ひどく透明な硝子の森にいた。
思い出すのは丸い大きなケーキ。大きな苺と砂糖でできたサンタクロースが乗っている。大切そうに白い箱に収められた姿はまるで宝物のようだ。
クリスマス。
キリスト教にとって大いに意味のあるこの日も日本人にとってはただのイベントでしかない。取り分け、恋人たちにとっては。
福富はコーヒーを淹れると立ったまま窓を眺めた。部屋の暖かさと外の冷たさで見通せないほど曇っている。
今年は日本には帰国しなかった。なので福富はこうしてクリスマスの朝をひとりで過ごしている。
小さな頃はクリスマスの朝は大騒ぎだった。目覚めると枕元にプレゼント。真っ赤な包装紙にワクワクした。そのまま兄弟でお互いのプレゼントを見せ合った。
中学に入ってからはそういうことはなくなった。
一度だけ新開が「そういえばクリスマスだったな」と言いながら、練習終わりに自分の補給食を差し出してきたことがあった。福富もお返しに補給食を渡したから結局味の交換にしかならなかったが。
高校に入ったらもっと派手になった。東堂、荒北、新開。寮の部屋にこっそりお菓子とケーキを持ち込んで騒いだ。3年の時は後輩たちも呼んだ。黒田が「受験勉強、大丈夫なんですか」と言って荒北にどやされていた。
楽しかった。
福富はコーヒーを口に含む。温かさにほっと息が出る。
モザイクがかった窓を通して見る世界は冷たい灰色だった。クリスマスの赤や緑と無縁のその静けさが今の福富には心地良く思えた。
金城とはクリスマスを一緒に過ごしたことはない。
――福富?どうかしたか。こっちは荒北たちとクリスマスパーティといったところだ。おい、荒北危ないぞ。
ウッセ。という声が遠く聞こえる。携帯越しから暖かい空気が伝わってくるようだった。
電話をかける前に何度も練習した「メリークリスマス」も「クリスマス、おめでとう」も言い出せず福富は「そうか」とだけようやく口にした。東京と静岡。会うことが叶わないのなら声だけでもと思った。だが
――。
オレはなんて女々しいのだろうか。
「どうした?」
訝る金城に福富は「何でもない」と告げると事務的などうでもいい大学のロードレースの連絡をして電話を切った。
それ以来、福富はクリスマスの日はいつも以上にハードな練習を入れた。くたくたに疲れてすぐに眠ってしまいたくなるくらい動いた。何故か新開もそれに付き合った。女性からの誘いも友人からの誘いも多いだろうに何故だろう。不思議に思って尋ねると新開は笑って答えた。
「パーティよりも寿一と走っている方が楽しい」
「新開」
「変わらないな。オレたち」
新開のその笑顔を福富は眩しい気持ちで眺めた。頷けたらどんなに良かっただろう。
福富は変わってしまった。もう後戻りはできない。
それでも、あの時はまだ幸せだった。クリスマスを一緒に過ごせないのは大学が離れているからだと言い訳できた。金城の本心も知らずに。
遠くで鳥にさえずりが聞こえる。また一口福富はコーヒーを飲んだ。苦い味が喉を通っていく。
彼が自分を愛していないと気付いた時、福富は全ての望みを捨てた。甘いケーキも、心のこもったプレゼントも、共に眠る温もりも。苦しかった。それでも、彼と離れたいとは思わなかった。
金城の全てが虚像であっても。福富にとっては真実だった。
硝子の森にいた。
無機質で透明な木々に囲まれてひとり立ち尽くしていた。
そこに映る金城を愛した。その冷たい姿を抱きしめて、涙を流さずに泣いた。
福富は何も嵌めていない自分の左手の薬指を眺める。
突然現れて指輪を渡してきた金城。
「愛している」
彼の真実を全て告白した後、金城はそう言った。
「受け取ってくれ」
「金城」
その資格は自分にはないことはわかっている。だが、福富はその手を取った。
その時に思い知った。
自分はずっと金城と向き合うことを恐れていただけだと。もし本当に金城を愛しているのならば、もっと早く彼を解放してやるべきだった。
指輪は大切に保管している。いつでも返せるように。
その時、窓を叩く音がした。窓ガラスの向こう側から誰かが立っている。
こんな朝早く誰だ。
福富はカップを机の上に置いた。警戒しながら窓に近寄る。不審者である可能性もあるが、予感がした。
鍵を外して思い切り窓を解放する。冷たい空気が舞い込んでカーテンを揺らした。
「久しぶりだな、福富」
良かったのか、悪かったのか。そこには予想通りの人物が立っていた。
「……金城」
「驚かせたか? すまない、インターフォンを押しても音が鳴っていないようだったから」
「何故」
「室外機が動いているからいると思ったんだ。そもそも時間も早いから出かけてはいないはずだと思ってな」
「違う」
福富は金城に肩を掴んだ。外気の冷たさで白い息がこぼれた。
「どういてここにいる。金城、お前には」
――家族でも、友人でも一緒にクリスマスを過ごすべき相手がいるだろう。
そう言いかけてくちびるを噛む。こんなことを言ってしまったら、逆に自分が毎年気にしていたように聞こえてしまう。
黙ってしまった福富を金城は見つめる。彼は身に着けていた手袋を脱ぎ始めた。
「何を」
ぽとりと金城の手袋が地面に落ちる。同時に金城の手が肩を掴んでいた福富の手に触れた。その温かさに福富は手を引っ込めようとしたが、金城はそれを許さなかった。
「いきなり来てすまなかった」
そう彼は言った。
「今年はどうしてもお前に会いたかったんだ。ほら、」
オレたちは一度もクリスマスを一緒に過ごしたことはないだろう。
金城の言葉に福富は目を見開く。
「日本に今年は帰らないと聞いて一度は諦めようかと思ったんだが、お前の知っている通り生憎オレは諦めの悪い男だ」
ぎりぎりで仕事を終わらせて飛行機に乗ったと金城は笑った。彼は手を伸ばして福富の頬に触れる。
「会いたかった」
「金城、オレは」
金城はそこで動きを止めた。彼の真っ直ぐな瞳が福富を射抜くように見た。
「指輪。していないんだな」
息が止まる。先ほど考えた自分の言葉が頭をよぎる。
――本当に金城を愛しているのならば、彼を解放してやるべきだ。
「金城」
彼のことが好きだ。不屈の精神を持ち、困難に立ち向かう姿が好きだ。手品を見せて驚く皆の顔を子供のように嬉しそうに見ている顔が好きだ。復讐をしようとして、できなかったその優しさが好きだ。
幸せになって欲しい。受話器越しで聞いた荒北たちの声。暖かくて、幸福で。あの場所に金城がいるべきなのに。
福富は金城を見た。頬に触れる彼の手の上から自分の手を重ねる。
硝子の森に福富はいた。歩けばパキンと枝が割れる。その度に福富の足は傷付き、血を流す。もう一歩も動けない。もう立ち止まってしまおうか。不意に差し込んだ光。指輪を持ってきた金城。
「信じてもいいのか」
「福富」
「オレは、もう疲れた」
何が正しくて間違っているのか。血まみれの足を抱えてうずくまってしまいたい。あまりにもこの場所に居続けたせいで、光に向かって踏み出す勇気が、出ない。
「もしお前がオレに対する罪悪感で指輪をくれたのならば」
今すぐに帰ってくれ。
「福富」
金城の手が福富の手からするりと抜けだす。
終わりだ、と思った。
これまでもこれからも福富は冷たい樹木に映し出される金城を愛し続ける。そこに金城を巻き込んではいけない。
「帰ってくれ」
金城は動かない。
もう一度名を呼ぶ。彼は自分の両手を見つめていた。
「金城?」
「ずっと好きだった」
何を言っているのかわからなかった。
「お前がオレを知るより前から好きだった」
金城が顔を上げる。
「好きだ」
「何を言っている」
先に好きになったのはオレだ、と福富は金城を睨んだ。
「告白したのもオレからだ」
「だから、今言っているんだ」
そう言って金城は福富の身体を抱きしめた。あっと息を飲んだ。いつかの金城に抱きしめられて見た歪んだ空を思い出す。あの時と違って、空は曇っているけれど。
「好きだ」
「金城」
「お前が信じてくれるまでオレは言う」
もう嫌だ、硝子の森のなか光の前で立ちすくむ自分がいる。もう誰も、金城を傷付けてたくない。
躊躇う福富の前に光の中から手が福富に差し出されるように浮かび上がる。その手は厚みがあって、爪はきちんと切り揃えられていた。その手を福富は知っている。自転車乗りの手。
「福富」
手を伸ばす。足元でパキンと音がして、赤い鮮血が滴り落ちる。それでも、構わない。光の中の手はしっかりと福富の手を掴んだ。その手に引かれるまま踏み出す。その歩みはいつしか駆け足となって。
パキン。パキン。
悲鳴のような硝子の砕ける音が止んだ時、目の前には胸が苦しくなるくらいに澄んだ青空があった。
「もういい」
福富はそう言って金城の身体を強く抱きしめ返した。
「ケーキを買ってくるつもりがまだ店が開いていなかった」
室内に招き入れると金城が困ったようにそう言った。
「別にオレはお前さえいれば」
福富は言いながら取り出してきた指輪の入った箱にかけた。慎重に開ける。最後に見た時と寸分も変わらないその指輪に安堵する。
指にはめようとすると金城が寄ってきて指輪を取り上げた。
「ダメだ」
金城が目で指を出せと促す。福富はしぶしぶと指を伸ばす。なんだか恥ずかしい。
「クリスマスにはやはりケーキだろう」
金城はするすると器用に指に指輪を通す。まるで手品でも見ているみたいだ。
手。金城の手。硝子の森から連れ出してくれた手。
「後で一緒に買いに行くぞ」
どんなケーキにしようか、と尋ねる金城に福富は涙が流れないように微笑んだ。
「そうだな。とびきり甘いやつにしよう」
ひどく透明な硝子の森にいた。
冷たく美しいその森に戻ることはもうない。
【硝子の森を抜けて】