七番目の正直


 


 それは呪いのようなもの。

 ひゅうと風が耳元を吹き抜けた。
 妙な感覚に金城は俯く。足下にあるはずの地面がなかった。金城の両足はぶらりと宙に投げ出されていた。地面は遥か下にあった。走る車が玩具に思えるほど小さく見える。
 そんな馬鹿な。
 金城はわけがわからないまま辺りを見回す。
 どうやらここは高層のマンションらしい。同じ形のベランダが左右に延々と並んでいる。階数は正確にはわからない。十階以上はありそうだ。
 どうしてこんなところにいる。いられる。
 その疑問はすぐに解けた。
 上を見上げると自分の右手がベランダの手すりを掴んでいた。つまり、金城は片腕の力だけで自分の全体重を支えていたのだ。
 気付いた瞬間にずしりと右腕に負荷がかかる。
「くっ」
 引き千切られそうな重さに限界が近いことを悟る。
 助けを呼ばなくては。
 金城は必死で声を上げる。
 その声が聞こえたのか、金城がぶら下がるベランダに何者かが姿を現した。
「福富」
 見慣れた金髪に金城はほっとした。福富は腕に白い猫を抱いてじっと金城を見下ろしている。その表情からは何の感情も読み取れない。
「何をしている。早く助けてくれ」
 腕が痛い。肩から外れてしまいそうだ。
 悲壮な金城の様子にも福富は眉ひとつ動かさない。
「福富」
 ようやく彼が金城の右手に触れた。
 やっとこの苦痛から解放される。金城が気を緩めた時だった。
「すまない」
 声が聞こえた。
 肉が抉られるほどきつく手の甲に福富の爪が立てられる。
 金城は信じられない気持ちで彼を見た。その表情はよくわからない。
 福富の腕に抱かれた猫がにゃぁと鳴いた。
 全てが一瞬の出来事をだった。限界をとっくに越えていた金城の手は呆気なく手すりから滑り落ちる。
 ふわっとした浮遊感。耳の中で風の音が止まない。その音も次第に遠くなって。金城の身体は地面へと叩きつけられた。

 我ながら酷い夢だ。
 金城は教授に見つからないようにゆっくりと欠伸をする。広い講義室だからその心配は無用かもしれないが。
 夜中に自分の声で金城は目を覚ました。だが、それから一睡も金城はできなかった。
 おかげで眠くて仕方がない。
 しかし、恋人に殺される夢とは不吉なものだ。夢は深層心理の表れだと言うが、一体何を意味しているのだろうか。
 瞬時に欲求不満という文字が浮かんで金城は苦笑する。
 昨日も電話したばかりだというのに。だからこそなのか。
 口元を緩めていると教授と目が合った。金城は慌ててノートを書いているふりをする。ついでに不真面目な方向に傾いた思考を軌道修正する。
 夢に意味なんてないだろう。あれはただの夢だ。
「やけに眠そうじゃナァイ」
 講義が終わると後ろに座っていた荒北が真っ先にからかってきた。
 金城は軽く頭を振ってみせる。
「夢見が悪かったんだ」

 喧嘩をしていたのだと思う。金城は大きく口を開けて言葉を放った。何を言ったかはよくわからない。だが、それは二人の間では言ってはいけなかった事をだったのだと思う。福富の表情を見て悟った。
 しまった。と金城は口を抑える。
 言い過ぎだ。金城は恋人の様子を伺う。さっきまで怒っていたはず福富は暗い顔をして俯く。気まずさに金城は目を逸らした。
 二人は応接間のような場所にいた。机と革張りのソファーの他に民芸品のようなオブジェがいくつも飾られている。
 福富が動く気配がする。金城はあえてそちらを見ない。謝ろうと思うもののまだ気持ちの整理がついていなかった。
「金城」
 低い福富の声がする。金城は再び話すきっかけが持てた事に少しだけほっとした。それがバレないように平静を装って返事をしようとした。
 何だ。
 しかし、言葉が唇から放たれる事はなかった。後頭部に強い衝撃を受けた。金城は吹き飛ぶように倒れ込む。
「すまない。すまない」
 泣きそう出しそうな声が聞こえる。
 金城は必死に首だけを動かして彼を見る。それだけしか今の金城にはできなかった。
 福富は片手で顔を覆っていた。そして、反対の手には三十センチほどの石像が握られていた。その顔は血で濡れ、頭から滴り落ちた赤が絨毯を染めている。
 何が起きたかは明白だった。
「うっ……」
 金城は最後の力を振り絞ってその像へ向けて手を伸ばした。このままではダメだと思った。凶器を隠さないと福富が逮捕されてしまう。
 福富に対する恨みや憎しみはなかった。ただ、ロードレーサーとしての彼の将来を案じた。それは福富の才能を信じていることもあったが、叶わない自分の夢を彼に勝手に託していた部分もあった。
 そんな金城を嘲笑うように石像の目が怪しく光る。その目を見た瞬間、金城の意識は闇へと沈んだ。

 どうなっているんだ。
 目の下できた隈を金城は忌々しげになぞる。
 やはり真夜中に目覚めた金城はそれから眠る事ができなかった。
 二日連続で悪夢をみるなんて、ストレスでも溜まっているのだろうか。
「金城は今日も眠そうだなァ」
 オレも今日は寝不足、と隣に座る荒北は授業中にも関わらず堂々と欠伸をした。
「なぁ、何か夜中におもしれェことでもやってんのかァ?」
「何もないサ」
 むしろ不愉快だ。
「確かにその様子はそうだな。ま、今日は大人しく早く寝ろよ」
「あぁ」
 頷きながら金城は考える。早く寝ることに異存はない。問題はその中身だ。

 脇腹に鋭い痛みを感じた。見下ろして見れば包丁が自分の腹から生えていた。
「あ、」
 まず初めに思ったことはどうしたらいいだった。この場合、包丁は抜かない方がいいのだろうか。それより先に救急車を呼ばないと。
 痛みはさほど感じなかった。ただ脳みそが沸騰したように熱に浮かされている。
 あぁ、どうしたら。
 目の前の空気が動いた。見るといつの間にか福富が立っていた。
 福富。どうすればいい。腹から包丁が。
 口と脳が繋がっているようだ。思ったと同時に話している。
 福富は荒北が鉄仮面と評する無表情を崩さないまま包丁の柄に触れた。
 そして、止める間もなく一気に引き抜いた。
 腹から血が勢い良く吹き出る。目の前に福富にも血が降り注ぐが、彼は顔色ひとつ変えない。
 そこでようやく金城は悟った。おそらく金城を刺したのも彼なのだろう。
 自分の腹から出た包丁のを見る。血塗れのそれは真っ赤な真っ赤な矢印みたいだ。
「すまない。すまない」
 目の前で福富は怒られた子供のように震えていた。金城はそっと彼の頭を撫でた。
 膝の力が抜けていく。もう時間のようだ。
 すまない。すまない。
 謝り続ける彼が不憫だった。これからこの世界でたったひとりで生きていかなければならない彼が。
 せめて最後まで傍に。彼に寄りかかるように身体を預けて、金城は瞼を閉じた。

「おい。大丈夫か」
「睡眠不足なだけだ」
 大学の食堂で焼きそばを食べていると荒北が向かいに座ってきた。好物の唐揚げ定食を乗せたトレーを乱雑に置くと、荒北は金城を指差す。
「オレは昨日、早く寝ろって言ったよなァ」
「早くは寝たサ」
 だが、それが仇となったのかもしれない。八時に寝て九時に目覚めた。それからまた眠れなかった。夢は夢なのだから気にせず眠ればいいのだが、それは難しかった。夢を見た後は、頭がカッと火山のように熱くなる。心臓は激しく鼓動し、痛みを訴える。それなのに、全身から冷たい汗が噴き出て泊まらない。そんな状態で眠れるわけがない。
「夢見が悪いんだ」
 充血した目を擦りながら金城は言う。
 すると、荒北が考えるように顎に手を置いた。
「そういえば、新開もそんなこと言ってたな」
「そうなのか?」
「あぁ。福ちゃんが」
「福富が?」
 恋人の名前に金城は目を見開く。
「なんだよ。そうそう、福ちゃんがここんとこ様子がおかしいから聞いたら、『夢が……』って言ったっきり黙ってまったらしいんだよ」
 荒北は唐揚げに端を突き刺す。
「まさか、お前の寝不足に福ちゃんが関わってんじゃねェだろうなァ」
 細い目を更に半目にした荒北に金城は首を振る。
「そんなはずはない」
 金城が一方的に悪夢をみているだけで、現実の福富には関係ないはずだ。
 多分。おそらく。絶対。
 金城は荒北からの疑惑の眼差しか逃れるように焼きそばを口に含んだ。大好物のはずなのに味はよくわからなかった。

「淹れてみた。飲んでみてくれ」
 ソファーに座っていると恋人が慣れない手つきでコーヒーを差し出してきた。
「珍しいな」
 金城は本から顔を上げた。
「たまには良いだろう」
 得意げな顔をする福富に金城はこっそりと相好を崩す。読みかけの本を机の上に置くと、。華奢な作りのコーヒーカップを手に取る。
「随分、可愛らしいな」
「覚えていないのか。昔、オレとお前で遊園地に行った時に買った」
 口元に微笑みをたたえながら福富は金城の向かいの椅子に座った。それだけの事に金城は胸が詰まる思いがした。何故だろう。久しぶりに彼のこんな顔を見た気がする。
「覚えて、ない」
 誤魔化す為に金城は慌てて口をつけた。程よい酸味と苦味が喉を通り抜ける。
「美味い」
 ほう、と金城は息を吐く。
「これからは毎日おまえ、に……」
 コーヒーを淹れてもらおうかな。
 そう言おうとしたはずなのに舌がうまく動かない。ピリピリとした痺れを感じる。 
 異変は口内だけに留まらなかった。
 がしゃんと音を立ててカップが床に転がる。握力が保てないほど手が痙攣している。
 そして、それは全身へと広がった。
「な、に、を」
 立ち上がって彼を問い詰めようとするが激しい眩暈が起きて、金城はしゃがみ込む。
 息苦しさに肩で息をする。
「金城」
 福富が近づいてくる。彼は金城の傍らに立つとその背を擦った。
「すぐに楽になる」
 すまない。すまない。
 福富はその言葉だけを繰り返す。
 どういう意味だと睨む力は既に金城にはなかった。ゆるゆると床に倒れこむ。その感触さえもう感じない。
 不意にさっき落としたコーヒーカップが目に入った。
 側面に可愛らしいリボンの絵が描かれている。そのリボンの色は……。

 頭が痛い。
 金城はこめかみを抑える。長く続く鈍痛にうんざりする。原因ははっきりとわかっているのだが。
「金城」
 教室に荒北が突然現れた。そして、入るなり金城の名を叫んだ。周りの人間が何事かと入り口に視線をやる。金城は慌てて立ち上がった。
 一気に荒北へ駆け寄る。その間も周囲の視線を感じた。
「どうかしたか」
「ちょっと面貸せ」
 彼は無愛想に言うと背を向けた。
 否定する権利はないようだ。血走った荒北の目を思い出し金城はこっそりとため息を吐いた。
 廊下に荒北はいきなり金城をの胸ぐらを掴んだ。
「おい。てめぇ、福ちゃんと何があった」
 頭上からの声に頭痛が酷くなる。金城は顔をしかめた。
「何の事だ。落ち着け」
「アァ? 新開から聞いたんだヨ。福ちゃんが“眠らない”なんてバカな事言いだしたって」
「どういう事だ?」
 もしかしてという想いが金城の脳裏をよぎる。
「オレが知るかよ。で、問い詰めたらオメェの名前が出てきた」
 心当たりあんだろォ。
 荒北は犯人を追い詰める刑事のように鋭い目で金城を睨んだ。
「何故、福富は眠りたくないんだ?」
「だから、知らねェよ」
 ぶつくさ言いながら荒北は話してくれた。
 新開が言うにはここ数日、福富の様子がおかしかったらしい。日に日にやつれている。金城と同様に目の下に隈を作った福富に新開はちゃんと眠れているのか尋ねた。すると福富はこう答えた。――オレは寝ない。眠りたくない。
 新開は驚いた。福富は体調管理に常に気を配っているからだ。理由を問い質すが、福富は何も言わない。だが、一言「金城」だけ呟いた。その時の福富は蒼い顔をして震えていたらしい。
 新開はそこで全てを察し、荒北に原因を探って来てほしいと連絡したそうだ。
「おめェも眠れてねェみたいだし。喧嘩でもしたのかよ?」
「いや、オレは何も知らない」
 だが、関係ないとも言えないかもしれない。さっき思いついたことが頭を巡る。
 突拍子もない話だ。一蹴されるかもしれないと思いつつ、金城は荒北に夢のし始めた。
 最初は怪訝な顔をしていた荒北だったが、最後まで金城が話すと薄気味悪そうに言った。
「福ちゃんに殺される夢ねェ」
「言っておくが、そういう趣味はないぞ」
「言わねェでも知ってっからッ」
 荒北はあーっと言いながら髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。
「んな話、オレが信じると思うか?」
「思わないな。オレも半信半疑だ」
 だが、タイミングが合い過ぎている。他に根拠はなかった。だが、本能的に金城はそうではないかと感じていた。こういうものはよく当たる。
「半分は信じてるじゃねェか」
 荒北は派手に舌打ちをすると掴んでいた手を放した。
「荒北」
「ウッセ。信じてねェけど、全然信じてねェけどォ。一応そういう事に詳しい奴がいる」
 当たってみてやんよ。そう言って荒北は去っていった。



2015/10/31