「その帽子どこで買ったんだ?」
福富から口からついにその質問が発せられた時、新開は思わず吹き出しそうになった。
「
――気になるか?」
気になるだろうな。新開は笑いを噛み殺す。
今日、会ってからというもの福富の視線は新開の帽子に釘づけだった。あまりにも熱心に見つめるので帽子が燃えないか心配したほどだ。
福富は新開の問いには応えない。相変わらず帽子を、正確にはニット帽の端に施された蛇の刺繍を眺めている。
健気にも思えるその姿は美術館でみた彫像を思わせた。
混雑したバスの車内で他の乗客に少しばかり押されようとその頑強な身体はびくともしない。
「寿一には、そうだな。もっと違うのが似合うんじゃないか」
「いや、オレは」
――これがいい。
新開のささやかな意地悪に福富は生真面目に首を振った。
頑固さを滲ませたその瞳に新開は内心ため息をつく。
“福富寿一は蛇マニア”。そんな噂がまことしやかに囁かれるようになったのはいつからだろうか。
「新開」
福富が咎めるように名を呼ぶ。それは早くしろと催促しているようであり、新開ならば必ず教えてくれるだろうという打算的な甘えがあった。
冗談じゃない。
――冗談じゃないぜ、寿一。
もし彼が心から蛇を愛してグッズを集めているのならば新開は喜んでこの帽子を差し出していただろう。だが、そうじゃない。福富のそれはただの代替行為でしかない。
福富の部屋の一角を思い出す。
折り重なって積まれた大小様々な蛇たち。そのどれも恨めしそうに新開を見つめていた。ある者は鋭く、ある者は諦めるように。
あれは墓場だ。
昇華することのない愛がひっそりと死んでいた。
バスが大きく右へと曲がる。車体が揺れ新開の背中に誰かがぶつかった。振り返ると若いOL風の女性が立っていた。新開と目が合うと「すみません」と顔を赤くした。
こちらこそ。新開はそう言ってまた福富へと視線を戻した。
「それで」
待っていたかのように福富は言った。それを遮って新開は口を開いた。
「今日は靖友たちに会えるの楽しみだな」
「……そうだな」
あからさまに話題を変えられて福富がわかりやすくムッとする。
「あまり時間がないからゆっくりはできないけどな」
それに気付かないふりをして新開は続ける。
「真護くんとも久しぶりだな」
その名に福富の眉が僅かに動く。そして、目を伏せると深々と呼吸するように言った。
「そうだな」
やっと蛇から目を離した横顔に新開に思う。
福富がこうして足踏みをしているのは相手が金城だからだ。他の誰かであったら、福富は正面から積極的に動いていただろう。喩えそれが同性であっても。そんな気がする。
金城真護だから。福富は代替行為で満足したふりをする。
蛇を集めて一瞬だけ慰められそして満たされず次を求める。
足りない。もっと。もっと。
世界中の蛇を集めたって満たされるはずがない。彼の本当に欲しいものは本物だけだからだ。
何より問題なのは。新開はちらりと横を見る。福富は先ほど見せた帽子への執着など忘れたように難しい顔をして黙っていた。おそらく金城のことを考えているのだろう。
やはり本物の蛇の方が好きなんだな。新開は薄っすらと微笑んだ。
――何より問題な事は、寿一が自分の感情に気付いていないことだ。
『お茶でいいか』
あの時、福富はそう言った。何でもないように。
呆然と蛇の山を見つめる新開に平然とお茶を淹れていた。
その時に新開は確信した。福富は自分が金城を好きだと気付いていないのだと。
知っているのならば平気な顔をしていられるはずがない。あんなあからさまのもの。
恋心を書き込んだ日記を見られるよりも恥ずかしい。
まいったな。
新開は目の前の蛇に語りかける。ヘビたちは何も言わない。
ちょうど窓から夕日が差し込んで蛇を真っ赤に染め上げた。それを横目で見ながら腕を伸ばす。
ターゲットは中学からの親友。ピンと指を立てて思い切り射抜く。
仇は取ってやるよ。
そう片目を瞑って蛇たちと約束した。
だから、こうして蛇の刺繍がついた帽子を被っている。
福富が金城への感情を正しく認識できないのは今もあの事故のことを忘れていないからだ。
金城を愛する資格がオレにはない。きっとそう思って無意識に心でブレーキをかけているのだろう。
彼の眼前には常に己の犯した罪がぶら下がり戒め続ける。そして、福富自身もそれを望んでいる違いない。
罪を常に忘れないことは眠らないことと似ている。
長時間に及ぶと頭痛や吐き気、被害妄想にあげく幻覚まで見えてくる。張り詰めた神経は極限にまで磨り減り、脳は間違った指令を繰り返す。綻びが生まれるんだ。
部屋の隅に積まれた蛇の塊が脳裏を掠める。
福富はもう眠ってもいいはずだ。
新開は息を吐いた。
蛇を集める福富を見ていると苦しくなる。かつての自分と重なる。うさぎを模ったアイテムを集めていた自分。正しくない感情の発露の仕方。
――だから、もう眠っちまえよ。寿一。
自らに言い聞かせるように強く新開は思った。
ちょうどその時バスが前後に揺れた。プシューという音と共に扉が開く。新開の目の前に座っていた女性がゆっくりと立ち上がる。ぽっかりと空いた空間を新開は手で示した。
「座る?」
「結構だ」
今の今まで金城の事を考えていたのだろうか。はっと福富が新開の顔を見た。その目が再び蛇へと舞い戻る。
「それでその帽子は」
先日、店でこの帽子を見つけた時に密かに決めたことがある。慎ましく端に蛇が刺繍されたニット帽。違和感なく身に付けられて福富の目に触れやすいアイテム。もし彼がこの帽子について言及したらこう言おう。
「なぁ。寿一、何でそんなに蛇のグッズが欲しいんだ?」
「それは」
福富が言い淀む。単純な言い訳も考えていなかったようだ。いくらでもあると思うのだが。“好きだから”でもなんでも適当に。いや。新開は思い直す。
それこそ一番言えないか。
黙る福富に新開も何も言わない。福富の恋心を直接指摘する気はなかった。それは福富自身が気付くことだ。それからどうするかも。
新開はただのキッカケに過ぎない。子守唄みたいなものだ。悩む横顔をただ見守る。
バスが再び動き出した。揺れる車内はまるで大きなゆりかごのようだった。
時間というのはあっという間に過ぎるものだ。
新開と金城は静岡駅の改札口の前に立っていた。
土産でも見にいこう。駅に着いてそう言いだしたのは珍しい事に荒北だった。
終始どこか浮かない顔をしていた福富をずっと気をかけていたのだろう。福富が頷くとほっとしたような顔をした。
『てめェらはどうする』
問われて新開は考える。
荒北も荒北なりに思うところがあろうのだろうし、邪魔しない方が良いように思えた。
遠慮すると新開が言えば、隣にいた金城も頷いた。その瞬間。
――靖友?
新開は目を瞬せた。
荒北が苦虫を噛み潰しでもしたような顔で金城を見ていた。
『じゃ、行こうか。福チャン』
だが、荒北はすぐに表情を戻すと福富を連れ立って去って行った。
――あれは何だったのだろう。
荒北たちの背を見送りながら新開は考える。
そういえば、今日の荒北にあった時も変な顔をしていなかったか。
頭の中を何かが掠める。それを確かめる前に金城が話しかけてきた。
「相変わらず仲が良いんだな」
「あぁ」
新開は思考を中断して頷く。
「悪ィな。見送りに来てもらってのに待たせちまって」
「いや。それにしても中々ハードなスケジュールだな」
二時間もいられなかったんじゃないか。そう言う金城に新開は手を振ってみせる。
「そうでもないぜ」
本当のところを言えば福富に金城を会わせる為に多少無茶をした。それだけだ。
「洋南の実力は大体わかったしな」
「ほう。それは是非、聞かせてもらいたいな」
それから新開は金城と他愛もない話をした。それは最近のロード界の話題だったり、互いの高校の後輩たちの話題だったり、大学の講義の話だったり。
そして、ちょうど最近の天候について話している時だった。
「そうか。新開は寒さに弱いのか」
「あぁ。まぁ自転車に乗っちまえば関係ねェけどな」
「違いない」
金城は喉の奥で笑うと思い出したように言った。
「そういえば、新開の着ているシャツいいな」
「これか?」
新開がシャツの端を掴む。今日のニット帽に合わせてなんとなく選んだものだ。
「凄く良い。特に
――」
言いながら金城は指先で新開の左胸を指し示した。
反射的に新開は息を止めた。
やられた。と思った。
いつも相手を撃ち抜く自分が心臓を貫かれた。
「このライオンがいい」
そんな新開の様子に気付きもせずに金城は深い息を吐くように言った。
その視線の先にシャツに刺繍された獅子がいる。しっかりとした眉が福富に似ていると面白がって買ったシャツだ。
嫌な予感に冷たい汗が背中を落ちる。
違う。そんなわけない。彼は単に服を褒めただけだ。
葛藤する新開に対して金城はふと指の向きを胸元へと変えた。
「だが、ボタンが取れているのが残念だ。付けた方が良い思う」
「あぁ。すっかり忘れていた。どこかで落としたんだなきっと」
ありがとう。新開は曖昧な微笑みを浮かべてなんとか心に湧き上がった疑念を消そうとする。
新開につられたように金城も微笑んだ。
「そのシャツどこで買ったんだ?」
自然の成り行きだとでもいうように彼はそう言った。
たったその一言だけ。それだけで新開は全てを理解した。
身体から力が抜けて思わず噴き出しそうになる。その言い方があまりに酷似していて。
とても気になるのに、気にしていないふりをする。
誰かさんと全く同じ。
――この男も人知れない罪を抱いて眠れないのか。
妙に清々しい気分で新開はトントンと帽子の蛇を叩いた。
お前、知ってた? と尋ねるように。
ライオンと蛇が仲良くなれますように。そんな単純な理由で選んだ服が思わぬもの暴いてしまったようだ。
参ったね。本当に。
帽子の蛇のそんな声が聞こえるようだ。
「新開」
何も言わない新開に焦れたのか金城が少しだけ語気を強める。
それを余裕の表情で新開は躱す。
「
――気になるか?」
問いの答えを新開は知っている。
金城は応えない。黙って左胸の獅子を思いつめたように見つめるだけだ。
その瞳の奥にうず高く積み上げられたライオンたちが見えた気がした。
【不眠症】