囲内なのだが、おかしいのはその顔色だ。コースを走り終えたように頬から首まで赤く染まっている。
「何だ」
 しかし、それすら福富にとっては些細なことらしい。彼は平然と荒北に問いかけた。
「……ちゃんの方が」
 荒北が口を動く。声が掠れてよく聞こえない。
「言いたいことがあるのならハッキリ言え」
 福富が荒北に向き直った。荒北の片眉がくっと上がる。
 何故かその瞬間、猛烈にイヤな予感がした。
「福ちゃんの方がかわいいんだよ。ボケナスがァ」
 荒北が叫んだ。恥も外聞もへったくれもなかった。これでは三年の威厳などあったものではない。東堂は咄嗟に後輩たちを見る。
 その後輩たちは一瞬だけ動きを止めて、また何事もなく準備を再開した。また三年の悪ふざけが始まったのだと思っているのだろう。流石に慣れている。
 その間にも荒北は福富がいかに可愛らしいを福富自身に語りかけている。どうやら昨日のファミレスでの仕返しのつもりらしい。
 それにしてもりんごと言う単語が頻出している事が気になる。少々語彙が足りないのではないか。もし、東堂が総北の巻島のクライムを褒めるのならばこんなものでは済まない。などと東堂が現実逃避しているとジャージの裾を掴まれた。
 福富だ。彼は荒北に気付かれないほど小さい声で東堂に囁く。
「こういうところが、かわいいだろう」
 その耳がほんの僅か桃色に染まっていることに気が付いて。東堂は軽く額を押さえる。
「そうだな」
 まったく。本当にかわいらしい。
【かわいいね】